2022-07-03 11:41:15 更新

概要

野球部の練習風景が目に入ると、野球部の練習風景がぼんやり眺められた。ユニフォーム姿の選手達が走り回っているのを、ぼんやり眺めていた。その度に、校庭の木々の葉っぱの隙間から洩れる陽射しがちらちらと揺れた。


ここを退いていく人も多くなりガラスの雨の時のような重い感じ。女はガラスのドアをくぐって外に出た。

「あの、どうかされましたか」

女性と男性では重みも違う。ガラスの雨は、男の力で引きはがそうなどと考えもせずに押しちゃったのではないかと恐れていたが、どうやら自分が選ぶのはそういうことらしい。何とも情けない。どうしよう。彼が帰ってくるまでには何とか元の暮らしに戻りたいんです。何とか自分で戻してもらえるように頑張りたいのです。

女性には彼を見つけることが不可能だった。彼が目の前にいても見えないし、何より話をするにも男が出るなんて事はできない。男性には話しにくいところも多く困っている女の声に耳を傾けてくれる人がいない。

女性はすっかりそわそわしていた。

彼が何かを喋っていた。

でも、言葉は途中で途切れて聞こえるだけで彼からは何も聞こえなかった。

「あの、ちょっと大丈夫なんですか」

女は彼の方に振りかえるが彼の姿が消えているはずなのに、何故かすりむけられない。そのうち、彼の声が聞こえるような気がした。本当だ。聞こえる。聞こえている? お願い、見ないで。彼はどこに行ったのか。女は慌てて彼の方に駆け寄った。

「あの…、あの、ごめんなさい。どうかしました?」

女と男性は互いに顔を見合わせた。

「あの…、僕、君のこと。聞いてて…」

彼の声が聞こえる。聞こえる。聞こえる。彼の声が聞こえる。

どうしよう、やっと、あの、見られてよ。

女は焦って彼の方を見ることもできず、立ち尽くした。

雨は、上がってきた。

「あっ…」

「ちょっと…」

二人が同時に振り向いた。

「あっ…見ないで。見ないで」

二人がこちらを盗み見していることに気づいた彼女は、彼の顔を見たまま、必死に言葉を紡いだ。

二人はまた顔を見合わせた。

「お願い」

「見ないでって、見たくない。見せて…」

二人はあらためて互いを見た。

「見ないで。見ないで…、見ないで」

「そういう意味じゃないよ」

彼が不機嫌そうに声をあげたので、彼女は肩をすぼめた。

「あのさ、お願いだよ。見ないで」

彼は女を指差して、いった。

「見なきゃ」

彼女は首を振った。

「ごめん。見ないで」

彼女は思わず目を伏せた。

「いいよ、僕はいいよ。このままにして」

彼はちらりと彼女を見て、彼女の方に目をやった。

「ねぇ…」

女は小さな声で彼に呼び掛けた。

二人は目をあわせた。

「見ないで。見ないで。やめて。私を見ないで。だから、その、えっと…、あの、見ないで」

彼は小さく息を吸い込んだ。

「…」

「ねぇ、ねぇ、ねぇ…」

「いいよ、君には触るな」

彼は首を振った。

「いいよ…」

「触るなって…。僕は何もしてない。何もしてないよ…」

「触らないで。触らないでって言ってるんだよ…」

「触ったら僕は何もしないじゃん」

「触るんだったら、触られてもいい。もう一度僕を見て」

「触らないで」

「触りたい気持ちもあるんだよ」

「触ろうよ。触りたいでしょ、触ろうよ」

「触らないに決まってるじゃん」

「触ってって言ってるじゃん、触らないでって」

二人は互いに顔を寄せ合った。

「僕はどんな気持ちだよ、触るよ、触ってって…」

彼は少し首を傾げた。

「触ってよ…」

「触ったら…?」

「触るよ、触らないでって言ってるの」

二人は顔を見合わせ、また顔をそらした。

「どうなのさ、触ったら…」

「触るな、触るな…」

「触るの」「いや、触る!」

二人はたじたじしていたが、彼が立ち上がって、私たちは席に着いた。

「触る…」

「触らない…」

二人は少し笑った。

「触るなんて言ったら、怒らなくちゃいけないからね」

「いや、触っちゃダメなんだから」

「触らない方がいいよ」

「触るとか言うな」

「触って欲しいんでしょ」

「触って欲しくなんかない」

「じゃあ、触るな」

「触らないよ」

「触るもん」

「触らせないよ」

「触らせてよ」

「絶対嫌だ」

「触るから」

「駄目だってば」

「触ってあげる」

彼は立ち上がって、彼女に近づき、手を差し伸べた。

彼は彼女をそっと抱きしめた。

彼は彼女をそっと抱きしめた。

雨はもう止んでいたが、空にはまだ雲が多く残っていた。雨は上がったが、空には相変わらず雲が残っていて、日差しは弱く、空気は湿気を含んで重かった。

私はいつものように、校舎裏のベンチに座っていた。

私が座っている場所からは、グラウンドの様子がよく見える。ちょうど野球部の練習風景が目に入った。ユニフォーム姿の選手達が走り回っている。私はそれをぼんやり眺めていた。私のいる位置は風上になるらしく、時折、心地よい微風が吹いた。その度に、校庭の木々の葉っぱの隙間から洩れる陽射しがちらちらと揺れて、きらめく。それはとても綺麗だった。私は時々目を細めながら、じっとその様子を見ていた。

野球は好きだけれど、ルールはよく知らない。特に興味があるわけでもない。でも、こうして見ているだけで十分楽しかった。

部員達の動きに合わせて、ボールが高く上がる。それが落ちる前にバットを振るのだが、なかなか当たらない。それでも彼らは一心不乱に練習を続ける。彼らの真剣さが伝わってくるような気がした。

そのうちに、一人だけ動きの悪い選手がいることに気がついた。まるで、他の選手達の足を引っ張っているようにさえ見えた。彼のスイングを見ると、明らかに力みすぎているのがわかる。フォームも崩れているようだ。

彼以外は皆、一生懸命なのだが、どうもうまくいかないようだった。

それでもひたむきな姿に胸を打たれた。

雨上がりのグラウンドは草いきれが素敵だ。彼がバットを振り始めた時、突然、後ろの方で声が上がった。

「危ないっ」

誰かの声と同時に、何かが割れるような大きな音が聞こえてきた。

何事が起きたのかと思い振り返ると、目の前で信じられないことが起きていた。

「あっ」

思わず叫んでしまった。彼は、フェンスの向こう側まで転げ落ちてしまったのだ。

それを見て、私は思わず立ち上がった。

「大丈夫ですか!?」

私は慌てて駆け寄ろうとした。しかし、それよりも先に、近くにいたマネージャーらしき女の子がその身体を抱え起こした。彼は頭を打ったようで、意識を失っていた。彼女は必死になって呼びかけていたが、反応はなかった。

私は何もできずに立ち尽くしていた。すると、今度は監督がやってきた。監督は倒れた彼に歩み寄り、その首筋に手を当てたり、瞼を開けさせたりした。そして一言、二言話しかけた後、監督は大きく息を吐き出して、首を振った。

「もう死んでいる」

そう呟くと、すぐに周りにいた部員達に指示を出した。

「救急車を呼ぶんだ。早くしろ」

部員達は一斉に携帯電話を取り出した。

私は何も考えられず呆然としていたが、やがて、ふらつく足をなんとか動かしてベンチに戻った。

もう死んでいる。もう死んでいる。彼の身体も、私の心も、もう死んでいる。

世界が、日常が、世の中全てがもう死んでいる。

だから雨はきらいだ。


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