sweet,bitter sweet
きっかけは、自分でもよく覚えていない。
レッスンが終わった後に事務所でたまたま会って、少し話をしていただけだった。
二人きりで、ほかに誰もいなかったせいだろうか。
気づいたら、可奈を壁際に追い詰めていて。
壁に右手をついて、逃げ道を塞いで。
それから。
私は。
「え、志保ちゃ……んぅっ!?」
あの娘の唇を、奪った。
閉じていた目を開けると、可奈のまんまるとした大きな目が映った。
唇に柔らかな何かが当たっている。感触を味わう理性が飛んでしまっている。
ぼんやりとした頭のまま、ゆっくりと可奈から離れる。
こんなに驚いている可奈は初めて見るな、とどうでもいい感想が頭に浮かんだ。
可奈はしばらく呆然と目を見開いたまま固まっていたが、急にびくんと電流が流れたように小さく跳ねると、トマトのように赤くなった顔のまま椅子の上に置いてあった鞄を引っ掴んで事務所を出ていった。
私は未だはっきりしない頭で、走り去っていった可奈の背中と、見開かれた大きな目と、唇の柔らかな感触を思い出していた。
それから、夕日の差し込む事務所内でひとり佇みながら。
終わった、と思った。
様子がおかしい。
それが、事務所で朝一番に北沢志保に声をかけた最上静香が抱いた感想だった。
こちらの挨拶に対し不愛想に返答するのはいつものことで、手元のスマートフォンから視線を移さないのも普段通り。それでもいつもは意識をこちらに向けているのがなんとなく伝わるのだが、今日はそれがない。かといってスマートフォンの画面に集中しているわけでもなく、どことなく上の空だ。
一言でいえば、ぼんやりしている。それは彼女にとって珍しいことだった。少なくとも静香は、人前でぼうっとしている志保を見た記憶はほとんどない。
「どうかしたの?」
気になったので聞いてみた。
「何が」
「ぼんやりしてるみたいだけど」
「別に、いつも通りよ」
にべもない。だが、その口調もやはりどこか気が抜けている。
「いつも通りには見えないんだけど」
「しつこいわね。放っておいて」
「本当に大丈夫?寝不足とか?」
「……まあ、そんな感じ」
ようやく意識がほんの少しこっちを向いた。この場でこれ以上聞き出すのはおそらく無理だろう。かなり早い時間でもあるし、本当に寝不足なのかもしれない。
「眠たいなら無理しないで、休憩室で仮眠取りなさいよ?」
午後になって調子が戻っていないようならまた聞いてみようと、静香は踵を返した。
静香の言葉に曖昧に首を振って、志保は自分のスマートフォンにメモした今日の予定を確認する。
別に嘘はついていない。確かに今日はいつもと比べて明らかに寝不足で瞼が重い。もっとも、夜更かしをしたくてしたのではなかったし、頭がぼんやりしている理由も寝不足以外の理由が大半だったのだが。
スマートフォンを眺めている間も、ふとした瞬間に昨日の事務所での光景が頭をよぎる。可奈の驚いた顔と、柔らかな唇の感触。さらさらとした髪の肌触りと遠ざかっていく足音。鮮明に思い出そうとすると記憶に霧がかかって薄れ、忘れようと意識しても気を抜いた瞬間に目の裏に浮かんでくる。静香にぼんやりしていると言われるわけだ。とても何かに集中できる状態じゃない。
休もうかとも思ったが、今日はどうしても外せない打ち合わせが入っているし、何より日々のレッスンを疎かにするわけにはいかない。少しぼうっとしているだけで、気持ちを入れればすぐに切り替えられると志保は自分を信じることにした。
(早めに来て正解だったわ……)
ほぅ、と小さく息をつく。早朝の事務所にいるのは自分と静香だけだ。先ほどまでは早起きしてきたらしい中谷育と、同じく早起きしてきたらしい北上麗花がいたが、「そうだ、お散歩しよう!」と唐突に麗花が声をあげ、育の手を引いて出かけて行ってしまった。何が「そう」なのかはよくわからないが、彼女の発言は大概意味が分からないので気にしないことにした。大方、今日は天気がいいからとか、そんな理由だろう。
