瀧 「あれから……」 三葉 「何年経ったんだろ?」
瀧と三葉の出会う前をちょいとばっかし創作してみました。
当サイトの「君縄」職人wと化した感のある当方ですが、今作は、2018年から2022年出会うまでを描いてあります。実は今年、瀧くんたちは大学生になっているはずなんですね(2016/9時点で高2ということは去年高3で今年卒業)。
そこがヒントになり、大学生活はどうだったのか、をちょっと考えつつ書いていきました。
本作の一番の特徴は「瀧に彼女らしいのができた」とする記述です。いくらなんでも、付き合っていない、というのは無理筋に感じたので、今回は百合(リリー)という女性が絡むようにしてみました。
会社勤めをしている設定にした三葉の方も、先輩との絡みで物語を構築していきました。
※今作は完全創作であり、登場人物はほかの作品とは関係ありません。
2018.1.5 作成開始
2018.1.19 第一版 上梓・公開(26,206字)
2018.1.23 第一版第2刷 上梓(26,672字)
2023.10.14 誤字脱字/三点リーダー等装丁を見直し。
追記も含め、第二版上梓。27,026字
2024.5.1 2024年GW全面改修の一環で作業。27,218字。
2018年3月。
瀧をはじめ、神宮高校にいた3年生は、あるものは就職、あるものは大学進学へと、それぞれの道を歩み始めた。
同級生の大半が進学の道を選ぶ中で、優等生だった司はいわゆるMARCHを射止め、高木は持ち前の器用さで、就職率の高い大学をAO入試で勝ち取っていた。
一方の瀧は、Fラン、とまではいかなかったものの、知名度の低い、設立間もない大学を滑り止めで合格した以外は、ものの見事に全滅を食らってしまっていた。
卒業式当日。式も終わって、瀧・司・高木の3人は最後の下校タイムを名残惜しそうに、通っていたカフェで締めくくろうとしていた。
「はぁ」
瀧はため息をついた。式が終わってからずっとだ。
「まあ、そう気を落とすなって。浪人した奴もいるんだし」
「そうそう。行き先が決まっているだけありがたいと思いなよ」
二人は、そんな瀧に声をかける。若干の上から目線で。
「そうは言うけどよ……先が思いやられるよ」
瀧は弱音を吐く。
「確かに、2年の秋までは調子よかったのに。あの日以来、なんか瀧、おかしくなっちまったもんな」
"あの日"……2016年10月23日、一人で飛騨から東京に舞い戻ってからのことを司は言っていた。
「ああ、それそれ。急降下っていう文字がぴったりだもんな」
高木もそれに同調する。
「でもよ……」
瀧は、あの日から今日までを一気にブラウジングする。
「俺の中に"あの人"が入ってきてから、平常心でいられなくなっちまったんだからしょうがねーだろ!」
電車に乗っても、街角でも、繁華街でも、卒業旅行先でも……"あの人"のことばかりが頭をよぎる。東京に居るかどうかもわからないはずなのに、なぜかその姿を追い求めている。
「まあ、瀧の場合は、それで逃げられるから、ある意味楽だよな」
紅茶をすすりながら司は言う。
「俺は実利を取ったわけだけど……まあ、なにが正解かなんて、終わってみるまでわからんしな」
ブラックが好みになっている高木はやや顔をしかめながらも、一口飲んでそういう。
「そう言ってくれると、俺も何とか過ごせそうだよ」
また深いため息をついて、瀧はカフェオレを嗜む。
「あ、御卒業ですか。おめでとうございます」
会計しようとレジに進んだ3人を認めて、女性オーナーが声をかけてきた。
「あ、そうなんです。3人揃って来ることはこれからぐっと減るとは思いますけど」
司が応える。
「ちょくちょくきてくれたらいいわよ。何しろ君たちはうちの店のMVPなんだから」
「え?なんのことっすか?」
高木は首を傾げる。
「あら、あなたたち知らなかったの?うちのメニュー、一か月で網羅したの、あなたたちが初めてなのよ」
「え?まさか、お、俺が?」
司と高木が瀧の方をジト目で見ていることに気づいた瀧は、自分で自分を指差しながら、パンケーキをドカ食いしていた自分とは違う誰かが憑依していた時期を思い返していた。
「ああ、確かにお前、高2の秋口は、おかしくなったんじゃねえかってくらい、2日に一回はここ来てパンケーキばっか食ってたもんな」
「はっきり言うと、俺たちドン引きだったんだけど……」
司も高木も、旺盛なスイーツ脳に冒されていた瀧のことを思い返して言う。
「だいたい、あの4000円もするパンケーキなんて、月に一回出たらいい方。それをきっちり食べてくれたんだから……」
オーナーは、あの日の衝撃を昨日のように語りだす。男子高校生が、スイーツ女子しか頼まないような、タワーパンケーキを平らげたからである。
「そ、そ、そんなことって……」
記憶がない瀧は恐れおののいている。
「あったんだよ。忘れちまったのかぁ?」
「せめて食べた記憶くらいは持っといてくれよな」
3人はひとしきり高校時代の昔話を終えると、レジで会計を済ませ、店を出る。
あたりには春の日差しが感じられはするものの、まだ肌寒さが残っている。
新宿駅につくと、3人はそれぞれの家路につく。高木は京王線、司は中央線の快速ホームに足を進める。
瀧は総武緩行線に乗り、いつも通り四ツ谷で下車する。
「ただいまぁって、いるわけねえか……」
当たり前のように帰宅のあいさつを言いながら、無人だったことを思い出して、瀧は苦笑する。
卒業証書の入った筒をベッドに放り出し、ネクタイを緩めて、次は自身の体をベッドにダイブさせる。
マットレスのスプリングが、瀧の体重を拒むかのように反発し、しかし、それに抗うことを止めて静かにそれを受け入れる。
「はぁぁ」
今日何度目になるかわからないため息をつき、右手の手のひらをまじまじと見据える。
"あの時、俺は誰に逢い、なんと話し、相手は何を俺の手の中に書きたかったんだろう……"
2016年10月22日から抱き続けているこの、憑りついたままの感情。誰もその答えを導き出せない。心の闇がいまだに瀧の中に蠢いていた。
「お姉ちゃん、遅いぃ」
中学生になっている四葉の声がマンションの一室に響く。
「ああ、ごめんやって。昨日の仕事の残りやってたら、寝坊しちゃって……」
2013年10月4日の糸守隕石災害。たしかにけが人だけで済んだ奇跡ともいえる現場だったわけだが、それからの町民の暮らしは完全に一変した。
人口わずか1500人足らずの集落に、防災の備えがそんなにあるはずがない。しかも、彗星天体ショーに気を取られていた付近の自治体が糸守町の異変に気がつくのに時間がかかってしまった。最初に糸守の異変に気がついたのが、気象庁の地震計だった。隕石の激突が地震波として認識された結果だった。
そこからの政府や付近の支援は、むしろ過剰にすら映った。付近の自治体が総出で受け入れをしてくれたおかげで、別の高校に編入され、そこで卒業出来た三葉は、その足で首都圏に乗り込んだ。四葉は、小学校の間は友達と離れたくないとばかりに無理を言い、祖母と二人暮らしを仮設住宅で行った。
中学生になった去年、四葉は一葉を伴って上京。だが、都会の喧騒が合わなかったのか、一葉は直後に体調を崩し、今は病院に入院している。
「明日は私の番だから、私が作るでね」
三葉の仕事は曲りなりにでも順調だった。三葉たち、糸守出身の人を雇うことで補助金が出ることなどが幸いし、大手のみならず中小企業からも引き合いが続出した。糸守高校の出身者もOBでいる会社に就職できた三葉は、普通に、でも真剣に仕事に取り組んだ。今年あたりには、主任クラスの出世もあり得るとまで上司に内示を受けていたくらいである。
三葉ががんばるのには理由があった。
『"あの人"のことを考えないで済むように』
仕事に心を奪われているときが、彼女にとって一番充実している時だった。余計なことを考えず、仕事にまい進する。周りの同僚が、やれ旅行だ、やれファッションだにうつつを抜かすのとは一線を画している。たまの息抜きに同僚と羽目を外すことがないわけではないが、その時に見せる陰鬱な表情を気付かれるたびに突っ込まれるのも嫌だった。
