2016-08-27 17:06:42 更新

概要

「もぐりこみ駆逐艦」第3話。ツンに次ぐツンで数々の提督を轟沈まで追いやってきた最強のツンクィーン「霞ちゃん」回。『完成』※2016/6/10:改訂完了。クズ要素増。


まえ:[chapter2:嚮導艦のキモチ ]



つぎ:[chapter4:紫煙のゆくえ]




[chapter3: エースの憂鬱]


 耳障りな鉄の羽音が、私の全身を包み込んでいる。


 煤だらけのスクリューがはるか上方で唸り声をあげていた。くぐもった回転音はあちこちに反響し、体の節々にぶつかってくる。目をつむってその音だけに集中すると、音の流れが迫りくる圧力のように全身を圧迫する。

 少女の濡れた指先が細かく震える。彼女はその震えをごまかすように、強く握り拳を作って目を開いた。


 まず薄く張った水面、そこに浮かぶ自分の足が見えた。足の先は「主機」と呼ばれる艤装に包まれていて、低い駆動音を響かせながら小さな少女の体を水面に浮かべている。

 視線を上げると正面に固く閉じた鉄の門、視線の端ではバタバタと工員たちが走り回っていた。

 薄暗く閉鎖的なドックの中、鼻をつくのは油と火薬の匂い。あんなにもうるさかった羽音は、戦争の気配に溶けて今や耳鳴りのように薄く遠くに響いているだけだ。

 

 薄暗いゲートの内側で、少女は出撃の時を待っていた。背負った艤装の重みが、痛いほど肩にのしかかっている。 


「霞、ぼさっとするな」


 並び立つ旗艦にそう促されて、朝潮型駆逐艦「霞」は手持ちの12.7cm連装砲を深く握り直した。


「…わかっています」


 旗艦に向き直ると、太ももに固定した魚雷管が大きく揺れる。霞は空いている左の手で、固定したベルトを固く締め直した。

 朝潮型は初期装備では手持ち砲と逆の腕に魚雷管を搭載しているが、今回支給された5連装酸素魚雷は従来のモノと違い重量があるため、航行のバランス維持のために太腿にベルトで固定していた。


「なんや、霞ちゃんおねむかいな?」


 そう茶化してくるのは軽空母の龍驤だ。横並びになっている隊の列の中から、のけぞるように後方に首を傾けてこちらを覗き込んでいる。

 まるで駆逐艦と見まごうほどの小柄な艦娘だが、重厚な艤装の代わりに背負う巨大な巻物が、彼女が戦闘機隊を操るれっきとした空母艦娘であることを象徴していた。


 霞はにやにやと視線を送る龍驤を一瞥して、不機嫌そうに眉を吊り上げた。

 

「姉さん…」


 龍驤は霞の眼圧に押され、体勢を立て直しながら視線を逸らす。


「冗談やジョーダン」


 別に霞だって本気で怒っているわけではない。龍驤だって出撃前の駆逐艦に気を回してくれている。 

 霞は今一度、待機中の艦隊を見回した。


 旗艦である戦艦「日向」、軽空母「龍驤」、正規空母「飛龍」、重巡「衣笠」、雷巡「大井」。

 そして駆逐艦「霞」。

 これが鎮守府のエース、「第一機動部隊」であった。


 ただ、必ずしも固定のメンバーではなく、特に重巡雷巡は控えのメンバーとの切り替わりが激しい。危険を顧みず突撃し、負傷したものは即控えと切り替わる。圧倒的火力と制空能力、そしてこのサイクルの速さこそが、彼女たち第一機動部隊の「強さ」だった。


 霞はこの隊で副艦を務めている。

 雷撃戦においては大井と共に先陣を切り、夜戦が始まれば最前線で砲をふるう。潜水艦狩りも彼女の仕事であり、もしものことがあれば日向の代わりに旗艦を務める事すらあった。


 そんな霞が他の艦とは違う点、それは彼女には「控え」がいないという点だ。

 霞の代わりに第一で出撃できる駆逐艦はいない。霞は第一機動部隊唯一の駆逐艦であった。


「第一機動部隊、出撃準備!」


 日向の号令で正面ハッチが大きく開かれる。注水が始まり、足元の水かさが一気に上昇した。

  

「旗艦「日向」、出撃(で)るぞ!」

「待った!第一出撃待て!」


 突然の静止に、先陣を切っていた日向が真っ先に減速し、回頭した。後続の艦たちも続けて声のした方を振り返る。皆の視線の先、一段高い場所に見えるドックの入り口に、見覚えのある男性が息を切らせて柵に寄りかかっていた。


「提督…」


 日向をはじめとして皆一斉に敬礼する。提督は柵にもたれかかりながら、手を挙げてそれを制した。


「いい、いい。休め」


 提督は肩で息をしながら、ぷらぷらと手を振っている。どうやら指令室からここまで走ってきたようだ。提督はじっくり時間をかけて呼吸を整え、上着の袖で額の汗をぬぐった。


 頭を上げ、出撃前の艦隊を見回す。旗艦の日向と目が合うと、提督は自分の背後を指さすように親指を立てた。


「日向、戻れ。『error』が帰った。次の仕事だ」


 部隊の全員が首をかしげる提督の言葉に、声をかけられた日向だけが目を見開いた。

  

「なんだと…解った。出撃はどうする ?」


 日向はそそくさと主機の回転を落とし、出航口の柵に手をかけた。鉄柵に手をかけたまま、もう片方の手で主機を完全に停止させる。

 提督が階段を下りて日向に手を伸ばした。日向はとまどう事無くその手を取って、勢いをつけて陸に上がる。鉄の床を踏む音が大きく反響した。


 「日向の代わりに別の戦艦を出す」


 提督は日向の手を引っ張りながら、残った第一のメンバーに目を向けた。

 全員突然の事に理解が追い付いていなかったが、「たぶん出撃はするんだろうなぁ」と察していたので、提督の申し出に内心ホッとしていた。


「陸奥、出ろ」


 提督が入ってきた入り口に向かって声を張り上げる。すると、奥の廊下から電探が特徴的な茶髪のショートカットが顔をのぞかせた。


「新人だからな、揉んでやってくれ」


 「陸奥」と呼ばれた艦娘は入口から小走りで階段を下りてくる。提督の横に並ぶと、彼女の長身が特に際立った。提督自身あまりガタイが良い方ではないがそれでも170cmはあると考えると、彼女は180くらいか。キリっとした輪郭に金の瞳、頭からは鬼の角のように二つの電探が飛び出していた。


 陸奥はたどたどしく敬礼する。


「昨日付けで配属になりました。長門型二番艦『陸奥』と申します。ご、ご指導ご鞭撻よろしくお願いします!」


 そして敬礼しながら腰を折って深く礼をした。

 彼女が背負っている艤装。それが大艦巨砲主義を象徴する「41cm砲」である事は皆が気が付いていた。そして、この選ばれし艤装を乗せる事を許可されている戦艦がかつて「ビッグ7」と呼ばれていた事も。


「昨日付けでもう第一機動部隊(ダイチ)で仕事かいな。流石長の字の妹やなぁ」


 相変わらずちゃちゃを入れるのは龍驤だ。はたから見れば親子ほどにも年が離れているように見える二人だが、ここでは彼女の方が先輩である。

 陸奥は気恥ずかしそうに、電探を避けて頭を掻いた。


「長門さんに比べたら、私なんてまだまだです」


「長門さんには会ったの?」


 そう聞くのは大井である。

 陸奥は一瞬目を輝かせたが、すぐさま目線を下げて言いよどんだ。話を切り出す声は小さく、どこかたどたどしい。


「あーはい、「七つ星」で…」


 彼女の微妙な表情から皆瞬時に心中を察した。かつて世界の「ビッグ7」と呼ばれ、妹艦の陸奥にとっては永遠の憧れであったであろう長門であるが、彼女の今の姿に陸奥なりに複雑な気持ちがあるのは想像に難くない。


 そんな微妙な空気を打ち壊すため声を上げたのは、重巡洋艦の「衣笠」である。 彼女は大きく手を挙げて、提督に具申した。


「旗艦はだれがやるの?」


 そういえばと、皆が提督に視線を向けた。戦艦が合流したとはいえ、新米の陸奥を旗艦に据える事はとてもできない。

 視線の集まった先の提督は胸の前で腕を組んで、視線だけで小さな駆逐艦の少女を指名した。


「霞ちゃん」


 名前を呼んでそれを確定付ける。

 霞は「わかったわ」と一つ頷いて、陸奥の前に移動した。


「陸奥さん、朝潮型の霞です。今日は私の後ろについて航行してください。不本意かもしれないけど、よろしくね」


 自分の倍ほどの身長差のある陸奥に向かって、霞は握手を求めた。

 陸奥はかしこまって、小さな先輩に頭を下げる。


「ふ、不本意なんてそんな…。お話は常々うかがっています、霞さん」


 固く握手を交わしながら、霞は小さく笑った。その意味が分からず、陸奥はきょとんとしている。


「霞『ちゃん』でいいですよ。みんなそう呼ぶの、私のこと子供扱いしてるんです」


 そう言って、霞は隊の皆を振り返った。


「霞の機動部隊が出ます、準備して」


「「「了解」」」


 全員が頷いて、開いたままになっていた正面ハッチに向かい合う。日は高く、海面に反射した光がキラキラと輝いて見える。晴天の空を反射する青く静かな海は、気が遠くなるほど美しく澄んでいた。


 しかし、その景色に目を奪われているものなどいない。彼女たちにとってこの海がどんなに美しかろうと、その瞳に見えているのはあの禍々しき敵機どもだけだ。


 背後で陸奥が着水する音を聞き、霞は先行して主機を回した。それに連なるように、後続の艦達が続いた。

 

 霞の澄んだ声が響く。


「第一機動部隊、抜錨します!」

 

 そこにはもう、『少女』としての面影は残っていない。彼女たちは『艦隊』として、戦場へ向かう『兵器』としてそこに存在していた。







 海は目が痛くなるほどに晴れ渡っていた。緩やかな海面に沿って、遠くの海岸線までがはっきりと見渡せる。

 第一機動部隊はそんな穏やかな海を羅針盤に沿って進行していた。鎮守府を出て30分、まだ敵機発見の報告は無い。

 

