『提督の布団にもぐりこむ駆逐艦の話』―『不知火』編―
【もぐりこみ駆逐艦】第4話『完成』。みんな大好き「不知火」編。お前のような駆逐艦がいるか。2016/6/13 改訂完了。
今話よりリクエストされた艦娘をメーンに書いていきます。
今回リクエストいただいた方は『かげぬいと喫煙鎮守府』でおなじみのAQ様。
そして霞編でコメントいただいた、名無しの7iLPQefr様になります。
リクエストありがとうございました。
まえ:[chapter3:エースの憂鬱 ]
[chapter4:紫煙のゆくえ]
海鳥の呟きが、遠くに聞こえる。
海上を滑り、水を切る衝撃音。
ぎゅるぎゅると唸る主機、背負った缶が甲高い悲鳴を上げる。
回るプロペラ、艦載機の軋む音。
爆発と共にこだます轟音、爆音。
水柱と火柱が交互に現れては消えていく。朦々とあがる黒煙に目がくらみ、熱をおびた水しぶきが顔にはねる。
重巡洋艦「摩耶」は水しぶきと共に、頬に伝った汗を肩でぬぐった。
至近距離に着弾。こちらはまだ、正確な敵位置すらつかめていない。
「くそったれ」
激しく波を蹴りながら、摩耶は大きく舌打ちをした。その音は周囲に鳴り響く爆音に溶けて、自分自身にすら聞き取ることはできない。
鎮守府近海の哨戒中、およそ場違いな艦隊(やつら)と鉢合わせた。駆逐1、軽巡2、戦艦2。なんとも不揃いで、嫌らしい奴らだ。
摩耶は鋭く水柱の間をすり抜けながら、立ち上る黒煙に目を細めた。
(哨戒中の鉢合わせにしちゃ運が無ぇ。逃げてぇが、鎮守府への道案内をしちまうのもいただけねぇな。戦艦のいないこの編隊で、タ級に策敵機が見つかったのはアタシのミス、提督に尻拭いはさせらんねぇ!)
「戦艦目ぇくらまして逃げる!外洋を大きく回って、鎮守府に戻るぞ!」
摩耶の通信はすぐ後方に着弾した砲撃音によって遮られた。インカムからはとぎれとぎれに「了解」の声が流れるが、誰の声かまでは聞き取れない。
しかし気にせず摩耶は主機を回した。仲間を疑っている暇などない。今は艦の為より隊の為、ひいては鎮守府の為に、旗艦としての任務を全うしなければ。
「全員単従陣でアタシに続け!足を止めるな!」
かき分けるように水柱を追い抜き、摩耶は頭部の電探で仲間の位置を確認する。こめかみを抑え、左目だけを薄く閉じる。まぶたの裏側に四つの点が縦に並んでいるのが見えた。
自分のすぐ後ろに軽巡「球磨」、その後ろに姉妹艦の「鳥海」、最後尾を走るのは駆逐艦の「不知火」である。
「全員無事か?報告!」
「ダイジョクマー」
「オッケーよ摩耶」
「……」
「不知火?」
摩耶の背中を冷たい汗が流れる。
「…不知火はどうした?不知火っ!」
「摩耶さん、右舷3時方向に敵影です」
インカムから聞こえてきたのは冷静というより淡々とした、どこか作業的な声。摩耶は口元を緩めつつも、かろうじで怒りのこもった声で怒鳴り付けた。
「ちゃんと返事しろっ!しらぬいっ!」
「了解、不知火異常なし」
不知火の返しに満足した摩耶は、すぐさま右舷を確認した。荒れ狂う波の合間、立ち上る爆炎の中に敵影。駆逐艦だ。
摩耶の視線の先には黒い鼻先がざぶざぶと波を割って進んでいるのが見える。巨大な鯱のような黒い姿、駆逐艦イ級。その奥によりデカイやつの影も見える。こちらも相当スピードを出しているが、敵影と距離が離れる様子はない。進行方向は同じ、同行戦だ。
並行して移動するイ級の口が大きく開かれた。おぞましい黒々とした体内から、4本の魚雷が射ち出された。艦隊の横っ腹に向かって突っ込んでくる。扇状に広がる雷跡。射角、間隔ともに広い。
「各艦最大戦速!突っ切って回避する!」
摩耶は号令より早く主機を回していた。単縦陣の先頭である彼女は誰よりも早く射角の外側に到達する。次点は球磨、彼女も余裕をもって魚雷の帯を脱出した。その後ろは重巡の鳥海。しかし、彼女と球磨の間にはかなりの間隔が空いている。直線移動で回避することは困難を極めていた。
鳥海は自分のすぐ後ろを航行する不知火を、ちらと振り返った。
「不知火、魚雷間を抜けるわよ」
「……」
不知火は返事をしないが、鳥海は気にせずに足を止めた。魚雷を横切るのではなく、向かい合うように体勢を切り替える。
扇状に発射された魚雷は進行距離が長くなればなるほど魚雷同士の間は広くなる。鳥海は魚雷から遠ざかるように後退しながら、二本の魚雷の間に身を滑り込ませるつもりだった。しかし…
「なにやってるっ!不知火っ!」
摩耶の声が聞こえたのと、自分の後ろを航行していた不知火が勢い良く飛び出したのがほぼ同時だった。
彼女は魚雷に向かい合う鳥海の、更に前方に位置取った。魚雷間を抜けるにはとてもでは無いが近すぎる距離。それでも、不知火は進行する魚雷に対して、真正面からぶつかっていった。
「―――――――!」
度重なる砲撃音で耳がやられている。
強い耳鳴りと、音の衝撃。脳が揺さぶられ、まともな思考能力すら奪われる。そんな中での不知火の行動は、まさに狂気と呼んでいいものだった。発射された魚雷は雷跡を残しながら進行し、不知火の足元で炸裂した。
巨大な水柱が立ち上る。水のカーテンを押しのけるように、桃色の駆逐艦が敵陣の真ん前に飛び出した。
魚雷は不知火に直撃しなかった、予定距離より大幅に前方で魚雷と交差したため、奴らの繊細な電探に狂いが生じたのだった。魚雷は雷跡を引きながら不知火の足の下を通過し、彼女の後方で炸裂した。奇跡的に不知火はこの危機を小破する事すら無く乗り切ったのだ。しかし、この全てを不知火自身が予期していたかと言えば、答えは否である。
「……」
不知火は無言で前方のイ級を睨みつける。左手に装填された12.7cm砲が、海面の反射を受けて鈍く光った。
ドン ドン
水平射二発。
イ級を沈めるまで、目が合ってから2秒と掛かっていない。
不知火は沈み始めたイ級には目もくれず、そのより後方、黒煙の奥に潜む何者かに目を凝らした。
黒い煙の奥の、黒い影。その正体を見極めるより先に、煙の内側より巨大な砲身がぬっと突き出された。不知火は咄嗟に上体を低く構える。
ドン
間髪入れずに砲音がただ一発。気の抜けた口笛のような風切り音を引き連れて、遥か上方を通過していった。不知火の背後、かなり離れた位置に着弾し…
ガオオオオオオオオオオオオオン
龍の咆哮を思わせる爆音が辺りに響き渡った。
不知火は後方に逃れようと上半身を逸らすが、すぐに背後の熱気に押されて前傾に身を固めた。
周囲を炎に取り囲まれていた。海面が炎上し、炎の帯が空に向かって高々と手を伸ばす。隊とも分断され、不知火は完全に退路を失った。黒々とした砲身が、今度は不知火に向けて照準を合わせ、ぎしぎしと歪んだ音を立てた。
真っ黒な穴が不知火を中心に捉えて停止した。底の見えない暗い穴をじっと見つめる。額の汗を拭う事もせず、細く長く息を吐いた。
動け、動け、動け、動け
頭の中で警告の鐘がけたたましく鳴り響いている。
周囲を取り囲む炎が一際大きく盛り上がった時、不知火が動いた。
全速力で波を蹴り、細かく之字運動を交えながら一気に距離を詰めた。黒煙の先、みまごうはずもない、戦艦タ級に向かって。
12.7cm砲が唸りを上げる。撃ち放たれた砲弾が放物線を描いて一直線にタ級へ向かっていく。黒い砲弾はタ級の眼前で爆発した。
(まだ…)
不知火は突撃する。黒煙を押しのけて現れたタ級には目立った致命傷は見られなかった。庇った左手の艤装に小さく焦げ目がついているだけで、直撃弾があったにもかかわらずピンピンしている。16inch三連装砲が音もなく不知火に向けられた。
それでも怯む事なく不知火は突撃を続ける。上体を沈ませ、弾道の下に潜るようにして初弾を回避すると、たちまち互いの距離は触れ合うほどまで接近した。不知火がタ級の砲身をつかんだ時、遅れて背後で爆音が響いた。立ち上る水柱を背に、不知火はほくそ笑む。
「下手糞」
不知火の左の砲身はタ級の喉元につきつけられていた。右手はしっかりと砲身をつかみ逃がさない。必中の距離。しかし、これはもはや砲撃戦の距離とは到底呼べなかった。
砲口とタ級の距離はわずか数cm。砲弾を撃ち出せば、不知火もタダでは済まない。
それでも不知火はためらう事無く引き金を引いた。飛び出した砲弾は射線を描く間も無く、不知火を巻き込んで爆発した。不知火は反動で吹き飛びながら、右手で太腿に固定した注射器を引き抜いた。
まだ終わっていない。それだけはわかる。
もうもうと煙を上げるタ級と対峙しながら、不知火は使い物にならなくなった連装砲を足元に投げ捨てた。沈んでいく鉄の塊と交差するように、小さな肉片が海面に浮かびあがる。
それは不知火の指であった。
