ジャーナリスト 神津島に向かう
黒田が帆高と対峙する新作。
この間の1/19、大阪のコミックトレジャーに初参加。本家のコミケとは規模も来場者数も何もかも違いますが、雰囲気というものは感じ取れました。
戦利品wといえる購入物に目を通しながら、「これなら俺でも書けんじゃん?」「あ、この発想はなかったわ」などと、感じ入りながら読ませていただいております。
そうなってくると、ほぼ最後になったといってもいい、黒田と帆高をエンカウントさせるfea.保護司の白石 というすごいメンツで一本書いても大丈夫と思えるようになってきました。
何しろ"次世代編"が一定の支持を得ていることからしても、出てきていない架空の人物を使うことはそれほど無理筋ではないと思ったからです。
2020.1.21 ジャーナリスト黒田 神津島編 起案。2000字まで。
2020.1.22 5000字まで。黒田、神津島に渡り、帆高とエンカウント。
2020.1.23 一万字オーバー。帆高に合わせないという保護司たち。黒田は搦め手から攻める。
2020.2.10 1.5万字まで。白石の説得に成功し、あとは帆高に語らせるまでに。
2020.2.16 1.8万字まで。帆高には手記を書いてもらって語りの代わりに。あとは白石とのすり合わせ
2020.2.19 2.3万字まで。帆高の手記を読み解く二人。
2020.2.20 帆高の手記がかなりの分量。着地は3万字越えになりそう。2.6万字突破。
2020.2.26 2/末完成をめどに作成進む。2.8万字突破
2020.2.28 21:00 第一版上梓。35054字
2020.12.17 微修正・誤字・不要部分の推敲等加える。 第一版第2刷上梓。35290字
2024.5.6 2024年GW一斉見直し。感嘆符等の全角化など。35316字。
「晴れ女の真実 天に選ばれし存在」が「月刊ストレンジ」に掲載された。
その月のストレンジの売り上げは、創刊以来、特筆すべき売り上げを記録して、編集部を大きく驚かせた。
部数が大きく変動するはずのないゴシップ雑誌に降ってわいた好況。特別寄稿であり、レギュラーでもなかった黒田の記事がその大部分を担っていることは容易に察しがついた。
ネットニュースでも話題になったくらいであり、著者の黒田の元に取材が殺到したのは当然ともいえた。
今日も、そんな取材を受け終わった黒田は、原稿料を受け取りに「ストレンジ」の編集部に赴く。
年末進行を終えた編集部の空気は、いつになく華やいで見えた。ノックをして編集部に入ってきた黒田を見て、編集部の全員がスタンディングオベーションで彼を出迎える歓迎ぶりを見せる。
少し照れ、恥ずかしそうな態度を見せながら、編集長・石川の元までたどり着く。
「いやあ、これはこれは。MVP自らご登場とは」
石川は、握手を求めて右手を突き出す。
「いえ。原稿料は、振り込みではなく、この手にいただくというのがポリシーでして」
その手を握り返しつつ黒田は言う。
「まあ、ここではなんですから、こちらの方まで」
ブリーフィングルームを案内される黒田は、編集長ともども入っていく。
編集部員が恭しく、茶を黒田の目の前に置く。少し一礼して好意を受け取る黒田。
部員が扉を閉めたのを確認して、石川は切り出す。
「ハイ。まずはこちらをお改めください」
石川の出した"それ"に黒田は少し驚いた。
ぱっと見に100万はない、と思ったが、それでも自分が思っていた以上の金額の、しっかりとした厚みのある封筒が目の前に出されたからだ。
「い、イヤイヤ。僕、そんな金額で受けてませんよ」
見たことがない、ことはないが、自分のしたこととは釣り合わない報酬に、黒田は戸惑いを隠せない。
「そりゃあ、そうでしょう。僕らもここまでヒットするとは思ってませんでしたし、常識的な金額でお願いしたって思ってました」
石川が、金額について説明を始める。
「でもね、読者の反応がすごいんですよ。今までうちの投稿記事で、ここまで反響があったのって初めての経験でした。挙句、テレビでも紹介されたもんだから、取次から配本が殺到するありさまでしてね」
雑誌は、返品分も含めて多めに発行して、売り上げ機会ロスを減らすのが常道であり、売れ残りは必要悪みたいなものだった。出版不況が叫ばれて久しい中で、雑誌は増刷などと言う事態はよほどのことが起こらない限り発生しない。ところが、この号だけは、ストレンジ発行以来初めての増刷がかかったのだった。
「うちみたいなゴシップ雑誌がそこまでになるなんて、想像もつかないことでしたからね。本家さんが地団駄踏んでいるのが目に浮かぶようですわ、アハハハ」
石川は、たとえ一回でも大当たりを出せたことがよほどうれしいのか、ライバルに一矢報いられたことが痛快だったのか、大笑する。
その姿を黒田は、冷ややかながら、それでも内なる喜びを秘めて見ていた。
「ここに内訳がありますけど、通常の原稿料と、増刷に至ったボーナス、それと、社長賞的な寸志も入ってます。本来ならば社長直々にお言葉を戴いてもよかったんですが、ほかの出版社の寄り合いに出てまして……」
黒田は石川が出した、A4の内訳表に目を通す。原稿料も、当初の契約時より2割ほど嵩上げされている。
「いや、その……これは、僕が受け取りすぎじゃ、ないですかね……」
黒田は、望外すぎる金額を見せられても、まだ納得して納められないでいる。
「そんなことないと思いますけどね。取材もきっちりなさっていたし、須賀君にも聞きましたけど、密着レベルまで迫ったんでしょ?」
須賀にしてみれば良かれと思って、黒田の取材姿勢を吹聴したつもりだろうが、明らかに曲解して伝わっている。
"あいつ、余計なことを……"
黒田は苦虫を噛んだような表情をしながら、
「そうは言いますけど、肉体関係はさすがにないですよっ!相手は15歳なんですから」
そう、気色ばんで答えるしかなかった。
「まあまあ。そこまできっちり取材する人を我々も応援する、と、こういうことですよ。ここはひとつ……」
ズイっと封筒が黒田の目の前に進み出てくる。もう拒否するのも疎ましくなってくる。
「う……わ、分かりました」
形式的とはいえ、封筒の中身と、内訳表を見比べて差違のないことを確認した黒田は、その封筒を上着の内ポケットに忍ばせる。だが、あまりに厚いので、不格好に内ポケットを浮かび上がらせてしまう。
「さあ、黒田さんにはもう一働きしてもらいませんとね」
大金を渡し終えた石川が、声を弾ませる。
「え?なんのことですか?」
石川の真意が見えず、黒田は石川に聞く。
「いやだなあ。ご自身も書いておられたじゃないですか?神津島の"彼"のこと」
「あ、あぁ」
黒田は少しだけ気のない返事をする。
「彼が晴れ女さんを空から連れ戻したから、雨が降り続く事態が起こったって、そう書いてましたよね?」
「え、ええ……」
この流れ、なんかいやだなあ。黒田の予感は的中する。
「その彼にも会って話を聞いてきてくれませんか?」
「え?私が?」
驚いて黒田は聞きなおす。
「だってそうでしょ。彼が、何を思って彼女を空から連れ戻したのか?それがわかって初めて、二人の関係性が明らかになるじゃないですか」
「ま、まあ、それはそうなんですが……」
黒田は、愛の力がすべてを凌駕したんだと思っているから、あえてそこを強調して描かなかったのだが、それをはぐらかすように書いたことが石川には不満らしい。
彼女を連れ戻した彼……帆高の存在は、黒田は軽くしか触れていない。天気を左右していたのはあくまで陽菜であり、彼がどこまで影響しているのかは、そもそも取材していないから書きようがなかった。
「まあ、乗り気でないのはわかりますよ。彼が天気を変えたわけでもないですし」
石川は、黒田の態度を見てそういう。
「そこはぼくも懸念しているところなんです。彼の立ち位置って、プロデューサー的でしかないとも思うし」
黒田は、本当を言えば、陽菜の想い人である、帆高を丸裸にしたかった。だから、渡りに船もといえなくもないのだが、がっついてまで解析したいとも思えなかった。そもそも"人の恋路を邪魔する奴は……"になることが確実だからである。まだ高校生の帆高に、取材したところで、何が見えるというのだろう……
「まあ、無駄骨になってもいいじゃないですか。それなりに包んだってことも加味して考えてくださいよぅ」
甘ったるく石川は迫ってくる。黒田しか書ける人はいない、と思っている石川の、せめてものアピールだった。
「んー」
逡巡しながら黒田は決断する。
「そこまでおっしゃるんなら……でも、今回はちょっと弾んでもらいますよ?」
黒田は、手でお金マークを作って石川に迫る。
「それで済むならたやすいこと。ええ。しっかりお願いしますよ」
両の手で黒田の右手をつかむ石川。ヒットメーカーにもう一本書かせることができた石川の安どの表情を見て「しゃーねーなぁ」と黒田は感じていた。
急ぎの案件もなかった黒田は、翌日飛行機を使って、神津島に乗り込んだ。海運便が竹芝桟橋の水没により使えなくなり、代替の交通機関が限定されていく中で、たまたま空席のあった調布からの便に滑り込めたのだった。年末年始にかかろうという繁忙期であったにもかかわらず、乗り込めたのは奇跡的だった。
物資や人の移動は、海路頼みになっていた都内の離島にとって、竹芝桟橋の機能喪失は死活問題でもあった。政府は、別の港を活用しようとするのだが、海面上昇が止まる気配のない、2021年12月は、手の施しようがない時期でもあった。政府も都も、本土・首都の対応に手いっぱいで、離島のことまでは措置も手当ても回っていかなかった。
勢い、空路に客が殺到することになるのだが、これまた小型機しか飛べないこともあり、発売後すぐに満席になるプラチナチケットと化した。12月に入って、増便も行われ、割増特別料金まで設定されていたのに黒田は乗り込むことができたのだった。