 隊列は単縦陣。旗艦である霞を先頭にして、皆が一直線に並んで陣を組んでいる。

 機動部隊を活かす為に輪形陣での航行も提案されたが、霞が却下していた。第一機動部隊はその名前とは裏腹に、必ずしも航空戦を主力とした隊では無い。恵まれた雷撃火力や優秀な観測能力を十二分に活かす為、敵機発見から随時陣形を変えていく方が戦略性が高いという理由からであった。


 軽空母「龍驤」は前後を僚艦に挟まれる形で航行していた。

 自分の前方を進む飛龍の背中を見て距離、速度を調整する。しかし、その飛龍の艦間距離がいまいち安定しない。航行速度こそ一定を保っているものの、前後のバランスがバラバラで頻繁に主機の回転数を上げたり下げたりを繰り返している。


 龍驤は不審に思って、飛龍を超えてより前方を見据えた。飛龍の前、雷巡大井のさらに先に、背の高い戦艦が緩やかな波に揉まれて激しく上下しているのが見える。


「おいこら新人、肩の力抜けや。なんや、初出撃かいな」


 陸奥は重心を落として、耳にはめたインカムを手で押さえた。視線を足元から外さずに、全身で大きくバランスをとりながら答える。


「い、いえ。前の鎮守府で、じゅ、10回ほど」

 

「霞ちゃんのケツ追っかけとけばええんや、艦隊運動も霞ちゃんが隊で一番うまいんや」


 陸奥はふらふらと危なっかしく波に揺られながらも、龍驤の特異な言葉選びにふと違和感を覚えた。 


「艦隊運動『も』、ですか」


 陸奥の返しに、龍驤はゆっくりと頷く。


「そや、駆逐艦かて舐めへん方がええで」


 龍驤は声量を一つ下げて、囁くように言った。


「正直日向の旦那なんて「戦艦」で「秘書艦」やから旗艦やってるようなもんや、指揮能力はともかく、戦果や撃墜数では霞ちゃんのが上や」


 ひそひそと隠し事を漏らすようにそう呟いた後、思い出したかのように付け加える。


「あ、あんま本人に言ったらんてな、気にしとるようやし」


「本人って、日向さんにですか…?」


 秘書艦である日向が一駆逐艦の霞にコンプレックスを持っているというのはわからなくもない。

 しかし龍驤はしばらく考えたのちに、ぼそりとひとりごちた。


「…どっちもや」


 龍驤の声はどこか遠くに向けられたような、不思議な哀愁を感じさせた。


 陸奥だってもちろん「駆逐艦 霞」の名は知っている。鎮守府間の表彰で何度もその名が呼ばれたのを聞いている。しかし、それは駆逐艦内での話だ。艦隊と言うものは艦種によって役割がはっきり分かれている。それが駆逐艦と戦艦という異なる艦種が、同じ土俵に立って張り合っているというのはいまいち納得できない。


 「ここ半年、一度も撃墜数1位を譲ってへん駆逐艦ゆうたら多少は分かりやすいか」


 龍驤は陸奥の疑問を承知していたように語り始めた。波に揺られながら、陸奥は無言を以て龍驤に話を促した。


「1位霞ちゃん、2位が日向の旦那や、それでも毎月大型艦4隻ほど差が出とる。今第一線を引いとるアンタのお姉ちゃんかて、霞ちゃんを超えるのは無理やろ」


 鎮守府内の戦果報告は全艦種がないまぜになって集計されている。そのため戦艦と駆逐艦が撃墜数で競う事もあるわけなのだが、鎮守府内10位に駆逐艦が入ることなんてごく稀だ。しかもここほど大所帯の鎮守府ともなれば、上位争いの熾烈さは計り知れない。


「ついでに言えば、砲撃戦的中率1位も霞ちゃんや。ちゅうてもこっちは1~3位は駆逐艦やけどな。でも、2位の夕立の命中率66.8%に対し、霞ちゃんは91.2%。どんだけ霞ちゃんがバケモンかわかろうもんやろ」


 陸奥は今一度、自分の前を先導する小さな駆逐艦の後姿を見やる。あの小さな背中にどれだけの影を秘め、あの細腕でいくつの屍を積み上げてきたのか。そしてそれを駆逐艦という小さな体で背負うプレッシャーはどれほどの重圧であろうか。

 着任したての陸奥にはとても想像できないものである。


「ホンマゆうたら、この鎮守府で霞ちゃんのこと子供扱いできるやつなんておらへんよ。こと「殺し」に関しては一級品や、まさに深海棲艦殺すために生まれてきたって…そらウチら皆そうか」


 「アハハ」と笑う龍驤に、陸奥はどう返事していいかわからなかった。何とか苦笑いを浮かべる陸奥の内線に、突然の横やりが入る。鋭く研ぎ澄まされた声が向かう先は…。


「姉さん、無駄話」


 龍驤は「あいた」と頭を抱えながら、舌と見せて笑った。


「新人さんリラックスさせとったんやで」


「なら固定回線じゃなくて、隊全員に教えてあげてください。そもそも…」


 龍驤はやれやれと長く息を吐いた。

 話が長くなりそうだ。初めてこの場に居合わせた陸奥ですら、同様の雰囲気を感じ取っていた。


「姉さんは自覚が足りません。第一は鎮守府でも「特別」な艦隊なんです。私たちも「特別」の自覚と誇りを持って作戦にあたるべきなんです」


「陸奥さん、わかりますか」


 突然話を振られて、陸奥は慌てて返事をした。


「は、はいっ!」


 霞は陸奥の反応に一瞬怪訝そうに言葉を区切ったが、深くは追求せずに話を続けた。


「陸奥さんにもその自覚が必要です。てっとり早くそれを実感するには…これが我々の「特別」です」


 霞はそう言いながら航行中に突如180℃回頭した。霞の後ろを進んでいた陸奥は驚いて咄嗟に主器の回転数を落とす。しかし霞はそんな陸奥のスピードにあわせて、進行方向に背を向けたまま航行を続けていた。


 二人の間隔が変わらないまま、お互いの目を見つめ合うという異様な航行をしばらく続けた後、霞は突然陸奥に急接近した。


「か、かすみちゃっ!」


むぎゅ


霞の指が陸奥の唇に触れている。

一瞬の出来事であったが、霞が手に持っていた「何か」を陸奥の口の中に押し込んだのだ。


(あ、甘い)


陸奥は口の中で甘くとろけるそれを、舌の上で転がした。


「第一は全艦隊で唯一、作戦中にお菓子を食べることを許されているんです。これは第一が提督の絶対的信頼のもとにある事を表しているんです。我々の「誇り」なんです」


「ふぁい」


 陸奥はキャラメルを口に入れたまま大きく頷いた。

 周りから次々に笑い声が漏れる。


「信じたらあかんよ、ムツゴロウ。駆逐艦ジョークやで」


 インカムから笑い声に交じって龍驤の声が響く。


「ホンマやったら作戦中のお菓子は始末書もんなんや。「何故作戦中にキャラメルを食べたのか」の経緯書を2枚も書かされるんやで、屈辱もんやぞ」


「うちの副艦殿はキャラメル報告書の常習犯なのよ」


 大井が笑いをこらえながらそう漏らす。それに霞は何故か胸を張って答えた。


「今年に入ってからもう8枚提出してるわ」


 霞はドヤ顔のまま、自分用のキャラメルを取り出して、口の中に放り込んだ。

 苦笑する陸奥に対し、霞はゆっくりと話し始めた。


「第一は「特別」な艦隊です」


 その視線はまっすぐに陸奥に向けられている。しかし、陸奥は自分の背後で並みいる軍艦達がしんと静まり返っているのを感じた。

 霞は一呼吸おいて、今度は隊全員に語りかけるように声をあげた。


「でも固くなる必要なんてないわ。私達だって失敗する事もあるし、お菓子を食べて怒られるのも皆と一緒。私達の「特別」は単純な戦果や技術では語れない所にある。【護るために戦う】事と【絶対に生きて帰る事】、この二つを見失わなければ陸奥さんにもきっとわかる時が来るわ」


 霞はまっすぐに陸奥を見据えて、ゆっくりと言い聞かせるように語った。彼女の瞳は純粋で、最前線で引き金を引く者の「それ」ではない。

 殺すための戦いではなく、護るための戦いとその誇り。そんな事を堂々と言い放つ彼女の「駆逐艦らしさ」に、もしかしたら皆引っ張られているのではないのだろうか。

 やはり第一は「特別」だ。その内にひそむ誇りの強さは、並の艦隊がおいそれと自覚できるものではない。彼女たちは戦いの理由を意識の中で統一し、ストイックにそれと向き合っている。


「納得できたかしら?」


 霞はいたずらっぽく首をかしげて、陸奥に聞き返してきた。可愛い。


「はいっ!」


 陸奥の迷いのない返事に、霞は満面の笑みでそれを迎えた。

 普段見せない霞のしぐさに、インカムの中は黄色い声援が飛び交う。


「霞ちゃん可愛い!」

「さすが、ダイチの可愛い代表!」

「餌付けしたいわ!!」

「あ、敵艦隊見ゆ」


「え」


 突如降ってわいた開戦の狼煙に、動揺を見せたのは陸奥ひとりであった。

 霞は素早く回頭し、魚雷のセットを確認しながらインカムに怒鳴りつける。 


「ガッサ!状況報告!」


「偵察機より入電!ワレ敵艦隊発見ス!」


 報告を入れた衣笠は偵察機からの暗号を随時解読しながら、すぐさま隊全体にそれを通達する。


「戦艦1、重巡2、空母1、駆逐2。距離は15000、左30度!」


 霞はガツンと主砲を叩きつけた。しんと静まり返る一同に、霞は矢継ぎ早に指示を飛ばす。


「各艦第一戦速!戦闘機隊、発艦始め!」


「「了解!」」


 龍驤と飛龍が戦闘機の発艦体制に入る。

 飛龍の腕に取り付けられた飛行甲板に整備を終えて出てきたのは、羽に日の丸を携えた精鋭達。「烈風」と呼ばれる空の狩人達であった。

 妖精達によってエンジンに火を入れられ、たちまちのうちに第一攻撃隊36機が高空に放たれた。美しい弧を描き上空で集結し、隊列を組んで敵機めがけ突撃する。


「いくで!」


 龍驤は背負った巻物を展開し、扇状に広がった甲板より艦載機を飛ばす。ヒトガタとよばれる念紙に宿った彼女の言霊が、在りし日の英霊と共鳴し「流星」の名を冠する爆撃機として具現する。


