2022-07-06 01:08:21 更新

概要

ナターシャ・ブロンズベリー・ソロミャンカの死去を、筆者が振り返っている。ナターシャの遺体は損傷が激しく、ほとんど原形を留めていなかったという。ナターシャは「死んでやる」とお願いし、泣きながら泣いていたとのこと。


雷を呼ぶためにはピアノソロが必要だ。

    ナターシャ・”ブロンズベリー”・ソロミャンカ


「ブロンズベリー白書をもう三度、読んだの」

あたしは即答したわ。だって組曲を書き直せと仰せつかって今日で三日目。

いいかげん、もううんざり。段ボール箱いっぱいの楽譜は全部ボツ原稿。

もちろん、全部新曲!

あたしは使い回しを良しとしない潔い女。あたしの辞書にお蔵入りなんて項目はない。日の目を見ない楽譜はことごとく焼き捨てる。ええ、綺麗さっぱり。

創作は常にフレッシュな気持ちでないと、いいものが出来ない。

ゆえに定石、王道、関係ない。アタシはアタシの道を行く。

ところが、ミカったら「ナターシャ、貴女ねぇ。原点回帰って知ってる?」ってさ。ご丁寧にブロンズベリー白書を押し付けてきた。巨匠のバイブル。

表紙はテカテカのさらっぴん。あたしのために買ってきてくれたのね。

ちょっと嬉しかった。だからミカの言うことは聞いてあげようって思った。

目を皿のようにして一字一句漏らさず、読み直した。

白状すると音楽学校時代は斜め読みしてた。目から鱗だった。

それで心を入れ替えたつもりで温故知新。ご依頼の曲をゼロベースで書き直した。そしたら、またボツ。

何がいけないのかしら? 今度はブロンズベリー白書を隅々まで読んでみた。

でも、ダメ。やっぱりわからない。

「そういえば、ミカも昔言ってたっけ……」

――ねえ、ナターシャ。作曲って楽しいでしょう? あたしも、ミカも、みんな同じことを言った。

そして、あたしたちは一緒に曲を作った。

二人だけの組曲を作って、発表会をした。

楽しかったなぁ…… ミカは今でも時々メールしてくる。

「今度、新作を書くことになったんだけれど、どう思う?」

って具合に。

でも、返事をする気にはなれない。

あたしは音楽が好きだ。

ミカとの思い出は宝物だ。

だから、もう音楽は書かない。

ミカと一緒に作るなら別だけど。

ミカは天才。

才能があるくせに、それに甘えない努力家。あたしとは違う種類の人間。

あたしじゃ彼女の足元にも及ばない。

そんなこと百も承知よ。でも、悔しいじゃない。

あの子が天才なら、あたしは何なのかしら? ただの凡才? そうかもしれないわね。

ああ、もうヤダ。考えるのやめようっと。

だいたい連弾なんてあたしのガラじゃない。

一人の方が性にあってるのよね。

「そうだわ」

あたしはポンと手を叩いた。

ソロコンサートをすればいいのよ。

ピアノを独り占めするわけじゃないけど、あたしだって弾きたいときに弾きたいだけ弾ける。

それにあの子の魂胆は透けて見えるわ。女同士の長い付き合いだもの。

貴女の欲しいものをあたしは知ってる。それを見つけることはできるけどあなたにはあげられない。

潮騒のようであり、時に狂わしいもの。

ミカが出かけている間に荷物をまとめて壁に大きく殴り書きした。


雷を呼ぶためにはピアノソロが必要だ。

    ナターシャ・”ブロンズベリー”・ソロミャンカ


「ナターシャが死んだのはわたしのせいよ! 壁を挑発したらいけないってまず電話すべきだった。なのにわたしったら祓い屋を探しに行って…ああ」


みーこ先輩の悲鳴が部屋に響く。この世の終わりみたいに落ち込んでるわね、まったく…… ナターシャの遺体は損傷が激しく、ほとんど原形を留めてなかったって。まるで何者かに襲撃されたかのようだとも言ってたらしい。警察が来たのはその所為か。