年度末。様々な別れがそこかしこで展開される。転職、定年、結婚。三葉の勤めている会社でも、年中行事のようにすらなっている送別会が催されていた。宴も中盤に入り、あちこちで別れを惜しんだりする声が聞かれ始める。
「あ―宮水さん、又物思いにふけってる!」
同僚の水谷 由香利がグラスを凝視している三葉に気が付く。主賓である、寿退社する由香利の指摘に三葉もたじろぐ。
「あ、す、すみません……」
顔を真っ赤にして、今まで思っていたことをくしゃくしゃにして、ゴミ箱の中に放り込むように頭の中をクリアにする三葉。
「まあ、私のことで悩んでいるんじゃないのはわかっているけどね」
少し酔いも手伝って、由香利は意地悪く三葉に絡む。
「あ、で、でも先輩がいなくなると、やっぱりちょっと不安で……」
「不安?まあ、私の後釜の新入社員さんたちが使い物になるかどうか、気になるのはわかるけどね」
会社ひと筋、お局様とまではいかないが、一番長い勤続を誇る由香利の穴は実際大きかった。カバーは、残った全員でしなくてはいけないところなのだが、偉大過ぎた先輩の埋め合わせをするに足りる陣容とは程遠いものだった。
「え?じゃあ、残ってご指導いただけますか?」
冗談半分真面目半分で一縷の望みにかける三葉。
「あっはっはっは。そんな冗談も言えるようになったのね。なかなかやるじゃない!」
飛騨の田舎……彗星が落ちて壊滅的な被害を受けた糸守出身の高校生だった三葉を入社以来見続けていた由香利にとって、三葉の存在は芯のしっかりした言動で、職場を盛り立て、危機を救い、笑いが絶えない職場づくりの一翼を担っていたのだな、と述懐する。時には妹のように、甘えられたことも懐かしく思えていた。
「あ、やっぱりだめですか……」
ダメもとでの相談だし、結果はわかっているから、しょげ方も想定内だ。
「まあ、しばらくは暇だから、メールとかLINEくらいでなら相談に乗ってあげてもいいわよ」
強めの缶チューハイを煽りながら、由香利はそういう。
「え?いいんですかぁ!」
ぱっと明るくなる三葉。由香利もその顔を見て少し癒される。
「まあまあ。仕事のことばかりで気に病まないで。私を送る会なんだから、たまには羽目を外しなさい、宮水三葉さん?」
最後の業務命令、先輩の言いつけとばかりに由香利は言う。そう言いつつも、仕事第一で生きている三葉を頼もしく、そして危うく思う由香利だった。
「これまで、お疲れさまでした」
「ああ、三葉さん。今日はありがとうね」
会社贈呈の花束を恭しく掲げつつ、由香利は声をかけてきた三葉にそういって礼を述べる。
「先輩がいなくなった会社って、面白くなくなりますけど、明日から頑張りますっ」
三葉も普段の硬派な印象とは違い、格好を崩している。酔いが回ったせいかもしれない。
「いやいや、面白くなくなっても頑張ってよ。私なしでもね」
さすがに、その言葉をそのまま受け入れるわけにはいかない由香利は苦言を呈した。
そんな三葉を由香利は丸裸にしたい、と思っていた。最初で最後のチャンス到来、を由香利の脳が知らせる。
「ああ、宮水……サン」
かしこまって名字で呼んでしまった由香利は、その違和感に少したじろぐ。
「なんですか?水谷さん?」
掛け合いのように名字で呼ぶ三葉。少し由香利の顔がにやける。
「ンフフ。こういうのを待ってたのよ。ちょっと付き合ってくれない?」
有無を言わせず、三葉の手を握った由香利は、周りの喧騒をものともせずに、通りすがりのタクシーをひっつかまえると、「新宿」とだけ告げて車を走らせる。
今日も新宿は夜が更けてますます意気軒昂になっていく。一時期、死んだ魚の目をしていたかのようなどんよりとした雰囲気は影を潜め、そこかしこでどっという爆笑が聞こえるほどにまで回復していた。そんな中、由香利と三葉は、シックなショットバーで座席を温めていた。
路地一本入ったところにある、隠れ家的な店。10人も入れるかどうかわからない、カウンター一本の店構え。今日はほかに初老の男性が一人、ロックグラスをもてあそんでいるだけである。
由香利は、
「いつもの」と軽々しくオーダーする。
三葉は、カクテル系が好みではなかったが、
「カシスオレンジ」と注文する。ニヤリとするマスター。
「三葉さん。あなた、運がいいわ。マスターに認められたみたいよ」
きょとんとする三葉に、由香利はそういってマスターの微笑みのわけを解説する。
「あの人ってね。ああ見えて、今までいろんな人をここで見てきたわけじゃない?認めたくない人にはあの笑顔は見せなくてよ」
認められていると自負している由香利はそういってカウンターを滑ってきたモスコミュールを一口煽る。
「認められる?」
まだ気になっている三葉。
「ああ、要するに人間的にってこと。客として、だけではなくっていう意味なんだけど」
やや遅れてきたカシスオレンジを少しだけ口に運んだ三葉は、"そうなんだ"と心の中で思いながら新たな出会いをかみしめる。
「さあて、それはそうと三葉さん?」
改めて三葉の方に向き直って由香利が言う。
「あなたの心の闇を知りたくって今日はお誘いしたの」
笑顔なのに目は笑っていない由香利が畳みかける。その鋭い眼光に、三葉は少し恐怖する。
「私の、心の闇?」
三葉は、不意に見せる物思いにふけっている自分のことをいつかは聞かれるのでは、と思っていた。
「もうこれで同僚、先輩後輩の間柄ではなくなる。一人の女性、女友達の私になら、打ち明けてくれると思ったから、ね」
年上の配慮か、単なる興味本位か……まだ三葉には由香利の真意がつかめないでいる。
「もちろん、私が何かアドバイスできるとか、そういうことも含めて考えてたんだけど……そろそろ話してもらってもいいかしら?」
口調は優しかったが、その端々には、三葉だけで問題を抱え込んでいることに対する苛立ちを三葉は感じていた。
「そうは言いますけど、先輩……」
口癖が三葉の口からこぼれてしまう。
「あ、今日からはそういう関係じゃないって、さっき言ったよね?」
にやけた表情で由香利はたしなめる。
「う、そ、そうでした、すみません、先輩……」
由香利のことを先輩と呼ばなくていい関係にまで進んでいない三葉からは、どうしても由香利のことは、先輩呼びしか語彙がないようだ。
「あ、又言ったぁ。そういうところが好きなんだけどなあ」
頭を撫でられる三葉。でも、悪い気はしない。
「で、でもですね。由香利先輩」
「あ、又……まあいいか。うん、なんでしょう?」
指摘するのも疲れて、由香利は話を進める。
「私の心の闇を聞いて、どうしようっていうんですか?」
思いつめた表情の三葉に、今度はゆかりの方がたじろぎ始める。
「それなら簡単。さっきも言ったけどアドバイスできることのような気がしているから」
三葉の悩みを軽く受け止めていた由香利は、自信ありげにそう言う。
「本当にそう思います?」
解決するのが難しいと思っている三葉は、あえて質問を重ねた。
「聞かないと判断できないってこともわかるよね」
引くに引けなくなって、由香利は三葉に話させようとする。
「え、あ、ハイ……」
2013年から抱えているこの想い。すでに足掛け6年目に突入している。私の右手に書いてくれた「すきだ」と書いて(言って)くれた人が誰なのかわからない。それは、一生を通じて、本当に逢っておくべき、一緒にいてしかるべき人なのに、いまだにその存在がどこにあるのかわからない……糸守彗星災害の当日の出来事を三葉はとうとうと語り始めた。
2杯目にジントニックを注文した由香利は、三葉の心の闇を共有してしまったことに深く後悔していた。
時折右手を見つめていたしぐさ、ポカーンとした表情、どこか物憂げな日常。仕事一筋で、ほかの楽しみなどには見向きもしなかった三葉を見ながら、"頑張っているな"と感じていたわけだが、それは、胸の中に秘めていた想いに満たされないようにしようとしていたから、と気づかされる。初恋かどうかまではわからないが、三葉に憑りついて離れない彼って、どれほどの人なのか、と思ってしまう。
