一色いろは・被害者の会5~風雲篇(前半)~
いろはすSS新章突入!三年になった八幡のオリジナル展開なので苦手な人は要注意です。 →軽い話がしばらくダラダラ続くので、そんな感じでお付き合いください。……ということで本編はイチャラブ回だよ!
シリーズものなので、初めての方は↓からどうぞ。
一色いろは・被害者の会 ~黎明篇~
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~前回までのあらすじ~
一色いろは政権の下、ポピュリズムにひた走る総武高校。
ファシズムの萌芽に気付いた八幡・戸部・副会長は『一色いろは・被害者の会』を結成する。
予算報告会、交流会のスピーチ、スケジュールを巡る逃走劇、そして生徒総会……
数々の死闘を通じて互いの理解を深め合う八幡と一色。
それで、なんやかんやといろいろあって二人は某腐女の鼻血を思い浮かべながら真っ赤なトマトラーメンを啜るのであった。
前回 一色いろは・被害者の会4~策謀篇(後半)~
※※※※※※※※※※※※
比べられるのは恐ろしいことだ。
しかしこの社会において、人は比較から逃れることは出来ない。
周りの人間、あるいは過去の自分と、比較し、比較され続ける。
そうして導かれる評価の都度、人は道を象り、あるいは象られ歩んでいくのだ。
時代や社会体制など関係なく、おそらく遙か昔よりこのようなことが繰り返し行われているのだろう。
そして、それは辛く、とても恐ろしいことだ。
差し当たって痛感するのが、受験というイベントだろう。
高校で、大学で、否応なく突きつけられる、もっとも身近で多くの人間が経験するであろう勝負の世界。
その後の人生を左右する……とは言い過ぎかもしれないが、少なからず影響を与えるには違いない。
過去の努力が無に帰するのではないか、
隣に座るあいつに敗れ去るのではないか、
今やっていることなど無駄なのではないか、
他に手があったのではないか……
悔恨、焦燥、諦観、逡巡……様々な想いが往き来するが、根を辿ればいずれも恐怖という感情に帰着する。
そして何より恐ろしいのは、比較を終えれば、それがたとえどんな結論であろうとも前に進まなければいけないということだ。
勝利であれ、敗北であれ
良識の結果であれ、不明の果てであれ。
いかなる結論も受け入れて、進まざるを得ない。
比較とはつまり、何らかとの決別を意味する。
……これを恐怖といわずに、何というのだろう。
※※※※※※※※※※※※
夏休みを間近に控えた7月も中頃。
夏期講習初日のことである。
「はぁ……」
ため息をついて立ち上がると、俺は自習室からズルズル這い出て指定の教室に入る。
そこは次の講義を控える僅かな間も、ピリピリとした雰囲気に覆われていた。
去年予想した通り、後ろでたむろしてダベっているようなリア充グループはもうここにはいない。
休憩時間にも関わらず私語はなく、皆手元の参考書に齧りついていたり、ペンをこめかみに当てて苦悶の表情を浮かべたりしている。
普段の俺なら、心中でそれ見たことかとほくそ笑むか、自らの慧眼に自画自賛大会を繰り広げていただろう。
……しかし、そんなことは今の俺にはどうでも良かった。
「はぁ……」
二度目の溜息をついて、空いていた窓の近くの席に腰掛ける。
受験生の夏には悲壮感が伴う。
世間一般の学生達が親の脛を齧りながらアホみたいに遊び呆けているのを余所目に、受験生ときたら朝から晩まで親の脛を齧りながらアホみたいに勉強漬けの毎日を送らなければならないのだ。
小さな教室はよく冷房が効いているが、閉ざされた窓をもってしても蝉しぐれがうっすらと聞こえてくる。
昨今はクマゼミがここ津田沼にも進出してきているようで、シャーシャーと聞き慣れない鳴き声は小さいながらも不快に響く。
……しかし、そんな悲壮感だか蝉の鳴き声だかも、今の俺にはどうでもいいことだった。
「はぁ……」
溜息も出ようというものだ。
勉強漬けといえど、齧る脛があるのならまだ良い。
――だがこの夏、俺は痛恨のミスを犯していた。
スカラシップ錬金術に失敗したのだ。
学力が落ちたということはない。
一学期に行われた中間期末の両考査で、俺は国語学年二位の座に躍り出た。文系科目を総合しても、学年でかなりの上の方に位置しているはず。
生徒総会のすぐ後に行われた全国模試の結果も思いの外良く、志望校の判定はCとBが並んだ。この時期としては申し分ない評価のはずだ……
……にもかかわらず、対象から漏れてしまったのである。
裾野広ければ山高し。三年になって予備校参加者が膨れ上がり、おそらく周りのレベルが上がってしまったのが原因と思われる。
加えて少子化の影響で、某大手予備校の校舎が激減するなどの事態が重なり、不運にもここ佐々木ゼミナールに生徒が集中したことも大きい。
やはり千葉は広いということなのだろう。
本気の千葉をなめていたぜ……いやスカラシップの範囲が千葉限定なのかどうか知らんけど……
……と、まあそんな訳で、今の俺には金がなかった。
受験生に金銭など必要ないという声もあるが、さにあらず。
金がなければマックスコーヒーの大人買いも叶わず、受験生に必要な糖分の補給もままならない。
息抜きに不可欠なVitaちゃんのソフトを買うことも夢のまた夢で、サイドラインであるところの提督業にも支障が生じるのは必然の結果だった。
もう本当どうしよ……とほほ……
などと頬杖をついて悲しみに暮れていると、ふと見慣れた顔が視界に入り、少し目を見開いてしまう。
長く背中まで垂れ下がり、一つに纏められている青みがかった黒髪。人目を引くしなやかな長身。
キャミソールに透かした織のパーカーを羽織り、肩からは緩くザックを背負っている。
デニムのショートパンツから伸びた両脚の先にはフラットサンダルが履かれており、やる気なさそうな足取りでズリズリ地面を擦っている。
「……おはよ」
もう昼はとっくに過ぎているというのに、こうして朝の挨拶をするのは、川崎沙希だ。
去年のクラスメートにして、同じ予備校に通う俺の友人……というほど気安くもないので知り合いである。
ただ、俺の学園生活におけるパンチラの八割はこの川崎さんからもたらされており、つい先月には不幸な事故の積み重ねとはいえお胸をタッチさせていただいたのちにボッコボコにされた間柄なのだが、それでも俺と川崎の関係は、依然知り合いの域を出ていなかった。
「……うす」
川崎は俺の隣にトスンと重たげに座り込み、同じように頬杖をついて、はぁと溜息をつく。
人のことは言えないが、現れるなり何とも辛気臭い奴である。心なしか目も淀んでいるように見える。
しかし、こいつ……去年はえらく離れた位置に座ってたのにな……
どういう風の吹き回しだろうとも思ったが、何か話があるのだと察し、こちらから話題を振ってみる。
「どうしたお前……元気ねぇんじゃねぇの」
「……ごめん」
開口一番、謝罪の声である。
こいつに謝罪することはあれど謝罪される謂れもないので、首を傾げて続きを促す。
「今年はスカラシップ、上手くいかなくてさ……」
「……お前もかよ」
「あんたもそうなんだ……あたしも五割免除しか適用されなくて……親は払ってくれるって言うんだけど、なんだか申し訳なくてさ……それで、あんたにも一応、その、ごめん……」
言うと、バツが悪そうにぷいっと顔を逸らす。
……そ、そう……そんなことで謝っちゃうんだ……
この「ごめん」は、おそらく去年わずかばかり尽力した俺に対する謝罪なのだろう。
五割免除どころかスカラシップにかすりもせず、その上もし引っかかれば浮いた金を全て懐に収めようとしていた俺には、直視できない眩さである。
うん……この子、こんなナリですが基本的に善性があるんですよね……川崎さんマジ聖女。
そんなものを見せつけられると、こちらは良心とか両親への呵責で軽く死にたくなってしまう。
こいつに比べ、俺はなんてみじめであわれな生物なんだ……もうバカバカ!八幡のアホ!ゴミ!クマムシ!緩歩動物!
……しかし生きる希望がなくても、金がなくても、やることはやらなければいけない。
程なく教室に講師が入ってくると、心持ち背すじを伸ばす。
学校とは違う。ここでは机にうつ伏せになっていると、容赦なく部屋を追い出されてしまうのだ。
隣の川崎も切り替えたのか、キリッと真剣な顔を向けて、筆記用具を机に広げる。
お互い親の金とはいえ、元ぐらいは回収せねばなるまい。
学校の教師達より幾分覇気のある声が室内に響くと、クマゼミの声も気にならなくなってくる。
無心でシャーペンを走らせ、講義に耳を傾けた。
何かに取り組んでいる内は、いろいろと忘れることができる。
金がないことも、
いつか必ず訪れる受験の結末も、
――日々囚われている、何某かへの想いも。
※※※※※※※※※※※※
……とまあ、そんなこんなで夏期講習も始まり、勉強漬けの毎日が始まる。
いつの間にか夏休みに突入し、週を二つも過ぎれば、いよいよ7月も終わりが近づいてくる。
九十分の講義を終えると、今日も今日とて川崎と二人して教室をふらふらと這い出る。
私立文系志望の俺は得意教科の更なる強化を、国公立文系志望の川崎は苦手科目の補強を目論見て、各々講義のコマを選択した。
結果、受講内容は奇しくも似たようなものになっている。
「次の講義はいつだっけか……?」
「一コマ飛んで十四時からだよ……英語の長文読解B」
「じゃあ昼飯食ったほうがいいな……」
変わったのは受講生の空気だけではない……こんな具合に、俺達はすっかり行動を共にするようになっていた。
おかげでこうして時間割の確認が出来る。もうほんと川崎さんって便利だわー、超使えるわー、マジ聖女だわー。
「……ところでお前、合宿は申し込んだのか?」
「スカラシップ取れてたら参加したんだけどね……」
はぁ……と歩きながら溜息をつく。
今日で夏期講習の前半戦は終了である。この予備校では明日から現役生向けの合宿たるものが企画されているようで、千葉のどこかの浜辺でどこぞのハコに押し込まれ、勉強漬けの六泊七日が行われるらしい。
名前もろくすっぽ知らない連中と、同じ釜の飯を食うなど何かの拷問としか思えない。
それだけは死んでも参加したくなかったので俺は辞退させてもらったが、川崎については経済的な理由で断念せざるを得なかったようだ。
そんな訳で、今日の講義を終えれば、こいつともしばしの別れである。
ここのところ毎日顔を合わせていたので、そろそろ友達になったような錯覚をしていたところだが、次に会うのはお盆も明けて後半戦が始まる頃だ。
さよなら川崎……俺のこと、忘れないでくれよなっ!ついでに俺の時間割も忘れないでくれよなっ!
