昔、私が軍艦だった頃
多分もう散々ネタにされてるテーマだと思いますが書きたくなったので書きます。
少しでも楽しんでいただけたら幸いです。
注意!このssには以下の内容が含まれます。
それでも良いという方のみ見られたし
※何度もネタにされてるかもしれないネタ、穴だらけの設定、矛盾だらけの文章、さして面白くない展開
ーー長門編ーー
昔、私が軍艦だった頃。
それはそれは大きな艦だったさ。
とても大きなドッグで、とてもたくさんの人が私の為に働いてくれたな。
これからの日本を背負う八八艦隊の第一号艦だったからな、計画が消えた後はビッグセブンとも呼ばれたぞ。とても名誉ある愛称だった。
当時世界最大の41センチ砲を搭載し、妹の陸奥と一緒に堂々たるその姿を見て、大和男児は私たちに憧れた。
当時の男たちは戦艦である私と、空母である赤城どちらが人気かとよく論議していたのを覚えている。
大正12年9月、あの地震が起きた。丁度あの時は演習をしていたな。
演習を中断して港に戻り、東京の姿を見てみると酷いありさまだった。
街のシンボルであった浅草十二階が無残な姿になっているのを見たときはとても心が痛んだ。
それだけじゃない、帝国劇場や警視庁、東京帝大図書館など名だたる建物も崩れたり、焼失したりして東京は壊滅的被害を被った。
東京府だけで7万人以上が死に、合計で10万人以上も亡くなったのだ。
しかし、私が救援物資を届けに港に行った時、港に現れた私の姿を見て皆喜んでくれた。
あの絶望的状況の中、あろうことか私を見て微笑んでいたのだ。
私はあの時、この日本の不滅を思った。どんな絶望的状況にあろうとも、どんな被害を被ろうとも、日本国民は必ず立ち上がると。
それから1年たち大正13年、私に後の陛下となる裕仁皇太子が乗艦されたな。
あの時は緊張したぞ。
それからしばらくして昭和16年、私は日米の関係が非常に悪くなっているのを感じながら演習に明け暮れていた。
その時あたりから私は薄々感じ始めていたことがある。
「戦艦の時代はそろそろ終わるんじゃないか」、と。
実際、私は飛行機や潜水艦にとても苦戦していた。
加賀と龍驤の飛行機に翻弄されたこともあったっけな。
そしていよいよ日米との戦争が火蓋を切った。
私は機動部隊の撤退支援の為に日本を出撃した。
その時豊後水道あたりで大和を見かけたぞ。奴はとても大きかったな。
戦艦の時代はまだまだ終わってなかったんじゃないかと思ったくらいだ。
そうそう、あの出撃で一番肝を冷やしたのは鳳翔さんが消えたことだな。
あの時はヒヤヒヤしたぞ。鳳翔さんがいなくては困るからな。
昭和17年、私は連合艦隊旗艦を外された。悔しくもあったが私も当時艦齢は20年を超えてたからな、仕方なかったな。
その年の6月は忘れもしないぞ。ミッドウェイで空母機動部隊が全滅したのだ。
私は加賀の生存者を引き受け帰国させたな。
皆死んだ目をしていた。戦闘の苛烈さ、何より仲間を失った悲しみや日本が負けるという事実を受け止め切れていない感じがしていた。
私だってあの時情報を疑ったぞ。1隻くらいならまだあり得るとは思ったさ。でも誰が自分の軍が壊滅するなんて思う?
増して、数か月前はセイロン沖で英艦隊を完膚なきまでに叩きのめしたあの空母機動部隊だぞ?
信じられる方がおかしいさ…
昭和18年6月、今度は陸奥だ。
急に大爆発を起こして私の目の前で沈んでいったのだ。
私はかけがえのない妹を亡くしたのだ。
陸奥よ、お前にあの時何が起こっていたんだ?どうして急に爆発なんか起こしたんだ?
