シャノワール住宅会
シャノワール住宅会とやらの徹底した秘密主義に腹が立ってきたという。シャノワール住宅会は「あの人」の「あのひと」を好きだという。シャノワール住宅会の言い訳と僕の言葉を受けた瞳は彼女の顔を交互に見ていた。
シャノワール住宅会とは何でしょう?
僕の質問に対し、彼女は説明をしました。
「あなたは、彼女に興味が有るの?」
僕は首を横に振りました。
「いえ、全然ないです」って言ったら、
彼女は笑顔になりました。
「じゃあ、『彼女と恋がしたい』と言うのが正しいかもしれませんわ。でも今はいつもの私じゃ無いんですもの」
「それでは、僕の『彼女』は何処にいるのでしょう?」
「もちろん、あの子の事を考えていると言うだけの事だわ」
「あの子、誰なんですか?」
僕は彼女に聞きました。
「あの子は…あなた『あの人を好き過ぎて、その人から逃げてる私』って言ってたけど…何で、違っているの?」
僕はまた質問しました。
「あの子は、私にとって良い『あの人』の『あの人』なんです。だから、そんな事を言っている訳では無く、あの人は『あの子』から逃げてるだけなんですよ」
「あなたは、彼女にとってどうなの?」
「勿論の事、あの子にとって『あのひと』ですよ」
彼女は笑いながら僕に言いました。
「じゃあ、あの人は?」
「あの人は…私にとって、『あのひと』です。それより…あなた『あの人』は、あの娘を思い出しているの?」
僕は思い当たりませんでした。
「あの娘?あの娘は…確かにあの娘だった。でも、あの娘と同じにならない私には、あの娘を思い出すことは出来ないんだ。だから、あの娘が私の『あの娘』じゃないのは、あの方から離れてから見つけた自分だけなんだ。あの娘みたいに、あの人を思い出せるのはね」
彼女は言いました。
「あの人は…『あのひと』です」
僕は、その意味が理解出来ず、「ちょっと待ってください!確かにあの娘は私にとって良い『あのひと』の『あの人』に成るとは言えませんが…あの娘は『あのひと』の『あのひと』、つまり『あの人』のことが好きなんですよ? じゃあ『あのひと』にどんな『あのひと』が?」
僕は思い当たりませんでした。
その時だった。
突如として大きな衝撃が僕を襲い、僕は思わず顔から突っ伏そうとしてしまう。
「あら、大丈夫? ちょっと、痛い?」
その時、背後から彼女の声で言った。
僕の背中側からそう言葉を返したのは、さっきまで『あの』お客様にしか聞こえていなかった声だった。
気づけば、僕は彼女の側まで来てそんな会話を聞かせていた。
「あ、あの……あの……」
僕は、彼女の言い訳と僕の言葉を受けた彼女の顔を交互に見ては、何も言えなくなってしまう。
その間、彼女が何も言おうとしなかったことも事実だ。
僕は彼女が話したくてたまらないと思っていたのかもしれない。
それとも『あのひと』の『あのひと』が好きのは本当なのだろうか、と思ったが、それを確認するような空気にはならなかった。
「あの、すみません」
彼女は僕の方を振り向き。
「すみません? 何を?」
僕が彼女に何かしていたのか、それを僕は聞く。
「あの……あなたが私に話しかけてきたので、私もあなたも、あんな風に話す『あのひと』では無いって思ってしまって」
彼女は、それだけを言った。
「……」
僕は、何も言えずに俯いたまま、この空気で何を言えば良いのか判らなかった。
何も言えない、というのは、一体何をそんな彼女に言ってしまって良いんだろう。
何を言えば良いんだ!?
僕はずっと思っているんだ!!