……などと様々な事情で別れを惜しむ思いもあるが、今考えるべきはランチタイムの過ごし方である。
昼食は予備校内にある食堂を利用するのが一般的だ。
食事をしながら勉強するというお行儀の悪い行為も許されているため、みな参考書を開きながらうどんを啜ったり、カレーにがっついたりしている。
しかし今日は人気講義でも控えているのか、食堂内は異常に人が多い。
中には立って食事を摂っている者もおり、俺達の席は残されていないようである。
食事ぐらいはリラックスして摂りたいものだ。
そうでなくても、俺はここのメニューがあまり好きではない。こんなに人が屯する中では、ただでさえ貧相なメニューが一層不味くなってしまうだろう。
「……俺、今日はサイゼ行くわ。ここで食いたくねぇ」
「ん……」
川崎は頷くと、どういう訳かちょこちょこ俺に付いてくる。
うん、あの、さっきのは別に君を誘った訳ではないのだけれど……
「……いいのか、サイゼで」
「サイゼ好きだよ、安いし」
などとサイゼ許容派であることが明らかになる。
サイゼが好きな女子に悪い奴はいない(確信)
こちらとしてもまんざらではなく、さあ付いてきな……とクールに先導すると、川崎は黙って俺に付き従った。
やだ、この自然な感じ……
なんかこれって……これって……
友達みたい……!
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かくして至高の昼食を求めて、大都会・津田沼の市街に繰り出した俺達だが、この近辺はさすがに千葉有数の大都会だけあって、なんと駅の半径1km以内に三つのサイゼを擁している。
駅前の二店は人が多そうなので、俺たちは予備校から少し離れたベ○ク津田沼店をチョイスした。
まだ昼の早い時間帯ということもあってか、狙い通り店内は人もまばらだ。
二人席が空いていたが、こんなところに男女で向かい合って座っていたらそれはもう完全に友達である。
……なので俺たちは窓に面した一人席に並んで腰掛けた。
「ペペロンチーノ、ドリンクバーで」
「ミラノ風ドリア、ドリンクバーで」
注文までのシンクタイムは実に2秒。サイゼの定番「極貧入り浸りセット」を速攻で注文する。
本当はサイドメニューも追加したかったが、それは断念する。……というのも、あれから何日か経ち、俺の財政事情は悪化の一途を辿っていたからだ。
親から交通費を貰いつつ、自転車で予備校まで通って僅かな金を浮かせる毎日。
当然普段のペースでは収支が合わず、緊縮財政の下マッカンも一日五本に抑えられている。
「……あんた、糖尿になるよ……」
などと訳の分からないことをいう川崎だが、受験生にとって勝負の夏を、このマッカン消費量で乗りきれないのは自明の理だった。
戦にもっとも必要なのは、やはり補給だったのである。
誰だよ勝機とか言ってた奴……馬鹿じゃないの……?
溜息を吐きつつ、ふと脇を見ると、テーブルの上にバイト情報誌がある。おそらく前の客が置き忘れていったのだろう。
サイゼではこうして次の客の娯楽のために雑誌の忘れ物をあえて放置することがあるのだ。あえてね、あえて。
早速恩恵に預かろうと情報誌を手にとりパラパラ捲っていると、川崎も興味深そうに横から覗いてくる。
短期バイトなら、勉強のスケジュールに穴を開けずに財政事情を改善できるかもしれない。
「……なんかいいのある?」
「いや、さすがに短期となるとなかなか……ガテン系とか配送センターとか、そんなんばっかだ……」
しかし肉体系のバイトは正直やってられない。
なにせクタクタになってしまうので、終わった時の達成感が半端無く、とてもその後勉強するという精神状態にはならないのだ。
俺の志望校のレベルだと、長期バイトをしながら合格する猛者もいるらしいのだが、そんな芸当、自分にはまず無理だろう。
というか、受験以前にどんなバイトも3ヶ月持ったためしないですからね……
ざっとチェックするも、近辺でめぼしい仕事は見つけられず、ぱたんと情報誌を閉じる。
「……諦めた」
「まあ、受験生がバイトってのもアレだしね……」
はぁと二人して溜息をつく。
思えば去年、受験生だった小町は昼飯代に千円とか時には二千円とか貰っていたはずなのに、なんで俺には五百円しか支給されないのだろう……こんなの絶対おかしいよ!
……などと思わず最愛の小町を引き合いに出してしまう。
いかんな……我が事ながら、そうとう追い詰められているのかもしれない。
貧しいって悲しいね……
金がないのは首がないのと同じなんだよなぁ……
きっと今俺は険しい顔をしているに違いない。
しかし前の窓から外を見やると、街を歩く人達も皆、何やら険しい顔をして歩いている気がする。
失業率は改善し、人手不足が叫ばれる昨今だが、どういう訳か賃金の回復は鈍いらしい。
であれば、皆さんもきっとお金に苦労して生きているに違いない……
あのおっさんも、あのあんちゃんも、あのおばちゃんも……見れば、どこか暗い顔をして歩いている。
中にはどえらい綺麗なお姉さんもいて、その美人でさえトボトボと浮かない顔で歩いているではないか。
あの人もきっとお金がないのだろうな……としばらく凝視していると、美人のお姉さんがこちらに顔を向けた。
すると目を大きく見開き、ほんわかとした笑顔を浮かべて、両手をバタバタと振ってくる。
なんだろあの人……超可愛いんだけど……
しかしまさか俺に手を振っている訳ではあるまい。この店内に、彼氏でも居たのだろうか?
あんな美人とお付き合いできる果報者は誰だろうか……と振り返り店内を見渡すも、真夏だというのに全身スーツ姿でワインを飲んでいる社畜が一人居るのみである。
まだ昼に入ったばかりなのに、大きな牛乳瓶みたいな容器で、ワイングラスにちびちび注いで飲んでいる。
……きっと何か深い事情があるんだわ……
見てはいけないものを見た気がして、急いで目を逸らす。
しかし、あんな冴えない社畜が彼氏という訳でもあるまい。一体誰に手を振っていたのだろう……?
もう一度外に目を向けると、さっきの美人がべったり窓に張り付いており、思わずぎょっと身を反らしてしまう
見ると、明らかに俺に視線を向けてニコニコと微笑んでいる。
……が、こうして近くで見ると、そのほわっとした笑顔と、ツルッとしたおでこには見覚えがあった。
「あれ……確かこの人、去年の生徒会長……?」
隣にいる川崎も目を丸くして驚いている。
お下げをやめて、大人っぽく髪を下ろしていたので、すぐに分からなかったが……
――城廻めぐり。
俺達の一年上の先輩であり、総武高校における先代生徒会長その人である。
確か今は大学生をやっているはずだが……
「城廻先輩?」
聞こえているわけではないのだろうが、めぐり先輩は窓の向こうでウンウンと頷く。
そして、はっと気付いたような顔を浮かべたかと思うと、ぱたぱたと入口の方に走り、間もなく店内に入ってくる。
「二人共久し振りだねー!元気だったー?」
「お、お久しぶりっす」
「……」
川崎もコクリと無言で頭を下げる。こいつも去年の体育祭で衣装班として行事に尽力したことがある。
バレンタインのイベントには両名とも参加していたし、幾らか面識があるのだろう。
めぐり先輩はわぁーー♪と走り寄ってくると、俺達二人の肩を興奮気味にぱんぱんと叩いて満面の笑みを浮かべる。
おかしいな……挙動や表情だけを見れば一色とほとんど変わらないのに、この人がやると、どうしてこんなに癒やされるのだろう……?
感慨に浸りつつ、久しぶりのめぐめぐめぐりん☆めぐりッシュパワーをその身に浴びる。
特殊スキル「めぐりっしゅ☆キュアオーラ(半径10m以内のリラクゼーションとヒーリング効果)」によって、受験勉強でやさぐれていた俺の心も見る間にめぐりっしゅされていく。
おかげで金欠も忘れて、幾分明るい気持ちになってきた。
「偶然だねー、こんなところで会うなんて……二人は何をしていたの?デートかな?」
「あ、や!ち、違!その、そそそそこの予備校が一緒で、それとデートとか絶対にありえないんで……!」
ばたばたと横に手を振り、ものっそい勢いで拒否する川崎さん。
そ、そうですか……絶対ありえないですか……そしてそれ扱いですか……
回復した矢先に、早速心の傷を負う。
「ごめんね、比企谷くんとデートはちょっと失礼だったかも」
彼女は彼女で、こつんと頭を叩き、てへりこと舌を出す。
……ちょっとめぐりん?それってどういう意味なのかな……?聞きようによってはネガティブな印象に聞こえちゃうゾ!
更に心を抉られる俺を余所目に、めぐり先輩はこちらの手元を見てんー?と小首を傾げる。
席に無造作に置かれたバイト情報誌に目が止まったようだ。
「……比企谷くん、バイトを探してるの?」
「あ、いや、しばらく予備校休みなんで、超楽なバイトがあったらいいなーと……受験生なんで、本格的には探してないっすよ?」
何故か弁解じみたことを口にしてしまうが、めぐり先輩は俺の隣に腰をおろすと、自分の鞄をゴソゴソし始める。
そして何やら青々しい表紙のパンフレットを取り出すも、そっちではなく自分の顔をぐぐっと俺に近づけた。
あまりの近さに、またも体がのけぞってしまう。
あわあわと狼狽える俺だが、めぐり先輩はお構いなしにぐいぐいと更に真剣な顔を寄せてくる。
「……もしバイトを探してるなら、こんなのはどうかな?」
「……は?」
訝しげな顔を向けると、応えるようにキラーンとおでこが輝いた。
※※※※※※※※※※※※
めぐりん曰く、
親戚の経営するホテルが危機に瀕しているとのこと。
……というのも、近場の自治体が催す祭りに参加したホテルの従業員達が、運悪く集団食中毒の被害に遭ってパタパタと倒れてしまったのだ。
被害は二十名近くに達し、ただでさえ観光シーズンでかきいれ時だというのに深刻な人手不足に陥っているのだという。
退院には少なくとも一週間を要するようで、ホテルは急遽短期バイトを募った。
しかし人手不足のこのご時世、思うように人は集まらず、めぼしい人材も軒並み競合に取られてしまい、現在知り合いに片っ端から当っているのだとか。
めぐり先輩も大学の友人に手当たり次第に声をかけているのだが、皆スケジュールが合わなかったり、他のバイトと重なったりで、結果は芳しくないらしい。
「磯牡蠣に当たっちゃってね……今こうしてる間も現場は大変なことになってるんだ……」
「この時期に磯牡蠣っつーと、飯岡とか……銚子辺りですか?」
六~八月、千葉の太平洋に面したところでは天然の磯牡蠣がまさに旬の時期である。
身は大きく味は豊潤。それはもう超絶的に美味しいのだが、しかし生で食せば当たることも少なからずあるようで、時折食中毒などを引き起こす。
酒蒸しとかすっごい美味しいから、良い子のみんなは火を通して食べようね!