さっきまで連装砲を持っていた自分の手を確認すると、親指だけを残してすべての指が消し飛んでいる。並んだ4つの傷口から白濁とした液体が噴水のように溢れ出していた。
艦娘の体内を流れる人工血液である。艦娘は建造された直後は人間と同じ赤い血が流れているが、直後にこの人工血液とそっくり入れ替えられる。人工血液は代謝が良く、負傷部の修復やエネルギーの循環が各段に早い。血液型の分類も無いため、輸血も簡単だった。
しかし、さすがにこれだけの傷を自然治癒だけ治すのは不可能だ。
不知火は注射器を口にくわえて、健在な右手で左手の頸動脈を強く抑えた。出血の勢いが強すぎると、傷がうまく塞がらない事がある。そして注射器を手に取って、動脈の上にそれを思い切り突き刺す。悲鳴を噛み殺しピストンを押し込むと、押し出された緑色の液体が体内に流れ込んだ。
『高速修復剤』である。
並んだ四つの丸い穴がぼこぼこと膨れ上がり、傷の上をかさぶたのような蓋が覆った。さすがに即座に指が生えてくるような事は無いが、これで出血を止めつつ鎮守府で治療ができる。軽く手を降ってみるが痛みはない。この後の戦闘行動にも支障はなさそうだ。
高速修復剤は艦娘の代謝を促進させ、入渠の際に使用すれば格段に修復が早くなる効果がある。しかし、こうやって直接体内に取り込む事でも一時的に傷口を固めることが可能であった。ただし、強い中毒性がある為この使用法は軍律で固く規制されている。
タ級がよろよろと動き出した。不知火は注射器を投げ捨てて、右手一本で背負った魚雷管を作動させる。今度は十分に距離を取り、照準をタ級に向けた。荒い息を抑えて、ぎりぎりまで狙いを絞る。
「発射ぁ!!」
解き放たれた4本の魚雷が雷跡を引きながらタ級に向かっていく。巨大な水柱と共に、戦艦の巨体がぐらりと傾いた。不知火は轟沈艦を一瞥し、すぐさまタ級の背後に目を向けた。
「もう一隻…」
「ドアホ、不知火!先行しすぎだ!」
そこでようやく摩耶が追いついてきた。外装が所々焼け焦げて穴が開いているのが見える。もしやあの炎の海を突っ切ってきたのだろうか。
不知火はすぐに標的へ視線を戻し、鋭い口調で言った。
「旗艦殿、雷撃戦です」
「くそったれ!」
ガシャンと摩耶の腰に装備された魚雷管が回転する。不知火も親指しかない左手で器用に魚雷管を操作し、右手で素早く装填を完了した。
「次弾装填完了」
「魚雷発射!!」
約2時間後の指令室。
作戦から帰投した摩耶はぼろぼろの外装のまま司令官の前に立った。外装の帽子を胸の前で抱き、椅子に深く腰掛ける司令官、そして並び立つ秘書官の日向に向けて鋭く敬礼した。
「本日哨戒任務にて敵艦隊と遭遇。脱出は困難と判断し、交戦いたしました。敵編成は戦艦2、軽巡洋艦2、駆逐艦1。我が艦隊はこれを撃退。戦果は戦艦『轟沈』1、『大破』1、軽巡『中破』2、駆逐『轟沈』1」
「ご苦労。こちらの被害は?」
「こちらの被害は旗艦、摩耶『小破』。それから」
摩耶は報告を続けつつ、バツが悪そうに提督から視線を逸らした。
「駆逐艦、不知火『大破』」
つぶやくようなその報告に、提督も同じく窓の外へ視線を向けた。
「“また”不知火か」
「しらぬいっ!」
浴びせられた怒声と共に、不知火の体が勢いよく地面に叩き付けられた。
作戦棟横の防波堤の一角。倒れ込んだ不知火は腫れた頬をおさえながら、よろよろと立ちあがった。
「こんの、大馬鹿者!」
報告から戻った摩耶は、大声を張り上げて不知火の前に飛び出した。
「まてよ鳥海!やりすぎだ!」
不知火を殴り飛ばした張本人の鳥海は、防波堤に寄り掛かる不知火へずかずかと歩み寄った。間に入った摩耶には目もくれず、不知火の襟首を捩じり上げる。
「何度言えば理解するんですかっ!あなたのような死にたがりのせいで、どれだけ隊が危険にさらされているか!わからないとは言わせませんよ!」
鳥海はメガネの下に青筋をたてて唾をまきちらす。
対する不知火は戦場での闘争心が嘘のように、ただぼんやりと向けられるままに鳥海の怒りを受け入れていた。
鳥海は不知火の胸倉を引き寄せて、その顔面に頭突きを叩き込んだ。不知火は後方に大きく吹き飛び、砂埃を上げて倒れこむ。
「鳥海、鳥海!」
「うるさい摩耶っ!旗艦の貴女が甘やかすから、駆逐艦が暴走するのでしょう!」
鳥海は止めに入る摩耶を押しのけ、倒れこんだ不知火の髪をつかんで起き上がらせた。
「何か言ってみなさい、この死にぞこない」
不知火は抵抗するでもなくただだらんと腕を垂らして、視線の動きだけで鳥海を見上げた。
「不知火は、貴女より戦果をあげました」
「なっ…」
狼狽する鳥海の表情を見て、顔全体をゆがめるようにニヤリと笑った。
「不知火に何か落ち度でも?」
鳥海の拳がみぞおちに突き刺さると、不知火は白い液体を吹いて昏倒した。
周囲が真っ白に塗られた廊下を、かつかつと踵を鳴らす音が響く。
駆逐艦『霞』はお茶の乗ったお盆をしっかりとつかんで、少々苛立った様子で大股で歩を進めていた。
せっかく秘書艦職を手伝うようになったのに、初仕事がまさかのお茶汲みとは…。しかし、これが『ただのお茶汲みでは無い』事はわかっている。もちろん運んでいるのはただの緑茶だ。給湯室の提督しか開けられない棚に入っている、とっても高い茶葉である。青臭さを感じさせない、濃厚な香りがする。
ただ事ではないのは、霞のいるこの場所の事である。
ここは通称『管理棟』と呼ばれている建物で、指令室のある作戦棟以上に人が寄り付かない場所だ。海難事件の詳細記録や、過去の戦争の資料、中には深海棲艦の実験資料なども保管されている機密の宝庫である。建物内は管理職員か、提督に直々に許可された一部の艦娘しか入ることが許されていない、いわば立ち入り禁止地域と呼ばれる場所に該当する。
ここには応接間と呼ばれる部屋があり、大本営からの使者などをもてなす部屋があるのだ。このお茶は提督が『お偉いさん』にしか開けない特注品である。つまりはそういう事だ。
「失礼します」
霞はお盆を片手に持ち直すと、空いた手で応接間の扉を2度、ノックした。中からおっとりとした女性の声が響く。
「入ってください」
開いた扉の奥、テーブルを挟んだ奥のソファーに女性は腰かけていた。年齢は重巡洋艦ほどであろうか、美しい黒髪に小奇麗に整った顔、かけた大きな眼鏡が近寄りがたいほどの美貌に愛嬌と呼べるものを演出していた。
女性はソファーの真ん中にちょこんと座って、柔和な笑みを浮かべた。
「あら、可愛らしい秘書艦さんね」
霞はテーブルの上にお茶を置き、お盆をわきに抱えて女性に向かい合った。
「秘書艦『補佐』の霞です」
小さな胸を張って敬礼する。
女性は霞の様子に一つ頷くと、ソファーから立ち上がって霞に向かい合った。手慣れた様子で、小さく敬礼する。
「海軍監察艦の「大淀」と申します」
霞は驚いた。帝国海軍、大淀と言えば、連合艦隊旗艦を務めたこともある武勲艦だ。その名を冠する少女、彼女は…。
「艦娘?」
「ええ、貴女と同じ。兵器として生まれた女です」
大淀は物騒な言葉選びとは裏腹に、柔らかく微笑んだ。
軍人とは思えぬ柔らかい雰囲気に霞が感心していると、彼女の発した言葉にふと疑念を向けた。
「監察艦…殿?」
「ええ」
霞はごくりと唾を飲み込む。
「ウチの司令が何かやらかしました?」
「ああ、いえ。そうですね、定期報告のようなものです」
霞はほっと胸を撫で下ろした。
鎮守府への監査。まさかとは思うが【もぐりこみ】の事かと疑ったからだ。安堵の息をつく霞の様子に大淀は口元を押さえて、クスクスと笑った。
「あらあら、中佐に何かやましい所でもあるのかしら?」
「えっ!あ、いえ、特にそういう訳では…」
霞の慌てた様子に、大淀はますます笑みを深めた。頬を染めてうつむく霞を見て、楽しそうに上着のポケットに手を差し込む。取り出した小さな紙包みを手のひらに載せて霞に差し出した。
「たべる?」
霞は驚いてとっさに手を振って断るが、大淀が紙包みを開いたのを見て、大きく目を見開いた。
「な、生キャラメルっ!」
くわっと両の眼を押し開き、眉間のしわが深める。
「甘いもの苦手?」
「いえっ!い、いただきます!」
霞はスカートのお尻で手を拭いて、両手のふちをそろえて大淀に差し出した。その真ん中にちょこんと小さな紙包みが乗せられる。
「どうぞ座って」
大淀はソファーの端に移動し、自分の隣のスペースをぽんぽんと手の平で叩いた。霞は躊躇無くそこに腰を下ろす。手のひらの上でキャラメルの包み紙を丁寧に剥がし、現れた茶色い塊をまるで宝石を見るかのような視線でうっとりと眺めた。
「美しすぎる…」