姉よりも先に逝くなんて…あの姉不孝め…敵とも戦わずして沈んでしまったらこの悲しみをどこに向ければよいというのだ…
昭和19年6月、マリアナ沖で戦闘があった日の夜、私は被雷し航行できなくなっていた飛鷹を曳航した。
彼女はとても苦しそうにしていた。私がつないだこのロープがもし外れたらその瞬間に沈むんじゃないかというくらい。
今思えば、そんなこと考えなければよかったと思う。
ロープが外れたのだ。あの時ほど神を憎んだことはない。
飛鷹はそのまま、本当に沈んでしまったのだ。
私は6月にでも呪われているのかと思った。
その年の10月、私はレイテに向かった。
すると、米爆撃機が飛んできて、爆弾を落としていった。
たくさんの水兵が悶えていたのを覚えている。
日本の終戦も近いと思った。
その後、私が本格的に出撃することは無かった。
日本は私を動かす余力さえもなかったのである。
その通り、日本海軍は壊滅したのだ。
それからしばたくして、終戦した。日本は戦争に負けたのだ。
これまで日本が払ってきた犠牲はついに報われることは無かったのである。
その後、私はアメリカに引き渡された。
そして、日本に居た頃は知らなかった情報を知った。
日本の惨状、日本の残り戦力、現在の日本の様子…
呉の軍港で沈んでいる沢山の艦を見て私はある句を思い出した。
「夏草や 兵どもが 夢の跡」
正にその通りだと思った。芭蕉とみている時代も、風景も違うが、それでもきっとこんな気持ちだったのだろうと、そんな気がした。
来る日も来る日も敵であったアメリカ人が私の艦内をうろうろしているのを見て私は日夜こんなことを思っていた。
私はこうしてボロボロになったが、それでもこの姿を国民に見てほしいと。
私は関東大震災の頃を思い出していた。
国民は私を見た瞬間ににっこりとほほ笑むだろうと、そして復興していくだろうと、そう思っていた。
しかし、非情にも私が国民にその姿を見せれる機会は訪れなかった。
私は核実験の標的艦になったのだ。
それは必ず沈むことを意味していた。
沈むことについてはそこまで抵抗はなかった。
もしこれから生きれたとしてもこんな旧式艦なんて役に立たないだろう。
それよりも私は日本国民にもう一度その姿を見せることができないことが残念だった。
それならばと、少しでも耐え抜いて見せようと決意した。
私が核爆弾を身に受けようとも浮いていることができれば国民に勇気を与えられると思って。
1発目、2発目と、私は耐え抜いた。
とても痛かったし、苦しかった。だが、国民はもっと苦しいだろうと思い私は耐えた。
だが、そんな私も限界が来たようだ。
私は3発目を受ける前に誰にも看取られずに沈んだ。
艦娘になってから私は戦艦長門について調べた。
すると、どうやら私は日本国民に勇気を与えることができていたようだ。
インターネットとやらには私の今の写真も載っていた。
貝や魚の住みかとなっているが、それでも菊の御紋はまだしっかりと確認できた。
武士の誉れだなと思った。
…そうだな、今日はこれくらいにしておこう。
提督よ、またいつでも私の部屋を訪れると良い、今日は昔のことを思い出せて懐かしかった。ありがとうな。
ーー長門編終了ーー
ーー北上編ーー
昔、私が軍艦だった頃。
私は5人姉妹の3人目、丁度中間の艦として生まれたよ。
私は生まれてすぐのころから仕事が忙しかったよ。最初は輸送の掩護をしたなぁ~。
昭和16年になってから方舷4連装5基20門、両舷合わせて40門の魚雷管を装備した重雷装巡洋艦に生まれ変わったよ。
当時はまだ艦隊決戦の考えが主流だったからねぇ~そりゃあもう私は戦艦にも負けないような強さを誇れていたよ。
改装が終わってから大井っちと一緒の艦隊に配属されたな~大井っちがすごい嬉しそうにしてたのが今でもよく思い出せるよ~。
開戦してから最初の方は主に護衛任務に就いてたなぁ~。
昭和17年に私は重雷装巡洋艦から高速輸送艦に改装されたよ。
自慢の魚雷管を6基24門まで減らされたのは嫌だったけどお国の為にこれで活躍できるんだったらいいかなって思ってたよ。
でも駆逐艦と一緒に行動するのはウザかったなぁ~ほんと…ウザいと思ってたよ…最初はね…
その年の11月、今度はさらに魚雷管を減らされて全盛期の頃の私の力はもうすっかりなくなっちゃったよ。
そんなにも輸送が追い付いていないのかなぁ~って思ったな。
昭和18年6月、私はアメリカのB-24爆撃機の空襲に遭ったよ。
幸いにして損傷はなかったけど私は飛行機相手に手も足も出なかったなぁ~。
そこで悟ったよ。「これからは飛行機の時代なんだ」って。
もう私みたいな魚雷しか能がない艦はお払い箱なんだなぁ~って、まぁもうあの頃はその魚雷すらも少なくなってたんだけどね…
昭和19年1月、私はマラッカ海峡を通過中に潜水艦の魚雷を2発喰らっちゃったな~あの時は沈むかと思ったよ~。
まぁ幸い鬼怒さんに曳航してもらったから何とか生き残れたんだけどね~。
その年の6月、私はまだ修理が完了していないのにタンカー護衛の為に修理が中止になったよ。
この頃くらいからかな?本格的に日本の戦況がよろしくないってわかってきたのは。
今までならちゃんと修理終わってから出撃してたのにそれすらもできないほど艦が不足してるのかなって。
まぁ護衛終わってからちゃんと修理してもらえたから良かったんだけどね。
昭和19年8月、この時は忘れもしないよ。
私が回天搭載母艦に改装されたんだ。回天って知ってる?知ってると思うけど…わかるよね?