「うんそうだよ! 銚子にあるホテルなの……でもまだ一人も集まらなくって、どうしようかなーって歩いてたら偶然君達がいたから……来ちゃった」
……要するにバイトの勧誘に来ちゃった、というわけだ。
でもこの人に「来ちゃった……」とか言われたら少なからず心が動いてしまう。
俺が独り暮らしをしていたとして、玄関先でこんなことを言われようものなら、即座に家に招き入れ神棚に飾っていたところだろう。
めぐり先輩は握りしめて少し皺になったパンフレットを、俺の前に広げて寄越す。
そこには少し設計の古さを感じさせるものの、立派な作りのホテルの外観や・しっとり落ち着いた内観の写真が数多く載せられていた。
思ったより立派なホテルのようで感心して見入っていると、手応えありと踏んだのか、めぐり先輩は海から近いだの、やれ料理が美味しいだの、ホテルや銚子の魅力を一生懸命に熱弁し始める。
そんなめぐり先輩は超可愛くて、検討するのもやぶさかではなかったのだが、問題は次の箇所だった。
「六泊七日の泊まり込みでやってもらうことになるの。従業員用の部屋も合って、宿泊食事も全部タダなんだよ!」
……泊まり込み……だと……?
ドヤ顔のめぐりんだったが、ぬるま湯が、すっと冷めていく音がした。
事情が事情だけにそうじゃないかと思ってたけど、そっかー、泊まりこみかー……
ただでさえ難しいアルバイトの人間関係……さらに一週間も共に寝泊まりするなど俺には難易度が高すぎる。
それに、いざという時バックレが出来ないですしね!
早い時には面接終了後すぐにバックれるのが俺だ。退路が確保されているというのは、俺のワーキングポリシー上、必須条件と言っていい。
――三十六計逃げるに如かず、などというが、兵法には三十六種類もの計略があるにも関わらず、他の部分はろくすっぽ伝わっていない。
世間一般に知られているのは逃亡のみである。
つまり、それほど逃亡とは重要なことなのだ。
長くなったが、そんなわけで泊まり込みは大きなマイナスポイントである。
ちょっとやそっとのことでは、このデメリットは覆らない……
めぐり先輩には申し訳ないが、今回の話は断らせてもらおう。
「それに君達には玄関のクロークとか……ゲームコーナーの受付とか……そういう“番”の仕事を振ってもらうようにお願いするから、働きながら受験勉強とかも出来ると思うんだよね」
既に考えを固めた俺だが、一方の川崎はその言葉にピクリと反応し、こちらにぐぐっと身を寄せてパンフレットを覗いてくる。
めっちゃ心動かされてるよ……この子……
川崎も俺と同じく、どこに出しても恥ずかしい立派なコミュ障である。
そんな俺達にとって、最低限の会話で成り立つ「番」の仕事は確かに魅力的だ。体力的にも楽なので、受験勉強と並行するのも難しくはあるまい。
そう考えたかどうかは知らないが、川崎は熱のこもった顔を、めぐり先輩の方に向ける。
「これって、交通費も出るんですか……?」
「もちろんだよー!今ならサービスして特急券も出すよ!」
「あ、すごい……それに従業員でも温泉に入れるんですね……」
「そうなの!美容にもいいんだよ!温泉ももちろんタダだから、一銭も持って来なくていいぐらいだよ!」
二人は俺を間に挟んで会話を始めた。
……気付けば何やらおかしな情勢になっている。
めぐり先輩はアピールに熱が入る毎に、俺にその身をぴとぴとと押し付けてくる。この人の場合、天然でやってるんだろうけど……
近い……
逆方向を見れば、川崎も俺の前に広げられたパンフレットを食い入る様に眺めており、自然、俺に体を寄せる形になっている。
ち、近い……
なんか二人共いい匂いしますし……
しかし、こんな、ちょっとやそっとのいい匂いで……ふ、ふわぁ……
「寮には女子用の部屋もあるんですね……結構いいかも……」
「さっきも言ったけど、君達には勉強時間を確保できるようホテル側にお願いしておくし、私も勉強を見てあげられるし!……助けると思って来てくれないかなぁ?」
「これなら八時間ぐらいは勉強に充てられるかも……」
「うんうん、じっくり考えてね!……実は一色さん達、生徒会のみんなにも相談しようと思って……今日は近くでボランティアをやってたみたいだから、終わったら来てもらう事になってるんだ。そろそろ時間だと思うんだけど……」
「へぇ……一色達にも……ね、ねぇ、あんたどうする?」
ちょいちょいと川崎に指でつつかれるが、こっちは二人に密着されて気が気でない。
なんか後半、不穏な単語が混ざっていた気がするが、すっかり上の空だった俺の耳に入る由はなかった。
はぁ、これは健康にいいですなぁ……
……などと、ぼちぼち感触を楽しみ始める余裕も生まれてきた頃、突然後ろから「ゴホン!」と強い咳払いが聞こえた。
ビクリと思わず身を震わせて、恐る恐る後ろを振り向くと……
そこには独りワインを飲んでいた先ほどの社畜が、血走った目でこちらを睨みつけていたのだ。
ふ、ふえぇ……社畜怖いよぉ……
泣きそうになりつつ、急いで前を向き直すと、またしても誰かがベタッと前の窓に張り付いていた。
ぶっくーと不満気に頬を膨らませ、窓の外から俺をジト目で睨みつけているのは、後輩にして我らが生徒会長・一色いろはその人である。
今度は見慣れた顔だったが、突然の登場に、俺は大きく身をのけぞらせた。
「ひ、ひいっ!?」
などと、思わず可愛い声を上げてしまうのもむべなるかな。
一色は両脇の二人にも一瞥すると、すぐに入り口に向かって駆け出し、まもなく店内に入ってくる。
あー……びっくりした……
そ、それにしても、なんで、あいつがここに……?
呆然としていると、他の生徒会メンバーがわらわらと連れ立って、窓の前を通り過ぎていく。
やぁと鷹揚に手を挙げる副会長に、ペコリと礼儀正しい書記ちゃん。
クールにピッと手刀を切る会計クンの後には、オッス!オラ大志!と大げさに頭を下げる最年少が続く。
殿には戸部が居て、こちらを見てニヤニヤウホッと嫌らしい笑みを浮かべている。
せっかくの夏休みなのに、嫌な野郎の顔を見ちゃったな……
殴りたい……あの笑顔。
ともあれ、みな制服姿で、俺以外のメンバーは全員揃っているようだ。
「みんな今日はボランティアで、養護学校の子供たちとコンサートに行ってたんだって!」
「そ、そうすか……」
そういえば、昨夜ラインでそんな情報が出回っていたような気がする。
生徒会ではこの手のボランティアがちょくちょくあって、俺も何度か一色に強制連行されたことがある。
今日に限っては予備校なので泣く泣く辞退をさせてもらった……それがあまりに心苦しくて記憶を封印していたのだ。
ええ、もう気付いていましたとも……こういう展開になることぐらい……
めぐり先輩もさっき前振りしてましたもんね……
「いらっしゃいませー、何名様ですか?」
「六人でーす、あ、あそこの席にしまーす!」
などと店員に姦しく訴えて、社畜のすぐ横の席を指し示すと、一色はニコニコ笑顔でわぁーー♪とこちらに駆け寄ってきた。
おかしいな……さっきのめぐり先輩とほとんど同じ動作のはずなのに、まったく可愛くない……むしろ恐怖しか感じない。
それにさっき窓越しで見た表情は一体何処へ飛んでいったのかな……?
「わー!一色さーん、久し振りだねー」
「……おはよ」
「はいっ、城廻先輩、御無沙汰でーす!川崎先輩もこんにちはー!」
などと、敬意が一欠片もこもっていない超慇懃無礼な挨拶を二人に済ませると、俺の肩を後ろからがっしと掴んで、手元のパンフレットを覗き込んでくる。
「これが電話で言ってた、例のバイト先のホテルですかー?」
「そうだよー、一色さん考えてくれたかなぁ?」
「迷ってるんですよねー……」
一色が声を上げるたびに、ふうふうと荒い鼻息が首筋をくすぐる。
いや、だから近いって……
抗議とも羞恥ともつかないジト目を向けると、超至近距離で一色と目が合った。
「……あっ、先輩もお久しぶりですねー?勉強でお忙しいって聞いてましたけど……元気そうで安心しましたよー」
ふわっとした声に、にっこり笑顔。
文言は至って普通に先輩後輩が街で出会った時にいかにも言われそうなこと。なのに妙に迫力がある。
それはどこか「お前、こっちは仕事してんのに両脇に女侍らせて良いご身分だな」……みたいな意味を孕んでそうである。
嫌だな……怖いな……この後輩……
しかし身を避けようにも、右手にはめぐり先輩が、左側には川崎が控えており、後ろはこの小悪魔に封じられている。
退路の必要性を改めて痛感していると、「こぁっ!」と甲高く痰を切る音が一色の後ろの席から聞こえてくる。
首だけ振り返ってみると、後ろの席の社畜が額に青筋を立てつつ、鬼のような形相で再びこちらを睨みつけていた。
社畜はもはやワイングラスを使っておらず、牛乳瓶に直接口をつけてワインを飲んでおり、謎の迫力を醸し出している。
ふ、ふえぇ……社畜まじで怖いよぉ……
真夏だというのに寒風吹き荒ぶサイゼの一角だったが、やがて大志がやってきて、空いていた川崎の隣に腰掛ける。
残りの四人が社畜の横のボックスに陣取ると、めぐり先輩は改めて皆にバイトについて説明を始めた。
「……とまあ、そういう訳で、どうかな?みんなも考えてみて欲しいんだけど……」
ぽんっと手を合わせてお願いのポーズを取る。
「はぁ……まあ当分、生徒会の予定って無いんですけどね……」
一色は依然俺の後ろに立ったまま、指を口に当てて考えこむ。
「……先輩はどうするんですか?」
「んー、これなぁ……」
何度考えても泊まりこみという大きなマイナスポイントを覆すには至らない。
お困りのめぐり先輩には心苦しいが、今回は辞退する腹づもりである。
「ま、あれだな……俺は今回はパ……」
口を開きかけると、めぐり先輩の顔が再びこちらに向けられていた。
うるるんと目を潤ませて、俺の目を真っ直ぐに見つめてくる。
「比企谷くん……どうかな?」
俺の言葉に被せるように、またもや、ぐぐっと顔を近づけてくる。
な、なんでこの人、こんなに無邪気に顔を近づけてくるのかな……?
思わず「俺に任せてください。他ならぬ城廻先輩のためなら断れませんし……いやー実はちょうどバイト探してたんで手間が省けてかえって有難いっすよ!がっはっはっは!」などと景気の良い返事をしてしまいそうになる。
だがよく考えろ八幡……先にも述べたように、泊まり込みはあまりにもリスクが大きい。
去年の林間学校にしても、愛する小町の造反と、愛する戸塚の同伴があったから参加したのだ。
今回はその両名も不在……であれば参加する理由など一欠片もないのである。
「大変な時期にこんなお願い……迷惑だとは思うんだけど」
めぐり先輩がそっと俺の手に触れてくる。
ん……?おう?