キラキラと目を輝かせじっくりと堪能した後、舌の上にキャラメルを乗せた。目を閉じてゆっくりと味を楽しむ。
(甘さが口の中で溶ける。濃厚すぎる風味と、鼻を抜けるミルクの匂い)
「あたし的には…完璧です」
「そうやってると、とても管理課の艦娘(こ)には見えないわね」
大淀が顎に手を当てながらぽつりと呟いた。霞は口の中の余韻を楽しむのも忘れ、視線を滑らせて横に座る大淀をじっと見つめた。
「どこまで知ってるの?」
背筋にひやりとした緊張が走る。
「それは、深海棲艦の事ですか?それとも艦娘の事?」
「どっちもよ」
大淀は笑みを崩さないが、その瞳の奥に無言の圧力を感じる。なるほど、これが『監察艦』か。
霞はその瞳を直視しないようにして唾を飲み込んだ。舌の上の甘い余韻に少し冷静になりつつ、言葉を探した。
「全ての艦娘が回収した人型深海棲艦の体をベースにして作られている事は司令から伺っています」
「では【erorr】の事は?」
「『各』鎮守府に配属されている特殊任務を負った潜水艦隊。主な任務は、海域攻略を補助しながら『E-海域』と呼ばれる特別危険海域を特定する事。深海棲艦の暗号解読、敵泊地の破壊工作」
彼女相手に、嘘はつけない。喉がカラカラに乾いていた。
「はい、よくできました。偉いわね。じゃあ…」
大淀は一度言葉を区切って、人差し指一本で眼鏡の高さを調整した。
「深海棲艦の『建造』については?」
霞は思わずゴクリと唾を飲み下した。
大淀は困惑する霞の様子を見て、柔らかな笑みをほんのわずかに強張らせた。
「そこまで」
突如応接間の扉が開かれ、提督が部屋に入ってきた。テーブルを挟んで向かい合うソファに腰を下ろし、霞を鋭く睨みつけた。
「霞、演習組待たせてんだろ。油売ってるんじゃない、行け」
突然の事に一瞬何の事かわからなかったが、提督の目を見ると霞は急いで立ち上がった。大淀に一礼して部屋を出る。
閉めた扉の前でほっと方を撫で下ろした。本当は演習の予定など本当は入っていなかった。
背後の扉にそっと耳を寄せる。二人とも声をひそめているのか、それとも特殊な防音仕様なのか、風の音が反響するだけで話し声は聞こえてこない。
霞は応接室を後にしながら、大淀が言っていたことを思い出していた。深海棲艦から艦娘が生まれ、元となる深海棲艦はどこかで『建造』されている。彼女達は人工物なのか、私はまだその事を知らない。私には、まだ知らされていないことがある。
日向なら知っているだろうか。ふとそう思い、霞は早足で管理棟を後にした。
「淀子、あまりうちの艦娘を脅かしてくれるな」
提督は霞が扉の前を離れたのを確認してから、向かい合う監察艦に向かってそう切り出した。
「中佐があまりにも遅いので、少し遊んでいただけです」
大淀は提督の方を見ずに、運ばれてきたお茶を手に取った。熱いお茶に丹念に息を吹き掛けてから、少量を端からすする。
「相変わらずの猫舌か」
「分かっているなら、冷ましてから持ってくださればいいのに」
大淀はほとんど口を付けられないまま、湯呑みから顔を上げた。
「で、定期報告とは?」
「errorより『姫級』が出たという報告を受けて、周辺海域にも異常が無いか確認に来たのです」
「…いや、現状大きな異常は見られない」
つい今朝がた、鎮守府近海で戦艦クラスのはぐれ者が出たのは黙っていた。後に発覚することではあるのだが、少しでも先延ばしにできるに越した事は無い。大淀は特にいぶかしむ様子もなく話を続けた。
「姫級を肉眼で確認し、かつてのものと面識があるのは潜水空母「伊401」のみ。彼女の処分はどうするつもりですか?なんでしたら役目を失った長門と共に、私たちが解体処分を担当しても構いませんが」
「私を怒らせに来たのか」
「怒っているのは私の方ですけどね」
大淀は茶化すような言葉使いを崩さずに、湯呑みの中を見つめながら言った。くるくると手の中でお茶を回し、ふーと大きく息を吹きかける。
「駆逐艦相手の悪趣味な遊びを再開したとか」
「…そうだ、私は生粋のロリータ・コンプレックスでな。有り余る性欲を押さえるのに他にすべが無いのだ」
「その発言は軍律に引っかかりますよ」
「では録音声は消しておいてくれたまえ」
大淀は大きくため息をついて、再び湯呑みをテーブルに置いた。視線だけを上げて提督のすまし顔を覗き見ると、再度ため息をついて肩を落とした。
「まったく…、陸で【感染者】が出たのはご存じですか?」
「いや、初耳だな。何せ、閣下殿からはもう1年以上「外」の情報は降りてきてないんだ」
「騒ぎ立てるほどの物でもありませんので。別の【感染者】は出さずにすでに処理は終わっています」
「陸の奴らも手慣れたものだ」
どこか他人事のような提督の話し方に大淀は眉をひそめた。自分が来た理由をこの人が気づいていないはずがない。それでも直接的な言及を避けるのは、もしや艦娘に責任が飛び火する事を懸念しての事なのか。
ふてぶてしく足を開いてソファーに腰かける姿は、自分が鎮守府にいた頃と変わらないように見える。しかし、それがむしろ恐ろしく、違和感にまみれて見えるのだ。
大淀は動揺を悟られないように再び湯呑みに手を伸ばし、口をつけずともわかるその熱さに顔をしかめた。
「【感染者】の保有する【病】は、扱いを間違えなければ決して感染率の高いものではありません。5年前のようなバイオハザードが再発する事はもう無いと考えてもいいでしょう」
「脅威レベルが高すぎるとすら私は思っているんだ、【感染者】にしろ【艦娘】にしろ…」
「扱いを間違えなければ、と私は言ったはずですが…」
「…」
大淀はまっすぐに提督の目を見据える。提督は不機嫌そうに視線をそらした。
「【提督ぶとん】の再開に反対した方はいなかったんですか」
「やっぱりその話か」
「かつて【提督ぶとん】を「危険」だと言って禁止した日向さんがその再開を黙認しているのは、5年前に比べて【病】への理解が深まり共に過ごす程度では大きく感染率が動くことは無いと判明しているからです。それでも、免疫力の低下する睡眠中に艦娘を傍に置くのは気持ちのいいものではないでしょう」
「その事はもう報告済みなのか?」
「もちろん。ただ、元帥よりしばらくは好きにさせろと言い使っておりますが」
「…」
「貴方にへそを曲げられては、こちらも困ります。提督の代わりなんて、そう多くもありません」
「どうだか」
提督は組んだ足の上に肘をついて、そっぽを向いてしまった。
もちろん嘘ではない。鎮守府を治めるには高い指揮能力と、速さと正確さを兼ね備えた業務の処理能力が必要となる。それを極限状態の中で最大限発揮できなければ提督という仕事は務まらない。
提督の横顔をふと見つめる。短い黒髪の中で一瞬光ったものに、大淀は声を上げた。
「あ…」
「?」
提督が不審そうに視線を寄こすが、大淀は気にも留めず立ち上がった。テーブルに手をついて体を乗り出し、右手を提督の帽子の隙間に差し込む。そして、勢いよく「それ」を引き抜いた。
「いった…おい、淀子」
大淀は提督を無視して、自分の指の間に挟んだそれを凝視し続けた。
「白髪…」
蛍光灯の光を受けて、それは黄金色に輝く蜘蛛の糸のように見えた。
嫌な空模様だ。
もくもくと集結し始める暗雲は、太陽の光を遮りながら反射する海の色を灰色に濁らせている。
軽巡寮の廊下のちょうど真ん中で、北上は掲げられた掲示板を憎々しげに見上げていた。
そこに張り出されているのは「青葉自身」。重巡洋艦「青葉」が週刊で発行している、鎮守府内新聞であった。その内容は、他愛も無いゴシップから、深海棲艦の進行度合いや作戦召集まで多岐にわたる。
今週のトピックスは『駆逐艦の待遇改善と意識調査』であった。
「昨今の新規駆逐艦の増加と、作戦重要度の増加に合わせて鎮守府内での待遇改善と、意識調査を実施。提督と駆逐艦の1onも検討中…」
北上は今日何度も読み返した内容を頭に思い浮かべ、よろよろと後ずさるように掲示板から離れた。壁を背にして寄りかかり、外気に冷やされた窓に後頭部を押し付けた。頭の後ろで雨の音が聞こえ始めたが、北上の思考を埋めるのはこの新聞が意味する所だけであった。
(駆逐艦の待遇改善はかつて漣達と会議してたものと内容と合致する。だけど駆逐艦と提督の意識共有と1on?先日霞を送り込んだのはあたしだと提督も気づいてるはず、でもそれから特に音沙汰も無い。ストーリーがあたしの思惑からどんどん外れていく…)
打ち付けるような雨音が窓越しに伝わってくる。嫌でも頭り刷り込まれるその雑音に、北上は耳障りな歯ぎしりの音を重ね合わせた。
顔全体が怒りと苛立ちでみるみる歪んでいく。
(あたしはいつまでこの糞くだらない仕事を続ければいい?)