深夜のフェリー便ならほぼ半日かかる東京-神津島だが、飛行機ならわずか45分。古風なプロペラ機にがたがた揺られながら黒田は神津島空港に降り立った。
神津島空港は島の南端に位置している。降り立った先にある雄大な自然に黒田は目を見張る。
そこそこに高度もあるのか、昨今の海面上昇にも島全体ではびくともしていないように見える。実際、神津島港には、東京からではなく、仙台や静岡から物資を運ぶ船便が接岸していた。しかし後に海岸沿いの都市にある港という港は使用に支障をきたしていくことになる。
黒田は、
"この調子じゃ、帰りがいつになるかわからんぞ"
と思い立ち、すぐさま帰りの便を予約するべく飛行機会社のカウンターに飛び込む。
「で、いつからなら空いてます?」
あえて、"この日に乗りたい"とは言わず黒田は単刀直入に問いかける。
その声に、"なかなかの切れ者だな"という感じでカウンター氏が言う。
「一週間先まで満席ですよ!」
その答えを期待したかのように、
「じゃあ、直近の空きを一つ」
と、黒田は手短に言う。
カウンター氏は黒田の旅慣れている感じに鼻歌交じりで発券する。
「では、島でのご逗留、楽しんでください」
この上ない手短さと必要最小限の会話でチケットを受け渡し出来たお互いは、二人して大きく笑顔を作ってお互いをねぎらった。
空港を出た黒田は、タクシーを捕まえ「高校」と告げて、東京都立神津島高校に向かう。ここで森嶋 帆高の情報を得ようとしたのだった。
時期は冬休み直前。学期末テストが終わったのか、昼を少し回ったところなのに、校門のあたりは、ちょっとした喧騒になっていた。
「あー、ちょっとすみません……」
談笑している女子高校生を見つけて、黒田は声をかける。
「ここに森嶋帆高君っていると思うんだけど……」
名前を出した途端、その女子高校生は「キャッ」とかわいらしげな声を上げる。
「あー、いますいます!もしかして、東京のマスコミの、方ですか?」
にこやかにその女子高校生は応対する。
「あ、まあ、そんなところ。ジャーナリストだけどね」
隠しても仕方ないし、そもそもそれは黒田の流儀ではない。ありのままを黒田は答える。
「この間、ようやく高校に復帰したところなんですよ。でもなんかヒーローみたいでかっこよかったなぁ」
恍惚としたその瞳に黒田は少し感じ入る。彼は結構好意を持たれているようだ。
「だって、家出しただけじゃなくって、銃撃ったり、警官とやり合ったり……本人は謙遜して話してくれないんですけど」
帆高の秘密を知らない黒田の頭の中では、たとえ噂話で確証がなくても、帆高の人となりが勝手に想像されていく。
「で、今、高校には来てるの?」
「ええ、毎日来てますよ。以前にもまして勉強しているみたいですし。家出してこんなに人格って変わるもんなんですかねぇ」
女子高生は、"私も家出してみようかな"的な雰囲気を醸し出す。
「あの、失礼ですけど、同級生?」
「え、あ、はい。もうそろそろ出てくると思いますよ……あ、来た。帆高くーん」
彼女の呼ばれた先に見えたのは、とぼとぼ歩いてくる、帆高らしい少年の姿だった。
だが、ここでも黒田は衝撃にとらわれる。帆高の第一印象は、ひ弱そうで、虫も殺せないような風貌だったからだ。家出をし、様々な犯罪に手を染めたこと、保護観察対象者であることなど、とてもではないがうかがい知れない。頭の中の想像は見事に打ち砕かれた。
「ああ、お待たせ、あゆみさん……あれ?この人は?」
「帆高ぁ、君も超有名人になったねぇ」
あゆみと呼ばれた女子高校生は、帆高につんつん人差し指でつつきながらそういう。
「え?なんのこと?」
あゆみの方を向きつつ、帆高は黒田に初めて目を合わせる。少し驚いたようなそぶりも見せて。
「あ、初めまして、ジャーナリストの黒田って言います」
黒田は自己紹介する。
「クロダ、さん……」
当然、帆高には思い当たる節はない。
"あ、そうだ"という顔をした黒田がこういう。
「君ぃ、須賀クン知ってるだろ?須賀圭介」
「須賀さん……ああ、知ってます知ってます」
帆高の顔が一気に明るくなった。
「その同業者、かつ交友関係もあり、って言うのなら、そこそこに信頼してもらえそうなんだけど……」
「そうなんですね。須賀さんのお友達……で、僕に何の用ですか?」
聞かれて、黒田は、あゆみの存在が気になる。
「あ、いや、君と折入って話をしてみたいと思ってね……今日でなくてもいいんだけど、時間って、とれるかな?」
そう言った黒田に、済まなさそうな表情をしてみせる帆高。
「いゃ、しばらく期末テストですし……苦手な科目なんで、いまから先生の所で勉強することになっているんです」
「え?先生?塾か、家庭教師なの?」
黒田は逆にびっくりする。
「あ、僕、今、保護観察処分中なんですけど、保護司の方が、作家さんで……ご存知ないですか?白石浩一って人なんですけど……」
「白石……ああ、「金色の勇者」とか、「瑠璃色の花嫁」とか、タイトルに色が必ず付く作家さんだよね」
"へぇ、保護司って、作家さんでもなれるんだ……"
黒田は保護司という職業については取材して知っていたが、作家もできるとは思いもよらなかった。
「じゃあ、2、3日は無理だね……」
「すみません」
ぺこりと首を垂れる帆高。謝り方のあまりの幼さに、本当にさっき言っていた女子高生のあゆみの言ったことは間違いないのだろうか?と黒田は勘ぐる。
「せっかくなんで、白石先生にもご挨拶しておきたいなあ、君を知る意味合いもあるし」
黒田はそう提案する。
「ま、僕は構わないですけど……白石さんがなんていうかな……」
「それは逢ってみてのお楽しみだよ。まずは白石さんの所に行こうか」
黒田がことをうまく運んでいるさなか、
「あ、帆高、くん……」
完全に蚊帳の外になってしまったあゆみが声をかける。
「あ、うん、また後で連絡するよ、そうだな、6時半くらいでどうかな?」
帆高はあゆみに言う。
「うん、わかった」
黒田は、二人の邪魔をした自責の念はあったが、ここは自分の手を進めることに腐心せざるを得なかった。
"ごめんなさい"
と心の中で、あゆみに謝りつつ、黒田は、帆高とともに白石の家に向かった。
「先生、ただいまぁ」
引き戸をがらがらっと開けて、帆高は白石に声をかける。
「おお、来たか、帆高君」
スリッパを引きずるように廊下を歩きながら、白石は帆高を迎え入れる。
「あ、先生。今日はお客さんが……」
「え?客?」
いぶかるような言動に少しおびえながら、黒田は顔を出す。
「わたくし、ジャーナリストをしております……」
と言い切らないうちに、白石はスリッパのまま玄関に立ち、
「お引き取りください」
と黒田に言い放って、引き戸をぴしゃりと締めきってしまった。
「あ、その、帆高君にちょっと話が……」
扉の前で食い下がる黒田に、
「彼に何を聞きに来たんですか?マスコミの毒牙から彼を守るのも保護司の役目です。どうせろくでもないことしか書かない週刊誌の取材なんて、お断りです。帰ってください」
怒気を含んだ口調で白石はまくしたてた。
「いや、私は、ただ、晴れ女の……」
「とにかく結構です。二度と帆高君に近づかないでください。いいですね?」
取りつく島がない、とはまさにこのこと。一方的に取材を拒否された黒田は、白石邸から離れようとする。
「あれ?あなたは、確か……」
そう言われた黒田は、顔を上げる。そこには、見覚えのある顔があった。
「ああ、久しぶりです、宮前さんっ」
黒田に声をかけたのは、保護観察官・宮前 輝夫だった。
「へえ、奇遇ですね。宮前さんと白石さんがタッグを組んでいたとは……」
港の近くの飲食店は何とか営業できている。喫茶店に入った黒田と宮前は、久方ぶりの旧交を温めていた。
「あれって、いつぶりだったっけなぁ……」
宮前が、昔を思い出すように、少し顔を斜めに持ち上げる。
「あれですよ、ほら、保護観察の実体を書いたドキュメント以来ですよ」
「てことは?6年前、か……へぇ、もう6年もたったんか……」
宮前は、腕を組み直して感心したようなそぶりを見せる。
「そうですね。僕が書いた「非行少年をみつめて」が元になって、テレビのドキュメンタリーも作られたくらいですしね」
駆け出しの黒田が、挑んだ題材が保護司という職業だった。仕事内容を知ってもらいたいという厚生労働省の思惑と黒田のプレゼンが功を奏し、取材に厚労省がバックアップするようになる。その過程で黒田は宮前と知り合いになり、いい関係を築いていた。
「ああ、そうだったねえ。あれって結構反響、あったんですよ。保護司の仕事ぶりとかにもスポットが当たりましたし」
宮前も、正しく認識してくれた黒田の筆致に信頼を寄せていた。保護司という仕事自体を正しく追いかけてくれたからでもある。
「あれで賞もらってから、僕の物書きの仕事も軌道に乗ったかな、なんて思いますけどね」
黒田は、息継ぎ代わりに、ブラックを少し飲む。賞自体はそれほどでもなかったが、「月刊サプライズ」の仕事をもらえたのは受賞のおかげだ。
「それはそうと、なんで、白石の家の前に居たんだい?」
宮前は素朴な、そして一番聞きたい疑問を黒田に投げかける。
「実は、森嶋 帆高君の取材をしてまして……」
黒田はいつも通り、包み隠さず話す。
「ふーん」
宮前はそれだけ言う。明らかに今までの雰囲気とは違う、嫌気を感じさせる態度だった。
「で、どこまで知ったんだい?」
宮前の語気が一変する。今までの穏やかな口調はどこかに消え失せてしまう。
「いや、彼の第一印象以上は……」
黒田は、また、嘘偽りなく話す。実際それ以上でも以下でもなかったからだ。
「そうか、それならよかった」
宮前の、コーヒーカップを置く手が少し震えているのを黒田は見逃さなかった。言いようのない怒りを黒田は感じた。