確かに呪われそうな現場だけどね。

でもね、みーこ先輩……あなたの責任ではありません。悪いのは全部悪霊ですから安心して下さい。

まあ、でも責任感の強いみーこ先輩だから、自分を責めてるんでしょうね。

ミカから連絡がないのも不自然だし。あいつならすぐに飛んでくると思ったんだけど。……って思ってたのよねぇ。ほんの十分前までは。ミカは昨日、あたしの家に泊まった。

夜遅くまで二人で新曲の構想について語り合った。

次の日の朝早くにミカは学校へ行ったはず。

それから今までミカとは会ってない。

携帯に何度かかけてみたけど電源切られてるっぽい。メールも返信なし。

ミカが死んでたらあたしに連絡が来るはずだし、生きてると思うんだけれど……。

それにしてもミカの奴、どこで何をやってるのかしら? 心配になって窓から外を見たら、ちょうど隣の家の二階にある窓が開いたところだった。

「お、ミカ発見!」

ミカがあたしに気づいて手を振ってきた。

よかった。無事だったみたい。

「今、行く」

あたしはミカに合図を送り、部屋を出た。

「ナターシャの件は残念だったね。ご愁傷様」

「うん……ありがとう。でも、大丈夫。ナターシャはきっと天国にいるわ」

ミカがあたしに微笑む。その顔は少し寂しげだった。

あたしはミカに何か声をかけてあげようとしたけれど、思い浮かばず、

「そっか……」

と呟いてミカの頭を撫でた。

そして、ミカの肩越しに見える空を見上げた。

「雨が降りそうね」

「ええ、でも傘を持ってきてあるから平気よ」

ミカが嬉しそうに言った。そう、ならいいわ。

あたしたちは連れ立って玄関に向かった。

そして、ドアを開け、外に出た瞬間、 ピカッ! ゴロゴロゴロゴロ~ッ!! ドドーン! 激しい閃光と雷鳴が鳴り響いた。あたしとミカは思わず抱き合って、その場にしゃがみ込んだ。

数秒後、辺りが真っ暗になった。停電だ。

ミカの家は電気設備が整っているので、ブレーカーが落ちたんだろう。ミカの家は自家発電装置が備え付けてある。ミカの家では非常用発電機もあるので、停電中でもそれほど不便じゃないはずだ。

ミカもすぐ立ち直り、あたしに手を差し伸べてきた。あたしは彼女の手を取り、立ち上がった。

そして、再びミカがあたしの頭にポンと手を置いた。

あれ?…………?? 何? ミカの顔を見るとなぜかミカの目に大粒の涙が溜まっていた。え? 何なの、一体? ミカは泣きながら、あたしの髪をくしゃくしゃにした。

そして、あたしの耳元で囁いた。

ミカは泣いている。

ナターシャのことを思い出してるのかしら? だとしたら、ミカは本当に優しい子だ。

でも、ミカ? あなたは気づいている? ナターシャはもういないんだよ。

ナターシャは死んじゃったの。

あなたはナターシャを救えなかったことを悔やんでいる。

でも、それは違う。ナターシャの死はあなたのせいじゃない。

あなたは誰も恨んでなんかない。

あなたはただ、自分が許せないだけ。

ミカは、ミカ自身を責めている。

あなたは天才。才能がある。でも、それを自覚していない。

あなたは天才であるゆえに孤独。天才であるがゆえの苦悩を抱えている。

「ミカ……?」

「ごめんなさい。ちょっと感極まっちゃって……」

ミカはハンカチを取り出し、目に当てる。

「あたしこそゴメン。あたしはミカが羨ましい。あたしにはできないことができるミカが。ミカは凄い。だから、自信を持ちな。あなたは天才なんだから」

「でも、わたしは……」

「あたしはミカの味方だよ。ミカがどんなに遠くにいても、あたしはミカの友達だから。だから、いつでも頼ってくれていいわよ。ミカのために何でもするから」

あたしは精一杯笑って見せた。

それが今のあたしに出来る全て。あなたへのせめてもの罪滅ぼしだ。

「でも、ナターシャがいなくなっちゃうなんて……思わなかった……わたしのせいよ……」「ミカ……」

「ナターシャはいつも言ってたの。『あたしが死んだら、必ずお墓参りに来て』って……なのに、なのに……わたしは……っ!」

「ミカ! ナターシャはきっと喜んでるよ。だって、ミカにこんなに想われて幸せだもん。あたしはナターシャがうらやましいなぁ。あたしにはそんな人いなかったし……だから、ミカは気にしないの。あたしたち親友でしょ?」

「でも、でも……っ!」

「ミカ、泣かないで。あなたは一人じゃない。あたしがいるじゃない。あたしがミカのそばにずっといてあげるから……だから、もう泣かないでよぉ」「ナターシャぁ……っ!!」

ミカはあたしにすがって嗚咽を漏らした。

あたしはミカを抱き締めて背中をさすってあげた。

ミカの気持ちはよくわかる。でも、ミカが自分を責めてもナターシャは喜ばない。むしろ悲しんでしまう。だから、お願いだから泣かないで。

「ナターシャ……わたしのナターシャ……わたしの大事なナターシャぁ……うわあああああああああああんん」

ミカの泣き声は次第に大きくなり、やがて号哭となった。

ああ、

「もうダメぇ!……ナターシャのいない世界に生きる価値なんてないわ! 死んでやる! 今、死ぬ! 今、死ぬから! ナターシャと一緒にわたしもあの世に逝くわ……もう、もう、どうなってもいい!


