ナターシャ
ナターシャ・ブロンズベリー・ソロミャンカの死去を、筆者が振り返っている。ナターシャの遺体は損傷が激しく、ほとんど原形を留めていなかったという。ナターシャは「死んでやる」とお願いし、泣きながら泣いていたとのこと。
雷を呼ぶためにはピアノソロが必要だ。
ナターシャ・”ブロンズベリー”・ソロミャンカ
「ブロンズベリー白書をもう三度、読んだの」
あたしは即答したわ。だって組曲を書き直せと仰せつかって今日で三日目。
いいかげん、もううんざり。段ボール箱いっぱいの楽譜は全部ボツ原稿。
もちろん、全部新曲!
あたしは使い回しを良しとしない潔い女。あたしの辞書にお蔵入りなんて項目はない。日の目を見ない楽譜はことごとく焼き捨てる。ええ、綺麗さっぱり。
創作は常にフレッシュな気持ちでないと、いいものが出来ない。
ゆえに定石、王道、関係ない。アタシはアタシの道を行く。
ところが、ミカったら「ナターシャ、貴女ねぇ。原点回帰って知ってる?」ってさ。ご丁寧にブロンズベリー白書を押し付けてきた。巨匠のバイブル。
表紙はテカテカのさらっぴん。あたしのために買ってきてくれたのね。
ちょっと嬉しかった。だからミカの言うことは聞いてあげようって思った。
目を皿のようにして一字一句漏らさず、読み直した。
白状すると音楽学校時代は斜め読みしてた。目から鱗だった。
それで心を入れ替えたつもりで温故知新。ご依頼の曲をゼロベースで書き直した。そしたら、またボツ。
何がいけないのかしら? 今度はブロンズベリー白書を隅々まで読んでみた。
でも、ダメ。やっぱりわからない。
「そういえば、ミカも昔言ってたっけ……」
――ねえ、ナターシャ。作曲って楽しいでしょう? あたしも、ミカも、みんな同じことを言った。
そして、あたしたちは一緒に曲を作った。
二人だけの組曲を作って、発表会をした。
楽しかったなぁ…… ミカは今でも時々メールしてくる。
「今度、新作を書くことになったんだけれど、どう思う?」
って具合に。
でも、返事をする気にはなれない。
あたしは音楽が好きだ。
ミカとの思い出は宝物だ。
だから、もう音楽は書かない。
ミカと一緒に作るなら別だけど。
ミカは天才。
才能があるくせに、それに甘えない努力家。あたしとは違う種類の人間。
あたしじゃ彼女の足元にも及ばない。
そんなこと百も承知よ。でも、悔しいじゃない。
あの子が天才なら、あたしは何なのかしら? ただの凡才? そうかもしれないわね。
ああ、もうヤダ。考えるのやめようっと。
だいたい連弾なんてあたしのガラじゃない。
一人の方が性にあってるのよね。
「そうだわ」
あたしはポンと手を叩いた。
ソロコンサートをすればいいのよ。
ピアノを独り占めするわけじゃないけど、あたしだって弾きたいときに弾きたいだけ弾ける。
それにあの子の魂胆は透けて見えるわ。女同士の長い付き合いだもの。
貴女の欲しいものをあたしは知ってる。それを見つけることはできるけどあなたにはあげられない。
潮騒のようであり、時に狂わしいもの。
ミカが出かけている間に荷物をまとめて壁に大きく殴り書きした。
雷を呼ぶためにはピアノソロが必要だ。
ナターシャ・”ブロンズベリー”・ソロミャンカ
「ナターシャが死んだのはわたしのせいよ! 壁を挑発したらいけないってまず電話すべきだった。なのにわたしったら祓い屋を探しに行って…ああ」
みーこ先輩の悲鳴が部屋に響く。この世の終わりみたいに落ち込んでるわね、まったく…… ナターシャの遺体は損傷が激しく、ほとんど原形を留めてなかったって。まるで何者かに襲撃されたかのようだとも言ってたらしい。警察が来たのはその所為か。
確かに呪われそうな現場だけどね。
でもね、みーこ先輩……あなたの責任ではありません。悪いのは全部悪霊ですから安心して下さい。
まあ、でも責任感の強いみーこ先輩だから、自分を責めてるんでしょうね。
ミカから連絡がないのも不自然だし。あいつならすぐに飛んでくると思ったんだけど。……って思ってたのよねぇ。ほんの十分前までは。ミカは昨日、あたしの家に泊まった。
夜遅くまで二人で新曲の構想について語り合った。
次の日の朝早くにミカは学校へ行ったはず。
それから今までミカとは会ってない。
携帯に何度かかけてみたけど電源切られてるっぽい。メールも返信なし。
ミカが死んでたらあたしに連絡が来るはずだし、生きてると思うんだけれど……。