「攻撃隊、発進!」


 艦載機たちは一糸乱れぬ動きで並行し、上空を一瞬にして戦場の色に染め上げた。


「大井!甲標的を出して、5000まで接近して雷撃開始」


「りょ、了解」


 霞は休むことなく指示を飛ばす。小型潜水艦を抱えた大井を先行させ、背後で固まっている戦艦に声をかけた。


「陸奥さん、やるわよ。雷撃着弾と同時にぶちかまして!」


「は、はい。了解しました!」


「霞ちゃん!敵艦隊、距離10000!」


 衣笠の観測報告。

 それを受けると同時に、前方に黒い影が揺らめいて見えた。徐々に全貌を表す敵艦隊。水平線の向こうに、その第一陣が顔を出した。

 霞は目を細めて艦種を確認する。黒々とした巨体が海水に濡れて、異様なほどギラギラと輝いている。

 

「敵艦見ゆ!砲撃用意…」


 霞自身じっくりと的を絞るように息を止めて、時を待つ。

 甲標的から放たれた魚雷は無雷跡な為、この距離では目視で確認する事は出来ない。


 先頭の重巡リ級と目があった。瞬間。


 立ち上る水柱が全てを覆い尽くした。敵位置はすでに把握済みだ。

 霞は堰がきれたように声を張り上げる。


「てーっ!」


 霞の最後の号令は、畳み掛ける爆音に紛れて最後まで聞きとる事はできなかった。








 第一機動部隊の出撃中、指令室に戻った日向は部屋の扉に背中を預けて旗艦の報告を聞いていた。入口のドアに寄りかかり、腕を組んで目をつむっている。

 ここでの話を、外に漏らすわけにはいかない。日向は今一度扉に鍵がかかっていることを確認して、部屋の中の二人に向き直った。

 緊張感の張り詰める提督室にいるのは、提督本人と先ほど帰投したスクール水着の艦娘だけだ。


「そうか、姫級が出たか」


 報告を聞いた提督は、イスに深く寄りかかってため息をついた。

 提督と向かい合って立つ潜水艦娘「伊58」通称ゴーヤは、即興で書き上げた報告書に視線を落としたまま報告を続けた。


「しおいちゃんは先にドックに行ってもらってるでち。損傷が激しくて、しばらくは動けないでち」


 特徴的な語尾とは裏腹に、その表情は真剣そのものである。

 提督は机を上を経由して報告書を受け取ると、手に持ったハンコを強くねじ込む様に押し付けた。これでこのラクガキ紛いの拙い紙切れが、れっきとした報告書として受理される事になる。

 それを引き出しの中にしまいつつ、提督はゴーヤに問いかけた。


「報告ご苦労。交戦したのはしおいだけか?」


 その質問にゴーヤはやや難しい顔をする。今回の海域任務においてその一部始終を確認していた彼女であったが、自分の見た限り「交戦」という言葉があの場を説明する表現として適切だとは思えなかった。

 ゴーヤは指先で自分の顎に触れながらしばらく考え、視線だけを上げて提督と目を合わせた。


「しおいちゃんは自分からは攻撃してないでち。ゴーヤ達を逃がして、ずっとアイツに呼びかけてたでち。「一緒に帰ろう、提督が待ってる」って」


「…」

 

 提督はそれを聞き、ため息を漏らしながらゆっくりと腕を組み直した。

 「しおい」こと伊401は古くからこの鎮守府に身を置く、古参の潜水空母である。その分作業員達との付き合いも長く、仲の良い者も沢山いたはずだ。そういう者だからこその弊害も、こうやって存在する。命令だとしても、しおいではあの深海棲姫に魚雷を向けることはできないかもしれない。

 

「深海棲姫に関しては、こちらで討伐隊を組もう。お前達「error」は後の敵工廠破壊作戦に備えろ」


「提督は本当にそれでいいんでちか?だって「あの人」は提督の…」


『糞提督!入電よ』


 二人の話を断ち切るように、突如指令室にアラームが響き渡った。

 提督はゴーヤを制して、背後の通信機のスイッチを入れた。鳴り響く録音声のボリュームをしぼり、ヘッドフォンに片耳だけを押しあてる。


「私だ…霞ちゃんか?」


 提督は始めにそう声を上げると、うんうんと通信機に向かって2.3頷いた。一方的に報告を受けているのか、度々眉をひそめながらも、余計な口をはさむことなく相槌をうっている。難しい顔をして黙って話を聞いていたが、最後には「りょーかい」と大きくうなずいて口を開いた。


「了解した。第一機動部隊の大破撤退を許可する」






 

 第一機動部隊が帰投した時、肩を支えられて入港したのは雷巡洋艦の「大井」であった。小型の潜水艦を抱きしめるように抱える少女は、並び立つ衣笠に肩をあずけて、足を引きずるようにしてよろよろと海からあがった。鉄柵を握る力は弱々しく、指先からは血の気が引いている。

 提督は通信を受けてから、会議を打ち切ってドックで待機していた。消耗した大井を見て、慌てて階段を駆け下りた。


 「ご苦労っ!」


 肩を貸す衣笠にそう告げると、彼女は空いた片方の手で小さく敬礼した。提督は横でうなだれる大井を見て、ボロボロになった艤装と皮膚に残る機銃痕を確認した。


 艦娘は『外装』と呼ばれる衣服のような装甲を着込んでいるが、これは耐熱性を重視した特殊金属で作られた、いわば「外の壁」である。このほか、艦娘自身の肉体も強化細胞によって高い自己修復能力と耐ショック性を兼ね備えている。骨格や関節の一部には生体合金が埋め込まれており衝撃に強く、その常人の何倍という筋力を支えている。


 しかし、今の大井は上部の外装のほとんどが焼け落ちていた。肉の抉れた内部装甲は自己修復が追い付かず、所々白濁した人工血液が漏れ出している。


 肩を貸そうと傷ついた肩に触れると、彼女の細い指先が提督の上着に添えられた。弱々しくも握り込むように上着の裾を引っ張られる。不審に思い目を向けると、大井の懇願するような瞳が、提督をまっすぐに射抜いていた。


「申し訳ございません。雷巡「大井」、命令違反いたしました…」


 指先が小刻みに震えている。提督は掴まれた手を握りこむように自らの手を添え、左手で彼女の髪を軽く撫でた。


「わかった、先に入渠だ。後で霞ちゃんと一緒に報告書を出してもらう」


「申し訳ございませんでした…」


 提督は満身創痍の大井の手を取って、ゆっくりと階段の上に導いた。衣笠と両脇から挟み込みように位置取りし、腕を大井のわきに通して体重を支える。肩を貸したまま階段を上りきると、大井から離れて衣笠の背中を押した。


「4番ドッグを空けてるからそこに」


「了解」


 衣笠は小さく頷いた。


 小さくなっていく衣笠の背中を見つめながら入口の鉄柵に寄り掛かると、どんと床を打つ音を聞きいて慌てて背後を振り返った。旗艦の霞は少し離れた位置から提督の様子をうかがっていた。大きな音を立てたのは戦艦の陸奥で、空母二人に手を引かれて海面から陸に上がるところであった。


「敵艦隊は高速船が多くて、開幕雷撃では狙いを絞りきれない。対潜装備の球磨を連れてきて、陸奥さんのメンタルの様子を見てから再出撃するわ」


 霞は提督の手が空くのを待っていたかのように、一呼吸でまくしたてた。提督は一瞬何のことかわからず、霞の瞳の色を見返した後に、手のひらを向けて彼女の言葉を遮った。


 「まて、今回の作戦は中止だ。再出撃は後日とする」


 提督の静止を聞いて、霞ははじかれた様に声を張り上げた。拳を握りしめて、飛びかかるように提督に食って掛かる。


「はぁ!?まだやれる!こんな傷、どうって事無いんだから!」


 肩を突き出すようにして負傷した外装を見せつける霞に対し、提督は深くため息をつきながら説明した。


「違うんだ霞ちゃん、大本営(うえ)から通達があった。海域攻略はいったん中止だ。第一機動部隊はすぐさま待機命令に従ってくれ」


 言い聞かせるような提督のもの言いに、霞は我が儘を言っているのは自分だという事に気づくが、それでも信じられないといった様相で愕然と口を開けていた。その瞳は怒りに震え、ほんの少しではあるが目の縁に涙の粒が光っているようにも見える。霞は目を伏せてがっくりと肩を下ろすと、唇をかみしめて絞り出すように言った。


「わかったわ」


 肩を震わせながら霞はそう吐き捨てた。提督への不満も、任務への憤りもすべてをその言葉になすりつけて。

 次に霞が顔を上げた時、そこに渦巻いていたすべての感情はきれいさっぱり消え失せていた。鋭い視線を提督に向けて、冷静に言葉を紡ぐ。


「入渠後、報告書を出しにいきます」


 だが、それにも提督は首を横に振った。


「それも、後でいい。会議が控えてるから、大井の全快を待って一緒に来てくれればいい」


 そう言い残し、提督は駆け足で去って行った。そのよそよそしい態度に霞は全てを察した。 

 霞は奥歯を噛み潰して、指先を握りこんだ。拳の先がぶるぶると震えている。


 自分の知らない所で、何かが動き出している。そして、その中に自分の居場所は無いのだ。




 入渠用ドッグは入出航ゲートのすぐ側に位置していて、帰還後の艦隊がすぐに入渠できるように常に管理がされている。

 大破艦であれば緊急の対応としてすぐさま処置が施されるが、軽傷および小破での入渠であれば早い者勝ちの順番待ちとなり、通路上及び控室で自分の順番を待たねばならない。霞がドックに向かった時、廊下で順番待ちをしていたのは彼女の思いもよらない人物であった。

 霞はその姿を遠目に見た途端にキュっと音を立てて足を止め、目を見開いた。引き返そうか本気で悩んでいる時に、少女の方からベンチから腰を上げ、こちらに向かって手を振った。