顔の位置も先より一層近くなっており、ドクドクと胸が早鐘を打つ。
「う……」
こうあれですね……悪くないアレです。
しかしこちらの決意も固い――
負けない!絶対、癒し系先輩なんかに負けたりしない!
俺は心をONIにして、めぐり先輩の瞳に真っ向から視線をぶつけると、きっぱりと告げた。
「俺に任せてください。他ならぬ城廻先輩のためなら断れませんし……いやー実はちょうどバイト探してたんで手間が省けてかえって有難いっすよ!ふ、ブフヒッ!」
そう答えると、めぐり先輩は歓喜の表情を浮かべて俺の手を握り、わっしゃわっしゃと上下に振ってくる。
「わー、本当に!?ありがとう比企谷くんっ!」
最後、若干可愛らしい鼻息が漏れた辺りに細やかな相違があるが、思わず脳内で組み立てた言葉をそのまま外に出してしまう。
……癒し系先輩には勝てなかったよ……
見やると、一色も川崎も白けた視線をこちらに向けている。
何よ……めぐりんの指がぴとって触れたんだから……しょうがないじゃないっ!
しかし川崎も口に指を当て、思慮深げに考えこむ。
「あたしも行こうかな……」
「……姉ちゃん、なんか変なこと考えてない?」
大志がジト目で姉を睨みつける。確かにバイトに関してこいつには前科があるのだが……
「そ、そんなんじゃないよ……単純にお小遣いが欲しいかなって。服とかも買いたいのあるし……」
恥ずかしげに漏らす川崎だが、そう言われると大志も黙りこくるしか無い。
代わりに体を後ろに逸らして、めぐり先輩の方に顔を向ける。
「あの……先代会長さん」
「めぐりでいいよー?」
「めぐり先輩、このホテルのバイトって……ほんとに俺なんかが行っても良いんっすか?」
この中で一人、顔見知りではないため気を遣っているのだろう。大志が遠慮がちにそんなことを聞く。
「もちろん! 大歓迎だよー!ありがとう大志くん!」
元々めぐり先輩は誰でもウェルカム……!
二人目の志願者にわーと心底嬉しそうに手を合わせる。
それにしても大志……恐ろしい男だ。出逢って五分でめぐり先輩とファーストネームを呼び合う仲になっている。
どうにもコイツには人誑しな一面があるように思えてならない。
かえすがえすも毒虫である……やはり小町に会わせる訳にはいかないな……改めてそう思いました。
「じゃあ、川崎姉弟お世話になるっす!」
「ちょ、ちょっと勝手に……それになんであんたが来るの!」
「俺だって小遣い欲しいし……親にはせびれないし……」
などと大志は言うが、おそらくこいつは姉ちゃんが無理しないか近くで見張っておきたいのではないだろうか……?
相も変わらず仲睦まじい姉弟のようで少し微笑ましくなってしまう。小町には絶対に会わせないが。
「助かるよー、卒業してもこうやって助けてくれる後輩がいるなんて……本当に嬉しいな……」
目を閉じて、胸の前で両手を握る。
ぶっちゃけ勢いというか、色香に負けて決めてしまったのだが、そんなに喜んでいただけるとこちらもなんだか面映ゆい。
てへへ……☆と三人して照れりこしていると、
「ふーん……」
小さな呟きが聞こえる。
見やると、一色がじっと俺の顔を覗き込んでいた。
怒るでも、呆れるでも、からかうでもなく……
……また、この目だ。
先の生徒総会からこっち、一色はこのような目で俺を見ることが多くなった。
以前からも時折、こうした視線を向けられることはあったが、ここ最近は特に頻度が増えていたのである。
こいつは目だけを見れば、くりんとしていてなかなか可愛らしい造形をしているのだが、その瞳にはどこか見透かすような、あるいは探るような色が含まれており、ずっと向けられていると何だか落ち着かない気分になってくる。
一体どういった心境からこんな真似をするのか、知る由もないのだが……
「……なんだよ」
結局、耐え切れず、いつもの如くこちらから目を逸らしてしまう。
「いや、意外だなーって。先輩ってこういう仕事は嫌いそうですから……接客業とか、泊まりこみとか……」
などと面と向かって失礼な一色さんですが……なかなかどうして俺への理解度が高い。
そろそろ比企谷検定二級を与える時期が来ているのかもしれないな……
「まあ俺はどんな仕事も嫌いだけどな」
「そんな自慢気に……」
「しかし、マジなところ金が欲しいってのが大きい。……条件見たか?そうとう割が良いからなこのバイト」
「そんなに良いんですか?時給は確かに良いですけど、それってキツイ仕事ってことなんじゃ……」
「行間を読め、行間を」
一色が言うように時給は千五百円とすごく良い。短期とはいえ高校生に支給される額としては破格と言っていいだろう。
まずここに警戒感を持つ一色は、大きく間違えてはいない。
だがこの時給は、仕事のキツさから生まれたものではない。ホテル側の相当困った事情から設定された金額である。
めぐり先輩を使って人づてで従業員を探している辺り、面接などの手続きも行わないということだ。
ホテル側が必要としているのは適性や能力ではなく、最低限の信用なのだろう。
ここから窺えるのは、既にホテル側は覚悟完了しているということだ。
募ったアルバイトが、多少能力が低かったり、やる気が無かったり、地雷抱えたメンヘラーだったり、戸部であったりしてもしゃーないしゃーない!という感じで割りきっており、とにかく数重視で集めているのが見て取れる。
……そして能力を期待されない職場ほど働きやすい環境はない。
つまり、売り手である従業員側が、断然有利な状況になっているのだ。
雇い主の足元を見て働ける……、普通の求人ではまず転がっていないレア案件……
多少ハードな面もあるだろうが、売り手有利の理由からそう大きな無茶も要求されまい。
そうなるとこの仕事のマイナス要因は、泊り込みという箇所ただ一点だけである。
そして、それもめぐり先輩が手をぴとって触ったからマイナス面がすべて相殺されて、なんだよこのバイト超優良ホワイト案件じゃん……
本人の前なので、そうしたことを若干オブラートに包みながら説明すると、一色はふむふむと神妙な顔で頷いた。
「なるほど……確かに言われてみれば、普通じゃありえない立場の強さですよね……」
「力関係を決めるのは需要と供給ってことだな。……この状況を生かさない手はないぞ」
「嫌な高校生バイトだな……」
「自分が経営者なら絶対雇いたくないよね……」
……などと副会長と会計くんが妙に深刻な顔で囁きあっておりますが、そこ!重要なとこですよ!
「へぇ……」
そして、そんな俺達を、めぐり先輩が横から興味深げに眺めている。
「一色さん、いつもこんな感じで決めてるの?」
「へっ!?あ、いや、参考といいますか……周りから意見を募るのが上に立つ者の務めじゃないですかー?」
水を向けられ、取り繕い感満々の一色だったが、戸部はそれを見てウホッと笑うと、めぐり先輩の方に歩み寄る。
そして、そのうざったいロン毛を掻き上げると、まるでゴミのような下卑た笑いを浮かべて、いやらしくもめぐり先輩の耳元にその汚らしい口を寄せた。
「あんな事言ってますけどー、いろはすってば、ヒキタニくんにはちょっとばかし特別扱いで……」
「……戸部先輩、ちょっと今話してるんで、黙ってて貰えますか?」
「……ひっ!?」
一色の底冷えするような寒々しい声音に、戸部がビクッと身を竦ませる。
「ひいっ!?」
「あ、あわわ……!」
つられて俺と副会長も一緒に悲鳴を上げて身を竦ませた。
ど、どうやったらあんな冷たい声出せるのかな……嫌だな……怖いな……
「う、うん……なんか、だいたい分かってきたよ……」
何が分かったのか知らないが、そんな俺達の様子にコクコクとめぐり先輩は頷く。
「それでどうかな、一色さん?……来てくれたらすごく助かるんだけど……」
「はいっ、お任せ下さい……!わたし達、生徒会メンバーも全員参加ってことで!」
「あ、いや、会長……勝手に決めないで欲しいんだけど……」
「いろはちゃん……周りから意見を募るのが務めなんじゃ……」
「僕まだパンフレットも見てないんだが……」
威勢良く応じる一色に、生徒会役員たちから総ツッコミが入る。
……が、めぐり先輩は喜色満面といった面持ちで、ぱんと手を叩いて立ち上がる。
「本当!?みんなありがとうー!」
その無垢な笑顔には抗えなかったようで、三人はしずしずと顔を伏せる。
分かるなー……断れないんだよなぁ、あれ……
この人はもしかして、会長時代もこうやって人心掌握していたのではあるまいか……悪い人やでほんま……
「俺も受験勉強しないといけないんだけどな……」
とほーと力なく笑う副会長に、ふふんと一色は得意気に笑って俺の方を見てくる。
……まあいつものことである。
こいつは、こうやって強引に物事を進めていくのだ。
……人の上に立つ者は、少々面の皮が厚かったり、強引だったりという資質が必要なのかもしれない。
その小悪魔な笑顔と目を合わせながら、俺は一学期のことを思い出す。
総会を終えて、あの後も大小様々な行事があった。
語学研究の案内や、学年常任委員会など、簡単に終わると思われたイベントだったが、そうは問屋がおろさない。
サッカー部を辞めた一色は、有り余るリソースを惜しむこと無く生徒会に注ぎ込んだ――
……だけなら良いのだが、いちいちあれこれ彼女なりの捻りを加えようとするのだ。
結果、事態はこじれにこじれ、生徒会メンバーは皆一色に散々ぱら振り回されることと相なった。
それは結果的に隠れていた問題点を浮き彫りにしたり、生徒たちの秘めた欲求を表に引き出す事にも繋がったのだが……
しかし困難な事態の連続だったが、その度に皆の結束は固まり、外部の者達の信頼を得ることにも繋がった気がする。
詳細は省くが、いろいろ手違いがあって戸部が百二十日間の遠洋漁業に危うく出港するところだったり、戸部が国際ハッカー軍団にマークされ眠れぬ夜を過ごしたり、あるいは戸部が生徒会を代表し連続耐久バンジージャンプ対決に挑んだり……
そんなちょっとした心温まるエピソードを交えつつも、皆の力を結集していずれの行事も成功に導いたのだ。
ちなみにサッカー部の顛末だが、あの後トーナメント二回戦でよく知らない高校を相手に総武高は激戦を繰り広げ、シーソーゲームの果てに辛くも勝利し次へとコマを進めた。
だが運悪く、次の試合で俺でも名前を知っているような有名な強豪に当たってしまう。
よく知らない高校との死闘に全てを出し尽くした総武高は
続く3回戦 強豪校にウソのようにボロ負けした ――
……というわけで6対2という野球みたいなスコアで、あえなく敗れ去ってしまった。
さすがにどうにもならない相手なのは分かっていたのか、サッカー部の面々は皆あっさりしたものだったが、守備が堅くて知られるこの強豪相手に、意地の二点を叩きだしたのは葉山だった辺りさすがと言えよう。
戸部はまあ、そこそこ頑張っていたようなそうでもないような気がするが、どうでもいいので割愛する。
……サッカー部を引退した戸部は、その後、被害者の会一本に絞ることとなり、今日もいろはす奴隷ライフに青春を捧げているという訳だ。
いや、大丈夫なのこいつ……受験とか……いや、まあ、本当にどうでもいいけど……
とにかく、そんな訳で被害者の会も結局存続と相成り、俺も夏休みに入るギリギリまで生徒会に尽力していたというのがここまでの経緯だ。
じぃーとこちらを見てくる一色に、俺は苦笑を浮かべて返す。
――もう少し共に歩いてみよう。
あの生徒総会のあと、俺もまた決心をしたのだ。
そう、たとえ傷つけても――
「ねぇ、書記ちゃん、後ろにいるあのスーツのおじさん……ちょっと先輩に雰囲気似てない?」
「……え?ちょ、ちょっと目元とか似てると思ったけど、そんなこと言ったら悪いよ……おじさんに……」
――き、傷つけられることがあっても、と、共に歩こうと決心したのである……
ちらりと社畜を覗き見ると、ボトルをお代わりしたのか、いよいよ出来上がっている。濁った目は生気を感じさせず、見るものを暗鬱とさせる。
そ、そうかな……?絶対似てないと思うのだけれど……
あと書記ちゃん?ばっちり聞こえてるからね……?