「あのね。もし、あんたが話しかけてくれたのだとしても、あの方に会いに行っても、あの方が私のことをあなたに教えたとしても、私は『あのひと』なんて居ないと言わせてならないの」
「…………」
「ねえ、『あのひと』じゃない事を思い出してくれなかったわね。私はあんたを助ける義務があると思うわ」
「……だって」
僕は言いたい事が沢山あったはずだ。しかし今は言葉にならないで溢れ出ようとしていた。
「でも……助けたわよ」……。
僕は自分が何を考えていたのか解らなくなっていた……いや違う。
「もういいわ。私が悪かったわ」
「いえ」
「あの方は私にこう言ったわ。私はあの娘を助けられるんだって。そして私を助けたのだと」
僕は、彼女が何のことを言っているか全くわからなかったが……僕は思ったままに口走っていた。
「あの方に会ったことあるんですか?」
僕はシャノワール住宅会とやらの徹底した秘密主義にだんだん腹が立ってきた。こっちだって好き好んで関わっているわけじゃない。僕は売れっ子の作家だ。た、たまたま連載していた雑誌が潰れて次の仕事が決まらないだけだ。本は今まで四冊出している。すべて絶版しているが。
それはともかく僕がトラブルに関わる義理も時間もなかった。新作の構想を練っていたらどさりという音がした。こんな夜中に何だろうと書斎の窓をあけたらベランダに血の跡と女物のドレス、そしてシャノワール住宅会の封筒が落ちていたという次第だ。警察を呼んで事情聴衆を受けることもできたがそれはマイナス方向に作用して僕の作家生命を絶つだろう。だから単独で調査に乗り込んだ次第だ。こんな気持ちの悪い事件、さっさと終わらせたい。あの女が事故で転落したにせよ殺されたにせよシャノワール住宅会の責任を追及して僕の無関係を証明したい。望みはそれだけだ。僕にとって一番大切なことは平和な環境で静かに小説を書くことだ。
「あなたに関係ないって言われましてもね」と彼女は言う。僕は黙った。確かに関係ないといえば関係がない。
彼女は続ける。
「あの方は私の恩人なんです。あなたには悪いですがあなたにはあの方に対する資格はないんですよ」
「あなたには関係ないでしょう?」
「まぁ、そうかもしれません。ですけど、あなたのお友達に危害が及ぶ可能性は高いですよ。だから私、来たんですよ?」
「なんですかそれ」と僕は聞く。「じゃあ、責任を持って一切合切自己解決してください。僕の友人知人が狙われる? ご忠告ありがとう。こちらから警察に相談しておきます。シャノワール住宅会とやらの関係者が死のうが生きようが僕の小説にはまぁーったく関係ない!あなただってそうでしょう?僕の本なんかに興味も読む義理も読みたいと思う欲求もないでしょう?売れない作家の独りよがりで難解なミステリー。手に取りたくもない筈だ。だから事件はお任せする。その代わりこの僕、南郷恭平はシャノワール住宅会の事件と完全に無関係だと表明してほしい。要求は以上だ!」
「でも……私とあなたは知り合いなのよ」と彼女は言う。「その辺は考慮すべきだと思うわ」
僕は彼女の言葉の意味がわからない。確かに僕は彼女と知り合って48時間と57分19秒がすぎた。僕の数少ない顔見知りファンのなかに彼女はいない。「鈴崎いちご…さんでしたっけ。残念ながら僕の読者層は中高年の既婚女性だ。君のような女子高生はいない」
「私はあなたが思うほど子供じゃない」と彼女は言った。「あのね、あの方ね、私にこういったの。『お前は、あの人のためにも、自分のためにも、今のままじゃだめなんだ。このままだと死ぬぞ。南郷恭平に粘着しろ」って」
「はああああ?」
「それにあの方の頼みならなんでも聞くわ」
「ストーカーは犯罪です」と僕は冷たく言い放つと、彼女を睨みつける。「そもそも僕と君のつながりはたった今切れたはずです。今後、二度と会いたくない。じゃあそういうことです。さようなら!」
そういって踵を返した。すると。そこには
「あの方からのプレゼントよ」と彼女はいうと一枚の封筒を差し出した。
『あなたは、あなた自身でいるべきなのよ。それこそがあの人にとっての幸せなの。
南郷先生。あなたにあの人の幸せを奪う権利なんて無い。私にも。』
手紙はそれだけしか書かれていなかった。僕はしばらく立ち尽くした後、もう一度、部屋に戻った。机の上に置いたままのノートパソコンを手に取ると電源を入れる。そしてネットに接続し、とある掲示板のページを開く。「あ」の文字で始まる名前を探してクリックをする。そしてメールボックスを開いた。一通だけ届いているメールに件名はなし。
差出人は……あ。
「やっぱり」と彼女はいった。
僕は、この世界から逃げるためだけに、生まれてきた。
***
僕が物心ついたとき、僕の両親は僕を虐待していた。殴る蹴るはもちろんのこと、時には食事を与えなかったり、水を浴びせたりもしていた。
「お前がちゃんとしていれば」とか「そんな子に育てた覚えはない」などといつも口にしていたが、そんな言葉を僕にかけるくらいなら最初から暴力を振るわないで欲しかった。僕には何も非はなかったのだから。僕は両親に愛されたかった。だが、両親の愛情が僕に向けられることはなかった。
