2015-06-07 03:09:57 更新

「はあぁ……」

 夕暮れ時の765プロライブ劇場に大きなため息が響き渡った。元凶である矢吹可奈は、ソファに座った姿勢からテーブルに突っ伏してうーうー唸り声を上げている。

 その脳内では、今日一日の反省会が行われていた。

(今日はダメダメだったなぁ…)

 レッスン中に振り付けを間違える、楽屋を間違える、集合場所を間違える、気晴らしにぼーっと歌っていたら連絡事項をすべて聞き逃していて律子に怒られる…。

 今朝がたに志保と顔を合わせてしまってから、何一つとして集中できていない。

 最悪なのは、あの場で逃げ出してしまったことだった。気が動転して何も考えられなくなって、それで思わず事務所を飛び出してしまったのだけど、目線をそらしたとき志保が一瞬悲しそうな、何かを諦めたような顔をしていたように見えた。

 取り返しのつかないことをしてしまった気がする。現に、今日一日志保は話しかけてくれることも目線を合わせてくれることも、近づいてくれさえもしなかった。避けられていたような気さえする。当然かもしれない。最初に逃げたのは自分だ。それでも、志保に嫌われたと思うと無性に悲しかった。

 せめて取り繕うべきだった。なんでもないふうを装って、普段通りにおはようと挨拶すればそれで何もかも変わらずにいられたかもしれなかったのに。

 後悔ばかりが募って、とてもほかのことを考えられる気分ではなかった。

 そもそも、どうして志保は昨日、自分にあんなことをしたんだろう。何かにつまづいて転んだようには見えなかったし、そうなるとやっぱりそういうことなんだろうか。そういうことってなんだろう。ああでも、目の前で見た志保ちゃんの顔も綺麗だったなあ。

 わからない。思考が空転する。友情と恋愛の区別がついていない可奈にとって、志保が何を考えてあのような行動をとったのか、自分は志保に謝ったほうがいいのか、そもそも何と言って話しかければいいのか、何ひとつとしてわからなかった。

「うーーー……」

 再び唸りだし、しばらくテーブルの上で顔を右に左に移動させていたが、ふいにばたりと動きが止まる。

 静止したまま途方に暮れている可奈。

 ふいに、その肩が叩かれた。



 夕暮れ時の765プロライブ劇場で望月杏奈が目撃したその光景は、控えめに言って不気味だった。

 可奈がソファに座ってうなだれている。と思えば急にテーブルに突っ伏したり、うーうー唸っていたかと思ったら突然起きだしてソファの上でくるくる回りだす。青ざめた顔で倒れ伏したかと思えば、ソファに寝転がって手足をパタパタしはじめ、起き上がって正座し、何事か考えていたかと思うとそのままの姿勢で正面に倒れて額をテーブルに勢いよくぶつけ、悶絶したのちにまたテーブルに突っ伏し、ふたたびうーうー唸りだす。

 さすがに杏奈は心配になった。何か悪いものでも食べたのだろうか。

 思えば、今日一日可奈は様子がおかしかったような気がする。いつもは明るく積極的に接してくるのに今日はどこか上の空で、話を聞き流していることも多く律子にも怒られていた。何より、今日はほとんど歌っていない。普段なら一日十回は歌を聞かされるのに。

 ひょっとしたら何か悩みでもあるのだろうか。彼女ほど悩みと無縁に思える人物は他に思いつかないが。…いや、春日未来と北上麗花がいたか。まあそれはいいとして。

 仕事もレッスンも終わり、あとは帰るだけだ。可奈は自分を友達と言ってくれるし、自分もそう思っている。たまには友達の悩み事を聞いてあげるのもいいだろう。

 突っ伏した恰好で顔をびたんびたん右に左にせわしく動かしていた可奈の動きが糸の切れた人形のように止まった。正直話しかけづらい。

 ソファの背面から前かがみになりつつ、おそるおそる伸ばした手で可奈の肩をぽんぽんと叩く。

 勢いよく持ち上がった後頭部が杏奈の顔と激突した。



 夕暮れ時の765プロライブ劇場で帰り支度を済ませて帰路につこうとしていた七尾百合子は、顔面と後頭部が衝突する瞬間を目の当たりにした。

(おおー……)

 思わず感心するほど見事なぶつかり方だった。衝突部位を手で押さえて悶絶している2人――可奈と杏奈は、しばらくアイドルが出してはいけないような声を発していたが、可奈のほうがやや早く回復し、こちらを見ると驚いた声を上げた。

「いたた…って、百合子ちゃん?それに杏奈ちゃんも…?どうしたの?」

 なぜか杏奈が恨みがましげな顔をしていた。


「で、さっきからどうしたの?」

 可奈、杏奈、それと百合子の3人は、2つのソファにテーブルを挟む形で座っている。

 肘をついて話を切り出した百合子の正面、フードを被って膝を抱えながら百合子の淹れた緑茶を飲んでいる杏奈の隣で、可奈が俯きがちに答える。

「実は、ちょっと悩み事があって…」

「悩み事?」

「うん」

 可奈にしては珍しい。悩み事があるのもそうだが、その事実を可奈が他人に話したことも百合子の記憶にはほとんどなかった。隣にいる杏奈も「あ、本当に悩み事あったんだ」みたいな顔をしているが、さすがにちょっとそれは失礼なんじゃないかな。

「どんな…悩み……?」

「うん…えっと…」

 言いよどみながら、可奈が逡巡しているのが伝わってきた。それほど話しづらいことなのだろうか。

「無理しないで。言いたくなかったら言わなくてもいいから」

 正直、すごく気になる。だが興味本位で聞き出して可奈を傷つけてしまいたくはない。

 胸の内にしまっておくことで自然に解決することもあると思う。それでもつらくて苦しくて、どうしようもなかったら話してくれればいい。的確なアドバイスができる自信はないけれど、吐き出せば幾分気持ちは楽になる。悩みを抱えたまま沈んでいってしまう相手の手をつかむことが、友人としてできるせめてもの誠意だ。