特攻兵器。人が魚雷に乗って操作して、自分もろとも敵艦に体当たりするの。
しかもね、1度乗ったら中からはハッチを開けれないんだよ?
しかも限界距離まで航行したら自動的に爆発するの。
1度乗ったら終わり。本当に死が確定する。そんな兵器が回天。
私は自ら人の死を生み出す軍艦になってしまったんだ。
私はその時まで日本がアメリカと戦うのは東亜の解放の為だって、植民地解放の為だって、そう思ってた。
実際はどうなのか知らないけど国力に圧倒的差のある国に喧嘩を売るなんて考えられないからそれなりの理由があったんだと思う。
でもさ、いくらお国の為だって言ってもさ、出撃したら二度と戻れないなんて…間違ってるよね?
おかしいよね?国を守るために国民が死ぬなんて…これじゃ本末転倒だよね?
だからもう私はいっそ沈みたいって思った。
こんな兵器に成り下がるくらいなら、こんな味方殺しの兵器になるくらいなら。
でも実際はそうならなかった。もうそのころの日本には敵地へ行って敵を倒すほどの余力もなかったみたい。
日々防戦一方で戦局は日に日に悪くなるばかり。
私は本土決戦に備えた部隊に配属された。おかしいね?
防衛線がもはや本土って。もうボロボロだったよ。
遠洋で輸送してた頃が懐かしかったよ。
ウザいウザいって思ってた駆逐艦たちも皆沈んじゃった。
ほんとはね…ほんとはね…?ウザいなんて思ってなかったよ?
敵は私たちに情けなんてかけない怖い存在だからさ、せめてその恐怖の対象を私にして少しでも緊張を和らげようと思って言ってたんだよ?
皆沈んじゃった。あのかわいい子達。私の大事な随伴艦だった子達。
姉妹艦の皆も沈んじゃった。私の球磨姉、多摩姉、大井っちに木曾っち。
私は一人ぼっちになったんだ。もうみんないない。
もういっそ沈めてほしかったよ。もう勝ち目なんて全くなかったし。
昭和20年7月、呉の軍港に空襲が来た。私はその空襲で大破、航行不能になったよ。
もうその時には私たちを動かす燃料すらもなかったんだ。
ただの浮き砲台。相手は時速数百キロの艦載機。
笑っちゃうよね。こんな一方的な戦闘ってあるんだって。
日本が歴史的な勝利をした日本海海戦ですらロシアのバルチック艦隊はちゃんと動けてたのに。
それからしばらくして終戦した。
私は航行不能だったけど一部のタービンが生きてたから再使用されることになった。
今度は人を地獄へ送るためじゃなくて故郷へ送るために。
なんだかんだ言ってあの時が一番貢献できてると思ったよ。
本来なら人を殺すための艦が人を生きて帰す為に働けたんだもの。
それからしばらくしてお役目を終えた時、私は解体されることになった。
まぁそんなに悔いはなかったよ。このまま生きても誰もいないしそれに最後は本当の意味でお国のために働けたしさ。
そして昭和21年10月から昭和22年にかけて私は解体されたよ。
だからね、私は今こうして艦娘として生を受けてとても幸せだよ。
球磨型が全員揃っているし、今度こそは本当にお国のために戦えてるんだから。
…まぁこんな感じかな?
そんな波乱万丈、って訳ではないけど私にとっては大事な大事な艦の頃の記憶。
少しでも何か感想を持ってくれたら幸いかな?
いやぁ~私にしては珍しく熱く語っちゃったねぇ~。
今日はなかなか楽しかったよ、提督。
またいつでも私の部屋に来てよ。まぁ、大井っちが見たら怒るかもしれないけど…
あ!まずい!もうこんな時間!大井っちと約束があるの忘れてたよ~!ごめん提督また今度ね!
ーー北上編終了ーー
(;´-`)ウーン 面白い
おっ意外と面白いゾ~(失礼)
あ、指摘するゾ~
長門は核実験の時に機雷設置されてたんだで
この事実知ってもらえればいいんで
書き直さなくていいゾ~
長文失礼しました