どん、と寄り掛かった壁に拳をぶつける。何もかもが腹立たしく、不愉快だ。
見苦しい駆逐艦ども、同情したように笑う日向も、あたしを支配した気でいる提督も。何もかもがあたしを苛立たせた。
「目障りなんだよ」
「そうですか…はい、北上さんの珈琲」
北上は差し出された紙コップを手に取りながら、隣立つ大井の顔をにらみつけた。
「大井っちもだよ」
「北上さんは雨の日は機嫌悪いですね」
「関係ないっての」
窓の外に目を向けながら、北上は受け取った珈琲をすすった。いつの間には外は土砂降りで、海どころかすぐ外の様子さえまともに見えなくなっていた。窓越しに外の寒さが伝わってくる。熱い珈琲を口にしながら、いつもの自分ならアイスが良かったと愚痴をこぼすであろうことを想像した。もちろんそれを大井が知らないはずもない。
(どこまで気が利くんだか、この娘は)
「ホットでよかったでしょう?」
心の中を読まれたような発言にドキリとして大井を見た。彼女は何も言わずに窓の外を眺めている。そして、「あっ」と声を上げて窓の外を指さした。
北上もつられて外を見る。少女のような影が雨の中に消えていった気がした。
「北上さん、大変です」
「何がさ」
「あの子、風邪をひいてしまいます」
「いや、帰ってくるでしょ」
おたおたと動揺を見せる大井を他所に、北上は冷静に言い放った。
海沿いに出ていて降られたのだろう。この大雨じゃ方向を見失ってもおかしくない。かといって遭難するような広さじゃないし、雨宿りする場所なら山ほどある。
「はい、北上さん」
北上は大井を見て、ぎょっと顔をひきつらせた。どこから取り出したのか、一本の傘を持ってそれを自分の方へ差し出している。北上は一歩後ずさりながら、ぶんぶんと首を横に振った。
「いや、無いっしょ」
「頑張って、北上嚮導艦!」
無理やり傘を押し付けられる。手に持っていた紙コップは素早く没収され、ぐびぐびと中身を飲み干された。空のカップを窓際へ置き、大井は素早く北上の背中を押した。
「お仕事しましょ!嚮導艦殿!」
ものすごい力で背中を押され、玄関まで押し出される。ドアを開けると、耳を打ち付けるようにけたたましい雨音が周囲にこだました。半ば無理やり開かれた傘は予想に反してとても大きく、軽巡二人くらいなら余裕で雨を防げそうではある。しかし、問題はそんな事じゃない。
「いや~、こういうのは管轄外っていうか、そもそもおかしくない?」
「何言ってるんですか、駆逐艦の面倒見ないで…北上さん、他に、お仕事、ないでしょ!」
「大井っち何気にひどって、うわ!」
雨の中に放り出され北上は慌てて傘を差した。背後で閉まる扉の隙間から、大井が手を振っているのが見えた。
「なんであたしがこんな事…」
傘ごしに伝わるくぐもった雨音と、冷え切った空気が辺りを包み込む。こころなしか吐いた息が白く煙っているようにすら感じる。
遠くに消えた駆逐艦の影。海に沿って寮とは反対側、あちら側は建物が少なく、確かにこの雨の中ではしんどいかもしれない。いや、なに素直に心配してる。自分の心配しろ、下手すれば風邪ひくのはあたしの方だ。
「これだからよぉ…」
北上は身震いを押さえながら、手に持った傘を強く握り直した。
「駆逐艦(コドモ)は、大っキライなんだっ!」
大声をあげながら、濡れるのも忘れて雨の中を走り出した。
ばしゃばしゃと足の下で水滴が跳ねる。
大きな水たまりを飛び越えたところで、北上は一旦周囲を見回した。走ってきた軽巡寮を背にして、右手側は高い防波堤が続いていて、左手は寮棟の最端となる空母寮が見える。ここを超えれば提督のいる作戦棟まで雨宿りできそうな建物はない。北上は肩で息をしながら一度引き返すべきか思案した。この豪雨の中、演習場を超えて行ったとは考えにくい。見失ったか…いや。
北上が滝のような雨のカーテン越しに見つけたのは、屋根のついた木造のバス停であった。
バス停は四方の一辺を除いて木の壁で囲まれており、海に面したその一辺に小さなベンチが置いてあるのが見える。北上はそこにバス停の柱の影になって座る、小さな人影に目を向けた。
「あんたか…」
「…雷蛇?」
ベンチで項垂れていた不知火はこの豪雨の中、肩で息をしている北上の姿を見て、心底意外そうに首をかしげた。
「どうしたのです?」
「そりゃ、こっちのセリフ」
北上は不知火の隣に腰を下ろして、傘についた雨粒を落とした。不思議そうに見つめる不知火の視線を感じながら、傘から視線を離さずに口を開いた。
「この濡れ鼠」
そう言って、睨みつけるように不知火の顔を見据えた。彼女の髪は先端から水が滴っており、その顔の表面に所々水滴が流れている。
「あなたには関係ありません」
ツンと突き放してくる不知火の態度を受けて、北上は何故彼女がこんな雨の中感傷に浸っているのか分かった気がした。
「またヘマしたんだ」
「……っ!」
舌打ちと共に、キッと鋭い視線が北上に向けられた。それを無視してさらに言葉を重ねる。
「ぬいぬいポンコツだもんね」
「殺しますよ、雷蛇」
「やってみなよガラクタ」
北上は急に声のトーンを落として、不知火の方にまっすぐ体を向けた。咄嗟に身構えようとする不知火の手を取って、バス停の壁に押し付けた。絡み合った指を強引にねじ上げると、不知火の顔が苦痛にゆがんだ。
つかんだ指の先が不自然にぶるぶると震えている。北上はそれを見て新しい玩具でも見つけたかのように、楽しそうに口の端を吊り上げた。
「若造は傷の治りが早くていいねぇ。それともギンバイした高速修復材(バケツ)のおかげかな?」
ぐっ、と指の付け根に指を押し当てる。未だ違和感のあるその指のつなぎ目に、ぐりぐりとえぐるように爪を突き立てた。
「いぎっ!」
傷口を無理やりこじ開けられる不快感と、焼けるような痛みが左手から肘のあたりを駆け抜けた。体をねじるようにして激しく身じろぎするが、もがけばもがくほど北上の指は深く執拗に傷口にめり込んだ。
「いたっ…あああああああっ!」
「どうしてこう馬鹿かね。あたし自分より馬鹿ってレアだから、見てて楽しいよ」
雨の音が強くなる。それはまるで二人を外界から遮断するかのごとく。狭いバス停の内側で、不知火の絶叫は完全に封じ込まれていた。
悲鳴を超え、そこに嗚咽や啜り泣きが混じり始めるころに、北上はやっとつかんだ腕を開放した。不知火はずるずると滑り落ち、ベンチの端にへたり込んだ。
「あんま背伸びするもんじゃないぜ、駆逐艦。無能こじらせると早死にするよ」
今朝の不知火の単艦特攻はもちろん報告を受けている。あいにく北上はそんな危険行為に腹を立てるような性分ではなかったが、駆逐艦の無謀な轟沈が続くと嚮導艦の監督不足とみなされる場合があるので100%無関係ではいられなかった。嚮導の任を外されるのは願ったりであったが、他艦種より「無能」の印を押されるのはまた別問題だ。
不知火は座り込んだまま、ぎゅっとスカートの裾を握り込んだ。掴んだ拳がぶるぶると震える。
「不知火は、死ぬのは怖くありません」
「うん?」
「不知火は何も怖くない。死ぬのも、壊れるのも…」
「頑固だねぇ、気持ちはわからんでもないけど…がっ」
北上は前方にもんどりうって、雨に濡れた地面の上に膝をついた。不知火の伸ばした足が、北上の脇腹に突き刺さっていた。
「やりやがったな…」
北上は赤く腫れた脇腹を押さえるよりも先に、向けられた足に手を伸ばしていた。ぐっと指に力を込め、自分の方へ引き寄せる。
対する不知火は目の周りを真っ赤に腫らしながらも、歯茎をむき出しにして笑っていた。伸ばした足をさらに突き出して、北上の顎の先を強く蹴り飛ばした。
ばしゃんと水がはね、北上が仰向けに倒れ込む。ベンチを蹴飛ばして起き上がった不知火も、このぬかるんだ地面に足を取られて、北上の横に両手をついて転倒した。降りしきる雨に打たれながら、お互いの視線が交差する。互いの胸倉をつかんで、交差する拳が互いの頬を突き刺した。両者とも後方に吹き飛び、大きな音を立てて倒れ込む。
真正面から雨に打たれながら、二人ともしばらく荒い呼吸を繰り返していた。
「やるわね、雷蛇」
「舐めるなよ、糞駆逐艦!」
二人の雄たけびは、誰にも気づかれる事無く、降りしきる雨の中にゆっくりと溶けていった。
窓にぶつかってくる雨粒の音はますます勢いを増し、静寂に包まれた廊下に足音を残し続ける。降り注ぐ雨の隙間に遠雷の響きが混ざり始めた頃、それらすべての音を聞き消すようにカツンと細いハイヒールが鳴った。
雷巡、いや『練習用艦』大井は窓の外へ視線を向けながら、白い手袋に包まれた手の平をぱんと打ち合わせた。寮の廊下はしんと静まり返り、大井の足元に座り込んだ二人はそろってびくりと肩を震わせた。
「これは、すべて私の責任です」
大井がゆっくりと話を切り出す。
彼女の足元には重く目を伏せた二人の艦娘。仲良く膝をそろえて、地べたに座らされている。その外装はぐっしょりと雨に濡れ、髪の先からぽたぽたとしずくが滴っては、床に水たまりを作っていた。
「これは、責任感が強くて人一倍仲間思いの北上さんが、降りしきる豪雨の中で駆逐艦と取っ組み合いをするなんて事はありえないだろうと高をくくっていた私の責任です。北上さんが嚮導艦という身分でありながら!」
「返す言葉もございません…」
肩をすぼめて縮こまる北上を一瞥し、大井はその隣で我関せずとそっぽを向いている不知火にギロリと視線を移動させた。
「そして…本来入居中の駆逐艦がベッドを離れて雨の中放浪してるなんて事は無いだろうと信じ切っていた私の責任です。おや、指が腫れていますね不知火さん」
「いえ、これはスーパーファミコンのやりすぎで…」
不知火は指先を膝の上で組むように隠し、すばやく頭をスライドさせて大井から逃れるように視線を外した。
頬を突き出すようにそっぽを向く不知火に対し、大井は大きなため息をついた。
「兎に、角」
大井はこめかみを抑えて、ずぶ濡れの二人を見下ろす。ぶるぶると身を震わせた北上が、小さく鼻を鳴らした。
「二人はまずお風呂です。雨天演習組の為に速吸ちゃんが沸かしたものですが、彼女達に交じって肩身の狭い思いをして来なさい」
「不知火ちゃん」
船渠に向かって歩き出す不知火の背中に、大井が声をかけた。振り返った不知火は不機嫌そうにそれに答える。
「なにか?」
不知火は傷ついた指を握りこむように隠す。
そのしぐさを確認して、大井は改まったように不知火に向かい合った。