「なるほどね。そういうことだったのね」
言葉を選びつつ、由香利は三葉に声をかける。三葉の頬に、一筋伝う涙を認めたからでもある。
「私って、これから、どうしていけばいいですかね?」
カウンターに目を落としたままの三葉がつぶやく。
「三葉さんは、どうしていきたいの?」
質問に質問で答えるのは反則と思いながらも、由香利はまず三葉の真意を探ろうとした。
「私、あの人を追いかけたい。探したい、そして逢いたい」
「そう。なら答えは一つ。その想いを引きずっていくしかないわ」
由香利は、"なんてひどいことを言うの"と思いつつ端的に答えた。三葉の抱えることの大きさを考えた時、三葉が自分で答えを出すしか道は残されていない。由香利はそう考えた。
「でもこれだけは覚えておいてね。逢えるという想いを持ち続けるから、その想いは伝わるんだろうけど、相手のいる話、まして、日本のどこにいるとも限らないその彼をどうやって探し、見つけ、会いに行くっていうのか……」
由香利は、ここまでの想いを募らせている三葉を不憫に思いつつも、続ける。
「今話を聞いて、名前のわからなくなったその彼を探す、見つけることは私は無理だと思っている。多分、誰に聞いてもらっても、同じ結論しか出てこないと思うな。少し三葉さんには残酷かもしれないけど」
三葉には、あの、異次元で出会った、17歳の彼の笑顔と突っ込まれて謝っている姿が目に焼き付いて離れない。「そういう気持ちに憑りつかれた」5年間。その間に逢えていない彼に、果たして今後会うことができるのか?三葉は、由香利に改めて問われた回答を出すのをためらう。
「恋をするってすごいことだと思うの。それも、どこの誰ともわからなくなった、王子さまみたいな彼とならなおさら。でも、それって現実の話ではなくなっていることに気が付かなきゃ。いつまでも引きずるのは三葉さんのためにもならないと思うけどなぁ」
グラスを空にしながら、由香利はそう言う。三葉の心の闇を埋めてくれる、ほかの人がいるかどうか、まではわからない。由香利の知る限り、三葉が男性と付き合っていた、ということは噂話ですら上がってこなかった。恋愛に対して臆病なのではなく、その人とのムスビをいまだに携えているから、ほかの男性を受け入れなかったのだ、と知らされる。
彼女は、このまま、逢えないままその闇に埋もれていってしまうのか……由香利は他人事ながら、そこで一人、涙に暮れている、美麗な女性に憐れみと、尊敬のまなざしをくれている。私の思っていた恋愛なんて、所詮『ごっこ』だったんだ、これこそが恋愛なのだ、と。
「で、でも……」
少し涙声になっている三葉は、決意したようにこういう。
「私には、"その人"しかいないんだと思うんです。だから、逢えなくても仕方ないと思っているんです」
由香利はその一言に、胸をかきむしられた。雷に打たれたように全身に電気が走る。純愛を現すありとあらゆる文字が浮かんでは消える。
三葉のその想いに触れた瞬間、由香利は三葉に抱き付き、涙腺を崩壊させた。
「そ、そんな恋愛をしていたなんて!あなたとその人って……」
滂沱の涙を落とし続ける、いたいけな先輩をあやすように、三葉は言う。
「はい。私と彼とは、切っても切れない、ムスビがあると思っているんです」
「ムスビ?」
顔を上げる由香利。そこには、いつもの髪を束ねている組紐があった。
「これって私が作った組紐なんです。組紐って、作るのにもそうですが、時間の流れそのものなんです」
三葉は説明する。
「今は作らなくなったんですけど、昔、神社にいた時にお土産物として結構作ったりしてました。その時にうちのばあちゃんが、「わしらの作る組紐も、せやから、神様の技。時間の流れそのものをあらわしとる」なんて言いながら、作ったりもしていました」
由香利は、組紐のいわれについて初めて聞く。組紐は文字通り紐を組み合わせて編んでいくものであるから、時間がかかるのは当然。また、その時々の力の入れ具合で糸のよじれや色合いにも変化が現れる。当然一本として同じものは生まれない。"まるで人生のようだな"と、由香利はふと思った。
「結ぶって、糸へんに吉って書くじゃないですか?よく考えたら、糸が吉と思う、いいと感じるから結ばれるんだな、って感じているんです」
三葉は独自の理論でムスビを説明する。若干強引なこじつけだが、由香利には、感じ入る部分があった。
「運命の赤い糸って本当にあるって思ってます。まあ、私の場合は運命の組紐、ですけどね」
少し舌を出しながら三葉は説明を終える。
「この組紐を私は一度、彼に手渡しています。そして、また私の手元に帰ってきているのです。それは、彼との絶ち難いムスビがあるからだと思っているんです」
由香利は先ほどの三葉の説明を思い返す。彗星の破片が落下してしまう当日、その彼に逢えている、という部分である。何とはなしに物理的にもおかしな風に感じていたのだが、奇跡があるとするならば、それではないか、とさえ思う。
「だったら、なおさらね。見つかるかどうかなんて問題じゃない。"その人"を追い求め続けないと、ね」
今までを総合的に見て、由香利は言う。彼女にとって、ほかの誰かは今そこにいても眼中にない。"あの人"以外に考えられないのだ。
店を出る二人。
「三葉さんの話、少しためになったな」
興味本位で聞こうとした、不純な自分を恥じ入りながら、由香利は三葉をほめる。
「え?どこがですか?」
ためになったという反応が意外過ぎて、半笑いになりながら三葉は聞く。
「恋って、生半可な気持ちでしちゃいけないんだなってこと」
由香利の回答に三葉は、理解しがたい表情を見せる。
「私みたいに、玉の輿とか、不純な動機で結婚しちゃいけないんだなって思ったりもしてるんだなぁ」
由香利の相手は、大手不動産会社の創業家。相手の一目惚れに近い形での出会いがゴールインにつながった。でも、由香利には、まだこのムスビが確固としたものでないことに不安を述べる。
「いえいえ。今から紡いでいけばいいんですよ、ムスビを」
恋の偉大さを知っている三葉はそういう。どんなカップルだって、最初は赤の他人からスタートするのだ。それが「捻れて絡まって、時には戻って途切れ、又つながる」から、結ばれていくのだ。
「それもそうね。私はあなたがその人を見つけられるかどうか、陰ながらお祈りしておくわ」
由香利はそう言いながら、真のゴールインってなんだろう、と考える。
結婚したからと言っても全ての夫婦が円満なわけがない。現にそこらじゅうで離婚は起こっている。それだけではない。別れ話のもつれが刃傷沙汰になることもニュースになっていないものも含めたら恐ろしい数あるはずだ。数年前にドヤ顔で「離婚を勝ち取った」と公表した女性タレントの記者会見を思い出す由香利。
しかし、三葉は、結婚に至る前段階なのに、すでにその彼と"ムスバレテいる"と認識している。2013年からと考えるなら、すでに6年近く。目の前に実体がないだけで、彼とはスピリチュアルにも結ばれていると感じているのだ。その感情に支配されている三葉を作り上げたその男性とやらにあってみたいとも由香利は感じていた。
「あ、もし見つかったら、でいいんだけど、連絡頂戴!あなたをそこまでに思い至らせたその彼にもあってみたいから」
由香利は三葉にそういって自宅に帰るタクシーの中の人になる。
見送る三葉は、ふぅ、とため息をつき、喧騒に今だ包まれている新宿の街をさまようように歩き始めた。
2018年4月。
浪人だけは免れた瀧は、大学の入学式に、一人で臨む。
”まあ、別に親なんていなくても構わねーけど、どんだけ俺に無関心なんだよ……”
父は出張で式には出られず、当然母親はいないまま。父親から連絡は行っているらしかったが、電話一本寄こしてこない。
”立花家にしてみたら、落ちこぼれなんで外聞が悪いからかなぁ……それにしても、だりーなぁ”
式はまだ始まったばかり。学長の延々としたスピーチは、いつ果てるともわからない長さで新入生たちを襲っていた。