「まあ、ここまで帆高君にたどり着いたことは評価するよ。でも、ここから先はオレたちのいる間は指一本触れさせないから、そのつもりでいることだね。取材?彼に何を聞くんだい?彼の何を知りたいんだい?知ってどうするんだい?面白おかしく書くことはこの私が許さない。まあどうせ、すぐには帰られないだろうから、この島でバカンスでも楽しめばいいよ。なんだったら、白石に案内させてもいい。だが、帆高のことはこれっきりだ。分かったかね?」
宮前は黒田に一気に言い渡す。いい雰囲気は一瞬にして凍り付いた。
黒田は、懇意にしていた宮前にも帆高との接触を拒否されてしまった。今さら当の本人に逢うことも難しくなってしまった。黒田は、到着早々、取材源を断たれてしまうことになったのだった。
「仕方ないか……」
せっかく本人と出会えたというのに、一切の話を聞けないままの黒田は、逗留先の宿でふて寝を決め込んでいた。
「おやおや、こんな風にしてちゃあ、風邪ひきますよ」
ふすまを開けてきたのは、この宿の女主人だった。泊り客は黒田一人。かいがいしく世話をしようと思い立ってのことだった。
「あ、ああ。お気遣い、ありがとう」
風呂に入って、浴衣のままでふんぞり返っていた黒田は、少し服装をただした。
「いやね。船が来なくなってから、うちの商売も上がったりでねえ。飛行機で来る酔狂なお客さんはあんた位なもんだよ」
ワハハ、と笑いながらお茶を入れてくれる女主人。
「まあ、酔狂なうえに目的も果たせず、一週間もここに居なきゃいけないなんて、とんだすっとこどっこいですよ」
黒田も、悔しさ半分で苦笑しながら、入れてもらったお茶に口をつける。
ところがこれが、とんでもなく苦かった。弱り目に祟り目とばかりに、黒田はさらに顔をしかめる。
「おや、少し濃かったかのぅ。儂はこれが好みなんで……」
黒田の表情の変化に女主人も気が付いたようだった。
黒田は、少し口の中を整えてから、女主人に尋ねる。
「ところでおかみさん。森嶋家って、どんな感じのおうちなんですか?」
ここまで来たら、もう恥も外聞もない。藁にも縋る勢いで質問する。
「ああ、あそこかね。確か息子さんがおったような……」
「ええ、そうです」
「おたくさん、あの家を調べにきなさったのかね?」
今さらながら、女主人は黒田の来訪の意図に気が付く。
「まあ、家、というよりは、森嶋家の息子さんに用があったんですが……」
黒田は頭を掻きながら、そう言う。
「まあ、袖触れあうも多情の縁って言うでの。息子さんが無理でも、ご両親には会っておきたいじゃろ?」
女主人は、そんなことを黒田に問いかける。
「え?お知り合いか何かですか?」
黒田は、漆黒の闇の中に、細いけれども一筋の光明が見いだせるかも、と勢い込んだ。
「何のなんの。ご夕飯で出した野菜物は、ぜんぶ森嶋さんの畑で取れたものばかりだからのぅ」
「そうだったんですね。通りで美味しいわけだ」
なあるほど、と黒田は膝をたたく。
「明日も、野菜をもらいに行くから、私と一緒についてくればいいよ。話はつけといてあげる」
「それは助かります」
いくらなんでも手ぶらでは帰りたくなかった。それでなくても一週間、この島に居続けないといけない。周辺取材でもしていないとやってられない。
結局、ほとんど収穫のないまま、黒田にとっての神津島での最初の夜は更けていく。
黒田が島に来て二日目。
午前7時半。今日も朝から陰欝な空は、壊れてしまったかのように雨を降らせ続けている。
「これこれ、起きなされや。放って置いてしまいますよぉ」
昨日の約束もどこへやら、女主人の大声も、熟睡してしまった黒田の耳元にはすぐには届かない。
「まったく、しょうのないお人じゃ……」
客室の前に仁王立ちするとふすまをピシャッと音がするように開けて、これでもかという大声を出す。
「お客さぁーん、朝ですよぉ―――」
すでにピシャッと開くふすまの音で目覚めた黒田に大声の洗礼。
「あー、はいはいはい。寝過ごしてしまいましたぁ……」
跳び起きて敷布団の上で正座し、平謝りに謝る黒田。
「まぁったく。まあ、腹が減っては戦もできないでな。朝ごはん、食べてから行きましょうや」
にこっと微笑みを浮かべて女主人は帳場に下がっていく。食堂には、黒田のためだけの朝食がすでに用意されている。
これ以上ない日本の宿の朝食。焼き魚はアジの干物、かまぼこに梅干し、香の物、生卵にノリ。みそ汁は、大根の葉が具材になっている。
パン食がメインになっている黒田は、久しぶりの和風の朝食に舌鼓を打つ。お櫃のご飯はきれいさっぱり平らげられてしまう。
「あー、うまかったぁ。久しぶりですよ、こんなうまいの」
女主人はお茶を入れつつ、黒田には少しお湯で薄めて提供する。
「お客のために朝飯作るのも久しぶりだったからのぅ。少し張り切りすぎたかのぅ?」
そう言って、また女主人は大笑する。
「着替えたらご一緒しましょう。荷物は私が持ちますよ」
黒田は、そう言って食堂を出る。
「そう言ってもらえると嬉しいのぅ。久しぶりに森嶋さんのとこに行くんで、少し大荷物になるかもじゃけど」
「毎日、行っているわけではないんですか?」
「そりゃそうじゃろ。お客もおらんのに仕入ればっかりできるわけがなかろうが」
女主人は、至極当たり前のことを言う。
「言われて見れば、それもそうですね」
少し笑いながら黒田は自室で着替えて、女主人と一緒に宿を出る。
街の中心部にある宿から、森嶋家までは、歩いて30分近くかかった。もっとも、女主人の歩調に合わせたこともあるので、普通に歩けば20分はかからないだろう。
「はぁ、やっと着いた。やれやれじゃわい」
一面の畑を従えるように、高台にそびえる、木造2階建ての日本家屋。そこが森嶋家だった。
「ああ、これは登美子さん。今日もせいが出ますことで」
玄関で掃き掃除をしていた、帆高の母・時子が声をかける。
「やあやあ、時子さん。今日は久しぶりにお客さんが来たんで、ちょっと島を案内しようと思ってなぁ」
女主人……登美子はそう言って黒田を紹介する。
「こちら、東京からお見えの……ええっと、なんでしたかのう?」
ジャーナリストという肩書を度忘れした登美子は、黒田の方を向いて助け舟を乞う。
「申し遅れました、わたくしこういうものです」
黒田は、少し襟を正して、時子に名刺を渡す。
「ジャーナリスト、さん……」
時子は名刺を読む。
「そのジャーナリストさんがうちに来たってことは、うちの息子のことで聞きたいことがある、と?」
時子は黒田に言う。
「ハイ。帆高君のことについてお伺いしたいのです」
「そう、なんですね……」
時子はそう言って固まってしまう。
「おお、これはこれは登美子さん。あ、昨日言ってた新聞記者さんって、この人かね?」
奥から、帆高の父・船生が顔を出してこちらを見ている。
「ハイ。私、黒田と言います。新聞記者ではないですけど、似たようなものです」
ジャーナリストも新聞記者も、一般人には同じような職業に分類されるのは、今までの長い取材生活でよくあることだった。
「おお、そうじゃ。オタクの息子さんのことで話が聞きたいそうじゃ」
登美子はそう船生に告げる。
「もう、あいつもいませんし、いくらでも話して差し上げますよ、さあ、上がって上がって!」
船生のフランクな対応に、黒田は面食らう。普通、そこそこに犯罪もおかし、保護観察処分になっている息子なら、世間体から言っても話をするのもはばかられるし、とっかかりで拒絶されても仕方ないと思っていた。
ところが、この父親は、話したがっている。ノリノリ、といってもいいくらいの勢いである。黒田は、この父親にはすごく興味を持った。彼をうまく落とせれば、帆高の内面やなぜ非行に走ったのか、も解き明かせるのではないか、と内心思った。
「あ、登美子さんの荷物運びを済ませてから、また伺いますんで、それからでもよろしいですか?」
登美子の仕入れが何より優先だ。はやる気持ちを押さえて黒田は船生にそう告げる。
「ああ、そうしましょう。そうですね、10時前後にまたここで、よろしいですか?」
船生はその提案に一も二もなく乗る。
「あ、はい。それではそういうことで」
微笑みを浮かべつつ、黒田は船生に答える。
「登美子さん、今日の入用ってこれだけでしたよね?」
ダンボールに入れられた大量の野菜を、時子は登美子に見せる。船生としゃべっている間に、時子が集品していたのだった。
「うんうん。いつみても立派なものじゃて。御代は宿代が入ったらお渡しするでの」
「いえいえ。気持ちだけでいいですよ、いつもお世話になっているんで」
時子と登美子はそんな会話をする。
「では、一旦失礼します」
黒田はそう言ってダンボールを持ち、元来た道を宿へと向かって歩き出す。
「ありがとう、登美子さん」
黒田は宿につくと登美子に礼を言う。
「お?わしの名前……ああ、時子さんが呼んどったからなぁ」
自分の名前を泊まり人が知っている事情を登美子はようやく知る。
「気さくそうな人じゃろう?」
登美子はダンボールに入っていた野菜を、冷蔵庫に入れたり、シンクで洗うべく放り投げたりして仕分けの手を休めず言う。
「ええ。これで手ぶらで帰らなくて済みそうです」
さっきのラフな服装とは違い、やや正装に近い着替えをしながら黒田も言う。
「まあ、気をつけていきなされや。船生さん、ああ見えて気性は荒いからのぅ」
「ええ?そうなんですか?」
ネクタイを締めながら、意外な情報に耳を傾ける。
「ああ、あの子が家出したのも、もっぱら船生さんとのすれ違いが原因と噂されとるからのぅ」
意外な登美子のアドバイスは黒田にとってもプラスに働いた。第一印象で、人は正確には計り知れない、と気を引き締めた。
「わかりました。気を付けながら取材します」
黒田は、今度は一人で森嶋家に向かう。一本、曲がる場所を間違えて時間をかけてしまったが、それでも宿から20分強。予定通りである。
「こんにちわ~~」
森嶋家の玄関で黒田は呼びかける。ほどなくして、ばたぱたっと廊下を早足でやってくる音がして、時子が引き戸を開けると同時に顔を出す。
「あー、はいはい。お待ちしておりました」
走ってきたからか、時子の息は少し上がっているようだった。