……など失礼な後輩達はさておくと、結局生徒会メンバーと川崎、この場にいる全員がバイトに参加する運びとなった。
めぐり先輩も思わぬ爆釣っぷりに大喜びである。
「わー、嬉しいな、みんな参加してくれるなんて……!きっと楽しいバイトになるよ、頑張ろうね!えいえいおー!」
そう言って、突然拳を振り上げる。
しかし咄嗟のことに誰一人反応できず、場には気まずい沈黙が流れた。
「……」
「……」
めぐり先輩は、笑顔のまま首をかしげると、再び音頭を取る。
「頑張ろう!えいえいおー!」
「……え、えいえい……」
「おー……」
「お、おぅ……」
学校ならまだしも店内ということもあって、俺達もいまいち乗りきれない……それでもなんとかめぐり先輩の後に続いて、各々恥ずかしげに掛け声を上げる。
しかし、めぐり先輩は心底不思議そうな顔で再び首を傾げると……
「頑張ろうねっ、きっと楽しいよ!えいえいおー!」
……再三拳を振り上げるのだった。
これ、あれや……出来るまで帰られへんやつや……
「え、えいえいおー!」
仕方なく、みなヤケクソ気味に拳を振り上げ、大きな声を張り上げる。
えいえいおーの掛け声は後ろの席の社畜をも巻き込み、このベル○津田沼店に木霊するのであった。
そういえば……こんな人だったよなぁ……
「いいのかなぁ……生徒会役員でこぞってバイトに参加して……一応校則では禁止なんだけど……」
今更そんなことを漏らす会計くんだが、
……でも、ねぇ?新旧会長があんなですから……
※※※※※※※※※※※※
次の日、俺たちは千葉駅に集結した。
めぐり先輩は昨日の内にホテルに先行したらしく、代わりに貰った特急券で八人分の席を手配する。
指定券まで付けてくれる辺り、このご時世に剛毅なものだと思うが「もはや逃がさんぞ」という意が含まれているような気もする。
漠然とした不安を抱きつつ、総武本線下りの乗り場に足を運ぶと、間もなく列車がやってきた。
青の基本調に、黄色のラインが縦に誂えられたのは千葉が誇る銚子行き特急「しおさい」である。
E255系とも呼称されるこの特急電車は、トランスフォーマーとして分類すると民間車両でありながらデストロン陣営にいそうな顔貌をしている。
たまに東京の方からやってくる「ジョイフルトレイン・彩」の顔面に至っては完全にフリーザであり、千葉の鉄道は敵性宇宙人からの侵略が絶えない。
レアなシーンではあるが、両車が総武本線を並走している様は、さながらこの世の終わりを連想させて、沿線住人を恐怖のドン底に陥れているのはよく知られた話だ。
……などと遠く銀河に思いを馳せている内に、ぷすこーと「しおさい」の扉が開いた。
川崎姉弟が先行し、俺と戸部がその後に続く。
指定の席を目指してズンズン通路を進んでいくその途上、他の乗客が思いの外少ないのが気にかかってしまう。
早朝かつ指定席というのもあるが、車両には二組の老夫婦と、夏だというのに全身スーツ姿の暑苦しい社畜が座っているのみである。
人少ないなぁ……こんなんで大丈夫なのかな……などと銚子の行く末を一人憂いていると、一色の指示が後ろから飛んで来る。
「せんぱーい!四人席にしといてくださーい!」
言われるままに、戸部と二人して手早く座席を回し四人席を二つ設ける。もはや後輩に指示されても何とも思わない、どうも俺たちです。
セッティングを終えると、ほれほれと一番奥の席に川崎姉弟を追いやり、その向かいに俺と戸部が二人並んで腰掛ける。
窓側の席でふぃーと息を付いていると、丁度荷物を棚に上げている川崎と目が合った。
「……!」
何故か顔を赤く染め、怒ったような顔を向けてくる。
な、何かしら……その顔は……?怖いからやめて欲しいのだけれど……
「ほ、ほら大志!あんた奥に座りな……好きでしょ、窓側」
「いや……それ子供の頃の話だし……」
怪訝な顔を向ける大志だが、ぐいぐいと背中を押して強引に窓側に座らせる。母ちゃんかこいつ。
「ほら、家からみかん貰ってるからこれも持って。三個以上は食べちゃだめだよ、あんた酔うんだから」
「いや、だからそれも子供の頃の話……」
大志は気恥ずかしそうにみかんを受け取る。はい、もう完璧に母ちゃんですね、こいつ。
その様子を、戸部と二人してほっこり眺めていると、今度は大志の方が頬を赤らめてチラチラとこちらに視線を向けている。
なんだこの姉弟……
「……どうしたよ?」
「あ……お兄さん……昨日の件なんすけど、比企谷さんは今日はやっぱり来られないって……?」
こいつの言う比企谷さんとは小町のことだ。
ずっと聞きたかったのだろう。大志は顔を近づけてポショポショと小さな声で囁く。
実はあの後、小町もバイトに誘うよう大志にお願いされていたのだ。
自分から誘うのはあまりに図々しいと考えたのだろう。
あまりにも真剣な顔で訴えてくるものだから、こちらも熱意に負けて思わず請負ってしまったのだ。
「……ああ、今日家を出る前に誘ったんだけどな。さすがに無理だってよ」
「もっと早く誘いましょうよ! っていうかやる気ゼロっすよね!?」
大志は涙目で突っ込むと、ガックーンとすごい勢いで肩を落とした。
その姿に些かの哀れみを覚える。
すまんな大志……だがお前を小町に近づけないためにはお兄さん、手段を選ばない覚悟なんだぜ……?
「もう良いっす……あ、そうだバイト代でプレゼント買えば……! あ、いや、でも比企谷さんの誕生日って確か三月三日だし……うーんきっかけが……」
「なんで小町の誕生日知ってるんだ怖っ! 大志キモい……いや、マジキモいから……」
「お、教えて貰ったんっすよ!?前に、こう、あざとくアピールしてたんすよ!あとキモくないっす、普通っす!」
「あんた今、弟のことキモイって言った……?」
マジキモい大志を追求していると、隣に控えていたブラコン姉ちゃんが世にも恐ろしい目でこちらを睨んでいる。
いや、でもこいつも小町のことあざといって言いましたからね……? まあ実際あざといんですけど……うちの妹……
ともあれ、川崎が出陣となればこちらも半泣き必至である。既にその眼光を受けるだけで涙が出そうになっている
仕方ないので大志が気持ち悪いのは不問とすることにした。
……しかし一方で、中々打たれ強い奴だと感心してしまう。直ちにプレゼントを渡す算段を立てるとは……
あまりに真っ直ぐな想いを見せつけられて、些か不安な気持ちになってくる。
果たして俺はこの先、こいつの魔手から小町を守り切れるのだろうか……?
「まあ、今度、俺の家の前まで呼んでやるよ。十分間だけ会話させてやるわ」
「……すごく……いたたまれない光景っす……」
などと川崎家と心温まるハートウォーミングな会話に興じていると、通路で一色が不機嫌そうな顔をして突っ立っている。
あざとい柄のキャリーバッグをこちらの席の棚に乗せると、しっしと手を払うジェスチャーを示す。
……そういえばこいつはすみっコぐらしの仲間達だった。
エビとかと同じで端っこを選好する性質があるのだ。
隣の四人席の窓側は書記ちゃんと会計くんが既に席に着いている。与し易い俺をターゲットにしたのだろう。
相変わらず先輩に対する態度とは思えないが、その心理は理解できなくもなかった。
もしこの房総特急が突如暴走特急と化し、テロリストに襲撃されるような事態に陥ったら、通路側にいる人間を盾にして自分だけは助かろうという魂胆なのだろう。早く来てくれライバック。
まあ、俺は何処の席でも良いからな……
もう……本当にいろはすったらしょうがないんだから……
お兄ちゃんスキルが発動され、半分無意識に腰が浮きかける。
しかしどういう訳か、俺より早く戸部の方が立ち上がり、ニヤニヤ苦笑を浮かべた。
「しゃーねーな、いろはすってばよー!」
などと言いながら隣の四人席に移動してしまう。
あーあ……バッカこいつ分かってねぇなぁ……と呆れていると、空いた隣席に一色はあっさりと腰を下ろした。
「ん?……お前、こっちの席のが良いんじゃねぇの?」
「へ?……いえ、ここがいいんですけども……」
きょとんとした顔で一色も首を傾ける。
……あれ?
どうにも腑に落ちなかったが、見やると、一色は自分の前に居る川崎の方をじろりと睨んで不敵な笑みを浮かべている。
その視線を受けて川崎はやや気圧された様子を見せるが、それも一瞬のことで、やがて険しい目つきで一色を睨み返す。
い、一体、なんなんでしょうね……?
あとこの列車、ちょっと冷房効き過ぎじゃないかな……
少し冷え冷えとした空気を感じつつも、列車は銚子を目指して走りだした。
※※※※※※※※※※
列車の窓側で流れる景色を楽しんでいると、隣の一色もご機嫌麗しいようで、ポッキーを齧りながら話しかけてくる。
「楽しみですねぇ、先輩!」
「遊びに行くんじゃねぇぞ……わかってんのかお前……」
「でもこれってー、いわゆるリゾートバイトってヤツじゃないですかー?こういうのやってみたかったんですよねー」
リゾートバイト……?