「ふあぁ」
大きく伸びをした瀧は、ようやく終わった入学式の会場から外に出る。
今までの高校生の時とは違った開放感。大学生たちが闊歩しているキャンパスを若干の違和感を感じながら歩く瀧は、「今日からオレもここの一員か……」とつぶやきながら、学部の説明会へと向かう。
もともと建物に興味のあった瀧は、その大学が新設した建築学部の一期生になろうと画策していた。ほかの大学がそこそこの学力を必要としていたのに、まるでサービスでもするかのように、瀧程度の学力なら推薦でほぼ合格できるほどだった。もちろん、瀧の場合は、パースが描ける、描写が的確と言った、プラスの評価点があればこそである。
「いやぁ、それにしても君たちは運がいい」
説明会の途中で、さる教授が話し始めるのだが、冒頭でそういい始めた。
「実績がない新規の学部に人が集まるのか、と思っていたのだが、ご覧のありさま。まずは諸君らの慧眼に賛辞を惜しまないよ」
120人足らずとはいえ、中くらいの教室は満席状態。あとで聞けば、ほぼ全員、試験なしの推薦での合格らしかった。
「で、なんで私がこんなことを話し始めているのか、といえば、著名大学から有名教授を次々ヘッドハンティングして作った学部だってことなんだよ」
建築学部は、学閥もそうだが、師事した教授閥もかなり有効に機能している。教授次第では、役人・公務員一直線のルートに強みがあったり、大手ゼネコンに顔が効くといった就職に有利に働く場合もある。
「つまり、君たちが卒業する4年後には、この大学が建築業界をリードする大学になっている可能性も秘めているってことなんだよ」
出席者の顔が一気に華やぐ。そんなうまい話はないもんだが、不安しか感じていなかった新入生にとっては”景気のいい話”に映ったことだろう。
瀧の場合は"建築の勉強ができれば"で入っただけであり、就職や将来のことは二の次だった。東京オリンピックで沸き立った建設ラッシュが終わっても、建築関係の新規の技術者が必要になることは明白で、瀧が卒業する2022年には、高度経済成長時代に建てた建物やインフラの大半が建て替えや大規模修繕を余儀なくされる。
オリンピックの残り香のような仕事も数多くあるはずで、日本から鉄筋とコンクリートが無くならない限り、建築の仕事は実質無尽蔵にあるともいえた。そこに目をつけた瀧の感覚は生まれもってのものだろう。
説明会は、カリキュラムの履修方法や教科書の購入、様々なインフラの活用方法、出欠席アプリの利用方法などがレクチャーされる。すべてが終わり、瀧達が解放されたのは午後2時を少し回ったころだった。
「やっと終わったよ。それにしても腹減ったなぁ」
瀧はつぶやきつつも、やや空いている学生食堂を見つけ、食事にあり付く。かつ丼380円。みそ汁ついてこの値段?瀧はあまりの安さに目を丸くする。ほかのメニューもかなり低廉な価格だった。
席につき、テーブルの上にあったお茶とコップを手に取ろうとした時だった。
「あっ」
手と手が交錯する。目の前には明らかに新入生と見られるファッションの女子大学生がいた。
「す、すみません」
相手が先に謝ってくる。
「あ、イエ、別に……」
失礼でも何でもないので、謝られることに納得いかない瀧はそういう。
だが、会話はそこで終わってしまう。”なんだよ、そこはそれ、いろいろと話し膨らませるところだろ”
二人してボッチ飯になっている状況にいたたまれなくなった瀧が
「あ、あのぅ」
と声をかけた瞬間、相手も同じことをつぶやく。
目と目が合う。さっきは凝視していなかったので相手の顔をうまく認識できていなかったのだが、清楚な感じのする顔立ちの女性が真正面に座っていたのだった。
瀧は一瞬我を忘れる。心の中に憑りついて離れないはずの”あの人”が急に遠ざかっていく感情にとらわれる。
それでも、瀧は次の句を告げる。
「お一人、ですか?」
見たままだった。少しだけあっけにとられた彼女も苦笑しながらこういう。
「ええ、貴方と同じで、ね」
彼女は少しヘルシーに、和風スパゲティーを嗜んでいた。
「今日からですか?」
「はい、私も今日から大学生です」
「学部はどちらですか?」
「私、実家が建設業なんで、建築学部なんです」
「へえ、奇遇だなあ。僕も建築なんですよ!」
「ほんとに?」
「そこは嘘ついても仕方ないところだしね」
「それもそうですね。通いで来られるんですか?」
「しばらくはそのつもり。ちょっと遠いんで、そのうち下宿するかも、ですけど」
群馬に手の届きそうなところにあるキャンパスは、瀧の家から通うのは苦痛と時間の無駄でしかなかった。
「私、埼玉が地元なので。それでここにしたんですけどね」
「そうなんだ。俺はここしか行くところがなくて……」
頭をかきながら、ありのままを瀧は告げる。
「そんなにしょげなくても。勝負は時の運。風が向く時もありますよ」
慰めとも励ましともいえる言葉をかけられて、瀧は困惑する。”だいたい初対面だろうよ”
「あ―美味しかった」
席を立ち食器を返しがてら、わざと聞こえるようにその人は言う。
「あ、それはそうと名前……」
あの日以来、気になる人が現れたら、名前を必ず聞くのが、瀧の一種の癖のようになってしまっていた。
「ああ、私?吉野 百合です。リリーって呼んでくれたらいいわ」
百合なんでリリーか。面白いなあ、と思いつつ、瀧も名乗る。
「俺は立花 瀧。学部も一緒ならちょくちょく逢うかもな。そん時はよろしく」
百合と瀧の出会いは、その程度の軽いものだった。
2018年7月。
前期試験が早々と終わり、長い夏休みが訪れようとしていた。
瀧は、心機一転、一般教養の学科ではほぼ落とさずにクリア。専門系の学科では、不得意な分野を除き、ほどほどの成績を収めていた。
入学式の際に出会った吉野 百合とは、例えばノートを見せてもらう、とか、分からないところを教え合うといった関係にまで深耕していた。周りに知り合いのいなかった瀧は、吉野の友人関係とも仲良くなっていく。
「ああ、やっと終わったな」
百合の取り巻きの一人・大西が言う。今日は単位認定発表の最後の日でもあった。
「前期で20なら、上出来な部類でしょ?」
百合は、基準が分からないまま、周りの友人たちに投げかける。
「ああ、いいんじゃね、俺で18だし」
瀧はそういう。最後の最後、建築史の試験をうまく獲れなかったのが痛手でもあった。
「私で16。ちょっと悪いのかな?」
数少ない女性の建築学部生・川島 みどりも百合と行動を共にしている面子の一人だ。
「パーフェクトとまでは行かなかったけど、俺で22だからな」
秀才タイプの山辺も百合のグループに入っている。
「じゃあ、おれがドンケツってか?12だったけど」
大西は、周りの出来の良さに嫉妬し、自身の成績に愕然とする。
「エエ、それってヤバくない?」
「後期、しんどいぞぅ」
「下手すりゃ、一年留年もあるかもだぜ」
「まだまだこれからだから、気合入れて頑張りなよ」
大西の成績に周りは口々にエールを送る。
「まあ、済んだことは仕方ないしな。後期頑張るか」
大西は自分で自分に気合を入れなおす。
「あ、今日から休みだけど、今からどっか行く?」
成績ショックから早くも立ち直った大西が周りを誘う。
「そうだな。無難にカラオケ、とか……」
山辺が提案する。
「私、スイーツ食べたい」
川島が食いしん坊なところを見せる。
「確かに。腹減ったから、どっか店に入りたい心境だよなぁ……」
大西は、二人が発言していないことにいぶかりながら、その二人……百合と瀧に水を向ける。
「で、お二人さんはどうしたいですか?」
大西は我慢ならず、声を掛ける。
「俺は、そうだな……」
瀧が応えようとした刹那、
「ねえ瀧くん、ちょっと話があるの」
百合が有無を言わせぬ態度で瀧の手を引っ張り、グループから離脱させてしまう。
「お、おい、お二人さん……」
大西たちは、急速に離れる二人を追うこともできずに手を上げたまま、その場に固まっていた。
「行っちゃったよ」