玄関には既に客用のスリッパがしつらえてある。黒田はそれに履き替える。
ちょっとした廊下を歩くと、縁側のある和室に通される。いかにも日本家屋という面持ちだ。
「あー、これはこれは。ようこそお越しいただきました」
ソファーに座っていた船生は、黒田を見て立ち上がり、右の手を突き出しながらあいさつする。
「今日は本当にありがとうございました」
まだ何も収穫はないが、「逢ってくれた」ことに対する謝意を述べつつ、黒田は握手する。
「いやあ、それにしても……」
ソファーに座りなおし、船生はさっそく煙草に火をつけようとする。目の前に客がいることに気が付き、
「あ、よろしいですかな?」
と、船生は声をかける。
「あぁ、どうぞどうぞ」
黒田は快く受け入れる。少しにんまりした船生は、火をつけた煙草を大きく吸って、盛大に煙を吐き出す。
「ようやく、うちの息子も取材される身分になったかぁ……」
そう嘆息する船生。
「今まで、マスコミの来訪はなかったんですか?」
黒田はそんなことはあるまいと思いながら、船生に確認する。
「ええ。だれ一人会いに来てくれませんでしたよ。所詮、高校生の非行案件。帆高がどれほどの悪さをしたのか、何度も東京まで行って傍聴もしていたけど、どうにもピンとこないんですよ」
船生はそういって紫煙を漂わせる。家出の原因は家庭不和が遠因だとしても、東京で帆高がしでかしたことの大きさまでは、船生は理解できなかった。
「あいつが銃を手にするなんて、考えもつかないし、警察から逃げ出すなんて度胸もないはずなんです。だから、どうにも合点がいかなくて……」
船生は二吸い目を終えて、灰皿に吸い殻を押しつけた。
「そのぉ……帆高君って、昔からああでしたか?」
黒田は聞きたいことがありすぎて、漠然とした問いを投げかけてしまう。
「そんなことできるタマではないですよ。そもそもあなた、帆高には会ったんですか?」
船生もその問いが指し示す意図をつかみかねて黒田に問う。
「はい。昨日でしたか、下校の途中に。お話を伺おうとしたんですけど、保護司さんとその上司の方に止められてしまって……」
黒田は正直に言う。
「それで両親に話を聞こう、と思い立ったって寸法ですか……」
「あ、は、ハイ」
黒田は船生に看破されて、ぐうの音も出ない。
「私がしゃべって、それでいいんですかね……」
黒田と目を合わせず、虚空に視線を漂わせながら、船生は言う。
「え?どういうことですか?」
黒田は、船生の真意をくみ取れずにいる。
「それって、読者の方に伝わりますかね?帆高本人でもないのに……」
船生が心配していたのは、帆高の肉親として彼を代弁することへの後ろめたさだった。
「それは確かにそうですね……」
と黒田はつぶやきながら、今この現状がすごい瞬間であることに気が付く。
もし船生が、黒田をはじめとする取材陣に嫌悪感があるなら、家に上がれるはずがない。船生の態度からしても、好意的ですらある。ここに黒田は、帆高に直接話を聞けるチャンスはある、とひらめいたのだ。
黒田は、少しだけ策を巡らせる。
「では、こういうのはどうでしょう?」
黒田は、即興で思い浮かんだ、しかし、自分の欲求も満たされ、誰もがハッピーになれる案を提示する。
「なぁるほど。それだったら、何の問題もないですね。彼も帆高とは仲良くなりたいはずですし」
船生は黒田の"案"に大いに賛同する。帆高と保護司・白石が懇意になっている今なら、その動きは可能と判断したのだ。
「僕以上に彼がどこまで帆高君を知っているのか、は興味がありますんでね」
黒田は、白石のことにも配慮する。
「なかなか面白いアイディアですな。私もその保護司さんの人となりも知りたいですし」
船生は早くもノリノリである。保護司・白石と昵懇になっておきたいという思惑もあった。
「ハイ。それでは、その方向で参りましょうか」
黒田は、船生からの話もそこそこに、宿へと引き上げていく。
黒田の足取りは軽やかだった。久しくしたことのないスキップが道中で出てしまうくらいだった。
「登美子さん、ただいまぁ」
宿につくなり、黒田は玄関で声を弾ませる。
「おやおやお客さん。えらい早いお戻りじゃのう」
登美子は黒田を迎えに出てくる。
「ハイ。登美子さんのおかげでうまく行きそうですよ!」
その登美子の両手を黒田は握り返す。
「こりゃすごい喜びようじゃな」
登美子も、黒田の子どものようなはしゃぎぶりに困ったような、それでいてほほえましさを感じて目を細める。
「昨日の意気消沈ぶりってなんだったんだろう?自分でもおかしくなっちゃってね……」
黒田は、まだ高揚した声で話し続けている。
「けど、これでうまく行けそうですよ」
黒田には、もう取材できないというマイナス思考はどこかに吹き飛んでいた。
「ほうほう。そりゃあ良かった。ただのぅ……」
登美子は一変した黒田の表情に危うさを感じていた。
「浮かれるのもいいですけどなぁ……」
登美子は、さすがに黒田の元を離れつつ、振り返りながら言う。
「好事魔多し。気を引き締めなされよ」
その一言で、黒田は現実に引き戻される。
黒田の編み出した妙案は、森嶋家の忘年会に白石と自分を同席させるというものだった。その席上、帆高に今までのことを語って聞かせる、ということにするのだった。
だが、それをジャーナリストの黒田のいる眼の前で帆高にさせる、そして白石に許諾させる秘策までは用意していなかった。
「まあ、そうだよな。帆高がしゃべってくれる以前に、白石さんの許しが先だからなぁ」
ベストは白石が招待を断るということなのだが、それでは、黒田の気がおさまらない。ダメといわれたものからYESを勝ち取って初めて取材は情報源として生きるのだ。そして、それが可能になった時、黒田のやってきたことは正統性を帯びるのだ。
黒田は、白石に逢っておくべきだと感じていた。
黒田が神津島に来て3日目。
黒田はちょっとした手土産を持参して、白石の家を訪ねた。
引き戸を開けた白石は、落胆と怒りの混じった表情で、
「またあなたですか。お引き取りください」
というのだが、今度は黒田も引き戸を締めさせないように手で押さえる。
「いや、あなたが私を毛嫌いするのはわかりますよ。なんてったってジャーナリストはまともに書かないんですから」
黒田は、相手が力を込めて引き戸を締めようとするのに必死に抗う。
「でもね!」
黒田はここ数年で一番大きな声を上げる。
「帆高君のことをあなたはどれだけ知ってるんです?知らないことの方が多いんじゃありませんか?」
黒田に言われて、白石は色を失う。
確かにようやく仲良くなったとはいえ、事件の経緯や動機をはじめとする、全体像には一度たりとも迫れていない。
帆高の口から、すべてを聞きとり、更生の一助にする。これができない状態で、彼の保護司を続けていてもいいのだろうか?との思いが白石の胸の中に去来する。
"彼のすべてを知る、そこからどう更生させるかを考える。それが仕事だったんじゃないのか……"
白石は、帆高を興味本位で取材に来たとしか思っていなかった、黒田とか言うジャーナリストの言葉に心を動かされてしまった。
ここで、白石は、引き戸を止める手を少し緩めた。
「それじゃ、あなたはどのくらい知っているっていうんですか?」
白石は、黒田の顔を見ながらそう問いかける。
それに、黒田は少しニヤリとする。
「少なくとも、取材をしている身からすれば、あなたより情報量は多いですよ。ただ核心に迫れてないだけで……」
白石の、少し追い詰められた表情に、自分と同じ風味を感じ取った黒田はこう答える。
「知らないことだらけですよ、私だって」
白石は、見透かされたと感じて降参の意思表示をする。
「だったら……」
黒田は、遂に、引き戸を少し開いて、玄関まで進入することに成功する。そして、こう続けた。
「ここは一つ、帆高君にしゃべらせる機会を設けてあげた方がいいんじゃないですか?」
「え?」
白石は少し驚いたような顔をする。
「彼が何を思っているのか、東京で何があったのか、晴れ女とどういう関係だったのか、本当はどうしたかったのか……あなただって、聞きたいことは山ほどあるでしょう?」
黒田は、白石がすべてを知る必要性があることまでは理解していないし、それがこの短期間でできるとは思っていなかった。ただ、彼の心情の一端でもつかめれば、それが突破口になる、と考えていた。
「なるほど。話しやすいことから話させる、か……」
白石も、黒田のジャーナリストらしい視点に少し感心する。
「私もあなたも知りたいのは帆高の内面。それを引き出すためには、彼に語らせる環境づくりが必要なんじゃないですか?」
黒田は畳みかける。
「うーん。でもなあ。それで帆高君がしゃべってくれるか、どうか……」
白石はまだ半信半疑のままだ。
「大丈夫ですよ、彼のことだ。きっと白石さんに心を開いてくれますよ。私はそれをただ聴くだけ」
黒田は、そういって、白石を安心させる。
「そうは言っても、どうせ文章にはするんでしょ?」
白石は、黒田の思惑を即座に見破る。
「あ、ばれてましたか」
頭に手をやり、黒田はおどけて見せる。
「そんなこと、分からないとでも思ったんですか」
笑いながら白石は黒田に対する警戒心を解く。
「わかりました。私も、帆高君のことをなにも知らないままでこの先付き合おうとは思ってません。いい機会になりましたよ」
白石はいつまでも自分を見せない帆高にどうやって迫ればいいのか、知る方法を考えることばかりになっていた。幸い、勉強を見てほしいといってきた帆高のために、家庭教師の真似事みたいなことをし始めたことで、会話は増えていった。しかし、それは、彼の本質や心の闇にまでは到達していないものだった。
"時間が経てば"帆高は話してくれると楽観視していたのだったが、彼の芯の強さがそう簡単に折れるはずがない。
そこに黒田が現れたのだ。黒田の、物事に真摯に向き合う姿勢が白石にも伝わった。だから、黒田の案にも乗れたのだった。