その一言に、俺は考え込んでしまう。
千葉でリゾートといえば浦安・舞浜~幕張あたりのメジャーどころがまず思い浮かぶ。
自然派志向なら、館山などの南房総であったり、勝浦・九十九里浜辺りが挙げられよう。
実は今から行く銚子という場所……千葉市民にとっては近くて遠い存在と見る向きもあるのだ。
昔は遠足地として学校行事の定番スポットであったらしいのだが、今時は醤油工場の社会見学といえばもっぱら野田の方である。
日帰り旅行としてちょうどいい位置ではあるのだが、昨今では家族サービスにも選ばれにくくなっており、どことなく古びたイメージが有るのは否めない。
少なくとも、こいつの想像するリゾートバイトとはかけ離れている気がするのだが……
「はぁ、なんか難しい顔してますね……やっぱり銚子って、ちょっと昭和っぽいイメージありますかね?」
だがそう言われると、は? 何言ってんのこいつ銚子舐めてんの? みたいな反発心が頭をもたげる。
千葉県銚子市……
古くは流通の要所として知られ、国内有数の大都市だったこともある。
その繁栄も過去のものとなってしまったが、今でも日本一の水揚げ量を誇る漁港として知名度は高い。
ホテル従業員たちが尊い犠牲になったが、今の時期なら磯牡蠣も名物として挙げられ、他にもイワシを始め、数えきれないほどの海産物が港から揚げられる。
また、千葉では野田と二分する醤油の名産地として名高く、食卓にも馴染み深いヒゲタ・ヤマサなど錚々たる企業をその地に擁している。
その醤油を売りにしたぬれ煎餅や、レトロなイメージをむしろ前面に押し出した銚子電鉄なども全国的な知名度を誇っているのではないだろうか。
そして何より近くには太平洋を臨み、古代よりその荒波に象られた沿岸は数多くの名景を生み出し、今も人の心を強く惹きつける。
お正月には山地高所を除けば、日本でもっとも早い初日の出を拝めるスポットとして犬吠埼(いぬぼうさき)も隠れ無き名所と言えるだろう。
更に更に付け足すと、二〇年ほど前から温泉なども出るようになったりなんかして、これから行くホテルもそうだが、太平洋を一望できる露天風呂や足湯もオススメだ。。
ちなみにアニメにもなった某有名ゲームのロケ地に選ばれており、この点について俺はあまり詳しくないのだが、誰か一人を選べと言われたら七咲逢ちゃんが好きです。
って何だよこれ、完全無欠のリゾート地じゃないですか……
やはり千葉に死角はなかったのだ。
銚子の魅力を改めて脳内に描くと、知らずに笑みがこぼれていたようで、ククク……とくぐもった笑い声が漏れていることに気付く。
ふと隣を見やれば、一色は若干俺から距離を取っていた。
うん、ごめんね、今のはちょっとキモかったよね……だからその目はやめて?
「……な、なんか気持ち悪いぐらい詳しくて、ちょっと引きました……」
「と、とにかくだ、あまりにも良いところだからな……お前が羽目を外さないか心配しただけだ。家に帰るまでがリゾートバイトなんだから気を引き締めてかかれよ」
「はぁ……何言ってるんでしょうね……この人は……」
などとゴミでも見るかのような目を向ける一色を他所に、向こうの窓際に座っていた書記ちゃんが、不意に声を上げる。
「ちょっと心配です……私、実はアルバイトって初体験で……周りに迷惑をおかけするかもしれません……」
そう言って、不安そうな顔で手元をいじる。
ふむ……なるほど、確かにあんまりバイトとかするようなキャラには見えない。初めてとあれば不安に思うのも無理はなかろう。
俺も慣れない頃は労働を恐怖する余り、直前になってバックレて、ユニフォームだけ裏口において一日も出勤せずに逃走するなどということを何度か繰り返したものだ。
ウンウンと内心で深く共感していると、隣のボックスの面々が次々と書記ちゃんに励ましの声を送る。
「何言ってるんだよ、書記ならきっと上手くやれるよ!生徒会でいつもやってるように振る舞えばいいのさ」
「わからないことは放置しないで、きちんと周りの人に訊くといい。大丈夫、君ならあまり心配いらないよ」
「ま、俺も付いてるべ?書記ちゃんなら、もうどんどん頼ってくれていいんよー!?」
などと、副会長、会計くん、戸部がそれぞれ三様に元気づける。
「はい……有難うございます、私頑張ってみます……!」
書記ちゃんも先輩たちの激励を受けて、ややぎこちないながらも微笑みを返す。
きっとまだ不安なのだろうが、きゅっと拳を握って気丈に振る舞うところが超可愛い。
お、俺だって……俺だってアドバイスできるもん!
それでちょっと格好いいこと言って書記ちゃんポイントを稼いで、尊敬の眼差しで見つめられたい……!
俺も何か一声かけてやろうと身を乗り出すと、それを遮るように一色は立ち上がり、自らの頬を両手で覆った。
「いやー、実はわたしもリゾートバイトって初めてでー……上手くできるか心配なんですよねー」
そう言って、あざとく身をくねらせる。
「……あぁ、そう……でも会長なら大丈夫じゃないかな……」
「いろはすは……まあ、心配いらないんじゃね……?」
だが世間が一色に向ける目は冷たい。
「……」
会計くんに至っては、完全無視を決め込んで窓の外を眺めており、すっかり旅情気分に浸っている。何あいつ……強い。
「な、なんですかね……? この反応の違いは……」
それは、その小さなお胸に聞いてみればいいんじゃないですかねぇ……?
はっきり言って日頃の行いの差なのだが、よく訓練された俺達は口には出さず、各々明後日の方に顔を向けて話を打ち切る。
「むぅ……」
頬を膨らませてご立腹の一色だが、俺なら与し易いと考えたのか、ちょいちょいと肩をつついてくる。
「先輩……先輩からは何か無いですか? ……こう、バイトの心得みたいなの……今ならわたしのポイントを独り占めするチャンスですよ?」
何言ってんのこの子……アホじゃないかしら……
いろはすポイントはマジいらないので、代わりにアホを見る目で返してやると、一色はまた例の視線を俺に向けていて、がっちり視線が合ってしまう。
「……」
この目で見られると、どうにも弱い。
ふざけた言葉とは裏腹に、どこか真摯さが含まれているような気がするのだ。
……仕方がない。
幾ばくか背すじを伸ばし、けぷこむと咳払いをすると、俺も真面目に応じてやる。
「まあ、あれだ、言うなれば受験勉強……あれと同じ要領だな」
「……受験、勉強?」
「高校受験でもやったんじゃねぇか?……全体をまず俯瞰するんだよ。計画を建てるにも全体図が把握できないと始まらないだろ?」
「は、はい。そんなことをやったような気がしますね……こう、各教科を単元毎に書き出して……」
「それな。……バイトでも同じようなことをやる……これは実は鉄則と言って良いほど重要な作業なんだ」
コクコクと一色は頷く。
思いのほか真面目に応対する俺を、意外に思ったのか、斜向かいの川崎も驚いた顔をこちらに向けてくる。
「自分の仕事はもちろん、他にどんな業務があるのか、上司や同僚にどんな役割が振られているのかにも目を配る……そしてそれぞれの仕事が全体の中でどの位置にあるのか、どれぐらい重要なのかを分析していく……」
「な、なんか凄いっす!お兄さん!」
大志も聞き入っているようで、俺に熱烈な視線を向けてくる。
それを手で遮りつつ、俺は言葉を紡いだ。
「これが出来ると、自分の仕事が他にどう影響するのか、それぞれの業務がどう関連しているのかも理解できるようになってくるんだ」
気付けば、全員話に聞き入っており、俺も自然とろくろを回す手に熱がこもる。
「この段階に進むことが出来れば、あとはもうやることは一つ………いいか、仕事をする上でもっとも重要な事だ」
ゴクリと一色が喉を鳴らす。良い反応だ。
だが今から言うことはバイトだけに限らない、どんな立場で働くにせよ必要なことだと俺は信じている。
きっとこいつの将来の財産になるだろう。
「もっとも重要な事、それは……」
「そ、それは……!?」
「――言われたこと以外は、一切何もやるな」
「……」
「……」
ガタンゴトンと、列車の走る音だけが空間に流れる。
「……は?」
「聞こえなかったか?言われたこと以外は一切何もやるな」
「な、なんでそういう結果になるんでしょうね……?全体図を把握する意味は……?」
「全体図を把握すると、自分に関係ある仕事、関係ない仕事をより深い意味で峻別できるようになるだろ?」
「そうかもしれませんけど……」
「振られた仕事が自分と関係無かったらきっぱり断るためだ。……いるんだよ、何でもかんでも横断的に仕事振ってくるブラック上司が……」
「……は、はぁ……じゃあ他の従業員の仕事を知る意味は……?」
「関係ない仕事を振られることは、どうしたってある。それで失敗した時、そいつに責任をかぶせるためだ」
「なるほど……」
「いや、納得したらダメだよ!?」
神妙に頷く一色に、珍しく川崎さんが突っ込んでおられますが、構わず続けてしまいましょうね。
「全体像を知ることで、やらなくていい仕事を跳ね除ける判断基準が養われる…… 運悪く押し付けられても、他の奴に責任を被せることが出来るかもしれない。……とにかく、くれぐれも仕事や責任を増やすような愚だけは避けろ、絶対に働きたくない」
見やると、一色一人だけが熱心にコクコクと頷くのみで、皆だらしなく椅子からずり落ち、大変姿勢が悪い状態になっている。
なんなのあいつら……ちょっと態度悪くない?
「あと、いくら暇でも自分から『何か仕事無いですかー?』なんて上司に聞きに行くのは愚の骨頂だ。こっちは時間で働いてるから暇なのはいいことなんだ。そういう時はぼーっと突っ立っとけ、絶対に働きたくない」
「勉強になります」
ふむふむと頷く一色に、ついに川崎が横から口を挟んできた。
「待って……一色、こんな奴の言うこと聞いちゃいけないよ」
「はぁ……まずいですかね……?」
「もっと真面目に考えないとダメだよ。そういうのが一人いると職場の空気も悪くなるし……」
「うーん……でもー、時給で働いてるのにたくさん仕事したら損じゃないですかー?」
「それじゃ信頼は得られないよ。厳しいところじゃそんな態度だと怒られるし、そうなると居辛くなっちゃうでしょ……これの甘い考えに乗せられちゃダメ」
もっともらしいことを言う川崎だが、しかし、こちらにも言い分がある。
「そういうお前の考えこそ、上を甘やかすことに繋がるんだよ。文句があるなら指示の範囲が横断しないように組織やマネージメントの方を見直すべきだ」
「仕事って実際はそんなんじゃないでしょ?全部が全部管理なんて出来っこないんだから、あんたが言うのは理想論だよ。あまり甘やかしたらこの子の将来のためにならない」
「背負い込まなくていいもん背負い込んで潰れちまう奴だっているんだぞ?」
「すぐ人だの上だののせいにする子になったっていいの!?」
「おま!これが出来ないせいで、我が国の表に出ない闇の労働時間がどれだけあると思ってるんだ……!」
「あたしは現実を言ってんの。あんた、そんな態度じゃどこの仕事も3ヶ月保たないよ」
き、きー!こいつ、なぜそのことを……!