「いや~霞ちゃん、奇遇だね」


 霞は心の中で舌打ちする。

 彼女はこの鎮守府の中で、霞が最も苦手とする艦娘ぶっちぎり1位の相手であった。


「いや~、大井っちが迷惑かけたねぇ」


 へらへらとなれなれしく近寄ってくる嚮導艦に、霞は無表情で答えた。


「とんでもないです。何があろうと、旗艦である私の責任です」


 雷巡洋艦の「北上」。高錬度を誇るくせに、固定の隊に属さない変わり者。

 人をくったような喋りが特徴の曲者で、何を考えているかわからない、つかみどころのない性格が霞の苦手意識を助長させていた。


 人当りこそ柔らかくフレンドリーだが、この女は決して目が笑わない。獲物を狙う爬虫類のそれにも似た、探る様な瞳で不愉快な笑みをより歪なものへと変貌させていた。

 軽巡洋艦の「蛇」。彼女をそう例えたのは、かつて同じ隊で砲をふるった駆逐艦「不知火」である。いかにも口の悪い彼女が言いそうなことだ。

 以来、北上は駆逐艦たちから「雷蛇」と呼ばれて恐れられていた。


 本人も過度の駆逐艦嫌いとして有名で、演習で同鎮の駆逐艦を轟沈させたとか、駆逐艦の嚮導に選ばれたのは母港圧迫の解消の為に、解体する駆逐艦を選定する為だとかまことしやかに囁かれている。

 霞だってそのすべてを信じているわけではないが、つかみ所がなくいけすかない女だとかねてより苦手としていた。


「今日はどうしてドックに?負傷ですか」


 霞は表情を動かさず問いかける。ある種の拒絶アピールでもあったが、北上はそれに気づかないのか特別気にする様子もなくおどけて見せた。


「いんや、大井っちが怪我したっていうからさ、まぁ様子見に来ないと後でうるさいしね」


 そう言って奥に寝かされている大井を指さした。彼女は現在医療妖精と作業スタッフに囲まれて、救急処置を施されている。彼女は敵深海棲艦の機銃を全身に浴び、敵雷撃の炸裂を近距離でうけている。信管過敏さえなければ、あの魚雷は彼女に直撃していたはずだ。

 霞は遠目に処置を受ける大井の青白い顔を見た。損傷の割には状態は安定しているように見える。負傷後も衣笠の肩を借りて自足で航行してきたし、提督に損傷の報告をしていた点を見て、ドックに彼女ひとり残しておいても大丈夫と霞は判断したのだ。しかし、提督の決断はNOである。自分の判断が間違っていれば、それを誰かに指摘してもらいたいものなのだが…。

 霞は自分と同じく大井を見つめる北上の様子を、横目で観察した。相変わらず真意の読めないすまし顔であり、口元には困ったように笑みを浮かべているようにすら見える。


 北上と大井は鎮守府内でも仲が良いと評判であった。同型姉妹艦の雷巡同士でもあり、中には恋仲なんじゃないかなどと噂する者までいる。女所帯での同性愛とは、まるで人間のようなものの考え方ではあるが、所詮噂だ。もちろん本人たちが表明したわけでもなく真実は闇の中だが、何かにつけて恋愛事に結び付けて盛り上がりたがる輩もいるのだ。そんな所もまた人間じみていると言えるのか。


 北上はこちらの内心など知る由もなく、負傷した霞を見てうっすらと笑みを浮かべた。


「霞ちゃんは小破?なら、アタシが看病(み)てあげよう」


「え…」


 霞はその言葉に内心戸惑っていた。外装を除き、内装(肉体)の小破は専門医以外の応急処置も許可されている。特に軽巡ともなれば、怪我の多い駆逐艦の面倒を見るため医療に長けた者も多いと聞く。が、ただえさえお近づきになりたくない雷蛇殿に傷口をいじくられるのにはかなり抵抗があった。


「よろしくお願いします…」


 しかし相手は格上の雷巡。しかも駆逐艦の嚮導艦ときた。断れるはずもない。霞は北上に手を引かれるような形で、ドックの中に足を踏み入れた。手近な椅子に腰かけて、北上が医療品を棚から選別するのをぼうと眺めていた。


「手、だして」


 促されるように手の甲を差し出す。肉色に変色した傷口にガーゼを押し当てながら、北上が口を開いた。


「しかし、霞ちゃんも大変だねぇ。駆逐艦でトップエースなんか張らされてさぁ、そいで作戦が変われば、問答無用で「待機しろ」だもんねぇ」

 

「見ていたんですか?」


 薬品のラベルを確認する北上は、驚きの混じった霞の言葉に首を横に振った。


「いんや、ただ皆が出発してから日向さんらがなんかが騒がしかったからねぇ。霞ちゃんは何か聞いてない?」


「…いえ、何も」


 今度は霞が首を横に振る番だ。

 霞は何も知らされていない。嫌になるくらい、何も。


 北上は霞の心中を察したように言葉を選んで話し出した。


「たしかに駆逐艦は割喰ってるよね。なんか漣っぺからもそんな事言われたよ」


「……」


「話してごらん、まぁこう見えてアタシは駆逐艦の嚮導艦だからね」


 右手がすっかり包帯に包まれる。包帯が緩まないように端っこをピンでとめる際にちくりと痛みが走ったが、考え事をしていた霞はその痛みに反応する事すらなかった。それどころか、包帯の上から北上に手を撫でられると、その柔らかな温かさについたまっていた本音がポロリと口の端からこぼれ出してしまった。


「私は…納得できないだけです」


 一度口に出すと、喉の奥まで渦巻いていた不満が濁流がごとく押し寄せてくる。傷口に添えられた温かさが、よりそれを後押しした。


「駆逐艦ってだけで一括りにされて、なんでもかんでも「知らなくていい」の一言で済まされて!「殺す理由」も「死ぬ理由」も知らされず、最前線で仲間が轟沈ちてくのを見ている事しかできないなんて!納得できるわけがない!」


 吐き捨てるように、泣き叫ぶように、静かに、力強く、霞は言葉を吐き出した。はっと北上の存在に気づき、前髪を弄りながら視線を逸らした。


「すみません。嚮導艦に、こんな事…」 


「いや、わかるよ」


 北上ゆっくりと首を振って、霞の手を取った。包帯の上から感じる彼女の温かさに、心の奥にたまっていた何もかもをほだされそうになる。


「わかるよ」


 もう一度、はっきりと霞に伝わるように繰り返した。


「霞ちゃんの言いたいこと、アタシから提督に伝えてもいい。でもね、もし霞ちゃんがまだ伝えきれないホントの気持ちがあるんなら…」


 北上は思わせぶりにそう話し、いたずらっ子のように口の端を吊りあげた。唇の上に指を一本立てて、上目遣いのまま霞に顔を近づける。そして、そっと囁くようにつぶやいた。


「ねえ、【もぐりこみ】って知ってる?」





 北上は寝かされている大井の横に腰かけながら、霞が飛び出していったドックの出口を見つめていた。医療妖精たちは今はドックを離れ、ベッドに横たわった大井はゆっくりと胸を上下させている。


「霞ちゃんも難儀だよねぇ、あれだけ悩む脳みそを持ちながらアタシみたいなロクデナシしか頼れないんだからねぇ」


 そう言いながら目をつむる大井を見下ろし、北上は三日月の形に口元を歪めた。


「オモチャがどれだけ頭働かせても、所詮手のひらの上の事なのにね。惨めなもんだよねぇ、大井っち」


 大井は返事を返さなかった。無視したのか、眠っているのか、聞こえなかったのか。

 北上は特に気に留める事も無く、ただ虚空を見つめていた。








「はいこれ、サインだけちょうだい」


「は、はい」


 私は差し出された書類の最後に新品の万年筆で素早くサインをした。それを確認すると私が書類の中身に目を通す前に、霞ちゃんは私から書類をひったくった。


「何やってんのよこのグズ!あとは私がやっとくから」 


「は、はい、わかりました」


 このやり取りを今日何度繰り返したことだろうか。霞ちゃんは私が逐一書類を確認する前に、どんどん積み上がった仕事をこなしてしまう。要領がいいと言うのか、何にしてもテキパキと仕事が早く、動きに無駄が無い。

 

 時間は午後10時。私は指定されたサインをすべて書き終えると、自分の隣で書き上がった書類に目を通している霞ちゃんに、かねてよりの疑問を投げかけることにした。


「霞ちゃんは、なんで今日私の仕事を手伝ってくれてるんだ?」


「わざわざあんたが寝るのを待つ必要もないと思ったのよ」


 「寝るのを待つ」とはどういう事か。私が寝るのを待って、その後何をしようと言うのか。私は考えながら、無言で彼女の横顔を眺めていた。テキパキと仕事をこなすその真剣な表情は、無邪気にイタズラを企む駆逐艦の表情(かお)とは思えない。

 しかし…。


「【もぐりこみ】は禁止になったんだ、私が禁止にしたんだ。わかるか?」


 私は先手を打って彼女に釘を刺した。こんな遅い時間に駆逐艦が私の部屋にいること自体異様な事なのに、ここ数日の駆逐艦達の行動を鑑みるに、霞ちゃんが私の寝床にもぐりこむ為にここにいる事は容易に想像できた。

 

「はぁ!?私があんたと寝るわけないでしょ、提督と顔合わせできるって聞いたから、こうやって時間裂いてあげてんの」


 「私と顔を合わせる」。確かに数の多い駆逐艦の意見を聞ける場所を設けるという事で、前嚮導の漣とは話をつけている。しかし以前駆逐艦達が行っていた「夜中に提督の布団にもぐりこんできて、一方的に言いたいこと言って寝る」通称【もぐりこみ】は、活動自体を禁止する旨を通達している。となれば現嚮導艦が独自にそれを引き継いで動いている事になる。現在駆逐艦への対応は嚮導艦である北上に一任してある。雷巡洋艦である彼女がこんな勝手を許すとは思えないが、もしこの【もぐりこみ】が北上の思惑の中にある事だとすれば。彼女がこんなことをした理由は数えるほどしかないはずだ。