「この話、宮前さんには、通さないでくださいね」
黒田は、念には念を入れる。堅物で、白石の上司でもある宮前がすんなりOKを出すはずがない。
「わかりました。そちらも、雑誌か何かに投稿するときは注意してくださいね」
白石は黒田に言う。許可を出したのが白石とわかれば、お目玉どころで済む話ではないからだ。
「そこは任せて下さい。こう見えてもプロなんで」
黒田は、珍しく白石にこれ以上ないドヤ顔を見せる。
黒田の神津島訪問4日目。今日は、黒田が立案した、森嶋家の忘年会当日だった。
「おお、これは黒田さん。ああ、白石さんも、ようこそおいでくださりました」
黒田と白石は、船生の案内で客間に通される。
そこには、忘年会の食卓が展開されていた。握り寿司や刺身の盛り合わせ、揚げ物や手軽に食べられるおつまみなどが勢ぞろいしていた。
「こんな豪勢にしていただけるなんて……恐縮です」
白石は、目の前のごちそうに少し身震いする。
「いやいや。お気になさらないで。帆高の面倒を見ていただいている、せめてもの罪滅ぼしです。白石さんも、こんな島流しみたいな生活、メリハリ無くてつまらないでしょう?」
会はまだ始まっていなかったが、飲みたくて仕方ない船生はそう言いながら、瓶ビールを白石のグラスに注ぐ。
「いや、これでいて、結構楽しくさせてもらってますよ。ちょっとした庭もあるんで、年明けから、家庭菜園でも始めようかと……」
野菜づくりのキーワードに船生はさっそく飛びついた。
「おおお、それはいいですね。わからないことがあったら、いつでも聞きに来てください。こうやって作家先生と知り合えたのも、偶然なんかじゃないとも思ってますし」
少し笑って、船生はたまらず手酌したビールを一気に煽る。
「もう、お父さんったら……」
配膳を終えた時子が船生にそう言ってたしなめる。
「まあ、そう堅いこと言うなって。今日は無礼講だから……」
また飲もうとする船生だったが、
「あ、それでは皆さんお揃いのようですので……」
と、黒田は声をかける。主役といってもいい帆高が、船生の横に着席したからだった。
「おお、帆高。遅かったじゃないか」
ワシワシと帆高の頭をつかむ船生だったが、帆高は少しいやそうなそぶりを見せる。
「あ、模擬試験のことが気になったもんだから、ちょっと」
帆高は答える。
「まあ、ここまで勉強熱心になってくれるとはなあ。父さんもびっくりだよ」
そう言って船生はまた飲もうとする。
「あ、それでは、森嶋家の忘年会を始めたいと思います。不肖わたくし黒田が会の進行を務めさせていただきます」
その動作を封印すべく黒田が声を上げる。
「それでは乾杯の音頭をお父様から」
「はいっ、待ってました」
促されて船生は起立する。白石と時子がパラパラと拍手する。
「えー、今日は年末のお忙しい中、不肖我が息子のためにお集まりいただきましてありがとうございます。特にこれから高校卒業までの間、白石さんには、いろいろとご迷惑をかけることになるやもしれませんが、ぐっとこらえていただいて、こいつをしっかり見てやっていただきたいと思います。また、今回白石さんとの仲を取り持っていただいた黒田さんにも大変感謝しております。余り長くなってもいけませんので挨拶はこのあたりにして、それでは、皆様の健康とご多幸を祈念いたしまして、乾杯っ」
「「「「「乾杯っ」」」」」
あまり楽しげでなかった帆高の目に、少しだけ生気が甦ったのを黒田は見逃さなかった。
宴もたけなわになる。
船生は程よく酔っ払い、白石と杯を重ね始めていた。
黒田はこの時を見計らっていた。
トイレに立とうとした帆高を、黒田は部屋の外で呼び止める。
「あ、この間の話……」
黒田は帆高に話を聞こうとする。
「黒田さんって、僕の何が知りたいんですか?」
帆高は、単刀直入に黒田にぶつける。
「君の、全部だよ」
とりつくろわず、黒田はそういって帆高をみつめる。
そこにあったのは、すべてを聞きたがっているジャーナリストたるこの男は、本当に信頼できるのか、と値踏みしている帆高の目だった。
それに応えるように、黒田は、ひときわ目力を送る。
時間にして数秒。見つめ合っていた二人だったが、帆高がふっと力を抜く。
「わかりました。ここでしゃべってる時間は到底ないんで、文章にさせてもらいます。その方が、聞き漏らしたりしないで済むでしょ?」
帆高の提案に、黒田は目を丸くする。
"やっぱり、この子はしゃべりたかったんだ……"
2か月余りの家出生活。もしすべてを文字にしようと思ったら、原稿用紙20枚でも足りないくらいだろう。それでも彼は「書く」といってくれたのだった。
「いつになったらできる?」
黒田は帆高に聞く。
「明日終業式なんで、それが終わってからでもいいですか?夕方くらいにはできると思うので」
帆高は、自分で締め切りを設定する。
「慌てなくてもいいよ。僕自身、まだ3日ほど島に居るし」
急かしたことで内容が無茶苦茶でも困る。黒田は、待てるから丁寧に書くように要請した。
「なら、終業式の翌日にお渡しします。白石さんにも見てもらってください」
なんと、帆高は、白石にも見せたいというのだった。さすがの黒田も、その思慮深さに頭が上がらない。
「あ、ああ。そうさせてもらうよ」
帆高はその答えに満足したかのようにトイレに行く。
その後ろ姿を見ていた黒田に、白石が話しかける。
「いやあ、子どもとはいえ、なかなかしっかりしているって思ったでしょ?」
白石から突然に話しかけられて、黒田はドギマギする。
「い、イヤイヤ。別に白石さんを出し抜こうなんて……」
大仰に否定して見せた黒田だったが、
「わかってますよ。話は途中から聞いてましたけど、そうか。自分で自分のことを書くのか……」
白石は理解している風を見せる。小説家である白石にしてみれば、一番難しい題材。それにチャレンジする帆高に少し羨望のまなざしをくれていた。
「まあ、今日のところは帆高君のことは忘れて、楽しみましょうや、白石さん」
黒田はそう言って、白石を宴席にいざなう。
「それもそうですね。あとは帆高君の作文待ちですね、お互い」
にっこりと笑った白石に、以前のような黒田を毛嫌いする表情は伺えなかった。
宴席は、10時過ぎまで行われ、黒田も白石もしたたかに酔っていた。
玄関まで千鳥足で向かう黒田と白石。
「白石さん、うちで飲み直しませんか?」
と提案する黒田の呂律も定かではない。
「うちって、旅館じゃないですか?今から行ったら迷惑ですよ、それだったらぼくん家でやりましょうよ」
白石は逆に提案する。
「いや、それもそうですけど、なんかこう、敵陣にとらわれているみたいで、どうにもこうにも……」
黒田も、自分で言っていることがよくわからず、ただ口をついて出てきた言葉を言っているだけだった。
「いや、別に無理にとは言いませんよ。私だって、執筆がありますんで」
都会と違って誘惑のないここでは、執筆もはかどって仕方ない。いま手掛けている作品の続きを書きたいという思いも白石にはあった。
「あ、そうですか……では、一人宿で時化こむとしますよ」
黒田は、会のこれまでを振り返りながら、たどり着いた森嶋家の玄関で靴を履く。
「お二人とも、ありがとうございました」
船生が二人を見送りに来ていた。あれだけ飲んでいるのに、顔が少し赤くなっているだけだ。
「道中お気をつけて」
時子も声をかける。
「今日は本当にありがとうございました」
白石が率先して礼を述べる。負けじと黒田も、
「またいろいろお話聞かせてください」
と言いつつ、白石よりも深めにお辞儀をする。
「まあまあ。こうやって知り合えたのも何かの縁。お互い大切にしましょうや」
船生はそう言って、二人の肩をたたいて、お辞儀を止めるように言う。
「それでは……」
「あ、よいお年を!」
そう言いながら、二人は森嶋家を後にする。
黒田と白石は、やや足元もおぼつかないながらも、二人連れだって歩いている。
「帆高君のお手紙、楽しみですね」
黒田は取材が完遂できそうな喜びからか、そう言う。
「僕はちょっと不安ですよ」
一方、白石は声を暗くしてうつむき加減で言う。
「ええ?どうして?彼の文書力とかはよく知らないですけど、勉強を見ている白石さんがそんなことを言うなんて……」
「いや、そうじゃなくて……」
白石はつい声を荒げてしまう。人っ子一人いない田舎に響き渡る声に、恐れをなした白石は又トーンを落とす。
「彼が何を思っていたのかを知るのが、正直怖いんだよ」
ようやく帆高のことを理解し始めている白石にとって、帆高の心情の吐露は、あらぬ方向に帆高を誘うのではないか、と危惧していた。
「まあ、僕にしてみりゃ、彼のいうことをそのまま受け止めるだけの覚悟はあるんで、気にしてませんけどね」
黒田は、文にしてくれることで、帆高の偽らない身上が読み取れることの方に重きを置いていた。
「まあ、それがジャーナリストと、保護司の考え方の違いってことですよ」
白石は少し冷静になりながら、そう話す。
黒田にしても、白石が真面目一本やりでここまで来たから保護司が務まっているんだろうし、その彼を不安にさせるほど帆高はイレギュラーな存在だったのだろう。そう思うようになっていた。
途中で別れた二人は各々のいるべき場所に向かう。
黒田は宿について、登美子に話す。
「帆高君、話したいことを文章にしてくれるそうです」
そう言って、出された水をうまそうに飲み干す。
飲みっぷりを目を細めてみていた登美子は、
「ほうほう。それはよかったのぅ」
と言って、空のグラスを引き上げる。
「手ぶらで帰らなきゃ、と思ってたけど、ここまで収穫があるとはなあ……」
部屋で着替えもせず、ひっくり返って黒田は言う。
「まあ、あとはその手紙待ちじゃな」
登美子はそう言ってふすまを閉めた。
一方の白石は、自宅に帰って、ネクタイをほどき、バサッと上着を放り出しつつ、敷いてあった万年床に身を投げる。
喜色満面の黒田と違って、その表情はやや硬かった。