 しばらく無言のまま時が過ぎた。杏奈が緑茶をすする音だけが室内に響く。

 やがて、ゆっくりと可奈の口が開いた。



 言えるわけがない。

 そう、北沢志保は思った。

 今日一日の様子を心配され、最上静香と春日未来に劇場近くの喫茶店まで連行されてから早数十分。

 悩み事があることまでは打ち明けたものの、昨日あったことを詳細に話せるはずがない。行為自体もそうだし、自分から迫ったこともそうだ。誰もいない隙に同性の友人に壁ドンして初キス奪いましたなんて、ドン引きされるに決まっている。

 頭痛がしてきた。本当に昨日の自分はなんてことをしてくれたのだ。可奈には嫌われるし、こうして同僚に無駄な気まで遣わせてしまっている。今ほど過去に戻りたいと思ったこともなかった。

 おかげで今日一日はひどいものだった。早朝、可奈に拒絶されたことが自分でも意外なほど堪えていたらしい。何をするにもまるで手につかず、誰かと会話しても頭を素通りするばかりだった。

 プロデューサーがあちこちに電話で謝罪していたのを思い出す。最悪だった。自己管理もできず、他人に迷惑をかけるだけの自分がアイドルを続ける資格などない。今すぐに辞めたほうが自分のためにも、そして可奈のためにもなるのではないか。

「いま、余計なこと考えてたわね」

「……」

 静香が呆れた視線を向けてきた。余計なお世話だと言いたかったが、自分が益体もない思考のループに陥っていたことは事実なので無言で返す。

 気分を落ち着けるために注文したコーヒーを口に運ぶ。完全に冷めていた。思わず顔をしかめたこちらを見て、静香がため息をつく。

「言いたくないなら言わなくてもいい…って言ってあげたいところなんだけど、その様子を見てるとそういうわけにもいかないのよね。かといって喋ってくれそうにもないし、私としても無理やり聞き出すことはしたくないし」

「じゃあもう帰るわ」

「それは却下。このまま帰らせたらあなた、明日の朝には事務所を出ていきそうな雰囲気だもの」

 なぜわかる。もしかしたら事情を全部知ってるんじゃないか。そのうえでこっちから話し出すのを待っているんじゃないのか。

 そう疑いかけて、軽く頭を振って思考を散らす。ストレスで神経が過敏になっている。今は相手を疑うことより、どうやって事実を隠していま抱えている悩みだけを2人に打ち明けるかだ。

 新しく注文したコーヒーが志保の前に置かれる。手を伸ばして口をつけようとしたとき、今まで黙っていた未来が神妙に口を開いた。

「志保」

「…なによ」

「志保の悩みってさ…ズバリ、恋だねっ!?」

 口からマンガみたいな勢いで褐色の液体が噴き出した。



「それは恋だよ!」

 スイッチが入ったと、杏奈は率直に感じた。

 自分のではない。目を輝かせて可奈の座る方向に身を乗り出している百合子の雰囲気が明らかに変わっていた。

 先ほどまで「言いたくないなら言わなくていい」なんて控えめなことを言っていたのに、可奈が昨日起こった出来事について語っているうちにどんどん態度が怪しくなり、途中メモすら取り出していた。

 しかし一方で、百合子が豹変するのもわかる自分もいる。それほど可奈の話は衝撃的だったし、横で聞いてて心臓がドキドキしていた。昨日そんなことがあって、しかもその相手が1日中近くにいる状況で落ち着けるはずがない。

 可奈はすべてを語り終えたあとで、志保がなぜあんなことをしたのかと聞いた。それに対する百合子の回答が、

「恋……?」

 可奈がぽかんと口を開ける。

「そう、恋だよ!つまりラブ!告白する前に行動で気持ちを示すくらい、志保は可奈ちゃんのことが好きなんだよっ!」

「好き…?志保ちゃんが、わたしを…?」

「そうだよ!夕暮れに染まる事務所の片隅で始まる禁断の愛…。気持ちを抑えられず口づけを交わし、秘められたお互いの感情と向き合う…!ああっ、甘酸っぱい!でもたまらないっ!!」

「あ、あの…百合子ちゃん……?」

 戸惑う可奈を置いてけぼりにしてやんやん言いながら腰をくねらせてひとりで盛り上がっている百合子。自分も結構盛り上がってるはずなんだけど、それ以上に振り切れてる人を見ると冷静になれることを杏奈はあらためて実感していた。

 と、おもむろに百合子がポケットからスマートフォンを取り出してどこかに電話をかけ始めた。通話はすぐに終わり、笑顔でこちらに向き直ると、

「2人とも、これから空いてるよね?今日はうちに泊まっていって!」

 ………。

「いや、あの、今日はちょっと…用事が……」

「遠慮しなくていいから!可奈ちゃんも、全部吐き出しちゃえばきっとスッキリするよ!」

「いいの?」

「許可は取ったから大丈夫!よければもっと聞かせて?昨日の詳しい状況とか、キスされた時の心境とか!」

「えっと、じゃあ…お願いします」

「杏奈は…いなくても……変わらないから……あとは、2人で…ごゆっくり~……」

「なに言ってるの!アドバイスする人は多いほうがいいでしょ?さあさあ荷物まとめて!うふふ、今日は寝かせないからね~♪」

「……………………」


 この時ばかりは可奈を無視して帰ればよかったと、杏奈は心から思った。


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1: SS好きの名無しさん 2015-07-26 21:02:24 ID: vEJz7yku

続きが待ち遠しいです。


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