「北上め…」


 彼女を嚮導艦に指名したのは、ある意味間違っていなかったのだろう。やや強引だが彼女なりのやり方で、駆逐艦達は動き始めている。

 私は【もぐりこみ】に関しては半ば諦めながら、今日提出された報告書に目を向けた。椅子に深く腰掛け、昼の大井の様子を思い出す。


「大井は君が手綱を引くには優しすぎるきらいがあったようだね」


 先ほど霞ちゃんが持ってきた報告書は全文大井の字で書かれており、細く丁寧な文字でびっしりと作戦の詳細について綴られている。その最後に、雑な殴り書きでかろうじで「霞」とサインしてあるのが読めた。


「命令無視して、魚雷を撃ち尽くした甲標的を庇って被弾か。甲標的の乗員は技術妖精だけだから、見捨ててくれてもよかったんだが…」


 妖精たちは生命を持たない「技術により生まれた超自然的存在」である。矛盾した言い回しだが他に言いようがないから仕方ない。彼女達(便宜上私は妖精を「女性」として扱っている)は長い間人類が培ってきた「技術」の中から自然発生した存在であり、人間以上に人間の生み出した「技術」に精通している。己の技術の進化のみを活動目的とし、固定化した生命を持たず、一定量以上数が増える事も無ければ減る事も無い。鎮守府で働く妖精たちは艦娘や深海棲艦との「戦争」に興味を持った者達であり、現状人間とは協力関係にあるといえる。


 俺は報告書にハンコを押して、霞ちゃんに押し付けた。霞ちゃんは面白くなさそうにそれをひったくると、荒っぽくファイルに挟み込んだ。


「私だって、交戦後に甲標的を回収するプランを伝えていたのに、それを無視してあんな無茶をするんだもの」


「直感で無理だと感じたんだろう。そして君がそれを聞き入れてくれない事も直感、いや長年の付き合いで感じ取ってたんだろう」


 私の達観したような物言いに、霞ちゃんは不機嫌そうに口を尖らせた。処理を終えた書類の束を机の上に立てて、大きな音を立てて書類の高さを揃える。積み上がった書類の山にそれを重ねると、戦艦の形をした文鎮を山のてっぺんに置いた。


「私だって言ってくれれば別の手を考えたわよ!駆逐艦だからって、皆私の事を子供あつかいして!」


 霞ちゃんが唾を飛ばしながら怒鳴り散らすのと、包みから取り出したキャラメルをぽいと口の中に放り込むのはほぼ同時だった。キャラメルの空き箱を机の端に重ねると、高く重ねた空箱の山がコトリと音を立てて崩れた。


「子供だと思われたくなかったら、その味覚も何とかしなければいけないね。最近食事の量が少ないと炊事の者達が心配していたよ」


 私はため息をつきながらちらかったお菓子の空き箱を片付け始めた。こうやって甘いものを頬張る様は年相応の少女というよりは、むしろ黙々と甘味を貪るOLのようなやるせなさがある。日々の食事の量を減らしてまで菓子を口に運ぶ姿は、少なくとも健康優良職業軍人のそれではない。 


「ちゃんと野菜はとってるから大丈夫よ」


 言いながら霞ちゃんがフタに手をかけた棒菓子の箱には、大きく「サラダ味」と書かれているのが見える。私は頭痛をおぼえ始めたこめかみを押さえて、どう注意を促すべきが思案していた。その時。


「ねえ『error』って何?」


「ん?」


  突然矛先を変えられて、私はとっさに誤魔化してみせた。霞ちゃんはひきつった私の表情を見逃さず、鋭い口調で畳み掛けてくる。


「なぜ鎮守府内で暗号を使うの?駆逐艦(こども)には言えない、ナイショの話?」


 容赦なく詰め寄ってくる霞ちゃんに対し、私は長年鎮守府間で使われてきた常套句に頼る事にした。「こほん」とわざとらしく咳払いをし、人指し指を立てて語りだした。


「あー、『error』っていうのは猫を吊り下げた少女の妖怪で、かつてより鎮守府間では問題視されていたんだ。さっき窓から突然入ってきたから日向に撃退してもらってたんだ」


「せめて真面目に嘘ついてよ。傷つく」


 以前は日向もこれで騙されていたのだが、トップエースの研ぎ澄まされた洞察力に改めて感心する。私は観念して慎重に言葉を選びながら説明し始めた。

 

「君も気づいているだろうが、艦娘というのは多くの情報を大本営(うえ)により伏せられたうえで存在を許可されている。errorのような隊内の事象だけでなく、テレビや新聞で世情を知る事すら強く制限されている」


「あたしたちに供給されてる雑誌や映画だって、何重もの検閲を抜けて鎮守府に来ている。情報管理は徹底され、艦娘は鎮守府の外に出る事も許されない」


 「そうだ」と私は頷く事で彼女に答えた。


「ただ外部の情報をシャットダウンしているだけじゃない。鎮守府の中で起こっている事もほとんど一般には知られていない。深海棲艦という人類敵対生物がいる事、艦娘と呼ばれる兵器がそれと戦っている事、一般が知っているのはせいぜいその概要だけさ。艦娘がどうやってヤツらを相手に戦っているか、人類の為に戦う艦娘とは何なのか、一般でそれらを知る者はいない」


「見世物にされないだけ感謝しろって事?」


 精一杯の彼女の皮肉に、私は大きく首を横に振った。


「違う、鎮守府全体の士気に関わる問題だからだ。確かに鎮守府内であれ、ごく一部の者にしか伝えていない事実もある。だがそれは艦娘の士気を維持するためであり、戦いの為だ。もちろん、君たちを護る為でもある」


「……」


 私の言葉に霞ちゃんも思う所があるのか、難しい顔をしながらも口をはさむことなく私の話を聞いている。


「艦娘が深海棲艦を材料に作られていることを知っているだろう。それだって一般には公表されていない。もしそれが大々的に報じられれば、君たちの存在を危険視する輩だって出てくるだろう。我々だって別に艦娘(きみたち)に意地悪をしたいわけじゃない」


 霞ちゃんはとても納得したとは言い難い様子で私の話を聞いていた。結わいた髪の先を弄りながら、「ひとつ」と私の目を見ずに指を立てた。


「一つだけ教えて。秘書艦(日向さん)の様にこの戦争の内部事情に精通している艦娘はどれくらいいるの。日向さんはここのすべてを知っているの?」


「…ああ、私の口から真実を伝えているのものはいる。ただ、知らせているのも本当にごく一部の艦娘だけだ。情報を伝えるのもまた戦いの為だ。私は常に艦娘の生存率を考えて…」


「どうせ私たちは知る必要のない兵器」


「霞っ!」


 話の途中で立ち上がった霞ちゃんに対し、私はつい大声を上げていた。

 自分自身の声を遠くに聞きながら、脳裏では耳障りな舌打ちを繰り返していた。どうして自分はこうも話が下手なのか。霞ちゃんでなくたって、恩着せがましく大人の道理を押し付けられては怒るのは当然だ。


「先に寝るわ」


 座ったままの私を見下ろす霞ちゃんの冷たい視線に、私は思わず目を伏せていた。


「…すまない」


 言葉を発しながら唇を噛むこの後悔の味は、駆逐艦に頭を下げる事への屈辱では無い。自分自身の不甲斐無さと、誇り高き駆逐少女に「共に戦おう」と手を取り合う事も出来ぬ己の未熟さゆえだ。

 私は頭を抱えながら、遠ざかる少女の背中を見、そして彼女がドアノブに手をかけたのを見て驚いて顔を上げた。自分でもビックリするくらいの大声が飛び出した。


「まて!そこは私の自室だ!なんで自分の部屋で寝ない!?」


 霞ちゃんは私の方へ顔を向ける事すらなく、静かにドアノブを回す。


「霰が部屋に鍵をかけて寝ちゃったのよ。アンタが私を信用してないのはわかったから、寒空の下に女の子を放り出すような冷徹漢だとは思わせないで頂戴」


 一方的にそうまくし立てて、霞ちゃんは返事を待たずに私の自室に入っていった。

 私はため息をつく間もなく、あわてて彼女の後を追って扉をくぐった。





 自室に入ると、霞ちゃんは明かりも付けずにテーブルの奥の椅子に腰かけた。窓から差し込む月明かりに照らされながら、手に持ったお菓子をぽりぽりと食べ始める。月光の帯を透かして、細かい食べカスがぽろぽろと空中を舞った。

 私は幾分か冷静になり始めた頭で、夜の海を見つめる霞ちゃんの横顔に問い詰めた。


 「北上にそそのかされたな」


 何のためらいも無くくつろぎはじめる霞ちゃんの様子を見て、私が感じていた違和感は確信に変わっていた。

 霞ちゃんがチラと私に視線を向ける。月明かりの陰になった半分の顔で、口角がわずかに吊り上ったのを私は見逃さなかった。

 

「なんであの人が嚮導なの?駆逐艦はみんなビビっちゃって大変なんだから」


 霞ちゃんは先ほどと態度を一変して、おどけたように笑って見せた。タバコの様に棒菓子を咥えて、口元をゆるませる仕草はとても演技には見えない。

 私は私室の扉を閉めると、霞ちゃんを無視して上着を脱いだ。壁にかかったハンガーを手に取り、脱いだ上着をそこに引っかける。

 

「無理にでも追い詰めないとあいつは働かん。だから強制的にアイツの周りに仕事が集まるようにしてやったんだ」


 音をたててベッドに腰を下ろしながら、正面の壁に向かってそう答えた。頭の後ろで霞ちゃんが「アハハ」と声を上げて笑った。


「そんな事だと思った。でもそのとばっちりがこうやってアンタに帰ってきちゃうんだからお笑いよね」


 暗い部屋の中に霞ちゃんの笑い声がこだまする。私は組んだヒザの上に頬杖をついて、やれやれと息をついた。さきほど一通り私をからかったせいか、霞ちゃんはいやに上機嫌だった。


「キミこそ北上に何を言ったんだ?」


 背後の霞ちゃんを振り返って私はそう問うた。彼女は私と目が合うと、降り注ぐ月明かりの下で思わせぶりに目を細めてみせた。


「不満があるって。アンタが皆に、いや、私に隠し事をするのが気に入らないって、そう言ったわ。そしたら【これ】を教えてくれた。提督に直接意見具申できるって、あの人は言ってた」