「……なんか親の口論を聞いてる気分です」
一色の教育方針について川崎と激しく言い争っていると、当の本人はがくりと肩を落として身を縮こませる。
「うーん……でも一見ゲスっぽいけど、比企谷の言うことも一理ぐらいはあるんじゃないか?」
「むしろ指示出す方に必要な心得だよね……、ただバイトの心構えとしては川崎さんの言い分を聞いておいたほうが無難かも……」
わいのわいのと、皆、好き勝手に論評を始める。
「はぁー……なるほど。要するに見方の違いってことですかねー?」
一色のまとめ方には異議があったが、このまま続けると形成がこちらに不利なのは明らかなので口をつぐむ。
くそ……こいつら何故、俺の言うことを素直に聞けないのか……
「二人の言い分を、足して二で割りゃいいんじゃないっすかね?」
「それな!大志いいこと言うわー……まあ、真面目にやんのが基本だけどもさ、楽しんでやる精神も必要よ?接客業なんて心に余裕ないと客にも伝わるっしょ?」
「そ、そうですね……めぐり先輩も言ってましたし、楽しくやりたいです」
「もうホントそれ!」
書記ちゃんが戸部に乗っかって締めると、なんとなく話がまとまった感じになってしまう。
こっちとしては不完全燃焼もいいところだが、まあ無碍には意見を捨てられなかっただけ良しとしますか……
議論が終わればノーサイドだ。
苦笑して論敵に目を向けると、川崎は相変わらず、どえらい怖い顔でこちらを睨んでいた。
ふ、ふえぇ……ヤンキー怖いよぉ……
そんな顔をなさっていたら、職場の空気が悪くなるんじゃないかしら……?
などと思ったりもしたが、口にだすとしばかれそうなので、慌てて窓の方に顔を向ける。
せめて田園風景を見て心を癒やそう……と思った瞬間、電車はすぐにトンネルの中に入ってしまった。
「……」
タイミングの悪さに思わず絶句する。
見やれば窓ガラスには、隣に座る一色の姿が鮮明に浮かび上がっており、じっと俺の方を見ている事に気付く。
その窓の中の一色と目を合わせると、一色の方もそれが分かるのか、にっこりとあざとい笑みを浮かべてこちらに話しかけてきた。
「ふふ、心得の方は話半分に聞いておきますね」
「……まあ、自分で考えたらいいんじゃねぇの」
照れ隠しにそう答えると、トンネルはそう長くはなかったようで、再び景色が窓に広がる。
窓ガラスの向こうの一色はうっすらと薄くなってしまったが、おかげでこちらの顔色も見えにくくなっただろう。
そんなことに安堵しつつ、窓に薄く映った互いの顔を見ながら、会話は続けられる。
「まあ先輩には難しそうですけど、バイト先で何か楽しいことがあるといいですねー?」
「……さっきも言ったろ、働きに行くんだぞ?楽しい事なんてある訳ねぇだろ」
「思い出づくりの絶好のチャンスじゃないですか!ロケーションが大事なんですよ、こういうのって」
「ロケーションねぇ……」
「たとえばー、向こうは海の幸とか超豊富なわけじゃないですか?気になるあの子と二人で、色とりどりの豪華な魚料理に舌鼓を打ったり……」
「……まかないは出るらしいけどな、豪勢な造りの盛り合わせなんて期待すんじゃねーぞ」
原価も高いだろうし、そんな手間暇はもっぱら客に向けられる。
「どうせ、その辺の魚の切れ端を煮しめたものを、ご飯の上にどちゃっと載せられて、追い立てられるように食べさせられるんだ」
「あ、相変わらず斜に構えてますね……」
俺のすげない返事に、一色はむぅと眉間に皺を寄せる。
「それに仕事とか一緒にする訳じゃないですか?こう、可愛い後輩……じゃなくても良いんですけど、偶然手が触れ合ったりしてドキッ!なんてことも……」
なんかさっきから色恋沙汰を前提にしている気がするのだが……これがスイーツ脳という奴か……
「お前、別に手とか触れても何とも思わねぇだろ」
「わ、わたしの事じゃないですよ!今してるのは先輩の思い出作りについてですよ!」
さいですか……
しかし手が重なったぐらいで動じるような俺ではない。こいつは一体何を言っているのか……
「……あ、それにホテルには温泉があるんですよ!……お風呂あがりの浴衣姿にときめいちゃったりするんじゃないですか?」
ニタァ……と嫌らしい笑顔を浮かべる一色だが、俺は浴衣に限らず、割とどんな衣装でも心ときめくタイプである。却下。
「海もありますから、みんなで遊べますよ!わたし……じゃなくてもいいんですけど、あの子の大胆な水着姿にドキドキしたり……!」
大胆ねぇ……
少し視線を下ろして、窓に映る一色のその慎ましい胸元に目を向ける。ハハッワロス。
「なんでしょうね……その笑いは………でもちょっとえっちなイベントも待ってるかもしれませんよ?……たとえば悪戯な波に流されて……」
きゃー♪と胸を抑えて身をよじる一色に、俺は冷たく返す。
「海パンが脱げちゃったりするんだよな」
「……何食べたらこんなマイナス思考になっちゃうんでしょうね……?」
一色が呆れたような顔を窓の向こうで浮かべている。
……しかし、なんだってば、こいつはさっきから俺の思い出のネタなど考えてるんでしょうね……?
全くもって訳がわからなかったが、こちらの戸惑いなど我関せずと、一人頭を捻っている。
やがて一色ははっと顔を上げると、またぞろ何か思いついたのか、うっとりとした表情で手を合わせる。
「やっぱり夏と言ったら、海と浜辺ですよねー……水平線に沈む夕日をバックに、二人はざくざくと浜辺を並んで歩くんですよ……」
「今の時期、夕陽は海に沈まないんじゃねぇの。日の出のほうが有名だぞ……」
「も、もう!そんなのどっちでもいいんですよ!とにかく、女の子と海と太陽とムードあればそれでいいんです!」
また思い切りよく端折ってきましたね……なんなのこいつ、クレイジーケンバンドなの?
いろいろと計算高いところがあるかと思えば、こうして雑なところも見せてくる。
なぜ乙女に徹しきれないのか……
「それに海でやりたいことと言ったら……ほら、あるじゃないですか?これぞ青春って感じの……水をパシャパシャ掛けあったり……」
「海に叩きこんだりな」
「ぐぬぬ……、あ、そうだ!これですよ……!浜辺で逃げるわたし……じゃなくても良いんですけど、と、とにかく、きゃっきゃうふふと逃げる女の子を先輩が追いかけて捕まえるんですよ!」
「お前、さっきから発想がテンプレな」
それに俺がやると、なんか警察沙汰になりそうなんだよなぁ……
我が事ながら、どうしても変態的な絵図しか思い浮かばない。
「とにかくですよ!そんな感じで、このバイトで気になるあの子と急接近するんです!……ね、楽しみですよね!?」
「はいはい、楽しみ楽しみ……」
もはや二人の会話と言うにはヒートアップしすぎていたらしく、遠くで聞いていた副会長と書記ちゃんは意識してしまったのか、二人して頬をぼっと赤くする。
そして、そんな二人を、向かいに座る会計くんが微笑ましく見守っていた。
なんなのあいつ……さっきから超格好いいんだけど……
「どれかひとつでも叶うといいですね~」
再び窓に顔を向けると、一色のあざとい笑顔が映っていた。
そんなアホみたいなテンプレ青春劇はお金を貰っても体験したくないのだが……
「……別に、そんな無理して夏っぽい思い出作らなくてもいいだろ……普通でいい」
窓に映る一色ではなく、本人に向き直して返事をすると、一色もきょとんとしたのち真顔に戻る。
「そっか……そうですね……それにそんな無理にやろうとしなくても、きっと……」
言葉の続きを待つも、一色はほわっと柔らかい笑顔を浮かべるのみである。
……しかし、その表情は常より少し大人びていて、不覚にも胸が高鳴ってしまう。
誤魔化すように目を逸らすと、有耶無耶なまま会話も途切れてしまった。
それで一区切り付いたのか、やがて一色は向かいに座る川崎姉弟と何やら楽しげに会話を始める。
向こうのボックスに目を向けると、戸部が大げさな身振りで話を盛り上げており、役員三名も楽しそうに応じている。
改めて外の景色に視線を映す。
八街辺りに差し掛かったのか、風景は田園から山々にその模様を変えていく。
千葉にはまだ人類未踏の山が数多く残されており(嘘)、高度に組織化された野犬の軍勢が激闘を繰り広げるのに十分なスペースを有している。千葉の山には熊いねぇけどな。
そしてそれを抜ければ、関東最東端の海はまもなくだ。
※※※※※※※※※※※※
銚子に到着すると、すぐさま噂の銚電に乗り継ぎ、レトロな旅情気分に浸りつつ揺られること二〇分。
俺たちはようやく目的地のホテルに辿り着いた。
「みんなー、よく来てくれたねー!」
正面口で出迎えてくれたのは、みんな大好き☆めぐめぐめぐりん先輩である。
作務衣姿も愛らしく、仕事仕様なのか、おさげに編まれた髪型は高校時代を彷彿とさせる。
そしてその後ろから続くのは、着物姿にまとめ髪。初老に差し掛かろうという年齢の、いかにも温泉旅館の女将といった風貌の人物である。
ここはホテルと銘打ってはいるが、旅館テイストが持ち味のようで、従業員はみな和風の装束で統一しているようだ。
おいでやすと女将さんに一礼されると、一同かしこまってお辞儀を返す。
「女将です。ようこそいらっしゃいました。皆さんにはこれから一週間、手伝ってもらいます。今日はこの後お作法と仕事の研修をしてもらって、早速明日からフロアに出てもらいますからそのつもりで」
歳を感じさせない凛とした声に、思わず背すじが伸びてしまう。
独特の雰囲気を醸しだしており、おそらく客に対しては柔和さを、従業員に対しては厳格さを印象づけるのだろう。
客商売の管理職とは、なべてそのようなものかもしれないが、……どうしよう、早くもバックレたくなってきたぜ……
「めぐり、まずは部屋割りと、シフトを決めてもらいなさい。三〇分後には研修を始めるよ」
「はーい」
挨拶もそこそこに、早速ざくっとしたスケジュールが告げられた。
しかし、厳しそうな女将さんではあるが、めぐり先輩に対してはどこか気安さのようなものを覗かせる。
親戚関係というのもあるだろうが、おそらくここでも彼女は可愛がられているのだろう。
ええ、もう実際本当に可愛いですからね……この先輩……
その様子をぼけらっと眺めていると、隣りにいた一色がぽしょぽしょと耳打ちしてきた。
「……あの人がボスって感じですね……上手く取り入れば甘い汁が吸えるかもしれませんよ……」
そ、そうね……