「明石さんから聞いていますよ。高速修復材を悪用しているそうですね」
不知火はいら立ちを隠すこともせず眉をひそめ、鋭い目つきで大井を睨み付けた。
「悪用とは?隊を守るため戦うのは悪ですか」
「駆逐艦(こども)が死地に赴く理由となる薬など、害悪以外の何物でもありません」
ぴしゃりと言い放つ大井の瞳には一切の迷いもない。
「……」
不知火は大井のこういう性格が苦手であった。優等生に輪をかけたような「大人の対応」。よくできた女。
完璧なほど綺麗に出来上がった「大井」という女性像は、不知火にはゆらめく陽炎のように曖昧で歪んで見える。
「今私の悪口を言おうとしたでしょう」
「……」
カンもいい。それとも、自分が顔に出やすいのか。
大井は不機嫌な不知火を余所に、躊躇なくそのスカートに手を突っ込んだ。ふとももに固定した注射器を指の間に挟んでするりと抜き取る。
「これは没収します。薬は用法用量を守って何とやら、です。特に駆逐艦のあなたには負担が大きいでしょう」
そう言いながら、大井はもう片方の手でスカートのお尻から小さな紙包みを取り出した。不知火と手の平を重ねるように、そっとそれを手の中に握らせる。
「これは生傷の絶えない駆逐艦の為に私が常備している修復材です。安全性は明石さんのお墨付きをもらっています。あなたの望むような即時効果は見込めませんが、撤退の為の応急処置なら十分な代物です。無理せず撤退してください。だれも、不知火ちゃんを責めたりしません」
不知火は手の中の包みをつまらなそうに見下ろしながらつぶやいた。
「不知火は戦争兵器です。戦わなければ意味はありません」
「提督さんがそう言ったのかしら?」
大井は少し困ったように眉を下げる。
「はい」
不知火の答えに、大井はやれやれと小さくため息をついた。
彼が悪い人ではない事は大井も承知の事だ。しかし悪い冗談が好きで、しばしば駆逐艦たちを怖がらせるのは考え物だ。しかも素直に怖がってくれるならいい方で、中には彼女の様に素直さが裏目に出てしまうケースだって少なくない。
大井はどう諭すのが良いのか思案したものの、結局得意の口説き文句が自然と口から洩れてしまうのであった。
「そうね…。でも、男の言い分をいちいち真に受けてたら女は身が持ちませんよ。男の戯言なんて、話半分に聞いてるのがちょうどいいんです」
「しかし…」
「しかしじゃありません。戦争兵器でも、あなたは女の子。そこに異論はないでしょう?なら、年上の言う事は「はい」と素直に聞いておくものですよ」
「…はい」
「いい子ね」
大井は不知火の素直な様子に満足したように微笑むと、不知火の肩を180度回転させてその背中を押した。振り返った視線の先には、うんざりしたように肩をすくめる北上の姿がある。その辟易とした表情は向かい合った大井にも見えているはずだが、彼女は大して気にしていないようであった。
軽く肩を押されて歩き出すと、北上も不知火の横に並んで船渠へと歩を進めた。
「大井っち、すごいでしょ」
大して歩かないうちに、北上がぼそりと呟く。
不知火は背後からの視線を気にして何も答えなかったが、気にした様子もなく北上は続けた。
「あれに「毒され」たら、悪事なんて働く気も起きなくなるっつの」
やれやれと首を振る北上に対し、不知火はこらえきれずに小さく呟いた。
「貴女を見ていると、そうは思えなわね…」
朦々と熱気の広がる大浴場でゆっくりと湯銭につかっているのは北上と不知火の二人だけであった。
雨天演習を行っていた第八駆逐隊はシャワーを浴びて潮を落とすと、早足に船渠を後にする。演習後のミーティングに向けて、我先にと外装に袖を通していた。
取り残された二人は大きな湯船に肩まで浸かりながら、会話もなくぼうとただ立ち上る湯気を眺めている。
隣接された工廠の音が遠くで響く。広場の天井に反響して、静寂の中に独特のリズムを刻んでいた。
「お前はアタシの手に負えねぇ」
そのリズムを断ち切るように北上から話を切り出した。
「あなたがそれを言うんですか…」
皮肉ではなく本心からの疑問を口にした不知火を無視して、北上は続けた。
「新聞、読んだ?」
艦娘達は外部の情報を無断で知識として取り込むことは許可されていない。この鎮守府で「新聞」といえば、「青葉自身」の事だ。
(今週の記事内容は駆逐艦の待遇改善と意識調査…)
「司令との個人面談?」
「イエス」
「話が早い」と北上が指を鳴らした。
不知火も大して興味があって記事に目を通していた訳では無かったが、情報提供元に北上の名が上がっていた為に、駆逐艦達が必要以上に騒いでいた事を特別覚えていた。
以前よりこの「個人面談」の噂は鎮守府内では水面下で広まっていた。不知火が独自に得た情報によれば、漣が駆逐嚮導の任を解かれたのも、霞が秘書艦補佐の座に落ち着いたのも、この面談を通した提督への直談判が引き金になっているようだ。
「お断りします」
「うんうん、話が早いって…え?」
目を丸くする北上を余所に、不知火は丁寧に首を横に振った。
不知火を「そこ」に呼ぶ理由。シゴキか除隊かはたまた解体か。雷蛇の思惑がどうであれ、明るい先行きを考えろと言う方が無理であった。この申し出を不知火が断るのは、ある意味当然であるといえる。
「丁寧にお断りさせていただきます」
「何でさ」
心底意外そうな北上の声。「とぼけているのか?」と不知火は目を細める。
「雷蛇こそ何故私に面談を勧めるのです。それも嚮導艦の仕事なのですか」
「そういう訳じゃないが」
「なら尚更、貴女に命令権は無いわけですね」
しまった。北上は頬をひっかく。
嚮導艦命令と言われれば、不知火だって腰を上げないわけにはいかない。しかしそうする事もせずただ相手を諭し、軽く背中を押すように先を促す。まるで嚮導艦のような行動、あの大井のような。
善意に「毒」される。先ほどの北上の言葉が不意に思い出された。
「でもあんたに死なれちゃ困る。嚮導艦の監督責任になるかもしれないからね」
北上が咄嗟にそう言い繕う様を見て、不知火は薄く笑った。
「不知火は死ぬのは怖くありません」
「なら尚更」
「……」
いなしたつもりがスッと返しの刃を突きつけられる。不知火は途端に表情を崩し、ムッとして北上をにらみつけた。
北上の目障りなニヤケ面が目に入る。口の端を釣り上げながら、目を瞑ってとぼけたように首をかしげている。
「馬鹿は、死んだって直りゃしないんだからさ」
不知火の怒気を含んだ視線が鋭く光る。北上は目が合う前に、視線から逃れるように湯の中に頭を沈み込ませた。
「霞ちゃん」
「ん~?」
「今日は…」
「…」
「お仕事はしないのかい?」
私がそう聞いたのと同時に、午後9時を知らせる鐘が鎮守府全体に響き渡った。ばたばたと表の廊下で足音が遠ざかっていく。
霞ちゃんは一人、素知らぬ様子でソファーの上にうつぶせになって雑誌をめくっていた。
「今日はいいわ」
「仕事に今日も明日もないと思うのは私だけかね…」
私は露骨に不満を漏らすような事はせず、言葉の端に微かにそれを匂わせる程度に留めた。
書類に万年筆を走らせ、サインする。判子に手を伸ばしながら、空いた手で眠気により熱を帯びてきた頬の肉を軽くつねった。
ここ連日「もぐりこみ」が続いた為か睡魔の進撃が激しい。
艦娘たちの前に顔を出している昼間ならともかく、書類仕事を片付ける夕方から夜にかけてはこの所とても身が入っているとは言い難い状態が続いていた。
片付いた書類の束を机の端に追いやり、大きく伸びをする。指の先からブルブルと全身の緊張が抜けていく。私は腕を伸ばしながら欠伸を噛み殺した。
「霞ちゃんももう帰りな」
「私は寝る」とは告げずに、こちらに向けられている霞ちゃんのお尻に向かってそう呼びかけた。
霞ちゃんはピクリともせず、食い入るように雑誌を眺めている。
私は椅子から立ち上がって、ゆっくりと霞ちゃんが寝転がっているソファーに忍び寄った。 少し背伸びするだけで、小さな霞ちゃんの背中から雑誌の記事を覗き込む事ができる。案の定、それは「霞改二」の特集であった。
「『B-4基地の霞』改二へ」
霞ちゃんはページの端を指先で「ぺらぺら」している。そして、思い切ったようにページの端に「耳」を折った。
「霞ちゃん、軍の支給品」
「うっさいクズ」
私は軽く息をつきながら、霞ちゃんの横に腰を下ろした。
「私は会った事があるよ、『その霞』にね」
霞ちゃんは私の言葉を聞くと、パタンと音を立てて雑誌を閉じた。こちらに顔を向ける事は無いが、どうやら私の次の言葉に耳をそばだてているようだ。
「君とは正反対な性格でね、元気があって常に笑顔を絶やさない、隊のムードメーカーだった。ちょっと男勝りな所があってな、演習では進んで第一陣を切り込んでくような勝ち気な性格で、なびく赤毛が揺れる炎(ひ)のように見えるんだ」
「それが『私と同じ霞』?」
霞ちゃんはじっと私の話を聞いている。
私は大きくうなずいた。
「成績も優秀だった。今の君に負けないくらいね」
「なら、妥当な采配ね」
霞ちゃんは興味なさそうに呟くと、雑誌を持って立ち上がった。
「『霞ちゃん』が改二になれるかどうかは、分からないな」
「聞いてないわよ」
「そうか、おやすみ」
廊下の影に消えていく霞ちゃんの背中は、やっぱり少し寂しそうに見えた。
『B-4基地の霞』が改二になったとしても、『うちの霞ちゃん』が改二になれるとは限らない。
2隻は全く別の性質を持った艦であるし、大本営(うえ)の許可が出ても私が許可を出さないかもしれない。私が「良し」と思っても、現場の日向が「良し」としなければ私は改二を取り下げるだろう。
艦娘とはそういうものだ。同じ艦名でも素体となった深海棲艦は全くの別個体であるわけで、性格も外見も鎮守府によってバラバラだ。
『B-4基地の霞』が熱く力強いのに対し、『うちの霞ちゃん』は冷静で情熱的だ。艦名が同じなのは軍の悪趣味なゲン担ぎの的となっただけに過ぎない。
彼女らは卵から生まれた新生物でも無ければ、かつての戦争を生きた軍艦の生まれ変わりでもない。
ただの少女だ。
もちろん社会がそれを許さない。全身に強化細胞による肉体改造を施し、鉄でできた骨格を持つ人造兵器を少女と呼ぶのは世間が許さないだろう。
彼女たちは兵器であり、戦いの道具だ。戦争が終われば存在価値を失う。それはもう、ただの少女などでは決して無い。
しかし、かつてのものたちがあの面影の中に絶えぬ笑顔を携えていたのも、また揺るぎの無い事実なのである。