「まあ、今日あたり、彼女から告白もありなんじゃない?」
川島が二人の行く末を創作する。
「うん、そうなのかも。それにしても瀧の優柔不断ぶり、見ていてこっちがいらっとするぜ」
山辺が言う。
「あの顔で今まで彼女いなかったって言ってたろ?そんなことがって思ってたけど。まあ、そこは百合さんの強引なところが彼を変えてくれると思うけどな」
大西は言う。似合いのカップル、とまではいかないまでも、彼と彼女は付き合っていてしかるべきだとこの三人は思っていたからである。
「まあ、ここは二人を見守る方向でいきましょうや。あ、そうと決まったら、俺おすすめの洋食屋さんで飯にしようよ、その後でスイーツも行くから」
「賛成だな」
「そうしましょ」
三人は方向性を確認してその場を離れる。
瀧と百合は、駅から少し外れた路上を駅に向かって歩いていた。
「ねえ、瀧くん」
百合は、横並びになって、瀧の方に顔を向ける。
「私のこと、どう思ってる?」
そう言われても、瀧は顔を百合の方には向けず、まっすぐに前を向いている。
「せめて、好きとか嫌いとか、意思表示してくれないと。私も困っちゃうよ」
瀧は、グループでいるときは、分け隔てなく全員に絡んでいた。女性と二人きりになることを極力拒んでいたようなそぶりもあり、実際、百合と二人きりで下校することはごくまれで、その時でも、会話は弾んでいかないのが通常だった。
百合がそう投げかけても、瀧はまだ正面を見据えて歩を進めている。
百合が足を止める。
「私はどうすればいいのかって、聴いてるんだよっ」
周りにどう聞かれても構わない。ありったけの大声で百合は瀧に問いかける。
ようやく瀧は立ち止まり、百合の方を振り返る。そして、離れてしまった距離を少し縮める。
「リリー。はっきり言うね。ぼく、君のことが……」
瀧の告白。百合は身構える。
「なんとも思えないんだよ」
好きでも嫌いでもない。その中途半端な答えがさらに百合をヒートアップさせる。
「なんだよ、それ?答えになってない!」
「そう思うのは無理もない。でも、俺の中に棲みついている人を追い出すまでには至らないんだよ……」
瀧の目が少しうるむ。百合の想いを素直に受け止められない、悔しさから出ているものだと百合は即座に悟った。
「あなたの中に棲みついている人?」
百合は、今の関係を邪魔しているのはこの人に違いないと思っていた。
「ああ。高2の時に出会った、名前もどこに住んでいるかもわからない人。でもその人の残像は、今でもはっきりと覚えている。"その人"が今心の中にいる限り、"その人"を捨てて新しい恋愛をしようなんて思えないんだよ」
瀧はまくしたてながら、泣いている。百合の想いを分かって流す涙だった。
百合は、今日この場に至るまで、瀧の心の中を探ってこようとはしなかった。適当にはぐらかされる瀧の言動を見て、"晩熟なのかな""女子と付き合ったことないのかな"としか思えず、積極的にものにしようとは思ってこなかった。この夏休みでお互いを知るいいきっかけができれば、とグループから離れて二人きりで話をしようと思っていたのだった。
「だから、君のことは、好きでも嫌いでもない。ありていに言うと好きだけど、それって二股かけてるみたいで、俺には納得できないんだよな」
逢えないあの人と現実の百合。目の前の、アニメキャラが飛び出してきたかのような顔立ちは、学部のみならず学校内でも一二を争う美形として名をはせていた。その彼女をも凌駕するほどのインパクトが瀧には植え付けられている。
百合は、"この人を翻意させるのは至難の業だな"と思い始めていた。
「今までとおんなじで、友達で、というのならお付き合いしたい。でも、それ以上になることは決してないから」
瀧はそう言い切る。百合にとって、確かに瀧は男友達の中の一人でしかないが、それ以上を期待できる間柄になれると信じていた。それを一言で否定される。すり合わせも、妥協も許さない断定口調。彼の鉄の意思は百合の想像以上に堅いのだと思い知らされる。
「俺の心の闇を理解してくれたらそれでいい。言っとくけどこの事話したのって、リリーが最初だから」
私には打ち明けてくれた……百合は少しだけ救われたような気持になる。誤解されても、自分の信念を曲げなかった瀧は、やはりすごい人だったのだ。思いをぶつけた結果、瀧は自分の抱えている暗部を百合にさらけ出そうとできた。百合の思いが伝わったからこそ、瀧の心情も揺さぶられたのだ。
「私に話したのが、最初……」
百合は、瀧にしゃべらせてしまったことを後悔する。彼の中では、今や異性との恋愛は、"その人"以外に考えられなかったはずなのだ。そこに百合が横恋慕しようとしている。瀧が拒絶するのは当然だった。
「ああ。あの4人の中では、ね」
「私が聞いてよかったのかな?」
百合は、こんなに近くにいるのに、遠い存在になりつつある瀧を想い、少し目を潤ませる。彼女が居るレベルなら、奪い取る自信は百合にはあった。だが、もはや結ばれているとさえ思えるその人の存在は、瀧の中から消え失せるはずがない。いくら百合ががんばっても、その人の代わりにはならないし、できない。話を聞くだけ聞いて、なんのアドバイスも、支えにもなってやれないことを百合は悔いた。
「まあ、潮時だとは思ってたからね。リリーだって、俺が何で付き合ってくれないのか、不思議だっただろうし」
瀧はようやく落ち着いて、普通の口調でしゃべり始める。百合もその変化にすぐに気が付く。
「じゃあ、これからも、今までと一緒ね」
百合は、自分の中でそう完結する。
「いや、違うよ」
瀧は否定する。
「え?何のこ……」
そのしゃべる唇に瀧のそれが重なる。びくっとする百合。だが、それは、慰めと、感謝の気持ちから出た行為だった。それが百合の体の中にしみわたっていく。
「これ、俺のファーストキス。内緒だよ」
はにかんだ笑顔を見せる瀧。そして、百合の中では、「私も彼の中の忘れ得ぬ一人になれたのだ」と思い返していた。
瀧は自宅に帰り、今日の一日を振り返る。
"あの人"とは、一度もキスをしたことがない。それどころか、抱き付いたことさえない。それでも結ばれているからこそ、肉体がどこにいようとも精神的な結びは絶ち難いのだ。
百合と交わしたキスは、瀧にまた一つの決心をもたらす。
”リリーを悲しませないように、俺は自分の恋愛を完遂させなくっちゃ”
瀧は、今日の瀧の言動で、ますます百合が瀧に心を惹かれていることは感じていた。しかもキスまでしてしまった。彼女がキスにどんな意味を持っているのか、考える前に体が反応してしまったのだった。
”ヤバいな……”
少なくとも、百合が描く瀧への想いは、今日のことでより深いものになったとみるべきだ。"あの人"を心に抱きながら、二股のごとく百合にも対峙しないといけない。恋に不器用でそんな芸当のできない瀧にとって、それは苦痛であり、難題だった。
何より、百合の想いを一蹴するかの如く捨て去ることは瀧にはできなかった。その思いを抱えて4年間、少なくとも百合と対峙しないといけないのだ。その間に"あの人"と出会えるならそれに越したことはないが、果たして、そんな、天文学的な確率が現実に起こりえるのだろうか?
瀧はまたしても、眠れぬ夜を過ごした。
翌日。
瀧のLINEが着信を告げる。
百合 ”昨日はありがとう。やっぱり私、瀧くんのことが好きです。でも、私は瀧くんの想い人にはなれないって気が付けて良かったです”
百合の文章が痛いほど瀧の心に刺さってくる。
百合 ”今日からいつも通りの二人で過ごしましょうね。みんなには内緒で”
瀧は少しだけほくそ笑む。あの場面で二人っきりで話して何の進展もないなんて、誰が信じるのだろうか?
百合 "あ、瀧くんのファーストキス、私がもらってよかったのかな?”
"いかにも女の子らしい返信だな"
瀧はそれに返す。
瀧 ”リリーだからだよ。僕にとってのリリーはなくてはならない友人の一人。オレの"あの人"とは別格なんだよ”
百合が返す。
百合 ”その人より早くキスしてくれてうれしい。私も頑張るね!”