 面白そうに語る霞ちゃんの微笑に対し、私は心の中で「小悪魔」と呟いた。キッと目を細めて睨みつけると、霞ちゃんはますます愉快そうに口元を緩めて見せた。


「私のさっきの話では納得できないか」  


「理由・理屈があるのはわかる。でも、理屈っぽい男って嫌われるわよ。私は「特別」になりたいの。女ってみんなそういうものじゃないかしら」


「お前は、日向じゃない」


「チッ、急に強気になっちゃって、つまらないわ」


 霞ちゃんは前歯で棒菓子を噛み砕くと、咥えていた先の部分が重力に沿ってテーブルの上に落下した。短くなったそれを指で立てて、ぶらぶらと弄んだ。月明かりに照らされ棒菓子の長い影がゆらゆらとテーブルに映し出される。

ベッドに腰かける私をぼんやりと見つめながら、霞ちゃんはため息と共に重い腰を上げた。


「寝るわ。これ以上あんたと押し問答を繰り返しても時間の無駄」


「そうかい…」


 言うが早いか、霞ちゃんは暗闇の中で両肩のサスペンダーに指を通して、弾くように解き放った。垂れ下がったバンドから腕を抜いて、スカートの留め具に手をかけてカチャリと金具を外す。


「え」


 脱ぎ捨てたスカートを椅子の背にひっかけて、シャツのボタンに手をかけた。


「まて」


 私の静止の声に霞ちゃんはきょとんと私を注視し、動きを止めた。


「なによ?」


「何故淡々と服を脱ぐ」


「だから、寝るって言ったでしょ?外装で寝たらシワになるでしょうが」


 霞ちゃんはこちらを気にする様子もなく、シャツを脱いで腕の中で折りたたんだ。それを机の上に置くと、月明かりを透かして肢体のシルエットが浮き彫りになる。体を揺らす度に、ブルーの下着に光の筋が奔り、控えめなレースがふわふわと舞った。


「何見てんのよ、変態」


 結わいた髪をほどきながら、霞ちゃんがムッとして腕を組む。組まれた腕の中心に、小ぶりな胸部装甲が強調されている。


「霞ちゃん…それブラつける意味ない痛てぇえええええ!」


 突如手の甲に激痛が走り、私は周りの寝静まる時間も忘れて、大声で泣き叫んでいた。見てみると、霞ちゃんの超電磁指パッチンにより撃ち出された棒菓子が、私の手の甲に直立して突き刺さっている。指を曲げようとすると、つながった神経にサクサクのクッキー部分が擦りつけられて非常に痛む。表面に程よくまぶしてある塩味が傷口に塗り込まれて、激痛の中に程よいジクジク感を醸し出していた。

 指先が意思とは無関係にぶるぶると痙攣し、全身からどろりとした脂汗が噴き出した。


「食べかけのプリッツで他人の身体機能破壊するのやめろ!」


「あんたが失礼な事言うからよ」


 霞ちゃんは冷静に言い放って、私の手の甲から生えている棒菓子を無造作に引き抜いた。傷口が吊るような不快感が全身に走り、軽い痛みと共に丸い傷口から鮮血が流れ出した。赤い血が指先から滴り落ちる前に、霞ちゃんの舌がそれを受け止めた。差し出すように突き出された舌が、血の跡を這うようになぞり、傷口の上に柔らかい唇がふれた。ぬるぬると舌先が動くと、傷口がじんわりと痛む。


 手の甲に触れる小さな唇。私は彼女に忠誠を誓われるほど資格があるのだろうか。

 

 小さな水音を立てて霞ちゃんの唇が離れた。私の手を取りながら、彼女は小さく首をすくめる。


「悪かったわよ、私もこんなに面白いことになるとは思わなかったわ」


 そう謝って、彼女は私の血の付いた棒菓子をためらいもなく口に入れた。サクサクと音を立てて咀嚼し、嚥下した。

 私はそれを横目に、靴を脱いで先にベッドの上に横になる。私の後を追うように、霞ちゃんもベッドにうつ伏せに横たわった。


普段私が使っている枕を抱き締めながら、うずめた顔をそらして片目で私を見上げた。


「ねえ、提督ぶとん」


 霞ちゃんがそうささやくと、ふわりと花の香りが広がる。少し柑橘系で柔らかな、シャンプーの匂いだろうか。


「ねぇ聞いてる?提督ぶとんって、忘れたの?」


 訝しげに眉をひそめる霞ちゃんに、私は自分の背後に丸まっていた掛け布団をむんずと掴み、寝転がったまま両手で大きく広げた。それを霞ちゃんの小さな肩に引っ掛けると、余った端の部分を自分の脇の下に通した。ベッドの下にした腕で彼女に腕枕して、布団の内側の隙間を埋めるようにその頭を軽く抱きしめた。

 霞ちゃんはしばらく大人しく丸くなっていたが、突然不機嫌そうに私を見上げると、両手で私の胸を押して二人の間に大きく距離を取った。


「何かご不満かい?」


「なんか、想像してたのと違う。なんか、昔はこうじゃなかった」


 霞ちゃんは唇を尖らせたまま、寝返りを打って私に背を向けてしまった。背中にとまったホックを見つめながら、はてと私は首をかしげる。

「昔は違った」とはどういう事だろうか。提督ぶとんはかつてより私が駆逐艦に行ってきた遊びの一環だ。この【もぐりこみ】に合わせて復活したとはいえ、かねてとそれほど違いがあるものでもないはずだが…ふむ。


 私は霞ちゃんに気付かれないようにゆっくりと起き上がり、ベッドの上に胡坐(あぐら)をかいた。かけていた布団を背中に回して、上着を羽織るように肩にひっかけた。私は静かに息を吐くと、素早い動きで油断している霞ちゃんの背中に飛び掛かった。


「ちょっ!何よ!このクズ、変態!」


 羽交い絞めにするように背後から霞ちゃんを抱きしめ、無理やり膝の上に座らせる。暴れる彼女を押し込めるように、羽織った布団で上から包み込んだ。灰色のセミロングが揺れるたび、シャンプーの柔らかい匂いがする。その香りに顔をうずめながら、体の前で組んだ腕にぎゅっと力を込めた。


「…んあっ」


 霞ちゃんは一瞬苦しそうに身もだえし、私が腕の力を緩めるとゆるゆると私の膝の上に鎮座した。私の胸に背をもたれ、やや猫背気味に首を前に突き出している。私はずり落ちた布団を正面で組んだ手で引き寄せた。


「こんなかんじかい?」


「し、しらないわよっ!」


 霞ちゃんは顔を真っ赤にして縮こまっている。

 かつて提督ぶとんは定時に目を覚まさない初雪を「起こす為」に行われていたものだ。 以前この行為がその目的に準じて行われていた際は、こうやって彼女を抱きしめながら朝日を浴びていたのを覚えている。


 私は霞ちゃんを抱えたまま、ベッドの端へ移動し壁に寄り掛かった。それに合わせて、霞ちゃんも体を180℃回転させて私と向かい合った。そして少しためらった後に、私の胸に頬を寄せて小さく納まった。二人の体重を受けてベッドが軋み、ぎしりと音を立てた。


 しばらくの間二人とも無言で窓の月を眺めていた。私が子供をあやすようにゆらゆらと体を揺らすと、腕の中の霞ちゃんも少し遅れて頭を揺らし、とろとろと重い瞼を擦った。すっかり抵抗することも忘れた霞ちゃんの頭を撫でながら、灰色の髪を指先で梳く。手入れの行き届いた髪はするすると指の間を抜けて、頭の動きに合わせて左右に揺れた。


「ねぇ、なんでアタシなの。いや、なんであたしを選んだの?」


 霞ちゃんの唐突な質問に、私は向けられた瞳を覗き返しながらしばらく硬直していた。しばし考えた後に、「えっ」と驚いて口を開く。


「…もしかして第一機動部隊の事かい?」


 霞ちゃんは返事の代わりに、向けた視線を私を射抜くような鋭い物へと変えた。

 私は霞ちゃんの髪を梳きながら、やんわりとその視線を受け流す。


「旗艦撃墜数No.1の君を遠征に回すのは惜しいと思ったんだ」


「はぐらかさないで、私の撃墜数が上がったのはつい最近の事。私は第一に配属されるまで、撃墜数はドベから数えた方が早かった」


より睨みを利かせてくる霞ちゃんに、私はやれやれと頭を掻いた。嘘をついたつもりは無かったが、当時の本心ではない事は確かだ。本人に伝えるべきではないと思っていた事だが、霞ちゃんの無言の催促に長く耐えられるほど私は隠し事が得意ではなかった。


「かつての水雷戦隊で、君はとても窮屈そうに見えた。羊の群れの中に、一匹だけ優しい獣が混ざっている様な、言いようのないもどかしさと苛立ちで、いつも周りにつっかかっていた」


 私の正直な答えに霞ちゃんは少し驚いたように目を丸くした。一通り頭の中で私の言葉を反芻すると、軽く息を吐いて皮肉っぽく口元をゆがめた。


「…よく見てるのね」


「目立っていたからね」


 私の答えに何か合点がいったのか、霞ちゃんは視線を落として私のシャツのボタンをいじくっている。どこかもどかしいその様子に、私は彼女が何を話すためにこのもぐりこみを計画したのかわかり始めていた。


「霞ちゃんは第一が嫌かい?」


 視線をあげず、霞ちゃんは私のシャツに頬を擦りつけるように首を横に振った。


「まさか、私にはもうあそこしか残されてないもの。あそこだけが、私の「特別」なんだから」


 霞ちゃんはボタンを弄る手を止めて、ぎゅっとシャツの裾を握りこんだ。胸に顔をうずめるように押し当て、ゆっくりと息を吐いた。


「別に、第一だけが「特別」じゃない。他部隊との違いなんて、大きなもんじゃないんだ。主力でこそあれ、ほかのどんな部隊だって鎮守府にとって大切なのは変わらない」


 霞ちゃんはそれにも首を横に振った。物悲しそうに窓の外に目をやる。


「第一が「特別」なのは、私が駆逐艦だから。私が貧弱な駆逐艦だから、不釣り合いな艦隊はとても歪で不安定な物にこの目に映る」


 自分で呆れたようにそう言って、霞ちゃんは小さく笑った。

 彼女をダイチに迎え入れたのは、私の采配ミスであっただろうか。いや、彼女の語り口から察するに、そんな単純な話ではない気がする。


「私はこの鎮守府でずっと不安を抱えてた。配属後すぐに水雷戦隊に指名されて、戦って戦って戦って戦ってでも隊の皆は私を残して、戦線を逃れて次々に別の隊に移動していった。私と不知火だけが残されて、あの娘は冷たい目で私に言った」