それを思うたび私は、自らの外道を再確認する。罪悪感は無い。後悔や自己嫌悪は既に一生分を終えていた。
深海棲艦の殲滅に命を捧げると誓ったあの瞬間に、私の中の人道は断末魔も上げずに死んでいる。私は兵器にも、鬼にもなれなかった半端者。言い聞かせるまでもなく、自覚している。
「だめだ、眠い」
思考のまとまらない頭は、時折余計な事を考える。
『気軽にのんびり、気長にやろう』
鎮守府(ここ)に来た時の元帥の言葉を思い出す。
当時は何を呑気な、と思ったものだが、今ならあれ程身に刻むべき激励も無いのであろう。「イレギュラー」によって生まれた奴らは、今や数を増やし「種」となりつつある。それを根絶しようと言うのだから、1年や2年で終わるような戦争(たたかい)とはならないだろう。
「気軽にのんびり、気長に殺ろう」
思い立って、自然に笑いが漏れた。
「馬鹿馬鹿しい…」
考えれば考えるほど気がめいる。限界だ、寝よう。
私は自室の扉を開けると、ベッドに大の字に倒れ込んだ。布団に勢いよく飛び込んだ衝撃で、ふわりと甘い香りが漂う。
霞ちゃんか漣か、はたまた初雪か。
私も軍人として硬派を気取っていたつもりだったが、随分な「女たらし」になったものだ。やっと提督らしくなったか、などと皮肉を言う者もあるかもしれない。
久方ぶりの、一人の夜だ。
誰かが側にいてくれればなどと、考えてはいけない。
一人で存在(い)なければいけない。
一人で戦わなければいけない。
一人で背負わなければいけない。
重圧ではない。孤独は救いだった。
私が孤独であると言うことは、戦争が万全で順調で、世界が平和で幸福だという事だ。
私が本土に顔を出すということは事態がそこまで逼迫しているという事。
誰とも会わず、連絡も無く、一方通行の報告を繰り返す。それが世界にとっての平和だった。誰とも会わなければ、私自身が他者に害を及ぼす心配もない。
胸の奥の淡い不安は、自覚してはならぬ破滅への抵抗。暗闇の中の孤独な精神が、私のやわな心臓に爪を突き立てている。忘れていた恐怖と焦燥。「もぐりこみ」が思い出させた、ぬくもりと不安。
「誰か、私をここから連れ出せ…」
思うだけならタダだ。そう思った。
口に出していた事には、気がつかなかった。
あまりに眠りが深すぎると、目を覚ました瞬間に眠りについた時の記憶をはっきりと覚えている事がある。
朝の陽ざしを浴びてこの感覚を覚えた時は、思わず「寝た気がしない」などと呟きたくもなるものだ。しかし私の眠りを妨げたのが太陽の光では無く、冷たい風の音であったため、不快感より先に疑問を強く感じる結果となった。
上体を伸ばし、首を動かして部屋の窓へ顔を向ける。
カーテンが風に揺れ、月明かりがテーブルを照らしていた。吹き込む風に乗って、粉っぽい匂いが鼻を突いた。深く吸い込むと、鼻の奥がじんわりと熱を持つのを感じる。
私は上半身だけをベッドから起こし、月明かりに照らされる桃色の少女へ目を向けた。
駆逐艦「不知火」はゆるりと紫煙を燻らしながら、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
「おい」
私が声をかけると、頬杖をついたまま顎の位置をずらすようにして顔を向けた。
「おはようございます司令」
悪びれた様子もないその横顔に、私は呆れてため息をつく気にすらならなかった。
「『もぐりこみ』だな。私は聞いてないぞ」
「その方が面白い…と」
「北上か」
「大井さんが」
「まったく」
大井の奴め。
私は悪態をつきながら、ぼりぼりと頭をかいた。大あくびをかましながら、固まったまぶたを擦り上げる。ぼんやりと揺らめいていた不知火の姿が、はっきりとその印象を明確にする。
彼女はだらしない私の寝姿を見てなのか、口の端を歪めて楽しそうに紫煙を揺らした。
「貴方のそんな姿を見れただけでも、ここに来た「かい」があります」
「私も君のそんな姿を見れるとは眼福だ」
お返しの如くそう言って口元を緩めた。
不知火は不思議そうに自分の服装を確認すると、ぎっ、と歯茎を剥き出しにして鋭い歯をのぞかせた。
「これは不知火の寝衣です!」
「そうかい」
私は自分の顔がみるみる嫌らしい笑みで染まっていくのを止める事ができなかった。しかし世の男性諸君であれば、誰も私を責める事などできなかっただろう。
不知火は素肌の上にワイシャツ一枚の姿で、月明かりに肌を透かしていた。華奢な肩のラインから、下に身につけているブラの紐がうっすらと見えている。
にやにやと嫌らしく笑う私に対して、不知火は顔を真っ赤にして抗議の声を上げた。
「し、不知火に何か落ち度でもっ!?」
「いんや、ただ私の部屋を出ていく時は人目を気にした方がいい。変な勘違いをされるぞ」
「んなっ!」
不知火は私のニヤケ面がよほど気に入らないのか、机の上に灰が落ちるのも気にせず、ガタンと音を立てて立ち上がった。
「不知火には殿方のYシャツを拝借するような、破廉恥な趣味はありませんっ!」
「そこまで言ってないだろう」
生真面目な色気の無さは、むしろ彼女らしいと言えるのだろうか。
彼女は怒りに任せるまま煙草を灰皿に押し付け、脇を占めてシャツの襟を正した。
「これは不知火が自分の「点数」で購入したものです。ついで言えばレディースです!」
そう言いながら、ぐいとボタンのつなぎ目を見せつけてくる。なるほど左ボタンだ。
彼女が言った「点数」と言うのは、鎮守府内のみでやり取りされている通貨の事である。艦娘は金銭を持つことを許可されていない。その為、撃墜数や戦果に応じた点数が毎月支給されている。彼女たちはそのやりくりの内側だけで趣味を楽しむのだ。
「断じて、ご期待のようなエロエロな趣味は持ち合わせておりませんので」
不知火は念を押すように言うと、音を立てて再び椅子に座り直した。
新しい煙草を取り出し、もう片方の手でマッチを擦る。煙を吐きながら指先でこするように素早く火を消した。
「初めて吸うやつの動きじゃないぞ、どこで煙草なぞ吸ってるんだ」
私は机の上に置かれた煙草の箱を取り上げる。随分軽くなったそれからは、湿気った葉の香りが立ち上っていた。
「購買では煙草の販売を禁止しているはずだろう。いつもどこからギンバイしてくるんだ」
不知火は、つんと窓の外を眺めていて話そうとしない。露骨にシラを切るのは駆逐艦の得意技だ。普段は大人ぶっていても、こういう技は抜け目なく使って来る。
私はため息を飲み込む為に、箱の中から煙草を一本歯で抜き取った。
「火」
短く言って、不知火に目配せする。
不知火は手元のマッチ箱を左右に振りながら、先ほどのお返しのようにニヤリと口元をゆがめた。
「生憎今のが最後の一本です」
「仕様が無いな」
私は布団から這い出すと、おもむろにベッドから腰を上げた。今まで少し高い位置にあった不知火の頭を上から見下ろす。
不知火は私が何をするのかわからず、きょとんと目を丸くしている。細く立ち上る紫煙が、彼女の心情を表すかのごとく不安げに風に揺れていた。
机の上に手をついて、ゆっくりと重心を寄せる。不知火に顔を近づけると、不自然なほどぴたりと目が合った。
瞳の奥に見える私の姿は、彼女のかすかな不安を受けて細かく震えている。細い肩をつかんで抱き寄せると、不知火の体がびくりと縮こまった。手のひらを通して、その小さな震えが私にも伝わってくる。
なんだコイツ。可愛いな。
指先で顎を寄せて上を向かせる。口からこぼれ落ちそうになっていた煙草が、くっと押し上げられた。
赤く燃える先端に私の煙草を合わせ、不知火の頬に触れて軽く押しつけた。
暫しの沈黙。
躊躇いがちに不知火の瞳が揺れる。その表面には薄い涙の幕が張っていた。
彼女が自覚せぬ間に、少しずつ、火は燃え始めた。
しばらくの間お互い無言で煙を吐き続けた。
もくもくと吐き出された紫煙は、部屋の中央に渦となって視界を薄く曇らせている。
灰色の世界の内側で不知火の灯した煙草の明かりだけが、まさに海面に浮かぶ不知火の火のようにゆらゆらと揺蕩っている。
不知火の腕が窓にのびる。指先でたぐる様に窓の隙間を広げると、我先にと外に解き放たれる紫煙と入れ違いに、肌を撫でる夜の空気が部屋中に充満した。
「今日は無茶をしたな、不知火」
一息ついて、そう切り出す。
「……」
しかし不知火は返事をせずに、代わりに細く煙を吐き出した。
「これは私の煙草だ。どこから出した」
頑なに口を閉ざす彼女に対し、私は話題を変えた。
不知火は視線の向きで、壁際のクローゼットを示した。
「吸っている所を見たことはありませんでしたが、灰皿があったので」
「これは私の妻が吸ってたものだ」
私の言葉に不知火は面白いくらいに目を丸くした。あんぐりと開けた口から放たれる二の句は、簡単に想像がつく。
「お、奥様がいらっしゃったのですか?」
「うん」
ぽかんとしている不知火を放置して、しばらく煙草の味をかみしめた。
昔は妻と部屋でくつろいでいる時にこの匂いをかいでいた。自分で吸うのは学生の頃以来だ。
「女職場だから指輪をされてないんですか。いやらしい人ですね」
何気に酷い事を言われた気がするが、気にせず自分の左手を確認する。右手で煙草を抑えながら、本来束縛の証をきらめかせているはずの指を親指のはらで撫でた。
「奥様は陸にいらっしゃるのですか?」
「あー、うん。いや…」
こういう時、良い上官なら「本土で元気にやってる」とか「よく手紙が来る」とか言うんだろうな…。
そんな事をぼんやりと思いながらだったので、その言葉は存外そっけなく、まるで思い入れの無い響きとしてぽつりと吐き出された。
「死んだ」
「……」
呆然とする不知火を視界の外側で認識する。
我ながら最低な上官だな。改善はしないが。
「も、もうしわけありませんでした」
「気にする様な事じゃあない。もう、5年になるか」
口に出しては、指を折って数えるポーズをした。これは「嘘をつくポーズ」でもある。忘れるはずもない、五年前の惨劇その只中の出来事だ。
忘れるはずは、無い。
「妻は鎮守府(ここ)の工員だったんだ。私の部下だな」
「その人は、その…深海棲艦に?」
「ああ。本土への定期船を襲われたんだ」
「鎮守府と本土で船の行き来があったんですか」
そこに食いつくのか。そうだな、確かに今では考えられない事だろう。
「しかも頻繁にな。当時は鎮守府や艦娘に対してそこまで厳重な管理は求められてなかったんだ」