何かよほどうれしいのか、スタンプが豪勢に押される。今日もグループで遊ぶと決めていたので、瀧は用意を始める。
そこへ電話の着信。川島からだった。
「ああ、おれ」
「で、昨日はどうだったの?」
前のめりに聞く川島。
「うーん、なんて表現しようかなぁ。振ったわけでもないし、受け入れたわけでもないってところかな」
「なんなの、その中途半端な態度?」
一気に川島が不機嫌になる。
「まあそうは言うけど、俺にも事情があってだねぇ……」
どんなSNSよりも強力な拡散力を持っている川島。知られたら最後、学内はおろか首都圏中に広がってしまいかねない。はぐらかす瀧。
「まあ、わかったわ、プラマイゼロって感じでいいのかな、二人の関係は」
「ああ、そんな感じ。オレの心の闇を知ってくれた分プラスかもだけど」
"あっ、キーワード言っちまった" 瀧は心の中で失敗を後悔する。
「エエ、なになに、瀧くんの心の闇って?」
しっかりとそのキーワードに川島は反応する。
「悪いけど、お前には教えない」
「エエ、そんなぁ」
瀧の"取材"に失敗した記者・川島が地団駄を踏む。
「どうせ黙ってないだろ?言いふらされるのも嫌だから今まで言ってこなかったわけ」
「ちょっと残念。まあ、そういうことならわかったわ。で、待ち合わせって?」
「大宮駅10時半だろ?もうすぐ出るわ」
9時25分を表示している腕時計を見ながら瀧は言う。
「百合ちゃんは大丈夫なの?」
川島は聞く。
「LINEも入ってたけど、大丈夫みたい。むしろちょっと明るくなったんじゃない?」
「そうなんだ。まあとにかくあってみてのお楽しみね。分かったわ。遅れないようにね。それじゃ」
瀧は電話を切る。百合のことが嫌いになったわけではない。ただ付き合うにしても、一定の関係以上は構築できないだけなのだ。今までよりは少しだけ親密になれるだろうが、肉体関係や同棲と言った直接的な行為にまで至らないだけの話なのだ。
準備を終え、自宅から出る瀧。今日も四ツ谷駅から乗る総武緩行線は、ほどほどの混雑と、夏の開放感あふれる空気を運んでいた。
2018年10月
瀧と百合の間は、周りから見れば、確実に付き合っているだろうと思えるほどの親密さを増していた。授業ではいつも隣どおし、二人とも部活はしなかったのでほぼ一緒に登下校している姿が目撃されている。グループの中でも、川島がグループ外の男性に告白されて付き合いだしたこともあり、完全に大西と山辺が浮くような形になっていた。
「なあ、瀧ってホントすげーよな」
大西は山辺を誘って、行きつけの喫茶店でアイスコーヒーを飲みながら言う。
「なぁにが?」
山辺はメロンソーダをぶくぶく言わせながらその問いの真意を聞く。
「何ってお前、二人はちゃんと付き合っているけどそれ以上にはいかないってところだよ」
大西も瀧から事の次第を聞いていたひとりだった。大西だけではなく、おしゃべりの川島以外は3人全員が知っている。
「うん。そこはすごいなあって思う。リリーも、必要以上に求めたりしないみたいだしな」
男女の間ともなれば、当然のように発生してくるべき”もの”。それが血気盛んな年齢なのに二人が二人とも自制できていることに驚くのだ。
「ここ三カ月くらい見てきて気がついたんだけど、二人って、手をつないだところって見たことないんだよな」
大西が何かすごいことを発見したかのように山辺に言う。
「ああ、そう言えばそうかもな。特に瀧なんか、こう、手に神聖なものでも宿っているかのようなそぶりを見せたりしていることもあったりするしな」
山辺は、時折見せる、瀧の右手をみつめるしぐさに宗教的な意味合いを感じていた。
「瀧の右手ってなんかすごい意味でもあるのかもしれないよな。あそこまで魅入られるように見つめているなんて、俺たちなかなかないもんな」
大西もその意見に同調する。ふとした瞬間に見せる、物憂げな表情と右手をみつめるしぐさ。瀧の右手には何かがある。二人はそう感じていた。
「でも、それって、その……"あの人"のせいなんだろ?」
山辺が言う。瀧から聞かされた、名前のわからなくなってしまった"その人"。"その人"が書きかけたてのひらのメッセージを追い求めている瀧。彼の心の中に居座り続けている、亡霊のような、しかし確かな実像をもって君臨している"その人"の存在。山辺も、大西も、そこまで憑りつかれたような恋愛を経験してきたわけではない。
「まあ、そうなんだろうけどな。でも、リリーも、よくそんな瀧と付き合おうなんて思ったもんだぜ」
大西のアイスコーヒーは、クラッシュアイスごと一飲みにされてしまう。
「それはそうだよな。絶対一定の関係以上には深耕しないんだもんな」
「それに、その人が見つかったら、どうするつもりなんだろうな?瀧も、リリーも……」
今瀧が百合と付き合っている、というか友達でいるのは、瀧が百合に救いを求めたからに違いない、と二人は思っていた。どうせ見つかりっこないその人を追い求めている時間は少なくとも勉強しているこの時間帯にはない。いい成績を残して、一流とまでいかずとも就職先を見つけないことには、先の人生設計もなにもあったものではない。その間だけの現実逃避、心のよりどころ、としてリリーを選んだのだ、と二人は確信していた。
でも、それが終わったらどうなるのだろう?百合は埼玉の建設業者の一人娘。婿養子でもとって会社を存続させたいからこそ、建築学科を選んだのだと思われている。そして、二人はそれは間違いないと思っている。その時に彼女が結ばれるべき相手は、決して瀧ではないし、瀧も望んでいないだろう。一生その人を追い求め続けるくらいの勢いのある瀧に求婚する、まして婿養子になってもらう選択はどう考えても無理筋でしかなかった。
今の二人の関係は、周りがうらやむほどである。だが、その内情は、全く違っていた。瀧は、自分の心の寂しさを紛らわせるために百合を選び、百合は、瀧と一緒にいられるだけでいいのだとばかりにその立場を理解し容認している。二人の間に愛も恋も存在していない。「都合のいい間柄」でしかないのだ。
それでも、瀧は、百合を陰になり日向になり応援し、百合も瀧の心の闇を少しでも明るくしようと頑張った。そして、その時がふいに訪れる。
2020年7月。
街は、いや、日本中が東京オリンピック一色に染まってしまっていた。電車は「TOKYO 2020」と派手派手しくラッピングされ、今まで以上に外国語が町中に氾濫していた。3年生になっている面々は、何とか留年の危機を脱してはいたものの、そろそろ就職の方針も決めないといけない時期に至っていた。
瀧が望んでいたのは建築デザイン。「心に残る町の風景」「違和感のない、調和のとれた建築デザイン」。なので、専門は、その道のスペシャリストとされる教授の研究室に配属を希望し、受け入れられる。
だが、調子がよかったのもここまで。2020年・3年生になって専門系の単位の所得にあくせくするようになっていく。
一方の百合は、建築全般。ゼネコン指向型だったこともあり、トップクラスの成績を武器に学部長を務める教授の研究室に楽々配属。めきめきと頭角を現し始めていた。
瀧は、"あの人"と同様、すれ違い始めている、百合との関係に焦りを感じていた。
「"あの人"とは、もう一生あえないかもしれない……」
深夜、課題の高層ビルのパースを描きながら、またしても、その描く手が止まり、その手をまじまじと見つめてしまう。今は"あの人"のこともだが、身近な百合のことが気になってしまっている。
百合とはLINEですら、疎遠になりつつあった。彼女にしてみても、瀧との付き合いより大事なものを見つけてしまった以上、深耕しない関係に拘泥するのは自分にとってもマイナスに感じるのは如何ともしがたかった。
そしてそれを瀧は責めもしなかった。むしろ、今まで1年余り、煮え切らない俺のそばにいてくれただけでどれだけ救われたか。礼を言いたいのは俺の方だ、と瀧は思う。
”終わらせよう……”
瀧は百合と別れる決心をつける。
LINEでは失礼と思い、瀧は百合を電話で呼び出す。
数回のコールののち、百合が電話口に出る。
「ああ、私、久しぶりね」
百合にそう言われるほど、本当に久しぶりに連絡を取ったのだった。
「あ、う、うん、今までほったらかしにして、ごめん」
瀧は自分の不徳を謝った。
「こちらこそ。私も連絡寄こさなくてごめんなさい」
百合は済まなさそうな口調で答える。
「それはそうと、どうしたの?LINEでもいいのに」
「ああ、そのことなんだけど……」
肝心な場面ではたどたどしくなってしまう。瀧の悪い癖である。
「俺たち、このままでいいのかなって……」
すっぱり「別れよう!」と言い放てない踏ん切りの悪さ。いつも通りの瀧がそこにいる。
「え?どうしたの?藪から棒に……だいじょうぶ?瀧くん」
精神的に病んでいると思った百合が声を掛ける。
「だ、だってそうだろ。俺、お前をきっちり受け入れられないんだもの。このままずるずる行ったって……」
そこまで言い終えないうちに百合は言う。
「わかっているわ」
「え?」
その日本語が理解できない瀧は、困惑した。
「あなたに大事な人がいることもわかって今まで友達付き合いしてきたわ。今の話だと友達の関係を解消したいみたいだけど、それで瀧くんは満足なの?」
「ま、満足かって言われると……」
急に自信がなくなっていく瀧。
「いや、そういうことじゃないんだ。君をいつまでも振り回していたくないだけなんだよ。オレの問題にかかわって君が不幸になるのは忍びないんだ」
今の不利な状況を言いつくろう瀧だったが、
「不幸?私は今までそんなこと一度も思ったことないんだけどなあ。瀧くんと居られて幸せだったよ、私は」
百合にそう振り返られて、瀧は愕然とする。
実質的に初めて付き合った女性。でも周りはどう見ていたかは別にして、瀧の中では"リリーは彼女ではない"と思っていた。自分の中の"あの人"以外と恋愛するつもりはなく、だから、友達止まりの関係に終始していた。それでもリリーは"幸せだった"のだという。
瀧は困惑する。友達の関係まで解消するつもりはない。なのに切り出してしまったことへの後戻りの仕方に戸惑うのである。
「そう。そうだったんだ……いやいや、俺の取りこし苦労だったみたいだわ。わりぃわりぃ」
少し格好を崩しながら、笑いを取ろうと瀧は懸命に答える。
「でも、実際は、別れたいんでしょ?」
そんなおどけた瀧にぐさりと釘が刺さる。
「ち、違うよ、今まで通り……」
「関係を続けたい?ホーン、そんな都合のいい間柄でまたいたいと……」
百合の口調がやや怪しくなっていく。
「すでにお互いが進むべき道も違って来てるし、疎遠になっているのも、私も瀧くんもお互いに興味がなくなりつつある証拠。実際潮時なんじゃないかなっとは思ったりもしてるんだ」
百合の口調は、間違いなく事態を進める一言になってしまっている。瀧は動揺を隠しきれない。
「今まで通りでいいとは思うけど、お互い、あんまり関わらないで行こうかな、とは思ってる。少しフェードアウトしたって感じかな?これなら瀧くんにも負担にならないでしょ?」
ほっと胸をなでおろしつつも、一歩後退した関係になってしまうことに瀧は戸惑う。
「あ、ああ、それなら、俺も問題ないよ……」
弱弱しく、押し切られた形で瀧は承諾する。
「そう。それならいいわ。また学校で会いましょうね」
まさに這う這うの体で電話を切ろうとしているのがわかるほど、百合はその場から逃げるかのように電話を切った。
プーップーップーッ……
携帯を握りしめ、切れているはずの通話に放心状態の瀧がいる。
確かに関係を終わらせようとしたのは自分だ。正確には振ろうとして逆襲されたわけだが、もはや関係の修復は不可能だと悟る。
瀧にとって、百合ですらものにできない、そんな男になっていることが我慢ならなかった。唯一、心を開いてくれた"現実の"異性。いくら過去の、記憶の中だけの"あの人"であっても、"その人"の存在が大きすぎるからと言って、現実の女性を傷つけていいはずがない。
だが、瀧はそれをやってしまった。百合の心に深手を負わせたのだ。一緒にいるだけでいいと言ってくれているのに、それすら拒もうとする。本当に"あの人"は、百合と比べてそん色ないほどの人物だったのか?