 霞ちゃんの視線がゆっくりと横に流れる。覗き見たその瞳の中の光は、「少女」から逸脱した鈍い金属の色をしていた。


「何も考えるな…って」

 

 私は黙って彼女の横顔を眺めていた。霞ちゃんの貴重な弱音…と言えるのだろうか。霞ちゃんの輝かしい戦果は第一線を奔る唯一の駆逐艦という「誇り」と、それに伴うプレッシャーによって支えられている。駆逐艦同士では得られない責任と緊張感が彼女の力を高みへと押し上げている。

しかし、そこにかかる重圧に、駆逐艦の軟な装甲で耐えきれるはずもない。彼女の精神は摩耗し、少しずつ崩壊へ向かっている。


 私と同じだ。自らの寿命を縮める選択肢だと知りつつも、自分だけの居場所を守るために戦い続ける。


 周りからの期待に押し上げられ、駆逐艦であるという「重圧」が上からのしかかる。迫りくる圧力に囲まれ、叫び出したいのを必死に我慢している。

薄暗いドックの中で、たった一人で「鉄の羽音を聞いている」。


 彼女に対し私にしてやれる事は限られていた。この【もぐりこみ】を通じて彼女に助け船を出せるとしたら、それはただ一つ。


「明日、日向に声をかけてみるといい。じきにでかい作戦がある。水雷戦隊及び駆逐艦たちにも総力を出してもらう」


 彼女の駆逐艦であるという重圧を取り除くしかない。一駆逐艦ではなく第一航空部隊副艦「霞」であると自覚させなければならない。彼女に寄せられる期待が大きくなるのは仕方ない事なら、私は彼女の目指す先を切り開いてやるだけだ。


「駆逐艦にも多くを知る者が必要になる」


 私の言葉に霞ちゃんは目を見開いた。


「雷蛇は!?」


「らい…北上には別の仕事を受け持ってもらう。君は彼女のフォローもする事になるんだ」


 霞ちゃんは私にもたれかかりながら、両手で小さくガッツポーズをした。「よし、よし」と口の中で小さく唱えているのが聞こえる。今すぐにでもはしゃぎ出したくなるのを、必死に押さえているかのようだ。


「わかった。やってあげるわ。別に嬉しくは、ないけどね」


 腕の中の少女は、ニヤリと口角を上げて微笑んだ。その瞳は青空のように澄み、輝いている。

 霞ちゃんにプレッシャーを与えていたのは競争相手の艦でも、誇りある第一機動部隊でもない、それはきっと私だ。

 思えば今日一日彼女はずっと私を意識していた様な気がする。私はそれを、どれだけ裏切ったのだろうか、考えるだけで胃が痛い。

 それでもこうやって霞ちゃんの笑顔を引き出せたのだから、私としては頑張った方だろう。霞ちゃんに丸め込まれたとも言える形だが、私が自分で決めたことでもある。この【もぐりこみ】の効力とも言えるものだ。

 

 駆逐艦の待遇改善の様なイメージのあるこの行事だが、駆逐艦と語り合い、変わっているのはきっと私の方なのだろう。彼女たちの直の思いに触れ、私はこんなにも艦娘たちの事を深く考えるようになっている。確かな価値があり、「神聖」な儀式だ。自分の命をかける意味があると、そう思っている。


 私が一人考えに浸っていると、霞ちゃんが腕の中でもぞもぞと体を動かした。私に向かい合う形で脇の下に手を入れて、シャツをつかんで体を固定した。


「?」


 私が不審に思っていると、霞ちゃんは鼻先をこすりつけるように私の胸元にすり寄った後、心臓の上にそっと口づけた。シャツの上からではあるが、やわらかな唇が私の胸元に触れ、わずかな水気と熱を残して離れた。


「か、霞ちゃん!?」


 唇が離れた後も、心臓が熱を持って鼓動し続ける。霞ちゃんは赤くなった顔をそらして、もごもごと口の中で小さくつぶやいた。


「なんかしなきゃ、でしょ?我儘を聞いてもらったんだから…」


「は?」


 霞ちゃん…。


「おりゃあああ!」


 私は霞ちゃんの両手をつかんで、勢いよくベッドの上に放り投げた。

 霞ちゃんは無抵抗のままごろごろと転がると、ベッドの上に仰向けに停止し、ガバっと上半身を垂直に上げて起き上がった。


「何すんのよ!」


 私はツッコミをするのも忘れて大声でどなり散らした。


「この【もぐりこみ】はなぁ、駆逐艦と司令官が共に意見を交わしあう「健全」で「神聖」な行いなんだ!色仕掛けで私をどうこうしよう等という邪な思考回路とは無縁なんだよ、わかるか耳年増!」


「じゃあ、あんた漣のナカに出して無いっていうの!?」


「入れてすらいないわっ!発言が不健全だぞ3才児!」


「3才児言うなっ!「建造三年目」よ!」


 ムキになって立ち上がろうとする霞ちゃんのおでこに、私は人差し指を一本つきたてた。霞ちゃんはムッと眉にしわを寄せるが、立ち上がる事ができずにすとんと垂直にベッドに座り込んだ。


「霞ちゃんが何をしようと知った事ではないが、私を懐柔したければ、せいぜい幼児体型は卒業してくる事だな」


「おっぱい星出身のクズ司令官」


「黙れAAA(トリプルエー)カップ」


「こ、このあたしが被弾するなんて…ガク」


 霞ちゃんは胸を抑えて、再びパッタリと倒れ込んだ。私はベッドの上に仁王立ちになり、放心している霞ちゃんを上から見下ろした。


「ほら、明日も早い。今日はもう帰れ」


「私が言った事忘れたの?霰が部屋に入れてくれないのよ」


 ぼんやりと天井を眺めている霞ちゃんの呟きに、私は少し驚いて返した。


「嘘じゃなかったのか」


「霰に「部屋に鍵をかけて寝るように言った」のよ」


「真面目なんだか、不真面目なんだか…」






「じゃ、私は寝るぞ」


 ぼんやりとベッドに倒れている霞ちゃんを放置して、私は布団を肩にかけなおした。壁に向かい合う形で、霞ちゃんに背を向けてベッドに横になる。

 私が呼吸を整えたところで、背後で霞ちゃんが起き上がった気配がした。のそのそとベッドを膝立ちで歩く音が響き、私のすぐ後ろで停止した。小さい手が私の肩に置かれ、ぐっと力を込めて仰向けに押し倒された。霞ちゃんが腰の上にまたいで座り、マウントの体制で私の体を固定した。


「何やったっていいって言ったのはあんたよね」


「(言って)ないです」


「うるっさいのよ、このクズ」


「いたっ」


 静止の為に差し出した私の指に、霞ちゃんが噛み付いた。アマガミとは呼べぬ顎の力に、私は空いた右手を挙げて降参のポーズをとった。正直超電磁艦娘顎筋を駆使すれば指を食いちぎられる可能性も無くは無いので、表情とは裏腹に冷や汗ものである。


「何がしたいんだ、いたいって」


 霞ちゃんは一旦私の指を開放し、糸を引く唾液を拭う事もせずに怒鳴り散らした。 


「はぁ!?男噛むのにいちいち理由がいる?」


 私は予想外の言葉に愕然とした。


 ドS。霞ちゃんの本心をすっかり忘れていた。普段彼女は艦隊の和を保つ為、面倒見のいい頼れる駆逐艦を演じてくださっているのだ。そういう考え方のできる優しい精神が彼女の本心だと考えるのは、いささか甘い考えと言わざるを得ないだろう。


「がぶがぶ」


「いたいよ霞ちゃん」


 霞ちゃんの標的は私の指から、柔らかい二の腕に移動している。肉の弾力を楽しむように、思いっきりハミハミされている。いかん、可愛い表現を使ってしまった。漢字で書けば「喰み喰み」である。

 先ほどまで対象にされていた指の付け根にはくっきりと歯形が残っている。顎の圧力で血流が止まっていたのか、指先は赤く腫れ上がっていた。


「噛みグセがあるから、お菓子を食べて口寂しさをまぎらわせていたのか」


「甘いものは好きよ、でもお肉も好き」


 二の腕から唇を離し、霞ちゃんが耳元でささやいた。吐息が肩にかかるのと同時に、露出した首筋にガブリと食らいつかれた。心地よい痛みの中、私は抱きかかえるように彼女の頭を撫でる。指に触れる柔らかな髪の感触、指先を髪の根元に差し入れると、私の手の動きに反応するように彼女の歯がいっそう深く首筋をえぐった。


 小さな心臓の音を聞きながら、ゆっくりと目を瞑る。視覚を無くすと首筋がいっそう熱く、じわじわと痛みが広がっていくのが感じられる。その痛みの中心に、彼女の舌が触れた。舌先が蛇のようにぬらぬらと動き、傷口をくすぐった。

 そして空気に触れて冷たく痺れる傷痕に、少女の柔らかい唇が押しあてられた。


「霞ちゃん?」


 驚いて目を開ける。霞ちゃんは何も言わずにただ私をにらんでいた。視線が「何も言うな」と告げていた。それが羞恥からくるものなのか、怒りなのかは分からなかったが、私はおとなしくそれに従った。