その後に静香がやってきて、今に至る。珍しくこっちを心配してきたが、それだけ今のぼんやりとした内面が表に出てしまっているということだ。
しっかりしなければ。そう思い、気合いを入れ直して知らぬ間に床まで落ちていた視線を持ち上げる。
オレンジ色が目に入った。
別段早起きというわけじゃない。
たまたま、今日は早く来ただけだった。
昨日あんなことがあって、心底驚いて、動揺したままさようならも言わず一心不乱に走って家に帰った。母親に見つかって心配されてしまったけど、なんでもないと笑顔を取り繕ってやり過ごし、お風呂に入って布団に潜った。眠ってしまえば落ち着くだろうと思っていたのに、動悸は一向に治まらなくて、気づけば空が明るくなっていた。
このまま布団でだらだらしていてもどうせ眠れないし、仮に眠ってしまったら事務所に遅刻してしまう。鉛のように重い頭を引きずりながら支度をし、起きがけの父親に行ってきますと声をかけて家を出た。事務所に着くまでの間、ずっと昨日の光景が頭の中でぐるぐると回り続けて、ふとした瞬間に初めて重ねた唇の感触が甦ってきた。近づいてくる彼女の整った顔を思い起こすたび、破裂しそうなほど心臓の鼓動が速くなった。
気づけば、事務所の扉の前。いけない、と軽く頭を振る。こんな調子ではみんなに心配されてしまう。
(しっかりしなきゃ)
早めに来てよかった。この時間ならきっと誰もいないはず。今のうちに気分を切り替えておこう。
そう思い、ドアノブを回す。
「………あ」
彼女と、目が合った。
散歩から戻ってきた北上麗花と中谷育は、おぼつかない足取りで事務所に入っていく矢吹可奈を目にしていた。
声をかけたのだが、距離が遠くて聞こえなかったのか振り向きもせずに中に入って行ってしまった。
「可奈さん、どうしたのかな…」
「ん~、寝不足なのかもしれないね」
「寝不足なのに早起きしたの?」
「早起きは体にいいからね!」
何故か胸を張る麗花。
「でも可奈さん、調子悪そうだったよ?」
「…あれれ?本当だね。どうしたのかな…」
「寝不足なのかも」
「寝不足なのに早起き…?」
堂々巡りになりそうだったので、話を切り上げて事務所へ向かう。後ろで「そうだ、寝不足ならお散歩しよう!今日はいい天気だよ~♪」という声が聞こえたが、あれだけ歩いたのにまだ歩き足りないのかな、と育は年上女性の体力に感心した。
「あれ、可奈さん?」
見ると、半開きになった扉の前で可奈が硬直している。
何をしているんだろう、と疑問に思う間もなく――
突然動き出した可奈が物凄い勢いで真横を通り抜け、そのまま走り去って行ってしまった。
「可奈ちゃん、お散歩じゃなくてランニングがしたかったのかな?」
戻って来たらしい麗花の声を聞きながら、志保は一瞬前の光景を思い返す。
完全に不意打ちで視界に入ってきたオレンジ色――可奈は、こちらを見た瞬間ぽかんとした表情のまま固まっていた。自分も同じような顔をしていたと思う。
たまたま早起きして来た日に限って、まさか相手に出くわすとは思っていなかったのだろう。それはこちらも同じで、まったく心の準備が出来ていないままお互い見つめ合ってしまった。そして、否応なしに思い返される昨日の光景。
5秒くらい硬直して、無理矢理に視線を外した可奈は昨日と同じく逃げるように走り去っていった。
覚悟はしていた。当然だとも思った。そして、今ので確信した。
自分は、可奈に嫌われたのだと。
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