陽子が慶に来て、三度目の夏が来る。
六太は、母親の死を受け入れられず、二度と帰ってこない父親に苦言を呈した。「あの人、全然、人の話を聞かないもの」と話し、六太は苦笑い。父は六太に何の言葉もかけなかったが、六太は無邪気に笑っていた。
感情論と感情の違いは何か。
「感情は情動で感情論は論、つまり感情をどう扱うかの違いだという人もいる」
「感情と感情論は同一ものだよ。論じようと議題自体が感情に左右されるからね」
「うん。だから議論の焦点になるのは、感情がどういうものであるのか、感情とはどういう現象なのかということだな」
「感情とは何か。それが問題だね」
「そう。そして感情とは何かは定義によって変わるだろうし、感情とは何かが変わることで感情そのものも変化してしまう」
「そうだね。じゃあ、感情とは何かなんてことを問題にするのは無意味かな?」
「いや? 感情とは何かに拘泥ること自体は意味のあることだと思うよ。でもその感情が何であるかについて論じることは無意味だ」
「どうして?」
「それはもう感情じゃないからだ。感情には形がない。だからどんな形であれ、それを論じたところで何の意味もないんだよ」
「ふうん……?」
釈然としない顔で尚隆を見上げる六太を見て、尚隆はくつくつ笑う。
「では訊くが、お前にとって感情は何だ?」
「えーと……喜怒哀楽とかいうあれのこと?」
「ああ。それらの感情のうち一番強いものはどれだ?」
「うーん……喜が一番強くて、あとはみんな同じくらいだけど」
「ほう。なぜ?」
「なんでって言われてもなぁ……」
「俺、たまに思うんだよね。人が死ぬ時さ、本当に悲しいと思うのはその人が死んだときなのかなって」
ぽつりと言った六太の言葉に、陽子は瞬いた。
「どういうことですか?」
「だってさ、おれたちはいつまでたっても年を取らないわけじゃん? ずっと生きてて、ずーっと死なないでいるとしたら、親しい人は死んでいく一方なのにさ。そんなふうにして死んだ人を悲しんで泣いて、そしたら自分が一人ぼっちになったときにすごく辛い思いをするんじゃないかと思って」
「……そうですね」
「だったら最初から一人で生きていくほうがいいような気がして」
言って六太は苦笑した。
「……まあ、こんなこと言ってると親不孝者みたいだけどな。実際、母ちゃんが死んだときは辛かったけど、やっぱり父ちゃんが死んでからは淋しかったもん」
陽子は何も言えず、
「……そういうものでしょうか」
とだけ呟いた。
「そういうものだろ。人の気持ちなんか誰にも分からないんだからさ。大事な人と別れる日のことを思って悲しむより、最初から誰もいないと思ったほうが楽じゃないか?」
六太は言いながら手近にいた女官の手を取る。
「なあ? おまえだっていつか誰かと結婚するかもしれないしさ。そうなったら旦那が死んだり子供ができたりするだろ? そのときも同じように泣けるのかねえ」
六太に手を握られた女官は困ったように笑いながらも小さく首を振る。
「わたくしはご結婚などなさらないと思いますけれど……。でももし万一、そのようなお話がございましたなら、やはり悲しく思ってしまうのではないかと存じます」
六太は不満げに鼻を鳴らしたが、それ以上の反論はなかった。
──確かに。
陽子もまた溜息をつく。
自分の両親や
「主上」
は、いずれ必ず死ぬのだと思っていたほうが気は楽だ。
「わたしもです」
陽子が言うと六太は意外そうな顔をしたが、すぐに破顔した。
「うん。でも俺たちはみんなそうだよな。だから今のうちに遊んでおかないと損かもなー」
「遊ぶ、ですか?」
きょとんとして陽子が聞き返すと、六太は軽く目を見張る。
「遊びたくないのか? こういうときしかできないことあるだろ」
「…………?」
「恋だよ、恋。楽しいぞー。恋ってのはすごいぞー。どんなことでも許せちゃうんだぜー」
言って六太は自分の隣に座っている女仙にすり寄る。
「おいらも好きー、この人がー、すっごく好きー」
女仙の頬に自分の頬を寄せて笑う六太を見て、陽子はさらに目を丸くする。六太は笑って陽子を見た。
「……なんだか変なものを見るような顔してるな」
「いえ、その」
陽子は首を振ったが、六太は構わずに続ける。「そりゃあ最初はさ、ちょっとしたことで腹を立てたり、落ち込んだり、やたらと苛々したり、いろいろ面倒臭いことも起こるだろうけどさ。そのうち全部がどうでもよくなるんだ。その人さえいれば他はもう何もいらないって気分になるんだ。そういうのって素敵だと思わない?」
「ええ……」
六太は無邪気に笑っているが、陽子にはそんな心境になったことはない。ただ戸惑うばかりだ。
そんな陽子の心中を知ってか知らずか、六太は再び別の女仙に話しかけている。その姿を見ながら、ふと思いついて陽子は言った。