でもバイト地に着いて開口一番がそれって、先輩どうかと思うの……
……本当に可愛くねぇ……なんなのこの後輩……
早速見せる逞しさというか、その腹黒さに半ば関心していると、めぐり先輩は一旦俺達を外に連れ出し、ホテル裏口まで案内してくれる。
そこは従業員用の出入り口と資材の搬入口を兼ねているらしく、俺達は基本的にここから出入りしなければならないらしい。
促されるまま入っていくと、中はすぐ寮になっており、向こうに覗く廊下にはたくさんの小部屋が並んでいる。
扉が開いているのは俺達に充てがわれたものなのか、二人部屋が五つ開放されていた。
「私もここで寝泊まりしてるから、あとで部屋割りを決めようね。まずは共用スペースでシフトを決めちゃおう!」
めぐり先輩は一人おーっと手を挙げると、楽しげな様子でズンズン奥に進んでいく。
何が嬉しいのか、出会い端からノリノリである。
やがて廊下を抜けると、二十坪はあろうかという大きな部屋が目の前に広がる。
「おわ、めっちゃ広いし!」
などと叫ぶ戸部の大きな声も、奥まで届かないほどだ。
先ほどチラリと窺った二人部屋とは違い、ゆったりスペースを使っているようで、市街地では考えられない贅沢である。
「ここが従業員の共用スペース。厨房に繋がってるからご飯はここで食べるんだよ。あと仕事中の休憩なんかもここで取ってね」
休憩所としては破格の広さである。
都市部だと、なんか倉庫みたいなところに幽閉されるよね……
「大きなテレビとか、カーペットを敷いてるところもあるから、寝る前とかにもここでくつろげるよ! ……あと受験生のみんなはこっちの部屋を使ってね」
そういって指し示す扉は、泊まりの従業員が書類仕事をするための部屋らしい。
普段はあまり使われていないらしく、受験生はそこで勉強してもよいとのこと。
扉を開けて貰い、川崎と二人して中を覗くと、畳の上にはロータイプの机が数台設置されており、それぞれ板で区切られている。
予備校にある自習室の座敷バージョンといった趣だ。
仮眠も取れるようで、角には背の低いベッドが置かれており、その上にはタオルケットが積まれている。
冷暖房完備で、環境的には何も問題なさそうだ。
さらに後ろから覗き込んでいた副会長も感嘆の声を上げる。
「いい感じじゃないか……俺も計画に遅れが出ないようにちゃんと勉強しないとなぁ……」
「……え?副会長、勉強の用意持ってきてんの……?」
戸部が信じられないといった顔で目を剥くが、副会長の方も同様の目を戸部に向ける。
既に明暗が分かれている二人。
戸部……こいつ絶対、浪人するわ……
受験組四人の呆れた眼差しを受けて、戸部の額にぶわっと汗が吹き出した。
……しかし戸部の行く末など心底どうでもいい。
案内もひとしきり終えると、俺たちはテーブルを囲んで早速シフト決めを行う。
ホテルは二十四時間営業ではあるが、我々はいたいけな高校生ということで六時から二十二時が勤務可能な時間帯となっているようだ。
そしてシフトは朝・昼・夕・夜と四分割されており、一コマに付き四時間が割り当てられている。
俺達短期バイトに課せられたのは八時間労働。つまり一日二コマを選択すれば良いわけだ。
「はい、これがシフト表。他のバイトの人達のシフトも見て、なるべく満遍なく散らばるように選んでねー」
注意事項を聞きつつ、皆でやいのやいのとシフトを埋めていると、何か不満があるのか一色がめぐり先輩に顔を向ける。
「絶対に散らばって入れなきゃダメなんですか……?」
「人手不足だから偏りがあるとホテルも困っちゃうんだよ……もしバランスが悪ければ後でシフトを変更されちゃうかも……」
めぐり先輩が申し訳無さそうに言う。
「だからみんなも、今書いてもらってるのは、あくまで仮決めだと思っておいてね」
「えー……それだとみんな揃って遊べないじゃないですか……」
「だからお前、行楽に来てんじゃねぇんだから……」
ほら、めぐりん困ってるでしょ?と思わず横から口を出すと、一色はふくれっ面をこちらに向けた。
「そーなんですけど……でも一日ぐらいはみんなで遊びたいじゃないですかー?」
どうもこいつは人より神経が図太くできているらしい……
レジャー目当てを隠そうともしない一色に、めぐり先輩も苦笑しつつフォローを入れる。
「あはは……でもほら、すぐ近くに海とか名所があるから、適当に空いた人同士で遊びにいけるよ!」
「むぅ……」
依然頬を膨らませたままの一色にほとほと呆れかえってしまう。
うん、もう……この子ったら本当にアホっぽいんだから……
しかし、不意に一色のその目が妖しく輝いたような気がした。
「……ところでそのシフトって、女将さんが決めてるんですか?」
「うーん……女将さんが従業員と相談してって感じかなぁ……お客さまの多い時少ない時があるから調整してるみたい……私もその辺は関わったこと無いからよくわからないんだ、ごめんね……」
「……なるほど……従業員と相談して……」
なんでしょうね……この子……何か良からぬことを考えている気がするのだけれど……
訝しがっていると、めぐり先輩がぽんと手を打って、思い出したように皆に告げる。
「あ、それと言い忘れたけど、五日目のシフトだけはみんな強制的に夕方に入ってもらうことになってるの。この日は大宴会場を使う予定があって一番忙しくなるんだ」
「大宴会場……団体客でも来るんですか?」
副会長が聞くと、めぐり先輩は笑顔でコクコクと頷く。
「うん、日帰りのツアー客がこのホテルを休憩所に使うことになってるの。百人以上入る予定で、しかも芸能人が来たりするんだよ!」
「おぉ……!」
「えー!?芸能人とかマジで!?アガるわー!」
「誰っすかね!?誰が来るんっすかね!?」
途中、そのような一大イベントが有るらしく、一同驚きの声を上げる。
なるほどシフト表を見れば、その日はたくさんの人員が登録されており、俺達のシフトもこの日だけは一コマ分だけ勝手に決められている。
……なかなか大変な一日になりそうで、俺は今から気が滅入ってしまう。
しかし皆は芸能人と聞き、そのことで大いに盛り上がっており、一色の不満もひとまず有耶無耶になった。
そんなこんなで適当にシフトを決めると、同じく書き終えたのか、一色は俺の後ろに回り込み、例のごとく肩越しに手元にあるシフト表を覗き込んでくる。
ふうふうと鼻息が首筋に当たるのが面映ゆく、身を捩って睨みつける。
それ本当やめて……困る……
「……なんだよ」
「いえ、先輩はこういう感じで入れてるんですね……なんか歯抜けが多いんですけど……」
「ん、ああ、八時間ぶっ続けで何かやるのはしんどいからな。なるべく間を空けてんだよ」
仕事にしろ勉強にしろ八時間ぶっ続けでやるのは辛すぎる。……なので交互になるようシフトを組んでいたのだ。
我ながら上手く配分されていると思う。進研ゼミもびっくりの両立シフトである。
「へー」
「いや、興味ないなら聞くんじゃねぇよ……」
ジト目で睨むも、一色は気の抜けた相槌の割には、真剣な顔付きで俺のシフトを凝視してくる。
……かと思えば、今度は川崎の背後に立ち、また同様に後ろからシフト表を覗き込んだ。
川崎も首筋に息を当てられ俺同様にセクシャルに身を捩っている。
ゆるっと百合ってくれる限りは、俺はこういう光景を見るのは嫌いではないです。
しかし、こいつ……川崎に対しても、大分遠慮が無くなってきたな……
そんな一色に、顔を真っ赤にしつつ不審な目を向ける川崎だが、俺もおそらく似たような顔を向けているのだろう。
……なんかこいつ、さっきから変な事考えてそうなんだよな……
ふむふむと何やら考え込む一色をじっと見やると、俺の視線に気付いたのか、にやりと意地の悪そうな笑顔を浮かべる。
……まあ、せいぜい頑張ればいい。
何を考えているかは知らないが、こいつが、きちんと考えた上のことならば、俺は大概のことは受け入れるし、場合によっては手伝うのも吝かではない。
願わくば、ここにいる面子が楽しく、有意義なものであらんことを……
などと超格好良いことを考えながら、俺は一色から顔を逸らした。
今になって思えば、何故自分はそんな悠長に構えていたのか……
まったくもって不覚だったと言わざるをえない。
これから俺たちは、例のごとく一色に引っ掻き回される事になる。
そして、それがまさかあんな惨事に繋がるとは、この時の俺達には知る由もなく……
……ともあれ、俺達のアルバイトが始まった。
※※※※※※※※※※※※
一色いろは・被害者の会5
風雲篇・前半 【了】
あれ……おかしいな……?全然話が進まなかったぞ……
次回こそイチャラブ回だよ!
次回:
いやー面白いです!
まさか津田沼が舞台になるとは…
地元なのでニヤニヤしながら読んでました。
次も楽しみに待ってます。
良いすねえ
まさかめぐりんが登場するとは
イチャラブ(糖分過多
でずっと行ってくださっても良いのですよ?(´・ω・`)チラッ
続編、首を長くして待っておりました!
がっこうぐらしではないシチュエーションでいろはすさまが引っ掻き回すワケですね。
相変わらず両ヒロイン?不在だけどオールスター共演、次回更新がめっさ愉しみ!
順番違うけど「青春篇」「激闘編」「番外編」って続けてもええんやでw
八幡が学年2位って…
これ、ゆきのん転校とかしてるやつなのか…?
素晴らしい…!
今回も超大作の予感(o^^o)
いろはすとのこれくらいの距離感がもどかしくて好きです。
待ち続けていました!二人の関係に変化が見られますね〜。これからどうなるのかがさらに楽しみです!
いつも楽しみにしてますぜ
相変わらずのクオリティで続きが楽しみ
原作四巻とダブらせてるのかな
>>5
そこ俺も気になった・・留学かな?
両ヒロインもそうだけど平塚先生とか小町もまったく出てこないんだよなぁ
今回もとても高いクオリティでとても素晴らしいですね(^∇^)
糖分多めで今後もよろしくお願いしまーす(^O^)/
>>10
多分そうかなぁ…
小町は総武落ちたんじゃなかろうか
大志が小町と話してないっぽいし……
基本ギャグ調でほんと面白いんやけど
そういう匂わす描写があってハラハラしてまう
この作者の作品を永遠に読んでいたい
早く続き見たい
たしかにいちゃラブなかったww
ちっこいネタをしっかり回収してるのがすごいです!完成度高過ぎます。
このままいろはすと夫婦漫才でも私は満足です。笑
頑張って下さい^ ^
待ってましたぁぁぁぁ