「これで、よかったんだろうか……」
帆高の知られざる一面を知ってしまっていいのかどうか……白石の心は、知りたい衝動と、知ってしまう後悔とのはざまに揺れていた。
終業式の翌日。黒田の神津島逗留も6日目になった。
黒田は、帆高の手記をどうまとめようかとラフの作成に取り掛かっていた。
それと同時に「ここで取材したこと」にしないで済む方策にも考えを巡らせていた。だが、彼は気が付いてしまった。最重要人物の存在に。
「ああ、そうか。陽菜さんに帆高のことをいろいろ聞けばいいのか……」
帆高の内面を補完してくれるのは、わずか一か月ほどとは言いながら一緒に生活していたも同然の陽菜の存在だった。
「そうそう。須賀にも聞かなくっちゃな。なんてったって、帆高の雇い主だしな……」
そしてうまい具合にすべてが組上がっていく。手記そのものは、須賀の手元に届いた体にしておけば、自分には火の粉がかからなくなる。仮に宮前に突っ込まれても、いくらでも逃げ道ができる。何しろ「帆高が須賀に書いた」手記だからだ。
そして、白石は、手記の存在を知らない方が宮前を信じ込ませやすくなると考えた。形が残っていると、黒田も知っているのではないか、と思ってしまうリスクがあるからだ。
黒田は、このことを白石に告げつつ同意を求める。
「要するに、帆高君の手記は、あなたの友達……須賀さん、でしたっけ?……の元に届いたのをあなたが文章化する。だから私もあなたも"ここ"では彼の手記を見たことにしないって言う寸法ですね?」
白石は、黒田の考えた"工作"を咀嚼しつつそう解釈した。
「その通りです。僕は帆高に話を聞けてない。あなたも、彼の心情を知りえない。でも、あなたの心の中までは、さすがの宮前さんも覗けないでしょ?」
黒田の提案は、白石にも腑に落ちたのだ。
2時過ぎ。
白石から黒田に連絡が入る。
帆高が手記を持ってきたのだという。
黒田は、「待ってました」とばかりに白石の家に向かう。
「こんにちわ!」
ガラガラッと引き戸を開けて、黒田は、訪問の意を告げる。
「待ってましたよ、帆高君もいますんでね」
奥から白石が歩み寄ってくる。その手には客用スリッパが持たれていた。
「それはよかった。で、白石さんは……」
もう読まれました?と黒田は言いかけたのを見逃さず、
「そんな、フライングなんてするわけないじゃないですか」
と白石に言われてしまう。
「まあ、実は、昨日のうちに、帆高君にいろいろとしゃべってもらったんですけどね」
白石は隠さずそういう。終業式の日に「東京行きたい」といい出した帆高が、これまでのいきさつをかいつまんで、白石に語って聞かせていたのだった。
「それって、フライングになりませんか?」
黒田はいち早く情報を知っている白石に少し嫉妬する。
「まあまあ。僕だって、彼の全貌は知りえていませんよ」
白石は、少し頭を掻きながらそう言う。
客間に入ると、帆高が座っている。黒田を見掛けて、帆高は立ち上がって一礼する。
「白石さんに、黒田さん……」
立ったまま帆高は言う。
「これがぼくのこれまでです」
手にしていたのは、A4が折らずに入る茶封筒だった。しかも、そこそこに厚みがある。黒田は"!20枚ではきかないな"と、その原稿量を推し量る。
「わかったから、まあ、座って」
白石が帆高に座るよう促す。
「これまでって、どこから書いたんだい?」
黒田も封筒をテーブルの上に置きながら帆高に聞く。
「みなさんが必要と思った時期から書きました。具体的には中学卒業からです」
「ほうほう、なるほど」
白石は、封筒を開けて中を見る。黒田は、白石が封筒から出してくる相当な紙の量に圧倒される。
罫線が引かれているレポート用紙にびっしりと書かれた文字、文字、文字……何千字、いや、何万字に及ぶのだろうか、二人は、その一枚目から帆高の想いに圧倒されていた。
二人は、むさぼるようにその手記を読む。一字一句見落とさぬように。
中学生の帆高は、今以上に陰欝な、引っ込み思案な少年だった、と本人は書いている。そこはさすがに二人にとってもそれほど重要な情報ではない。だが、高校生活が始まって、状況は一変する。父・船生との不和だった。
交友関係にも恵まれなかった帆高にとって、高校生活はそれほど楽しいものではなかった。たださえ勉強嫌いの帆高に学校自体が疎ましく思えていた。
そして6月。
成績が芳しくない、という教師の家庭訪問で放った一言に、船生が切れたのが、直接の帆高の家出の原因だったことがそこには書かれていた。
少し納得した二人だったが、次に書かれていたのは、「家出に結びついた一つの行動」だった。
帆高は、自転車を駆って、島の北端まで走らせている。そこで見た景色は……
"僕はあまりに悔しくて、ふがいなくて、自転車を走らせた。そこで、まるで僕を誘うような、光の束を見つけたのだった。
この場所から出たくて、あの光の中に入りたくて、必死に、自転車をこいだ。
その光に、あと一歩というところまで近づきながら、僕の目の前を、あざ笑うかのように通り過ぎていく。
「追いついた」と思った途端、そこは島の北端で行きどまりだった。
あの光こそがぼくの目指す場所なのだ。あの光の中に行こう。僕は心にそう決める。"
そこから帆高の起こした行動は素早かった。次の日の船便にひそかに乗り込み、家出生活を始めたのだった。
帆高はその時の行動も詳細に書いている。3日ほどはネットカフェを仮の宿として、当座をしのげる職を探したがうまく見つからず、4日目からはホームレスも同然の生活に転じていく。
そんな彼のよりどころは24時間開いているファーストフード店。ここで陽菜にあった、と帆高は書いていた。
"「君、3日連続でそれが夕食じゃん」
彼女はそういって、3日連続で頼んだポタージュのそばにビッグマックを置く。
「でも……」
僕はそれ以上二の句が継げないままに、彼女は微笑みながら去っていく。
僕はビッグマックに食らいつく。16年生きてきて、こんなにおいしい夕食は初めてだった"
帆高は、その後、東京に向かうさるびあ丸で知り合った、須賀のところに身を寄せることになる。
須賀の手元として、また、夏美とコンビの取材生活など、帆高はこの二人との擬似的な家族生活の中に今までと違う充実感を得ていたことがうかがえる記述があった。
"確かに、僕は家出している浪々とした身だった。
でも、ここに居ると、自分の居場所がはっきりとわかる。そして、誰かに必要とされていることもひしひしと感じる。
変に裏稼業みたいなところに足を突っ込まないで、細々だけどまっとうな暮らしをしている人たちに巡り合えて、僕は幸せだった"
そして、陽菜とのまさかの再会。帆高はここはあまりスリリングには書いていない。スカウトたちに追い詰められて、発砲していることが、彼に重罪を課する結果になったのだが、意外にも帆高はサラッとしか書いていない。ただ、彼女の素性にたどり着いたときの記述は驚きに満ち溢れていた。
"「ねえ、今から晴れるよ」
彼女のそんな言い分をぼくがまともに信じられるわけがない。それでなくても、いまだに雨粒が見えるほどには降っている。
僕は空を見上げて、「ねえ、それってどういう……」
と言いかけたその時、一陣の風と共に、彼女の祈りが空に通じたのか、彼女の直上の空から同心円状に晴れ間が広がっていき、あっという間に、ビルの屋上は雨滴が一切感じられない晴れ間が現れていた。
「晴れ女?!」
僕は思わず叫ぶ。その声に彼女は微笑みで答えた。"
帆高は、陽菜のために「晴れ女ビジネス」を立ち上げることを画策する。
そしてそれは、晴天を待ち望むいろいろな人たちに提供されて、相応の収入も得ていくことになる。
"天気を晴れにできることは、彼女にとってはたやすいことだったのかもしれない。だが、一般人からすれば、天気を変えられる存在は稀有だったはずだ。
だから、大抵の依頼人は、ホームページ上の金額より多く包んでくれた。新婚カップルは2万円、競馬場を晴れにしたときはびっくりするくらいの報酬がもらえた。
でも、晴れが貴重なものになっていたのだから、お金を出してでも変えられるものなら変えたい、と思うのは自然な欲求ともいえた。
その意味で考えると、我ながら、「晴れ女ビジネス」はうまく考えたものだと思うし、僕って意外と商才があるのかもしれない。"
二人はここまでを一気に読んだ。それでも、まだ原稿は大量に残っている。
「少し、一息、入れましょう」
白石はそう言って、台所に立つ。お湯を沸かそうとしているさなかに、黒田は帆高に聞く。
「これって、まさか、一晩で書いたのかい?」
白石に聞かれまいとして、少し声を潜めた黒田。
「いえ。いずれは誰かに読んでもらいたくって、島に帰ってきてからちょくちょく日記代わりに書いていたんです」
帆高はこともなげにそういう。
「そりゃそうだわなぁ」
黒田は当たり前の感想を漏らす。この分量を一日二日で書き切れるはずがないからだ。
「今でやっと1/3くらいですね」
帆高はそう言う。すでに10枚近く読破したはずなのに、まだ続くのか……
「帆高君ってさ……」
黒田は、直接聞きたいことがあった。
「お父さんのこと、どう思ってる?」
その問いに少しにんまりとして、帆高は答える。
「あの人は、血がつながってますけど、赤の他人みたいなものですから」
帆高の答えは、黒田にとって、それほどセンセーショナルなものではなかった。忘年会の時でも、家族のつながりを森嶋一家に見ることができなかったからだ。
「そうだろうね」
とだけ答える黒田。やはり、父親にも話は聞いておくべきなのだろうか……
「お待たせお待たせ」
白石がインスタントコーヒーセットをもってテーブルにやってくる。
「宮前さんのところのお歳暮のおさがりが回ってきたんだよ。飲んでくれる人が大勢いるときくらいしか消費しないからね」
豆から入れるコーヒーしかコーヒーと認定していない白石にしてみれば、インスタントは缶コーヒー並みに邪道な飲み物だった。
「これでも飲めるだけ幸せです」
