ある鎮守府のお話
短編です。
ちょっと鬱めかもしれません。
「じゃあお願いします、時雨」
「…うん」
ある提督が部下である艦娘に命令をする。その光景は、数ある鎮守府の、どこにでもある光景だ。
ただ異なるのは、他人行儀に接する提督と、接されるその娘には同じ指輪が光っている事。
娘は哀しげで、疲労に満ちた顔をしている。
対し提督は、申し訳無さそうな顔を。
彼の中には、伴侶となった娘の記憶は無かった。
こうなってしまったのはそう前の事では無い。
ある日、ある朝。幸せに目を覚ます筈だった提督は、日常生活、身の回りの事、その他事務関連の事諸々…
それらを除き、全ての記憶を失ってしまっていたのだ。
ストレス性の精神障害、突発性のもの先天性のもの…様々な診断がされたが、事実は何も変わらない。事実として、彼は記憶を失ったのである。
戦争の途中であるが為に人手が慢性的に不足している日本軍本部は、指揮能力は未だ持っているとの事で彼を提督へと任命したままにした。
その判断は、提督本人にとっても辛いものとなる。
彼の配下の、彼を慕う部下の娘達は酷く悲しみ、ありとあらゆる方法で記憶を取り戻そうとした。
特に、その喪失の数ヶ月前にケッコンをした時雨。
彼女もまた非常に悲しみ、精一杯に全てを元に戻そうとし、そして、提督もそれに精一杯応えた。
だがしかし、それらは全てが身を結ぶ事は無かった。
その行動の末、彼女達は彼を『元に戻す』のでは無く、また新しい『彼』を認めようという事になった。
苦渋の決断ではあったものの、そうでもしなければ彼も彼女らも、その関係までもがいつの日にか破綻してしまっていただろう。
提督は戸惑いつつも、それでも出来る限りにそれに順応、適応した。
そして、全てが仮初めにも元どおりに成った。
…そう、誰もが思っていた。
だが、そうは成らなかった。
王様の馬と王様の家来を全て集めても、ハンプティ・ダンプティは元に戻せない。
そして、ハンプティ・ダンプティは再び砕ける。
新しき彼を皆受け入れ、その生活が当たり前になりつつあった頃、それは起きた。
提督の記憶が電源を切ったかのように、あっさりとリセットされてしまった。
部下である娘達は再び絶望に襲われ、悲嘆に暮れた。
伴侶である時雨も、ようやく心に折り合いをつけた矢先のこれに、心が折れかけてしまった。
それでも、彼女らも、彼女も。諦める事はなかった。
いつか平穏なる日々を、平穏な海を。
そして、『提督』との思い出を胸に秘めて。
彼女達は化け物と戦いながら、彼と思い出を作り、彼を慕い続けた。
何度も、何度でも、何十回も。
幾ら記憶の硝子細工が砕けてしまおうと、その細工を拾い集めて、直し続けた。
その度にその度に、彼女らも、提督も精神が摩耗していくことを感じながら、それでも直し続けていた。
誰もが、彼が彼で無くなる事など。
そんな事を認めようとしなかった。
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「何を…!何を、やっているの!?」
「……やあ。遅かったね」
そして、ある日の事。
提督は冷たい死体と化した。
戦争の流れ弾でも、深海よりの刺客でも無い。
下手人は直ぐに見つかった。
死体の、直ぐ隣に居た者だった。
秘書艦であり、伴侶である時雨。
彼女がそれだった。
彼女は、第一発見者によると、絞められ、青紫色に染まった首を持った、動かぬ提督を膝に乗せ、幼子にやるように微笑みながら頭を撫でていたのだという。
本部へと連行された彼女は、如何に取り調べを受けようとも貝のように口を閉ざしていた。
しかし、彼女の元同士が…彼女の元同僚達が話を聞きに行くと、述懐を始めた。
あの日。
提督は全ての記憶が戻ったのだと。
皆無とも近い確率の幸運の先に、それは起こったのだ。
時雨が喜ぶ暇も無く、提督は言った。
私はこのまま、愚かなまま老いさらばえたくは無い。
そして、このまま、皆を傷付けるような者でいたくは無いんだ。
きっと私は、またいつか記憶を失うだろう。
だから、頼む。その前に。
君のその手で、私を殺してくれ。
当然の如く、彼女は猛然と拒絶した。
泣いて、哀願して、嫌だという意思を伝えた。
それでも彼は考えを変えなかった。
嗚呼、それが『命令』ならばどれだけ楽だっただろうか?ただ、命令に背けばいいのだから。
しかし、それは『依頼』だったのだ。
頼り、信じ、そして愛している伴侶への、切なる頼み。
その愛に背く事は、彼女には。
…時雨には、できなかった。
そうして彼女は首を絞めた。
数秒毎に力が弱まり、体温が失せていくのも解った。目の光はみるみる薄まる。
それでも絞め続けた。
自らをも殺し、絞め続けた。
そして提督は最後にこう、言ったという。
「君に最後まで辛い思いをさせて、済まない」
全てを語り終えた時雨の目には、何の感情も浮かんでいなかった。
最後に、その話を聞いた艦は問いた。
「それで良かったのか」と。
時雨は答えた。
「うん。…これで、良かったんだ。僕は、幸せだよ」と。そう言って、笑ったのだという。
それに対して「本当に?」と問うことは出来なかった。
愛する人を救う為にその人を殺した、その両の腕を今も見つめてる彼女が。
愛した者を殺すしか出来なかった自分を、どうして良いと思えるだろうか。
…そして、なにより。
涙をぼろぼろと流し語るその言葉を、どうして本心だと思う事が出来ようか。
彼女にはただ、その場を去ることしか出来なかった。
背中に歔欷する音を浴びつつ、虚無感と共に鎮守府へと帰る事しか出来なかった。
これは、ある鎮守府のお話。
数ある鎮守府の、一つのお話…
終わり
以上です。
時雨は病ませるより曇らせたい(確固たる意思)
考えさせられる話です。
この国は安楽死を認めてない。
だから末期ガンの人は死を願う。
どうして愛する人のために手を汚した人が悪いのか。考えさせられる話でした。
これは高瀬舟(漢字合ってるか分からない)っていう物語に似てるなぁと思いました。"正しさ"を考えさせられました。
つまり本営がクソブラック。ということですねわかります。