それにしてもミカの奴、どこで何をやってるのかしら? 心配になって窓から外を見たら、ちょうど隣の家の二階にある窓が開いたところだった。
「お、ミカ発見!」
ミカがあたしに気づいて手を振ってきた。
よかった。無事だったみたい。
「今、行く」
あたしはミカに合図を送り、部屋を出た。
「ナターシャの件は残念だったね。ご愁傷様」
「うん……ありがとう。でも、大丈夫。ナターシャはきっと天国にいるわ」
ミカがあたしに微笑む。その顔は少し寂しげだった。
あたしはミカに何か声をかけてあげようとしたけれど、思い浮かばず、
「そっか……」
と呟いてミカの頭を撫でた。
そして、ミカの肩越しに見える空を見上げた。
「雨が降りそうね」
「ええ、でも傘を持ってきてあるから平気よ」
ミカが嬉しそうに言った。そう、ならいいわ。
あたしたちは連れ立って玄関に向かった。
そして、ドアを開け、外に出た瞬間、 ピカッ! ゴロゴロゴロゴロ~ッ!! ドドーン! 激しい閃光と雷鳴が鳴り響いた。あたしとミカは思わず抱き合って、その場にしゃがみ込んだ。
数秒後、辺りが真っ暗になった。停電だ。
ミカの家は電気設備が整っているので、ブレーカーが落ちたんだろう。ミカの家は自家発電装置が備え付けてある。ミカの家では非常用発電機もあるので、停電中でもそれほど不便じゃないはずだ。
ミカもすぐ立ち直り、あたしに手を差し伸べてきた。あたしは彼女の手を取り、立ち上がった。
そして、再びミカがあたしの頭にポンと手を置いた。
あれ?…………?? 何? ミカの顔を見るとなぜかミカの目に大粒の涙が溜まっていた。え? 何なの、一体? ミカは泣きながら、あたしの髪をくしゃくしゃにした。
そして、あたしの耳元で囁いた。
ミカは泣いている。
ナターシャのことを思い出してるのかしら? だとしたら、ミカは本当に優しい子だ。
でも、ミカ? あなたは気づいている? ナターシャはもういないんだよ。
ナターシャは死んじゃったの。
あなたはナターシャを救えなかったことを悔やんでいる。
でも、それは違う。ナターシャの死はあなたのせいじゃない。
あなたは誰も恨んでなんかない。
あなたはただ、自分が許せないだけ。
ミカは、ミカ自身を責めている。
あなたは天才。才能がある。でも、それを自覚していない。
あなたは天才であるゆえに孤独。天才であるがゆえの苦悩を抱えている。
「ミカ……?」
「ごめんなさい。ちょっと感極まっちゃって……」
ミカはハンカチを取り出し、目に当てる。
「あたしこそゴメン。あたしはミカが羨ましい。あたしにはできないことができるミカが。ミカは凄い。だから、自信を持ちな。あなたは天才なんだから」
「でも、わたしは……」
「あたしはミカの味方だよ。ミカがどんなに遠くにいても、あたしはミカの友達だから。だから、いつでも頼ってくれていいわよ。ミカのために何でもするから」
あたしは精一杯笑って見せた。
それが今のあたしに出来る全て。あなたへのせめてもの罪滅ぼしだ。
「でも、ナターシャがいなくなっちゃうなんて……思わなかった……わたしのせいよ……」「ミカ……」
「ナターシャはいつも言ってたの。『あたしが死んだら、必ずお墓参りに来て』って……なのに、なのに……わたしは……っ!」
「ミカ! ナターシャはきっと喜んでるよ。だって、ミカにこんなに想われて幸せだもん。あたしはナターシャがうらやましいなぁ。あたしにはそんな人いなかったし……だから、ミカは気にしないの。あたしたち親友でしょ?」
「でも、でも……っ!」
「ミカ、泣かないで。あなたは一人じゃない。あたしがいるじゃない。あたしがミカのそばにずっといてあげるから……だから、もう泣かないでよぉ」「ナターシャぁ……っ!!」
ミカはあたしにすがって嗚咽を漏らした。
あたしはミカを抱き締めて背中をさすってあげた。
ミカの気持ちはよくわかる。でも、ミカが自分を責めてもナターシャは喜ばない。むしろ悲しんでしまう。だから、お願いだから泣かないで。
「ナターシャ……わたしのナターシャ……わたしの大事なナターシャぁ……うわあああああああああああんん」
ミカの泣き声は次第に大きくなり、やがて号哭となった。
ああ、
「もうダメぇ!……ナターシャのいない世界に生きる価値なんてないわ! 死んでやる! 今、死ぬ! 今、死ぬから! ナターシャと一緒にわたしもあの世に逝くわ……もう、もう、どうなってもいい!