黒田は、嬉々として、濃い目に調製する。
「帆高君は?少し薄めだったよね」
白石が帆高用にコーヒーを作り始める。
「あ、はい」
短く帆高は答える。
「さぁてと……」
自分のコーヒーを入れ終えて白石は話し始める。
「ここまでで、帆高君から、何か補足したりすることはない?」
白石は帆高に水を向ける。
「いや、それほど何か付け足したり、とかは……」
「じゃあ、僕から!」
挙手をしたのは黒田だった。
「家出がすぐばれなかったり、止められなかったのはなぜだと思う?」
視点のスゴさに白石は「あー」としか言えずにいる。
「あ、乗船名簿も、適当でしたし、ちょっと変装もしてましたから」
大学生っぽく見せるように偽装したことで、周囲からも止められずに済んだ、ということらしかった。
「まあ、でもそれでよく、2か月も潜伏できたって言うのは、やっぱり東京ならではだよね。ほかの都市に行こうとは思わなかった?」
黒田は、少し突っ込んで聞く。
「ええ。交通費もばかになりませんし、そこ以外の選択肢って浮かびませんでした」
帆高はそういう。嘘を言っても仕方ないから、これが本心なのだろう。
「さあ、続き、行きましょうか」
白石が声をかける。黒田も、また新たなページに目を落とす。
帆高が書いた、神宮外苑花火大会の詳細は、そのイベントだけで2枚弱もの分量があった。
彼はなんと、須賀の事務所を出掛けるときから書き始めていたのだ。
"「行ってきまぁす」
僕はそう言い残すと、須賀さんの事務所を出る。今日はワクワクが止まらなかった。
最初オファーを受けた時に、一番最初のフリーマーケットくらいをイメージしていたのだが、観客だけで20万人近くを記録する一大イベントだった。もちろん、今日も朝から、六本木ヒルズの打ち合わせ場所まで、雨はずっと降り続けたままだった。
実行委員会の担当の人と待ち合わせて、お互い自己紹介する。「え?彼女がそうなんだ」という、担当の人の驚きようが忘れられない。
陽菜さんは、というと、「浴衣なんて持ってないし」といいながら、レンタルで借りてきた浴衣を着てきていたし、うまく着付けてられている。
「本当に晴れます?」「大丈夫ですか?」という担当や、他の偉いさんにも口々にそういわれるのだが、僕としては、陽菜さんができるというだけであり、僕が何かするわけでもない。
それでも、決行か、雨天中止かを決めなくてはならない17時過ぎに、僕たちは、ヒルズの屋上に向かうエレベーターに乗り込む。
担当の羽鳥さんだったか、こんなことを言い出した。
「結局順延しても、どうせ来週も雨予報ですからね。神頼みでも何でもいいから、欲しくなるじゃないですか」
まあ、言っていることは正論だ。もし陽菜さんがいなければ、イベントは確実に中止なはずだ。僕たちは、それを回避させるために呼ばれたのだ、と改めて思う。
そして、陽菜さんは、いつものように晴れを呼ぶ儀式を行う。そう、ただお祈りするだけだ。しかしそれは、神々しいばかりの夕焼けと徐々に晴れていく空を呼ぶ。その場に居た誰しもが、声を上げる。感動、驚嘆、称賛。笑顔になっていない人はだれ一人いなかった。
「いやあ、本当にありがとう。こんな景色まで見られるなんて、ほんと最高だったよ」
実行委員長である、大会社の社長さん自ら、陽菜さんの両手を握って感謝の言葉を述べていた。
その日の報酬は、さすがに3400円というわけにはいかず、実行委員会からそれなりの金額を戴いた。"
花火を見て二人がいい仲になっていく記述も、二人はホッコリしながら読んでいた。
だが、帆高にとっていろいろと暴露しなくてはいけない事象も散見されるようになる。
"「え?これだけっすか?」
と僕は怒気を含んで須賀さんに迫る。「はいこれ、給料」と手渡されたのが3000円だったからだ。"
「「えっ?さんぜんえん?」」
黒田も白石も声をそろえて言う。
「はい。それだけしかくれませんでした」
帆高はコーヒーを飲みながら答える。
「須賀さんに曰く、家賃もただ、携帯代も会社持ち、食費も雑費もみんな出しているんだから、これくらいでいいだろ、みたいな適当さだったんです」
白石も黒田もあきれてものが言えない。
「それ、出るところに出たらもらえるぞって、出ていったら即強制送還だったよな」
白石は、帆高の身の上を理解しつつ、そう言う。
「完全に足元見られてたって感じだったんだな」
黒田も同情する。
「とはいっても、僕自身は、晴れ女ビジネスだけやっていればそこそこ実入りもありましたし、気にはしてませんでした」
帆高は、須賀の立場も考慮してそういう。
額よりも、須賀と夏美の優しさはプライスレスだったんだろう、と黒田は結論付ける。
"花火大会で、陽菜さんがテレビに映ったことで、サイトには応募が急増してしまう。首都圏だけだといっているのに、大阪や北海道、沖縄からの応募もあった。もちろんすべてに答えてもよかったんだろうけど、陽菜さんの体調がすぐれていなさそうだったので、彼女の誕生日である8月22日の一日前の21日の依頼でいったん休業することに決めた。"
帆高の英断でもあった。8月のお盆前後に行った先の記録も書かれていたのだが、黒田は見覚えのある苗字を見つける。
「あの、この『立花宅訪問』って言うのだけど……」
黒田は顔を上げて帆高に問う。
「はい。死んだ夫のために初盆を晴れにしたくってというおばあさんの依頼でした」
「まあ、そりゃぁ、読めばわかるんだけどね……」
白石が、黒田の喰いつき具合に怪訝なそぶりを見せる。
「何か問題でもあるんですか?黒田さん」
白石の問いに黒田は答える。
「いや、その、ここで「息子?孫?の男性とも会話を交わす。タキさん?」って書いてあるじゃない?」
「ええ、はい」
帆高も、執拗な黒田の絡みにおののきながら答える。
「もしかしたら僕の知ってる瀧くんじゃないかって、そう思ったんでね……」
「でも、20歳前後の方でしたよ」
帆高は補足する。
「まあ、この際、どっちでもいいや。脱線してしまって、ごめん」
少し場違いで、本筋から離れる内容だったと反省した黒田は、先を進めた。
"8月21日は、僕の東京生活の中でも特別な一日だった。
陽菜さんとの晴れ女ビジネス最後の日であり、僕にとっての幸せな東京生活最後の日であり、そして、陽菜さんに告白するその日だったからだ。
その日の依頼は、「久しぶりに会う愛娘のために、芝公園界隈を晴れにしてほしい」という父親からのものだった。
依頼主はK.Sさん。よもやそれが須賀さんだったとは!
僕は当日芝公園で須賀さんに会って、驚いてしまった。陽菜さんが晴れにする場面もうろ覚えだ。
「なんで須賀さんなんですか、ていうか、僕のバイト知ってたんですか、ていうか、娘さんいたんですかっ?!」
ドヤ顔をする須賀さんが今までで一番憎らしく思えた。
それでも、陽菜さんの"最後の仕事"は見事なものだった。
珍しく晴れ間は、4時過ぎまで保持されていた。でも、タイムリミットはどうしてもきてしまう。
夕方近くになって降り始めた雨は、僕たちに宴の終焉を告げる。凪先輩は、初対面のはずの須賀さんの娘……萌花ちゃんとすっかり意気投合している。
夏美さんは、一緒に晩ご飯を食べようと提案するのだが、
「じゃぁ、僕が萌花ちゃんと一緒に食べてくよ。姉ちゃんを送っていって」
凪先輩の華麗なスルーパス。驚く僕にぐっと親指を立てる凪先輩。
萌花ちゃんが最後の名残に陽菜さんに抱き付く。
「陽菜ちゃん、今日はお天気にしてくれてありがとう」
身近な人に天気を提供できたことがうれしかったのか、
「こちらこそ。喜んでくれて、ありがとう」と陽菜さんは礼を言う。
だが、ここから先、僕ははっきりとした記憶がないのだ。たしかに電車には乗った。田端で降りた。だけれども……"
帆高のここからは、苦渋に満ちた筆跡がレポート用紙からもうかがい知れた。
告白しようとして失敗したことより、陽菜から告げられた事実の方があまりにすごかったからだ。
「陽菜さんが晴れ女、そしてその能力を手にしたのは、空と繋がったからだ、って聞いたとき、どう思った?」
文を読んでばかりで、取材らしい取材をしていないと気が付いた黒田は、久しぶりに帆高に問う。
「どう思うもなにも……今までの出来事は、ぜんぶ天からの授かりもので、いつまでも晴れ女をやっていられるわけではないと気が付いてどうしようってなったのは覚えてます」
「最終的に天に召される……人柱になることは?」
黒田は陽菜から聞いている事実を帆高にぶつける。
「それもそんなことになるとは考えもしませんでした。天気をここまで変えたのだから、何らかの代償は負わないといけないのか、とはおぼろげながら感じてましたけど……それが人柱だってことは後で知りました」
帆高は淡々と答える。陽菜を失うかもしれないという悔悟の念をこの一日で感じたのだから、当然といえば当然である。
"警察が帰ってから、僕は隠れていたふろ場の扉を開ける。
もう僕には何も残っていないのか……焦るぼくを追い込むかのように携帯が着信を告げる。須賀さんだった。
階段を下りると、同乗していた凪先輩が扉を開けるなり、
「帆高、大変だよ、警察がっ」
と慌てふためいていっている。
「ああ、こっちにも来たよ。先輩は、部屋に戻って」
そう言って車内に乗り込むと、須賀さんがそこにはいた。だが、いつもと様子が違う。明らかにぼくと関わりを持とうとしない、冷たい須賀さんだった"
黒田は、須賀を知っている。知っているだけに、ここの須賀の描写には"奴ってそんなことができるのか"と思わざるを得なかった。
黒田はしかし、翻って、自分ならどうしただろう、と自問自答する。
無下に寒空の下放り出したに等しい須賀。だが、自分の境遇を慮れば、自分第一になってしまうのは仕方ないことかもしれない。
だが、のちに須賀は、帆高を逃がそうとしたのだ。それが元で逮捕されて、ぎりぎり実刑を免れたことは黒田が一番よく知っていた。
"どこで須賀は翻意したのかな?"