その時、ピアノが鳴った。その音は激しく、それでいて優しくて、どこか懐かしくて、切なくて、でもとても温かい音色だった。

ミカの体がビクッと震えた。

ミカの泣き声もピタリと止まった。

ピアノの音は止まらない。

ミカはハッとした表情になり、あたしから離れ、ピアノの前に立った。

「これ……このピアノは……まさか……」

ミカは信じられないといった様子で鍵盤に触れる。

「これはナターシャのピアノよ」

「え? ナターシャのピアノってどういうこと?」

「ナターシャは生前、ピアノを弾いていたらしいの。このピアノはナターシャの遺品の一つ。ピアノはわたしが譲り受けたわ。わたしが調律したの。ナターシャのピアノよ」

「じゃあ、ナターシャは……?」

「ええ、まだ生きているわ」「生きてるって……どうして!?」

「わからない。でも、わたしは信じてる。ナターシャはまだ死んではいないって。ナターシャは今もこの世界でわたしたちを待ってくれてるって。わたしはナターシャが教えてくれたわ。信じる心があれば奇跡は起きるって。わたしはナターシャを絶対に見捨てたりしない。ナターシャはわたしの心の中に生き続けているもの」

ミカはあたしを振り返った。その目は強い意志の光を放っていた。

「だから、ありがとう。ミカのおかげで目が覚めたわ」

「え? 何の話?」

「さっきミカが言ってたでしょ。『死んでやる』とか何とか。あたしが止めなかったら本気で自殺してたでしょ」

ミカの頬が赤くなる。図星か。

「でも、今は大丈夫よ。あたしがついてるもの」

「そうね……そうよね」

「そうよ。それにナターシャもあたしたちがこうしている方が嬉しいと思うよ」

「ええ、きっとそうね」

ミカは笑みを浮かべた。

その笑顔はとても美しかった。

ピアノの上に一冊の本がある。「ブロンズベリー白書」

風が吹く。ページがめくれる。五線譜の残像が躍る。音符が飛び跳ねる。そして、ミカが口を開いた。

「ねぇ、ミカ? あたしこの曲知ってる」

「わたしが作曲したものよ。タイトルは『ナターシャ・ますブロンズベリー』」

「へぇー」

あたしはミカの肩越しに楽譜を見る。「でも、題名が違うわね」

「え? そうなの? じゃあ、タイトル変えないと」

「え? いいわよ。別に」

「ダメよ。この曲はわたしにとって特別なものだから」


「ま、ミカが言うなら好きにしていいわよ」

あたしとミカは目を合わせて笑う。それから二人は一緒に演奏し始めた。曲は「木星」と題されていた。木星。ナターシャは太陽だった。太陽の周りの惑星のナターシャ。そして、今や、ナターシャの魂はその輝きを失ってしまった。

ミカがナターシャのことをどう思っているのかあたしには知る由もない。でも、あたしは願う。ナターシャの分までミカが頑張ってくれればいいと。

「ねぇ、あたしのお嫁さんになってくれない?」

ずっと前から思っていた事。ナターシャの前では遠慮していたこと。思い切って口に出した。

ミカが「えっ?」と表情を変える。

「ミカちゃん。あたし、ミカちゃんのことずっと好きだった」

「そっか…」

ミカは目を細めた。

「でも、貴方の前ではいえなくて…ナターシャ、あたしよりかわいいし…その…」

そういうとミカがあたしの頭をポンポンと軽くたたいた。

「いいのよ。彼女、気づいてたわ。あなたの事、よく話してた。それでね『ミカのお嫁さんはあの子がいいね』って」

あたしは胸が熱くなった。「ナターシャ、そんなこと言ってたんだ」涙が溢れそうになった。「だから、あなたは何も心配することなんかないの。あなたは堂々としてればいい。あなたが誰を選ぼうともそれは運命だから」ミカはそういってあたしをギュッて抱きしめた。


六月、揃いのウェディングドレスで教会に向かった。ミカとあたしは手をつないでバージンロードを踏みしめる。ピアノが讃美歌を伴奏している。曲目はもちろん「ジュピター」

あたしは思う。やっぱり、ここは天国なんじゃないかしら。だって、こんなにも美しい。ミカの花嫁姿を見れて本当によかったと思った。彼女の幸せに満ちた顔が忘れられない。あたしたちの前に立ったのは、ミカの両親とミカの姉夫婦だった。

そして、ナターシャの遺影が微笑んでいた。式が終わった後、ナターシャの墓に立ち寄った。彼女はとても安らかな顔をしていた。その横で花が添えられている。白いユリの花だ。あたしたちは二人並んで墓石に刻まれた名前をみつめた。

ミカは花束を置いたあとでナターシャの名前を指でなぞる。ミカが何を思ったのかはわからなかった。ミカは少しだけ涙を流し、小さく「ありがとう」とつぶやく。それから振り向くことなくあたしの手を引いて歩き始めた。

これからもあたしたちの人生は続いていく。ミカとあたしの時間は続くだろう。でも、もう、ナターシャとの時間が戻らないことも知っていたから……。だからせめて祈るわ。ナターシャ、ミカのことをよろしくね。あたしの分もしっかり支えてあげて。お願い。


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