「どうして、そんなに酷いことをするの」
僕は幼いながらに疑問を口にしていた。
ある日、僕はついに両親に殴られ、家の外に出されてしまった。行くあてもなく、僕は公園で一人座り込み泣いていた。誰も僕に気づかず、僕はさらに悲しくなって涙を流した。
「どうしたの?」
ふと声をかけられた。振り向くと見慣れぬ男の子がいた。年は僕と同じくらいだろうか。僕が泣いていることに気づくと心配そうな表情をして、僕を慰めようとしてくれた。
「僕もね……お母さんがいないんだ。お父さんが、すごく怖いんだ。僕たち一緒だね……」
彼は僕の目線に合わせて屈むと、頭を撫でてくれた。
それから彼とよく遊ぶようになった。彼から色んなことを教えてもらった。例えば、「勉強は将来役に立つから」という言葉だった。僕は初めて、将来のことを考えた。僕はいつの間にか、両親が怖くて泣くことも、外に出ることもなくなっていた。ただ毎日、部屋の隅っこに座っていた。「僕は……これから、どうすればいいのかな……」
「一緒に暮らせばいいよ」
彼の言葉を聞いて嬉しくなった。
「僕、家に帰るよ」
そうして僕は、家に帰ってからというもの彼に言われた通りに行動した。学校に行き、テストで満点を取り、家事をするようになった。
しかしある時、突然母から呼びつけられた。そしていきなり怒鳴られた。「なんであんな奴と一緒に暮らすんだ!!」
「あいつは、お前の父親が死んでいなくなったのをいいことに、私達の財産を狙ってきたんだよ!!!」母は僕を罵り続けた。父はもうこの世にいなかったのだ。その時僕は、やっと理解できた。この人達が今まで何をしてきたのかを。僕は涙が止まらなかった。
「僕は、今まで何をやってたんだろう。父さんが、いなくなって悲しいのは僕も同じなのに。」
僕は泣きながら、今まで自分がされてきたことを全て吐き出した。「今までの事は全部謝る。だから許して欲しい」と僕は懇願した。
「わかった。それならば、私達は離婚しよう」
そう言ってくれた時は本当に救われた気分になった。
「ただし、条件がある。」
そう言って母は僕の頬を叩いた。「私の言う事を聞かなかったり、約束を破ったりしたら殺すからね」と母は言った。
「わかりました」と僕は答えた。こうして僕は母と離婚した。
僕が母の苗字である「南沢」に変わることはなく、僕は旧姓の「倉本」を名乗ることになった。
***
小学校を卒業すると、僕は地元の公立中学に入学した。僕は、母との約束通り、
「人並みの生活を」という事を守って生きてきた。
部活に入りたかったが入らさせてもらえなかった。友達を作りたかったができなかった。しかしそれでもよかった。「人並の生活」を送ることが僕の願いなのだから。僕は「人」になることさえできれば、それ以上は望まなかった。
「南郷先生、あなたはそうやって「自分」を殺してきた。あなただけじゃない。あなたのご両親もあの方も私も、おおよそ世間から「人でなし」のレッテルを貼られた「社会的半妖」はみんな不当な迫害を受けている。同じ血が流れ同じ姿かたちをした人間がなぜこうもいがみ合うのか。不思議に思いながら疎外感に耐え忍んできた。シャノワール住宅会とはそういう人々に寄り添うボランティア活動です。ただ、世間には私たちの活動を偽善だの金儲けだのもっともらしい言いがかりをつけて攻撃する人々がいる。貴方の周囲に危険が及ぶと警告したのはそういうことです」
そこまで聞いて僕は背筋が凍った。そして嫌な予感がした。
「もしかして、あの人も」
すると鈴崎いちごは顔を曇らせた。「そういうことです。貴方の書斎に飛び降りた川瀬りんなさん。少女漫画家だった彼女は貴方と同じ社会的半妖として差別されつつ細々と創作活動に打ち込んでいました。それを快く思わないストーカーにつけねらわれ…」
そこまで聞いて僕はかぁっと全身が燃え上がった。恥ずかしい。まったく人間として恥ずかしい。僕はシャノワール住宅会を完全に誤解していた。
「すまなかった!本当に済まなかった。あなたをストーカー呼ばわりして大変に申し訳なく思う。シャノワール住宅会は僕たち社会的半妖を陰から見守ってくれていたんだ。むしろありがとうというべきだった。すまん」
僕は恥ずかしげもなく土下座した。高圧的な編集者や出版関係者に塩対応で反撃してきた今までの僕からは考えられない態度だった。
鈴崎いちごも謝った。「ごめんなさい。本当は隠しておきたかったんです。社会的半妖や住宅会の存在を知ればあなたが悲しむと思った。世の中には知らぬが仏ということもあるのよ。でも、あなたには真実が必要だった」
「いいんだ。もう。川瀬りんなさんの二の舞にならなくてよかった。いや、今後ともよろしくお願いいたしたい。できれば僕もシャノワール住宅会の活動に参加させてくれないか」
「もちろんですよ」と彼女は言った。
僕はこの時思った。
「僕が、僕の人生を生きるために」
僕が、僕自身の力で人生を勝ち取ってみせる。
―完―
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