その時、ピアノが鳴った。その音は激しく、それでいて優しくて、どこか懐かしくて、切なくて、でもとても温かい音色だった。
ミカの体がビクッと震えた。
ミカの泣き声もピタリと止まった。
ピアノの音は止まらない。
ミカはハッとした表情になり、あたしから離れ、ピアノの前に立った。
「これ……このピアノは……まさか……」
ミカは信じられないといった様子で鍵盤に触れる。
「これはナターシャのピアノよ」
「え? ナターシャのピアノってどういうこと?」
「ナターシャは生前、ピアノを弾いていたらしいの。このピアノはナターシャの遺品の一つ。ピアノはわたしが譲り受けたわ。わたしが調律したの。ナターシャのピアノよ」
「じゃあ、ナターシャは……?」
「ええ、まだ生きているわ」「生きてるって……どうして!?」
「わからない。でも、わたしは信じてる。ナターシャはまだ死んではいないって。ナターシャは今もこの世界でわたしたちを待ってくれてるって。わたしはナターシャが教えてくれたわ。信じる心があれば奇跡は起きるって。わたしはナターシャを絶対に見捨てたりしない。ナターシャはわたしの心の中に生き続けているもの」
ミカはあたしを振り返った。その目は強い意志の光を放っていた。
「だから、ありがとう。ミカのおかげで目が覚めたわ」
「え? 何の話?」
「さっきミカが言ってたでしょ。『死んでやる』とか何とか。あたしが止めなかったら本気で自殺してたでしょ」
ミカの頬が赤くなる。図星か。
「でも、今は大丈夫よ。あたしがついてるもの」
「そうね……そうよね」
「そうよ。それにナターシャもあたしたちがこうしている方が嬉しいと思うよ」
「ええ、きっとそうね」
ミカは笑みを浮かべた。
その笑顔はとても美しかった。
ピアノの上に一冊の本がある。「ブロンズベリー白書」
風が吹く。ページがめくれる。五線譜の残像が躍る。音符が飛び跳ねる。そして、ミカが口を開いた。
「ねぇ、ミカ? あたしこの曲知ってる」
「わたしが作曲したものよ。タイトルは『ナターシャ・ますブロンズベリー』」
「へぇー」
あたしはミカの肩越しに楽譜を見る。「でも、題名が違うわね」
「え? そうなの? じゃあ、タイトル変えないと」
「え? いいわよ。別に」
「ダメよ。この曲はわたしにとって特別なものだから」
「ま、ミカが言うなら好きにしていいわよ」
あたしとミカは目を合わせて笑う。それから二人は一緒に演奏し始めた。曲は「木星」と題されていた。木星。ナターシャは太陽だった。太陽の周りの惑星のナターシャ。そして、今や、ナターシャの魂はその輝きを失ってしまった。
ミカがナターシャのことをどう思っているのかあたしには知る由もない。でも、あたしは願う。ナターシャの分までミカが頑張ってくれればいいと。
「ねぇ、あたしのお嫁さんになってくれない?」
ずっと前から思っていた事。ナターシャの前では遠慮していたこと。思い切って口に出した。
ミカが「えっ?」と表情を変える。
「ミカちゃん。あたし、ミカちゃんのことずっと好きだった」
「そっか…」
ミカは目を細めた。
「でも、貴方の前ではいえなくて…ナターシャ、あたしよりかわいいし…その…」
そういうとミカがあたしの頭をポンポンと軽くたたいた。
「いいのよ。彼女、気づいてたわ。あなたの事、よく話してた。それでね『ミカのお嫁さんはあの子がいいね』って」
あたしは胸が熱くなった。「ナターシャ、そんなこと言ってたんだ」涙が溢れそうになった。「だから、あなたは何も心配することなんかないの。あなたは堂々としてればいい。あなたが誰を選ぼうともそれは運命だから」ミカはそういってあたしをギュッて抱きしめた。
六月、揃いのウェディングドレスで教会に向かった。ミカとあたしは手をつないでバージンロードを踏みしめる。ピアノが讃美歌を伴奏している。曲目はもちろん「ジュピター」
あたしは思う。やっぱり、ここは天国なんじゃないかしら。だって、こんなにも美しい。ミカの花嫁姿を見れて本当によかったと思った。彼女の幸せに満ちた顔が忘れられない。あたしたちの前に立ったのは、ミカの両親とミカの姉夫婦だった。
そして、ナターシャの遺影が微笑んでいた。式が終わった後、ナターシャの墓に立ち寄った。彼女はとても安らかな顔をしていた。その横で花が添えられている。白いユリの花だ。あたしたちは二人並んで墓石に刻まれた名前をみつめた。
ミカは花束を置いたあとでナターシャの名前を指でなぞる。ミカが何を思ったのかはわからなかった。ミカは少しだけ涙を流し、小さく「ありがとう」とつぶやく。それから振り向くことなくあたしの手を引いて歩き始めた。
これからもあたしたちの人生は続いていく。ミカとあたしの時間は続くだろう。でも、もう、ナターシャとの時間が戻らないことも知っていたから……。だからせめて祈るわ。ナターシャ、ミカのことをよろしくね。あたしの分もしっかり支えてあげて。お願い。
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