「では、尚隆にも好きな人がいるのでしょうか?」
途端、ぴたりと話し声が止み、視線が集中するのを感じた。
「ああ、それは……」
「いないはずがないじゃない」
答えたのは六太ではなく六太と一緒にいた二人だった。
「あれだけの美人さんなのに、いないはずないわ」
「ねー」
同意を求める言葉に他の者も無言で肯く。「そっかぁ」
と六太は呟いた。
「じゃあ、あいつはいつになったら嫁をもらうかな」
再び一斉に、だが今度は六太に聞かれないよう、声をひそめて女官たちは話しはじめる。
「無理でしょうねえ……」
「無理だと思うわ」
「うん。だってあの人、全然、人の話を聞かないもの」
「そうそう。しかも頑固だし。きっと一生独り身で通すと思うわ」
「可哀想に……あんなにいい男なのに」
「仕方ないわよ。いい年した大人の男が、結婚しないのが格好いいとか思ってるんだもの」
「そうそう。女なんて面倒臭くて相手にならないとか言ってるし」
「でもそれって本当なのかしら? 本当は単に意地を張ってるだけなんじゃないの? 実は好みの女がいたんだけど、口に出して言えなかっただけとか」
「そういう話、よく聞くよな」
「うん。でも本人が言おうとしない限り、絶対に分かんないし」
「まあ、でも、そういうところが可愛いと言えば言えるけどねぇ」
「……確かに。口の悪さが照れ隠しにしか見えないのよね」
「でもなあ、俺としてはやっぱりさ、幸せになって欲しいんだよな。できればおれたちの知ってる奴にさ」
「……誰?」
「とりあえず朱衡だろ? それから帷端も。成笙はどうか知らないけどさ。あいつらもいい年して、ずっと一人だもんなあ。おれたちだって早く結婚したかったのに、ずっと見合いばっかりさせられてたしさ」
女官たちはしんみりと相槌を打つ。六太はくつくつ笑ってそれを眺めていたが、やがてぽつりと言った。
21 陽子は回廊に出て、欄干に肘をつき、ぼんやりと外の風景を眺めていた。空は快晴。雲ひとつない青い天から陽光が降り注いでいる。陽子は溜息をつく。景麒は今ごろどうしているだろう。心配してはいないだろうか。それとも呆れて、放っておくことにしたかもしれない。
──景麒もいつかこんなふうに思ったりするのだろうか。
自分は麒麟ではないから分からないが、もしかしたら自分が思うよりももっと辛いかもしれない。自分のせいで大切な人が死ぬというのは、どれほどの衝撃なのだろう。ましてそれが、実の父と母であるとしたなら。
陽子が王になれないと分かったときの落胆、そして落胆以上に失望した父の顔を思い出して、軽く頭を振った。父は陽子に対して、何の言葉もかけなかった。落胆も絶望も何も。だからといって父が自分を愛していなかったというわけではないことは、よく分かる。だからといって親としての責任を放棄してもよいわけはない。それは充分に承知していたつもりだったけれど、改めて思い返すと胸の奥に苦いものがこみ上げてくる。
陽子はもう一度大きく嘆息して、ゆっくりと立ち上がった。陽子が蓬莱にいたころ。まだ両親と共に平穏に暮らしていたころに見た映画の中で、両親が死んでしまった子供が出てくる話があった。その子は両親の死を受け入れられず、何度も繰り返しその場面を見ては泣いた。なぜ泣くのかといえば、その子の両親はその日を境に、二度と帰ってこないからだ。その気持ちは理解できる気がする。どんなに望んでも決して戻っては来ないのだ、永遠に失われてしまったのだということが分かっていてもなお、思い出すと涙が出る。そういう記憶が自分にもあった。
父母のことはあまり覚えていないけれども、そのことだけは妙にはっきりと心に刻まれている。陽子はそのことに少し驚いた。自分の心はそれほどまでに両親の喪失に拘っているのだろうか。
不意に足音が近づいてきた。振り返ると尚隆がこちらに向かって歩いてくるところだった。
陽子が見ているのに気づいて、尚隆もまた陽子を見た。尚隆はわずかに目を見開いて歩みを止める。尚隆はそのまましばらく陽子の目を見ていたが、ふっと表情を和らげた。
陽子は瞬く。今の尚隆の態度が分からなくて。
尚隆は軽く笑う。どこか疲れ果てたような、それでも明るい笑顔だった。
ああ、と陽子は悟る。これが答えなのだ、と。
陽子は何も言わずにただ笑みを返した。それ以上に何を言えばいいかは分からなかったし、言ってはいけない気もした。この人はこういう結論を出したのだ。それを邪魔するのは良くない。
沈黙を埋めるように鳥の声が高く聞こえた。陽子はそれを合図のように、尚隆を促す。二人は並んで歩き出す。
陽子が慶に来て、三度目の夏が来る。
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