当時の日本は深棲艦艦狩りをまだお国の事業として手厚く支援していた。今のように鎮守府を腫物のように扱い、本土から隔離しようという動きも無かった。艦娘(こっち)も深海棲艦(あっち)もまだ未知数な事が多かった頃、鬼級なんかが初めて出てきた頃だ。
「当時としては考えられないような計画的な奇襲でな。全滅だった。護衛についていた艦娘も全て死んだ」
定期便は物資を積んだ「行き」では無く、人を乗せた「帰り」に襲われた。あれが深海棲艦達の演習だと分かるまで、本土では半年を有したのだ。
「おかげでお前にはさびしい夜を過ごさせてしまっているな」
そう言って窓の外を眺める。
気が付かなければ軽く流すつもりだったが、不知火は私の意図を読み取り煙草を吸う手を止めた。
「まさか…陽炎?」
「護衛隊の旗艦だった」
鋭い小娘に向け煙混じりのため息をつく。
陽炎型の一番艦。艦歴で言えば不知火の姉にあたる船だ。
「いい艦娘(ふね)だった。長い黒髪がいつも皆の目を引いていてね。口数は多くなかったが、任務に常に誠実で仕事に誇りを持っていた。思えば、お前と似ているかもな」
「不知火は、誠実などではありません」
そう語る彼女の声は、どこか呆れたような哀愁に満ちている。乾いた笑いと共に不知火は指先で煙草の灰を落とした。
ここ数日駆逐艦と向き合ってきて、不知火の持つ独特の雰囲気に私は何かを感じ始めている。霞ちゃんのような幼さ故のもどかしさとは別ベクトルの、人から評価されることをむしろ拒んでいるような、ひねくれ物で軟な精神(こころ)。
「クマから報告は受けている。先に言っておくが今日の件はお前が正しい。鳥海もそう言っている」
「鳥海さんも…ですか?」
俺の話に不知火は素直に驚きを露わにした。
鳥海とのひと悶着はもちろん私の耳にも入っている。昼の間に鳥海にも直接話を聞いていた。私の仕事は駆逐艦のメンタルケアだけじゃない。
「ただし、物事の正悪は事象の一方向から確認できる事が全てじゃない。生憎私と鳥海の結論は一致している。あの特攻は無謀だ。摩耶から報告を受けたが、あそこまで無茶をしなくても済んだはずだ」
「あの魚雷の裏には戦艦が控えていました。予定通り回避行動を取っていれば狙い撃ちされていた可能性があります」
「鳥海はそれを承知したうえでお前を殴った。私から見ればあいつは職務を全うしている。やや強引で、お淑やかではない方法だがな」
私のさらなる言及に不知火は軽く身を引くが、私から目を逸らす事無くぴんと背筋を伸ばして答えた。
「駆逐艦である不知火が盾になれば、被害は最小限に抑えられます。重巡の鳥海さんや、主力の球磨さんが轟沈(お)とされるよりは、ずっと…」
「お前は、仲間を見下しすぎる」
堪えきれず言葉の間に割り込んだ。駆逐艦の自己犠牲など聞くに堪えない。
「お前がどれだけ立派な価値観を持っていようが知らんが、お前の様に駆逐艦一人の犠牲だと割り切れる者は多くない。格上の巡洋艦や戦艦であってもだ。隊の士気を下げるようなマネはよせ、お前の単独行動は自分は仲間など信用していないと宣言するようなものだ」
「不知火は人間ではありません。「兵器」は「効率」によって運用されるべきです」
「…なぜそこまで拘る」
「……」
不知火は目を逸らさず、すがる様に私の瞳の奥を覗き続ける。透き通るようなその視線に、心の奥から言葉を引き出されそうになる。
腹の中で小さく深呼吸すると、私は努めて自然に不知火から視線を離した。
不知火は目を閉じた。そのまま、祈る様に膝の上で手を組んだ。
「かつて艦娘は哀れな兵器だと言った人がいました」
不知火の声はかすかに震えている。
「兵器は持ち主の指が引き金にかかれば、標的に同情して弾道を曲げる事は無い。何も考えず戦って死ねと、その人は私に言いました」
小さな声が、かすれた様に囁く。
「ですか不知火はもう、耐えられません…」
自らを抑え込む様に握られた手、葛藤に震える苦悶の表情、マリンブルーの瞳がわずかに涙に揺れていた。
「殺すのも殺されるのも、姉の影を追うのも、人の命を背負うのも、繋いだ手を放すのも、断末魔の波の音を聞くのも、何もかも、もうたくさんっ!」
ガタンと椅子を鳴らして、不知火が部屋を飛び出した。
「不知火っ!」
私も慌てて後を追う。
指令室に飛び入ると、廊下へ続く扉の隙間に桃色の髪がするりと抜けて行った。
「不知火っ!」
慌てて不知火の後を追う。
司令室に飛び入ると、廊下へ続く扉の隙間に桃色の髪がするりと抜けて行ったのが見えた。
「待て、不知火!」
静止の声は、叩きつけるような扉の音にかき消される。急いでノブに手を掛けるが、もう廊下の先には不知火の姿は影も形も見当たらなかった。ここは三階。上は屋上、下から外に出る為にはあと二階分距離がある。階段の踊り場の窓に雨粒がぶつかっている。階段を走る音は聞こえない。
上か。
階段を上ると、屋上へのガラス戸が見えてくる。ぼつぼつと大きめの水滴の影が透けて見えた。戸に手をかけ、一気に開け放つ。びゅうと、鋭い風の帯が顔の上を撫でた。
「残念です。外で雨晒しになる貴方が見たかったのに」
不知火は一人暗い空を眺めていた。屋上の外枠に肘をついて、私に背を向けている。
「雨晒しはお前の方だろうが」
私の言葉に不知火は濡れた前髪の影で、にやりと口元を歪めた。
雨の中に一歩踏み出す。小さな雨粒が肩を濡らすが、見た目ほど強くはなさそうだ。歩を進めるとぱしゃりと足元で水が跳ねた。
「不知火はずっと皆を護る為に戦ってきました」
不知火に並んで柵に寄り掛かる。鉄柵はしっとりと濡れていたが、もうあまり気にはならなかった。
「でも本当は自分を護る為。「戦う」為に「護って」たんです。私が兵器であり続ける為に、私には戦う理由が必要でした」
不知火が自虐的に笑う。
兵器である為に、精神ココロを殺す。コイツはきっと、兵器としての死に場所を探してた。
「こんな心はいらない、不知火は本当の「兵器」になりたかった。鉄の心が欲しかった」
艦娘と言う楔が生み出す葛藤。そしてその楔に槌を振り下ろしたのは、他でも無い私なのだ。
結局のところ私は艦娘が「兵器」であるというだけで、それがイコール「モノ」であると決めつけてしまっていた。彼女達が悩み、苦悩に蝕まれている事から目を逸らし続けていた。
国から見捨てられ、病魔に侵されながら辺境の地でいつ終わるかもわからない戦争を繰り返す。可愛そうな「私」。自分ばかり悲劇のヒロインに酔っていた。恥ずかしくなるほど。
無言になった不知火を見る。
鉄柵に身を預け目を伏せて項垂れる。うち付ける雨の中、小さく縮こまった肩は小刻みに震えていた。
これが兵器か。
「不知火は…」
目を伏せたまま不知火が呟く。握った拳に力がこもる。
こだまする雨音が彼女を覆い隠すかのごとく、ほんの少し大きくなった気がした。
「もう…戦いたく、ありません」
兵器である意義の否定。
降りそそぐ雨が、不知火の頬を伝った。
「いっそのこと司令のパンツ履きます」
「不許可だ」
落ち着きなく椅子に座る不知火を嗜めると、私はクローゼットからバスタオルを取り出して不知火の髪に押し当てた。わしゃわしゃと音を立てて髪の毛をかき混ぜる。
「し、司令。ゴムを外すのでちょっと待ってください!」
不知火は指を髪の中に突っ込み、するりと髪をほどく。瞳の色と同じマリンブルーの石のはまったゴムを、己の手の中に握りこんだ。ピンクのちょんまげがほどけ、水を吸った髪が重力に従いすとんと落ちた。
「というか部屋帰れよ」
「雨が強くなってきたので寮には帰れません。ここで寝ます」
「私のパンツは貸さんぞ」
「しょうがないのでワイシャツだけ借りる事にします」
不知火は私の手の中から抜け出すと、クローゼットまで歩いて行き、かけてあるハンガーの一つを手に取った。ぎらりと鋭い視線を突きつけられる。
「出て行って、どうぞ」
「私の部屋なんだが…」
不知火の視線がより鋭く突きつけられる。
私はその鋭さが物理的なものに切り替わる前に部屋を退散した。
「どうして司令のワイシャツはこうも大きいものばかりなのですか」
「そりゃ、素肌の小娘が着る事は想定してないからだ」
私のワイシャツを着こんだ不知火は、「だぼだぼ」な肩幅を袖の余った腕で几帳面に整えている。甘えんぼ袖どころか指の先まで服の中にすっぽりと埋まってしまっている。その姿は、どこぞの駆逐艦娘の姿を髣髴とさせる。名前は忘れたが、ジェットなんとかというやつだ。
「変な菌がついても知らんぞ」
「年頃の女子が絶妙に嫌がる事を言うのやめてください」
不知火は露骨に眉をひそめてベッドの上に腰かけた。私も続いて毛布の上に仰向けに転がる。
「もう寝るぞ」
「本当にここで寝るのですね」
「今更だな」
寝転がりながら見上げる不知火は呆れたように肩をすくめると、少し距離を置いてベッドに横になった。暗がりの中でお互いしっかりと目を合わせているので、なんだか妙な気分だ。
「恥ずかしく無いのですか?」
不知火が問いかける。
「……」
考えた事も無かった。駆逐艦なんて皆子供みたいなものだと思っていた。だが不知火ほどの精神年齢となると、あまり子供扱いするもの問題か。
「それもそうだな」
言うや否や私は不知火の手を取った。力を込めて引き寄せると、枕の上で不知火と私の顔が急速に接近した。
「おいで、不知火」
「いえ、レディ扱いして欲しいのでも無くて…」
「不満の多い奴だな」
「貴方に聞いたのが馬鹿でした、と言わせていただきます」
不知火は腕を振りほどくと、機嫌を損ねたのかふいと私に背を向けて膝を抱えてしまった。
しばらく無言でその背中を見つめる。見慣れたワイシャツにから透ける柔肌、肩から腰にかけての華奢なラインについ目を奪われてしまう。
「……」
実に癪(しゃく)だ…。
何故駆逐艦相手にこんなドギマギしなければいかんのか。こんな事では、もし今後改陽炎型でも来ようものならどうなるかわかったもんじゃない。
私は意を決して不知火の背中に手を伸ばした。腰の下に指を差し入れて、自分の方に抱き寄せる。予想に反して不知火は大した抵抗も無く、私の腕の中におさまった。けだるげな声でつぶやく。
「どうしましたか、不知火に欲情でもしましたか」
私は不知火の言葉を無視して、より体を密着させた。
「お前は絶対に守ってやる」
「……」