ようやくアプリを戻し、通話状態を解除する。もはや始まってしまったものは仕方ない。瀧は、思い直して、ふたたび課題に取り組み始めた。
だが、その用紙は、ほどなく、雨滴が打ち付けられたように、シミだらけの状態で書き直しを余儀なくされたのだった。
2021年冬。
瀧に就職浪人の危機が迫ってきていた。
事の発端は、教授閥が有効と思われたデザインの世界も、やはり成績優秀者から順に席が埋まっていくということ。気が付けば瀧が行きたいと思う職種の応募はほかの大学も含めて早々に埋まってしまっていた。
第一志望がだめでも、と動き出した時がすでに遅かった。周りは2歩も3歩もリードしている中で企業面接やエントリーをしなくてはならず、埋まっている席を奪い返すまでには到底ならない。
大手ゼネコンは当然国公立が独占、中位クラスもMARCHや、それに類するほかの地方の大学が多勢を占める。結局中堅の土木系や名前も聞いたことのない○○建設と言ったような会社しか残っていない。そしてそういう会社には、瀧の専門はあまり生きない。そのミスマッチがより瀧の行く手を阻む。
ほかの4人は行き先が決まっている。百合は教授の後押しもあって、まずは大手ゼネコンに就職が決まる。そこで経験したことを家業に生かすのだろう。川島は設計部門に配属内定までもらうほどの成績で卒業見込み。成績の芳しくなかった大西はなんとか4年で卒業出来るものの、実家のある山梨で職探し。山辺はマンションデベロッパーの開発担当が確定していた。
周りの決まり具合に瀧は焦りの色を隠せないが、好きなことが勉強できたのだから、そこは後悔していなかった。できればそれを生かせる職種を選びたかったのだが、そうも言っていられないほど追い詰められていた。
ランクをかなり落とし、独立系の設計事務所やリニューアル施工専門業者、果ては建築系に人材派遣している企業にまで回った。その大半が「いらない」「まにあっている」であり、面接までたどり着いても、内定を戴くまでには至らなかった。
12月に入り、いよいよ瀧の尻に火がついた。もはや猶予はならないところまで来てしまっている。就職課も総動員して、何とか滑りこめそうな建設会社が一件見つかる。明日は最終面接の日だ。
最終関門であり、それをクリアできなければ、卒業即正社員の道は閉ざされるに等しかった。だが、意外にも瀧は自然体だった。
「まあ、どうせだめだろうし……」
世間を達観したかのような、悟りの境地。たしかに3桁以上会社訪問し、二次まで行った企業も両手では足りない。人生、そんなに甘くないし、そういうものだと落ち着いていた。
大学から帰る道すがら、目の前に見慣れた人影を認める。百合だった。
「たーきくんっ」
久し振りに聞く、甘い音響が瀧の心にふとした柔らかさをもたらす。
「あ、久しぶり」
専門もまったく別方向、あの日以来、連絡らしい連絡も取り合っていなかった元カノからのあいさつに軽く言葉をかける。
「それで?そろそろ決まりそう?」
上目づかいで、瀧の顔を覗き込みながら百合は聞く。
「う、うん……まあ、これでダメなら、バイトから始めるわ」
少しだけ自嘲気味に瀧は答える。
「あ、話してなかったけど、もしよかったら、うちのパパの会社で働いてみない?」
とんでもないオファー。埼玉の吉野建設工業は、地元専門とはいえ、低層から、中高層マンションやオフィスビルも、設計からの一貫施工で実績も折り紙付き。会社の規模も100人程度とこのクラスにしてはなかなかに従業員を抱えている企業だった。
リリーの話では、東京五輪を見据えて社員を増強したのだが、それほどでもなかったので今年は求人を控えたところ、自然減を上回る退職者が出てしまったらしく、特に営業面で苦しくなっているということだった。
「え、ま、まあ、確かに建築業だし、渡りに船っちゃぁ船だけど……」
元カノの会社に入社する。すごくカッコの悪い話でもある。
「どう?考えてくれる?」
少しにやけ顔で百合は瀧に問う。
「ここ落ちたら、お世話になるわ。やっぱ建築とは離れたくないし」
背に腹は代えられぬとばかりに、達観した面持ちで瀧は答える。
「そう。よかったわ。返事、待ってるね」
必要最小限のことしかしゃべらず、百合はその場から離れる。「一緒に帰ろっか」とかいうことも言わずに。
百合の後姿を見ながら、瀧はまたしても右手をみつめてしまう。俺は、結局何を求め、なにを手に入れられなかったのだろうか、と。
2021年の年末。瀧に一足早いお年玉がもたらされた。内定である。しかも、最後に臨んだ会社のほかに、補欠繰り上がりで別の一社からも内定をもらう。
瀧はホッとする。最終手段である、百合の親父さんの会社に、世話にならなくて済んだことにである。
もう百合との間のムスビは考えられなかった。2020年のあの夏の日。あの日にムスビは途切れたのだ。それが「また繋がる」とはどうしても思えなかった。そして、その通りになっていく。
百合や山辺達グループで行く卒業旅行にも、瀧は参加しなかった。まだ内定が決まっていないこともあったのだが、彼らとの関係は、そこまで深耕していなかったという部分もある。そこで疎外感に苛まれるのも嫌だった。
部屋につるした、リクルートスーツを感慨深げに瀧はみつめる。あまたの戦場を行き来した戦友の頑張りがようやく報われるときが来たのだった。そして、ふとした感慨にとらわれる。
それは、いつだったか……そうだ。雨がボタ雪に変わり、しんしんと降り始めた天候になった、あの日。12月の2日だ。
雨が雪に変わったのを見計らって、コーヒーショップから出た瀧は、歩道橋の上で、何かしらの残響音を聞く。そして、それは、女性とすれ違った時に感じたものだった。5年前に感じた不思議な感覚。それは、確かに"あの人"とすれ違った時に感じた音であり、感覚であり、実感だった。
「ま、まさか」
とは思った。そこに、いるのか?振り返る。10数メートル先に歩みを止めない女性がいる。「どうせまた、別人だろう」次の瞬間、身体はその意見を肯定するかの如く歩みを始める。瀧は、その時「なんで追いかけていってこの目で確認しなかったんだろう」と悔やむ。
そして瀧は気が付く。
「もしかして、あの人って、意外と近くにいるんじゃないか」と。
都民1000万人。この中にいる一人を見つけるのはまさしく1000万分の一。それに"その人"は都民でないかもしれない。そうなると確率はもっと下がる。そんな天文学的出会いがありえるはずがない。
だが、と瀧は思い直す。
俺と"その人"とは強固なムスビが存在している。8年前にもらった組紐、そしてそれを返した3年後。それからの5年間。心に憑りついて離れない"あの人"の存在は右手をみつめては、時折涙にぬれている枕を見ては、思い返しつつ、実像として残り続ける。手に何かを書こうとしたときの満面の笑みは、瀧が最後に見た彼女の顔であるだけに強烈に記憶に残っていた。
それでも、この大学生活の間、瀧はその人を探すという実際の行動には移らなかった。徒労に終わることが目に見えていたからだし、そういう気持ちにまだ取り憑かれるほどでもなかった。勉強に意識が行っていたことがそういうことを考えさせないで済んでいたからかもしれない。もちろん、百合の存在も大きかった。
だが、行く先が決まり、心に余裕ができてくると、今まで封印されていた心の闇がまたしても瀧の心に充満してくる。3週間程度前のことなのに、そんなことを思い出していることが何よりの証拠だ。
瀧は、今年何千回目かになる、右手をまじまじと見つめた。"この手の中のことが、知りたい。知らなくてはならないのに……"
2021年12月2日
就職するべく上京したのが2015年。早いもので7年目の冬もそこまで来ていた。
冬の走りだというのに、今年の寒さは群を抜いていた。猛烈な寒波が時折南下しては都心に雪を降らせ、交通に大ダメージを与える。1月や2月初旬の出来事が12月の頭にも起こっていたのだった。
「お疲れさまぁ」
三葉は、寿退社した由香利の後をきっちりとフォローした。その功績が認められて、ほどなく主任に。今では女性ながら係長の地位まで勝ち取っていた。それもこれも、献身的な三葉の勤務態度がそうさせている。いつでも出社は誰よりも早く、退社は誰よりも遅い。気が付けば、挨拶しているのは、警備員の夜勤の人だけだったりする。
「あ、この雨、今晩雪になるみたいですよ」
夜警の人からそう告げられる。
「あ、そうなんだ。でも家に資料残してきたからなぁ」
事と次第によっては会社に泊まることも考えたのだが、家に帰らないといけなかったこともあり、雪でパニックになってでも翌日家から通うことを三葉は選んだ。
ブーツで来ていたことも幸いして、帰路の途中、やや激しめの雨に遭遇しても、足元はぬれずに過ごせた。新宿に着き、歩道橋を歩くころには、雨はいつしか雪に変わっていた。
その時だった。
何かの反響音が三葉の耳元で響く。あの時、"あの人"と、姿かたちは見えないのにすれ違った時に感じた音……風鈴のような、そんな感じの音だ。
「ま、まさか」
三葉ははっと息をのむ。しばらく行き過ぎて後ろを振り返る。
そこには、20代前半の、サラリーマンらしい人影が雪降る中、傘もささずに歩いていく姿だけが見えていた。
「もしかして、"あの人"かも……」
三葉は、急に訪れた、そんな場面を想像する。今まで追い求め続けていた、そういう気持ちに憑りつかせた"あの人"。"その人"が、まさか、数十メートル先にいる?