 霞ちゃんは私の体の上に乗っかったまま、ゆっくりと上体を傾けた。心地よい重みが、私の胸の上にかかる。

 暖かな吐息が首筋にかかっている。私は彼女がずり落ちないように腰に手を添えて、その体を支えた。小さな寝息が、夜の静寂の中に淡々とそのリズムを刻んだ。


 言いたい事言って、好き勝手暴れて、疲れたから眠ってしまった。先ほどの行動は、もしかして私に甘えているつもりだったのか。


 艦娘は、兵器だ。


 彼女たちは建造されてから短期間で成長し、戦いと殺しについて身につけていく。では彼女たちが「娘」である部分とはなんなのか。それは「かつてのものたち」が兵器の中に見出した「希望」、と言えるのだろうか。そう思えば、妖精たちも残酷な事をする。艦娘の個性もまた、そんな希望の形の一つなのだろう。


 霞ちゃんが子供扱いを嫌がる理由。それはきっと、彼女が他の駆逐艦よりよっぽど子供らしく無邪気な面を持つからに他ならないのだ。








 重巡洋艦「青葉」。

 彼女は鎮守掲示板「青葉自身」の美少女ライターであり、今日解体される。


「雑!雑なモノローグ入れないで!」


 青葉はばたばたと両手を広げて抗議の声を上げる。横についていた日向が、警察が泥棒をひっつかまえるように両腕と襟元をつかんで青葉を縛り上げた。

 昼の司令室。室内には提督と青葉、そして秘書官の日向の三人だけが集まっていた。

 提督が低く、小さな声で話を切り出した。


「解体は待ってやるから。単艦で5-3回ってこい。瑞穂引くまで戻らなくていいぞ」


「ちよおおおおおおっ!」


 じたばたと上半身を揺らしても、日向の腕はがっちりと腕を固定して微動だにしない。


「抵抗するな!お前に頼んだ私がバカだった」


 ドンと叩きつけられた提督の拳の下には、本日発行された「青葉自身」の新刊が敷いてある。


「私は【もぐりこみ】をそれとなく駆逐艦たちに告知するようにと、お前に筆を取らせたんだ!それが、なんだこの一面は!」



                      『提督の首筋に歯形!犯人はまさかの駆逐艦!?』



 提督は自分の首筋を抑えながら、青葉に向かって怒鳴りつけた。青葉は提督と視線を合わせずに、つんとそっぽを向いて唇をとがらせている。


「だ、もともとは他の娘たちから広まった噂なんですよ!提督が「ケッコン指輪」してるなんておかしい、って」


「はぁ!?私がケッコン指輪だぁ?」


 言われて自分の左手を確認して、提督は大きくため息をついた。音を立てて椅子に座りこんで、手をひっくり返してみては、表と裏をじっくりと部屋の光の下にかざした。


 霞ちゃんにつけられた歯形が青いアザとなって、左手の薬指に誓いの輪を刻んでいた。親指でその傷を軽くひっかいてやると、じわじわと痺れるような痛みが指全体に広がった。








【後日談】わるいやつ


 防波堤に打ち付けられた波が、細かい水の粒になって消えていく。波は大きくなったり、小さくなったり、不規則に形を変えて休む事無く向かって来る。海上戦闘の余波といえば聞こえはいいが、実態は駆逐艦達がばたばたとせわしなく波を揺らす為、散った振動が海面を揺らし、波をより大きく不安定にしているのだ。


「ちんたら遊んでんじゃねぇぞ、駆逐艦っ!」


水面を揺らさんばかりの怒声。声の主である雷巡『北上』は演習場の架け橋に寄り掛かって練習を眺めていた。ふらふらと芯が定まらない未熟な陣形の横っ腹に突き刺さるように、ドスを利かせた声を張り上げた。


 先頭を航行していた駆逐艦『電』が、北上の声に驚いてびくりと身を強張らせて急停止した。後続の艦も慌てて主機の回転を落とす。

 しかし、最後尾を走っていた『暁』は勢いを殺し切れずに、前方の同型艦『響』に急接近した。暁が目を瞑って身構える。練習といえど、航行中の艦同士が接触すれば大事故は免れなかった。

 すると、身を強張らせる暁の肩に優しく手を置く者がいた。肩を抱くように小さな体を抱き寄せ、伸ばした反対の腕で主機の回転数を調整した。接近した響の背中を軽く押して、二人の間に自らが割って入った。


「こ~ら、目を瞑っちゃダメですよ」

 

 雷巡『大井』は指を立てて、たしなめるように暁のおでこをつっついた。最後尾で第六の航行を追っていた彼女は、萎縮する暁の肩をぽんぽんと叩いて、膝を折って目線を合わせた。


「北上さんこわいよね~。でもね、あれは「第六のみんな頑張って!」ってちゃ~んと思ってるから言ってるんですよ。ほらぁ、可愛いレディが台無し」


 大井は暁の襟を正してやると、帽子の位置を整えるふりをして、彼女の頭を柔らかく撫でてやった。子ども扱いを嫌がる暁は、こうやってさりげなく慰めてもらうのを好む事を、大井は経験により把握していた。

 大井は最後に全員の肩を叩いて回ると、ぽんと手を打って練習の続きを促した。先頭の電の背をそっと押して、練習は滞りなく再開された。


「甘やかすなっつの」


 一部始終を見ていた北上は橋の上から水面に向かってつばを吐いた。先ほどの茶番を見るに、どうやら海軍嚮導艦というのは幼稚園の先生と同義のようだ。


「霞ちゃんもそう思うでしょ?」


 北上は橋の手すりに片肘をついて、自分の背後に立つ駆逐艦に問うた。霞は反対側の手すりに寄り掛かって、腕を組みながら大井と第六の練習を眺めていた。


「そろそろ来る頃だと思ったよ」


 北上は背後を振り返らずに続ける。


「『昨夜はお楽しみでしたね』って皮肉はいいか。言っとくけどアタシに文句を言われても困るんだよね。アタシはああいう場があるって言っただけだから、何を勘違いさせたか知らないけどそれこそ意見具申は直接提督に…」


「何の話です?」


「あん?」


 きょとんと首をかしげている霞の様子を受けて、北上も眉をひそめた。北上はてっきり霞が昨日の【もぐりこみ】みついて文句を言いに来たのだと思ったのだ。

 霞は予想を裏切って、背中を向けたままの北上に対し、ぺこりと頭を下げた。


「昨日は、どうもありがとうございました」


「……」


 北上は意味も分からずに、霞の後頭部を眺めていた。

 霞が頭を上げ、じっと北上の瞳を見返す。一瞬微笑んだかと思うと、すぐに踵を返して走り去ってしまった。


取り残された北上は、しばらく呆然と霞が走り去った先を見つめていた。背後で駆逐艦たちがはしゃいでいる声が聞こえる。

 北上はぐっと眉の堀を深めた後、ひとりごちた。


「なんだそりゃ」


後書き

◆霞ちゃんが龍驤姉貴の事を「姉さん」と呼んでるのは愛称みたいなもんでしょう。たぶん。マン兄ちゃんみたいなもんです。
◆twitterでなんか、更新報告とか→【しらこ@august0040】
※投稿日2015年6月2日


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1: SS好きの名無しさん 2015-06-02 18:38:56 ID: 4GYvtchG

ウルトラマン?

2: しらこ 2015-06-02 21:47:25 ID: mGPPZAlc

>4GYvtchGさん
個人的にはウルトラ忍法帳でしょうか。
仲の良さから生まれる「兄」「姉」と言えばあれくらいしか浮かびません。
いかん、年がバレる。
コメントありがとうございます。

3: SS好きの名無しさん 2015-06-10 08:59:20 ID: 5HPoDXFg

忍法帳の名前をここで聞くとは・・・
しらこ氏はボンボン派でしたか
タロウかレオがマンを呼ぶときはにいちゃんよびでしたね
今回も更新楽しみにしています

4: しらこ 2015-06-10 09:50:07 ID: PNEzz66S

>5HPoDXFgさん
コメントありがとうございます。
コミックボンボンの言い様のないディープな雰囲気は、私の感性に強く影響しています。特にほるまりん先生の「メダロット」はロボットと人間という相容れない存在が、同じ感情をもちながらも各々の問題を抱え、それでも共に歩んでいくという私のロボット感の基礎となっています。
「もぐりこみ」で艦娘を人間ではなく、兵器と強調するのは本質上人間とはかけ離れた存在にしたいからでもあります。

5: SS好きの名無しさん 2015-07-30 19:20:20 ID: 7iLPQefr

期待
次の機会に不知火とかお願いします

6: しらこ 2015-07-31 11:20:18 ID: 3MZLvSbg

>7iLPQefrさん
コメントありがとうございます。
ホント皆不知火好きだな。実は不知火は以前にもご要望があり、次回執筆予定でとなっております。ただ最近本当にイチャ萌え成分が消えつつあり、霞→不知火というハードボイルド小娘が続くと提督の胃がヤバいかとも思っているのですが、まあ頑張ります。

7: SS好きの名無しさん 2015-08-17 21:39:11 ID: XW7eApjo

だったら不知火の後に皐月とかの睦月型お願いします

8: しらこ 2015-08-19 10:29:27 ID: lA59Dl92

>XW7eApjo さん
コメントありがとうございます。
睦月型ですか・・・。現在リクエストを受けているのは3番艦の「弥生」で、ある程度構図は考えています。しかし、更新頻度を見ていただければわかるとおり、非常に遅筆ですので、実際に執筆できるのはいつになるやら。いや、ホント申し訳ございません。

9: くたくた 2016-06-14 19:19:21 ID: MXSC7tjf

提督と霞の絡みも良いです、が、登場人物達の動き、会話が素敵でした。歴戦の戦友と言うか、付き合いの長さから来るラフな雰囲気と言うか。
良い作品読めました。ありがとうございます。

10: しらこ 2016-06-15 11:50:30 ID: TvuaxbWZ

>くたくたさん
コメントありがとうございます。
キャラクター同士の掛け合いに関しては、あらかじめ想定している人物の背後関係に沿って、その場に適した言葉を選んで書いています。そうすれば発言の矛盾や、言葉使いの違和感などが生じにくいので…。
 そのかわり衣笠や蒼龍はいまいち発言が曖昧で、キャラが固まっていないなーと反省しています。もし次回があれば彼女達にも話の中心に立ってもらいたいですね。


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1: 僕と久保 2016-06-12 20:07:58 ID: w2NWOUQX

拝読しました。非常に丁寧で、よく練られたお話だと思います。静かさの中に盛り上がりもあって、楽しませていただきました。ありがとうございます!


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