脇の下を通していた腕をスライドさせ、首の後ろから腕を通す。そのまま包み込むように胸の前で腕を組んだ。ひっかかった不知火の指が、私の腕を強く握っている。ぎゅっと腕を圧迫され、私もそれに反応するように強く肩を抱いた。
背後から不知火の髪に顔をうずめる。乾燥した雨と煙草の匂い。
「私は厄介者を匿うのには慣れてるんだ」
「…変わりましたね」
「どうだろうな、自分ではわからないが」
表情の見えない向こう側で、不知火が小さく笑った気がする。
「私の知らない貴方になってしまうのは、少し寂しい気もしますが」
腕の中で不知火がもがいた。回した腕に小さく頬ずりする。
「眠るまでこうしていてください。まだ、体が冷えていますので」
そう呟いて、腕にかかる負担が少し大きくなる。
不知火の指先が、回した私の指に触れている。どちらからとも無く指を絡ませ、お互い求め合うかの如く手のひらを重ねた。
愛しい体温。心地よい欲望が夜を深めさせる。
雨の音が、する。
翌朝の司令室。
そこには三人の影があった。机を挟んで向かい合う提督と「監察艦」大淀。そして提督の横に並び立つ不知火。
大淀は一通りの説明を聞き、十分に吟味した上で大きくうなずいた。
「解体しましょう」
指令室の真ん中で、大淀がにっこりとほほ笑む。
「解体しましょう」
「私の話聞いてた?」
机に座って肩をすくめる提督に対し、大淀は眼鏡をギラつかせてぐいと迫った。
「弾の撃てない大砲の維持にかける費用はありません」
「不知火には私から仕事を与える」
大淀はその言葉を聞くと、「またか」とばかりに眉をひそめて大きくため息をついた。
「はいはい、飲み屋の女将の次は何ですか?お皿洗いですか?ゴミ出しですか?」
「不知火は大淀の秘書にする」
「はい、なんか言い出したよこの人」
いぶかしげに眉間のしわを深める大淀に向かって、不知火が一歩歩を進める。
そして大声で宣言した。
「宜しくお願いします、大淀お姉ちゃん」
「なにこれ可愛い!秘書にしたい!」
「決定」
指を鳴らす提督、表情を咲かせる不知火、大淀はすぐさまげんなりと頭を抱えた。
「そもそも私はもうここの所属じゃないんですか…」
「お姉ちゃん大好き」
「はい、ここの子になります」
「じゃ、さっそく仕事にかかってくれ」
提督は目をつむって、よしよしと頷いた。口元だけを笑みの形に歪めて。
「無理を言って申し訳ありません」
早足で廊下を歩く二人。
不知火がいつもの調子で切り出した。横を歩く大淀は、それを受けて小さくうなずいた。
「いいのです。私もあの人のやり方に毎度ツンケン文句を言ってばかりというのも気が引けますから」
大淀は作戦棟の入り口で立ち止まり、横の不知火へ顔を向けた。胸の前でファイルを抱え直し、右手で眼鏡の位置を正す。太陽の陽ざしを反射して眼鏡が白く発光した。
「不知火さんは今日来る新人さんを迎えに行ってください。『旅行』の準備をして、お昼には食堂に」
不知火はいつも通りの制服姿で、踵をそろえて敬礼した。
「了解致しました、大淀さん」
大淀の答礼を受けて、彼女を残し作戦棟を出る。大きなガラス戸の外で、大淀が声をかけてきた。
「…お姉ちゃんとは言ってくれないのですか?」
不知火は戸惑いながら入り口の人影を振り返った。こういう冗談をこの人はどんな顔をして言うのだろうか。残念ながら不知火の位置からでは逆光でその表情は窺い知れない。
不知火は大声を張り上げた。
「いってきます、お姉ちゃん」
「結構」
満足したように大淀が頷いたのを見て、不知火も踵を返した。
新人の艦娘。
艦娘製造の妖精たちは深海凄艦があがるたび、運用など度外視で艦娘作りに打ち込んでいる。生まれた艦娘はその鎮守府に配備される事になるが、特に遠征・哨戒任務の多い鎮守府は駆逐艦の新配備が多かった。
不知火は作戦棟を抜け、あのバス停にやってきた。北上と殴り合ったあのバス停である。
ここに実際バスが訪れる事はもうないのだが、出撃用の浅橋に近いこの場所は待ち合わせ場所として今でも艦娘達に重宝されていた。
木造の小屋の表面が日光に焼けて、ちりちりと揺らいでいる。昨夜の雨が嘘のように太陽が強く照りつけていた。
陽だまりのスポットライトの下に、彼女はいた。
不知火は言葉を失った。
風になびく髪は、燃えるような橙色の輝き。
二つに結んだ髪が風に流れ、白い手袋に包まれた細い指がそれを強引に抑えている。明るい色の瞳は、まるで宝石の様に深い色を携えている。
曲がったリボンがはたはたと風に揺れる、羽織った黒のベストは不知火と同じ制服だ。
少女の瞳が不知火をとらえる。
「やっと会えた!あんたが、案内役?よろしくね、あたしは…」
少女はそこで言葉を切った。どう話を続けていいかわからなかったからである。初対面のはずの不知火が、自分の顔を見てぼろぼろと涙を流していのを見て少々面食らったというものある。
少女は何も聞かなかった。優しく微笑むとゆっくりと不知火に歩み寄り、震える妹の肩を優しく抱きしめた。
「初めまして、不知火」
話さなければならない事があった、伝えたい事も、だが止めどなく溢れる涙がそれを口に出す事を許さなかった。少女の肩に頭を押し付けて、両の肩を指先が白くなるまで握りしめていた。
少女の手が、柔らかく不知火の髪を撫でた。
頬を寄せ、小さくつぶやく。
「ただいま、不知火」
■いつかの過去■
私は泣いていた。
理由は覚えていない。
誰かが死んだのか、誰かを死なせたのか。
理由は想像に難くないが、うまく思い出せない。
ただ泣いていた。両の目を真っ赤に腫らして、見つめる夕日を滲ませていた。
「何故深海棲艦と戦わなくてはいけないのですか」
泣きながら私は訴えた。流れる涙からは苦痛の味が滲み出ていた。
「深海棲艦はただの怪物ではありません。奴らの悲しみに満ちた瞳を覗いた事がありますか。何故戦うのです、何故殺さなくてはいけないのです」
我ながら若いと思う。
意味ある戦いを望み、意義ある戦争と信じ、誇りある兵隊を演じていた。
戦う事と戦わされる事を同一視し、殺す事と殺される事を別の次元で考えていた。
司令は私の横で、乾いた瞳で水平線を眺めていた。
「お前は兵器だよ不知火。拳銃は引き金を引かれさえすれば、標的に同情して弾道を曲げる事は無い。行き場の無い疑問や、「考える力」はきっとお前を苦しませ続ける。ただ殺し、時来たらば死ね。私はこれ以上に優しい言葉は思いつかない」
その声はとても乾いた質感で、私の心に残り続けた。
鉄の心は、乾いた精神と味気ない優しさの中から生まれた。
私はこの時、自らが与えうる全てをこの人に捧げると誓ったのだ。
だから…。
『変わりましたね』
あの人を変えた、名前も知らない誰かさんに。
私はきっと、嫉妬しているのだと思う。
【残酷で優しい君へ】
◆おまけ◆
「ねぇ、不知火って寝るときいつもあの恰好なの?」
「あの恰好って…ああ、あのワイシャツ?なんかゆったりしたのがええっちゅうてて、新しいのとかしょっちゅう買ってるみたいやで」
「ゆったりって、なにもあんな「よれよれ」のワイシャツ着なくていいのに」
「普段ピシッとしとるからやないの、オフではのんびりしたいんちゃうかなぁ」
「あんなもんどこで買って来るのよ…」
「男物のワイシャツなんて」
おしまい
今回から三点リーダーの使い方を変えています。
更新情報twitter【しらこ@august0040】
※投稿日2015/9/3
このまま最後まで麻耶で通すん?
すみません↑無しで
>P5jZ0jgKさん
ご指摘ありがとうございます。
更新が遅くて誤字はほっときっぱなしでした。スミマセン。
むしろなぜ最後だけ直ってたのか・・・。
今後も不備などあればコメントしていただければと思います。
戦闘シーンの描写が
すごいカッコいい!!
>らうさん
コメントありがとうございます。
戦闘シーンはかなり雰囲気重視で書いている部分が多く、「よくわかんないけど、なんかカッコいいな」と思っていただけばそれが正解です。
細かい描写や、単語を拾い上げられると簡単にボロが出るような状態ですが、勢いで読んでいただけると嬉しいです。
ところで、第四戦速ってなんなんだ・・・?
盛り上がってキター(布団だけに)
> jamqJLr9さん
コメントありがとうございます。
大変長らくおまたせいたしました。
ここからは「もぐりこみ」まで突っ走ってきますので、あともう少しお付き合いくださいませ。
しかし布団が盛り上がるって、それ中で何やってるんですかねぇ。
地の文の描写力が素晴らしいですね。自分も見習いたいです!
>がっくらさん
返信遅れて申し訳ございません。コメントありがとうございます。
読んでいただければわかりますが、「もぐりこみ」は地の文の前半を三人称、後半を一人称で書いています。視点の違いは見え方の違いであり、それは文の中にも明確に現れます。私の文章力はたかが知れていますが、「もぐりこみ」が短編であるという事と、前後半で視点(文章テーマ)が切り替わる事で読み手に新鮮な印象を与え、文に飽きさせないようにしているつもりです。
こういった小ネタを使えば私の雑な文章でも「演出」で魅せられると思っています。
大淀さん粋な事をして・・・不知火には幸せになって欲しい
とても素晴らしいお話をありがとう
不知火編お疲れ様です
これからの展開も期待しています
不知火編お疲れ様です
これからの展開も期待しています
>ニンニクさん
コメントありがとうございます。
こちらこそいつもありがとうございます。私なんかには勿体ないお言葉です。
大淀は二次創作人気が高く敬遠していたのですが、今回物語全体の引き締め役と言いますか、明確な「鎮守府外部の存在」として登場させました。
いざ書いてみると思いのほか立ち回りが軽快だったので、文字通り不知火編の「締め役」を演じていただきました。
個人的には真面目で抜け目ないけど、お茶目でノリがいい二面性がかけて満足しています。
> BWElmousさん
コメントありがとうございます。
大変お待たせいたしました。不知火編が完成までこぎつけたのは、間違いなくこんな亀更新のSSを応援いただいている皆様のおかげです。
「もぐりこみ」のメインテーマは『女の子が可愛い』であり、それはどの話から読んでも分かり易く、それだけで楽しめるように執筆しています。
その他各話をつなげて一貫したサブテーマも用意しており、そちらも少しづつではありますが話が進みつつあります。長くご愛読頂いている方にはこちらの考察も楽しんでいただければ幸いです。