後を追おうか、と、三葉は逡巡して、結局、ため息一つついて、それをあきらめる。
だって、そんな都合のいい出来事が、こんな場所で起こるはずがないからだ。確かに"あの人"は東京に居るだろうことはわかっている。でもそれは、あの当時、の情報。今はあの時から何年も時間が経っている。引っ越しや転勤、海外移住だってしていてもおかしくない。そもそも生死だってわからないのだ。あの時、カタワレ時が終わって彼の姿は一瞬でかき消えた。三葉はその残像を追うよりも、町の未来を救う方に傾注した。山道を駆け下り、何度も転びながら、ご神体から1時間足らずで変電所までたどり着けたのだった。それは、今を生きることで、消えてしまった彼を追い求めることと決めたからに他ならない。彼も同じに思っている。そう信じられる"何か"が三葉にはあった。だから、今まで誰とも恋愛感情を紡がず、付き合いもせず、ただ"あの人"を待っているのだった。
歩道橋を歩きながら、三葉はまた、あの人にとらわれていく想いを勃興させてしまう。
「今、"あの人"がここにいてくれたら……抱きしめてくれたら……」
心の闇であり、ぽっかり空いた穴のような三葉の心の隙間は、誰であっても埋めようがなかった。歩きながら、自然と涙で満たされていく顔を拭こうともせずに、三葉は自宅への道を急いだ。
二人はいつ会えるともわからない世界で、美しくもがきながら、日々を過ごしている。ムスバレテいるからこそ、逢えなくてはならないのだが、逢えたとしても、そこにあるのは幸せばかりとは限らない。逢えるのは、明日なのか、明後日なのか、一か月後か、1年後か、それとも、お互い老人になってもあえないままか……。二人は"想い"を抱えたまま大人になり、生活している。
出会えた時に真っ先に二人が確認するのは、間違いなく、お互いの名前だ。それが補完されてムスビは強固なものとなり、決してほどけないものになる。だから、二人はそれを追い求め、決してあきらめないのだった。
2022年、春。二人が車窓でお互いを認め合うという、まさに奇跡は、二人が思い続けた結果といえなくもない。
唐突に出会う二人。
「君の……名前は?」
二人が声を揃える。
「瀧」 「三葉」
「あ、苗字から言った方がよかったかな」
三葉がお転婆らしく慌てて言う。
「ああ、それもそうだな。俺、立花瀧」
「わ、私、宮水三葉」
嬉しくて泣いている三葉の顔を見て、瀧も思わずもらい泣きする。
「やっと会えたね、三葉」
「私も会えてうれしい。瀧くん」
二人は余人を交えず、階段の踊り場で熱い抱擁をする。ムスビが完遂した瞬間だった。
感情が胸いっぱいになって、壊れた蛇口のようにぼとぼとと涙を流す三葉をぎゅぅと瀧は抱きしめる。そのアツさがさらに三葉の胸を締め付ける。一生分の涙を出してしまったのではないかというくらいに三葉は泣いた。
瀧は、ただひたすらに安堵していた。「やっと会えた」というのが瀧の想いだからだ。「もう会えない」と思っていたことも一度や二度ではない。ほかの女性になびこうとしたこともゼロではない。でも、その時にあの笑顔で自分の右手に何かを書こうとした三葉の顔がフラッシュバックするのだ。
ひとしきり泣いて落ち着いた三葉と瀧は、お互いの会社に連絡を入れて、ひとまず駅の方に向かう。最寄りは信濃町駅だ。
「なあ三葉、あの時、俺の右手になんて書こうとしたんだい?」
8年前の出来事を無謀にも聞こうとする瀧。だが、それに三葉は反論する。
「そんなことより、なんで名前書いてくれんかったのよ?」
瀧はむしろ責められるとは思っていなかった。名前より気持ちを伝えたくて、そしてそれを照れ隠す意味もあって「名前書いとこうぜ」って言ったことが伝わってない。
「ああ、あれは、その、つまり……」
しどろもどろになる瀧。右手は妙な動きを繰り返す。
「そんなことより、俺の質問に答えてくれよ」
「え?」
急に三葉が顔を赤らめる。
「だっ、だって、瀧くんと同じことが書きたかったんだもん」
消え入るような声にフェードアウトしながら三葉は弁明する。
「だったら、おあいこだな」
そう言うが早いか、瀧は三葉の手をグイッとひき、外苑東通りを駅に向かって疾駆する。
今までの二人の歴史に追いつき、追い越すかのようなスピードで走る瀧に、三葉はついていきながら、今まで生きていた中で一番の幸福感をかみしめていた。
ふぅぅぅ(ため息)。
今回はちょっとした力作になってしまいましたが、いかがだったでしょうか?
作成年月日からも察しがつくように、この作品のトリガーになったのは「地上波」です。
2016年10月23日、瀧がご神体の上で夜を明かし、目覚めてから、2021年まで話がぶっ飛ぶのです。そして、がら空きの車内なのに扉にたたずみ、右手を凝視している瀧が写っているのです(扉付近に立つという癖をこのがら空きの車内で実現したことで、後の車窓での出会いに無理が生じなくなる/座っていると永遠に出会えないから)。
2016年から2021年のまでの瀧くんに何が起こったのか。2013年の彗星落下からあの出会いまで、三葉さんはどうだったのか。完全に追うまでは無理としても、「瀧にも彼女らしいのができかかった」「三葉にも先輩がいた」と言った設定を次々編み出し、物語を構築していきました。
瀧の方に描写が偏ったのは、彼にとって恋愛のつらさがいかほどのものであるかを理解させたかったから。吉野百合という女性を振ろうとして振られるシーンがありましたが、もっともっと感情の発露があってもよかったかもしれません。
いずれにせよ、完全なるサイドストーリー。二人がお互いの残像に苛まれている姿を想起しながら読んでいただくとより面白味が増すと思います。
ちなみに瀧が抱いている三葉の残像はカタワレ時「うん」と言って手のひらに書こうとした瞬間の笑顔の三葉であり、三葉が描く瀧の残像は、カタワレ時に苦笑いしながら三葉と対峙している瀧であります。
気が付けば、単独9タイトル目wwクロスオーバー物もいれたら10タイトル目っなんて、凄すぎゃしませんか?と、自画自賛しながら、次回作のネタを集めていきたいと思います。
当作品もご精読いただきありがとうございました。
※本作品は、コロナ禍前に上梓されたものであり、2020年以降にコロナ禍が日本を襲っていない描写になっていますが、作成当初の状況を記録するため、大きな変更は与えていません。
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