黒田は、帆高のしょげるような足取りがうかがい知れるような部分を読みながら、須賀に裏切られた思いを帆高は書きたかったのかな、と思っていた。
"みんな考えることは同じだった。
どこのホテルもいっぱいだし、仮に空きがあっても、身分証の提示を求められたり、未成年だけの利用を断られたり。知らず知らずに立ち入ったラブホテル街はなおさらだった。
あてどもなくさまよっているうちに凪先輩が声を上げた。
「姉ちゃん、帆高!あれ……雪じゃね?」
確かに白いふわふわしたものがゆっくりと降り注いでいる。8月だというのに、身体は凍えるように寒い。
だが……今の凍えるような寒さが……まさか……隣りに居るこの人が誘因しているものだとしたら……そんなに寒々とした気持ちが気象に現れたのだとしたら……
僕は戦慄を覚える。
「この天気と、陽菜さんが、繋がっている?!」"
あの雪のちらついた2021年8月21日は、黒田はしっかりと記憶していた。ほかの取材で夕方まで都内にいて、自宅でこの荒天を体験していたのだから、無理もない。黒田はシステム手帳を持ちだして、次の日のジェットコースター的な天気の移り変わりも含めて確認する。
「8/21 9時ごろから雪。暴風も止まず。この世の終わり?」
「8/22 台風一過、ってレベルの晴れ渡る青空。昨日の気象庁の発表は何だったのか?」
「夕方から、天気予報にもなかった土砂降り@新宿。気象庁の発表に批判殺到」
「6時の記者会見。また長雨の予報。いつ晴れるのか、予測不能って、どういうこと?」
ああ、そんなだったなあ、と黒田は述懐する。
それでも、帆高の手記を読んで、あの荒天が、もし、陽菜の心の中が具現化したものだったとするならば、ものすごく納得できるのだ。
兄弟がバラバラにされる危機、捕まってしまうかもしれない帆高、いつまで逃避行を続ければいいのか?
陽菜の心情が天に届いていたとしなければ、真夏に雪など降ろうはずがないし、そんな天候にもなるわけがない。
黒田は、あの夏の日の一日が、一人の少女の想いに左右されていたことを改めて認識した。
"僕は、陽菜さんに誕生日プレゼントを渡す。
「ありがとう」と答えてくれる陽菜さん。僕が16年生きてきて、一番誇らしかった瞬間だった。
だけれども、その幸せな時間は一瞬にして打ち砕かれる。
「ねえ?帆高はさあ、この雨がやんでほしいって思う?」
陽菜さんの問いかけに、僕は深く考えず
「う、うん」といってしまう。"
ここから黒田と白石は、食い入るように帆高の文に心を吸い込まれてしまう。
何気ない帆高の一言は、陽菜の現実を見せつけるのみならず、彼女が人柱になる運命を悟っていることを帆高が知っていくからである。
二人の間がどこまで深耕していたのか、黒田も白石も知らない。だが、帆高は間違いなく陽菜のことを好きになっているし、彼女を離したくない、とおもっていたに相違ない。そして、陽菜も、一途な帆高に少なからず好意を持っていたのではないか、と思っている。
二人が場違いとはいえ、ラブホテルの一室で交わした言葉、好意、想いの交換……。二人が分かちがたく結ばれたと理解した黒田と白石だった。
ここから帆高の文章は、激しさを増していく。
陽菜が視界から消えた、のみならず、人柱として空に上がってしまった(身体ごと天空に召されたような不思議な現象)と気づくからである。そこへなだれ込む警官たち。帆高と凪は抵抗する間もなく捕縛されてしまう。
"空から降ってきた指輪を見て、僕は確信する。
「彼女は人柱になったけれど、まだ死に至っていないかもしれない」ということに。
だから僕はどうしたら助けられるのか、と思案していた。
そこへ、刑事の一人がこんなことを言い出す。
「一つ確認しておきたいんだけどね、昨夜きみたちと一緒に居て失踪したのは天野陽菜、15歳で間違いないよね、行き先に心当たりは?」
「陽菜さんが、15歳って?18歳じゃなくて?」
僕はそう聞き返すしかなかった。
刑事がしゃべる言葉は大半が耳に入らない。年齢を偽っていたことは間違いないのだが、なんで僕にまで?
「知らなかった?」
刑事はすべて御見通しのようにぼくに聞く。バカな。知らなかったのは俺だけだ。
「そんな、オレが一番、年上じゃねぇか……」
口をついて出てきたのは、こんな悔悟の言葉だった。"
黒田は、帆高はただ騙されたのではなく、陽菜を心底知らなかったことに後悔していたのだと知る。
もっと理解してあげれば、もっとお互いを知り合っていれば……陽菜にあえて年上という設定を無理強いさせたのは、自分の幼さが原因なのではないか?嘘をつきとおすしかなかった陽菜の立場も理解できるが、自分のふがいなさ、頼りなさが彼女にベールをかぶせたままだとしたら……
とめどなく流れる涙を帆高が拭かなかったのも黒田は理解できた。
一方の白石は、帆高は陽菜をただ好きになっただけではなく、彼女にとっての良き伴侶でいようとしていたのに騙された、と考えていた。
年齢を偽って付き合っていたことは帆高にとって背信以外の何物でもない。ほかにも隠し事があってしかるべきだ、と考えていたかもしれない。
帆高が流した涙は、自分のふがいなさからではなく、騙された、悔しさから流したものだと考えていた。
二人は期せずして、同時に帆高にこのときの心境を聞く。
「陽菜さんの本当の年齢聞いて、どう思った?」
帆高の答えは単純明快だった。
「年齢ではないんです。ただ守れなかった、人柱を阻止できなかった、ことに対する思いが強かったです」
黒田は少しだけにんまりする。正解ではなかったが、帆高にかなり近づけたと思ったからでもある。
"僕は、一瞬のスキを突く。もうこの人たちは当てにできない。僕が陽菜を救わなければ!
気が付くと、身体は、しなやかに、軽やかに、自分でもびっくりするくらいの運動能力を発揮し始める。
対峙した門番で立っている警官の股の間をすり抜けた時は、自分でも鳥肌が立った。
そこから僕はひた走る。手ごろなママチャリを見つけたがガードレールにチェーン錠がかかっている。
「くそっ」
吐き出すが、その間にも追手は迫ってくる。やむなく駆け出す僕だったが、その背後から、ブロロロロッとカブらしいエンジン音が迫ってきた。"
夏美の手引きもあって、線路伝いに代々木を目指す帆高。彼は、無心に走っていたと書いていたが、黒田はそうではないと感じていた。
代々木の廃ビル……代々木会館なのだが、そこに行けば何とかなる、と思っていた帆高が、なにも思わずがむしゃらに走っているとは考えにくい。陽菜を連れ戻す最後の"聖地"。そこに行けるのは自分しかいない、という使命感は絶対抱いていただろうと思うのだ。
一方の白石は、贖罪の意味が大きかったのだと感じていた。年齢詐称も含めて疑ってしまった帆高。でも、いなくなって初めてその存在の大きさを知ることになった。天気を自在に操れるからといって、利用してしまったことに対する罪悪感が大きいのでは、と感じていた。
今度は白石が聞く。
「走っている間、なにも考えなかった?」
帆高は答える。
「陽菜さんにすべて背負わせたぼくを許してほしいって言うことが一番大きかったですね。もちろん連れ戻して、謝りたかったですし」
今度は白石が安どの表情を浮かべる。
そして、手記も最終盤に入っていく。
ビルの中の会話や警官隊との立ち回り、代々木会館の祠を通り過ぎるまでは一編の映画のように帆高は描写していた。
"脚本家って言うか、これだけでいいプロットになっているじゃないか"
本職らしく、この場面の生々しい描写に白石は目を丸くする。黒田も、ここまでの筆致に出会ったことはなかった。
"気が付くと、僕の体は天空高く舞い上げられていた。
「やった!」
と思う心の中とは裏腹に、風に、大気に翻弄される、まったく自分の思い通りにならない身体に困惑していた。
漆黒の闇、ところどころで起こっているスパーク、怒調を含んだ雲たち……
空の上はこんなおどろおどろしさを纏っているのか、と目を見開いてみている。
思う間もなく、一筋の、生きているかのような挙動をした雲に文字通り飲み込まれる。
「うわぁ」
まるで龍の体の中に居るかのように、細かい何やらひんやりする無数の物体が僕の体に当たり続ける。
僕を飲み込んだ龍型の雲は、その役割を終えたかのようにぼくを後尾から吐き出し、僕はやるかたなくただ落ちていく。
だが、そこは、今までの暗く陰湿な世界ではなく、青空が支配する、穏やかな世界だった。"
「ファンタジーだね」
白石は思わずそう言う。
「ええ。でも、これはぼくが見たままです」
帆高は力強くこういう。"見たんだから仕方ない"とでも言いたげだ。でも、黒田は帆高の自信満々な態度から、嘘でも、でまかせでもない、真実を嗅ぎ取った。
「続けましょうか」
黒田は、帆高を後押しする。
"「陽菜さーん!」
声を限りに叫ぶ。見つからなかったらどうしようとか、このまま死んでしまうのか、とか、いろいろな感情は全く起こらない。陽菜さんを見つけることだけしか頭の中になかった。
もちろん、落ちていくだけ。身体の制御なんてそう簡単にはできない。それでも、ある一つの雲の上まで近づいていく。
草原と見間違うような緑色に覆われた雲の上部。そこに、何かによってたかっているような物体の夥しい光の列を目撃する。
目を凝らしてみても、距離がありすぎて何かを確認できない。
それでも、僕は、何度か陽菜さんの名前を呼ぶ。
すると、その光を形作っていた列は僕の声を合図にしたように一瞬にして雲散霧消してしまう。
そこに横たわっていたのは、間違いなく人間だった。今、天空に居るべき人間は、僕ともう一人しかいないっ!
「陽菜ー!」
僕は呼び捨てで陽菜さんを呼ぶ。
「帆高?」
僕の叫びが届いたのだろう。浮いているぼくを見つけられた陽菜さんが駆け寄ってくる。
「陽菜!跳べ!」
今までどちらかというと僕は陽菜さんの尻に引かれっぱなしだった。だが、もうそんなことは言っていられない。
彼女が救えるのなら、僕はどうなってもいい。それだけだった。"
危うく落涙しそうになるのを黒田は堪えた。
と思って白石を見てみると、完全に泣いているではないか!
「ハイ、白石さん」
黒田はハンカチを渡す。白石はそれを黙って受け取り目頭をぬぐった。
「そ……そんな、だったんだね」
白石は涙声のまま、絞り出すように言う。
「ハイ。これがぼくの答えだったし、陽菜を取り戻すしか残されていないと思いましたから」
"気が付くと、僕は、代々木の廃ビルの屋上に、陽菜さんと一緒に横たわっている。
「君。大丈夫かい?」
声をかけてくれたのは、30歳いってないくらいの若い警官だった。
「んん……」
相当な衝撃で着地していないとおかしい……いや、そもそも死んでいるべきはずなのに、僕は、さしたる打撲もなくここに居る。
隣りの陽菜さんの首元のチョーカーが二つに割れているのを見つけて、よほどの衝撃があったはずなのに、と改めて思ったのだが……
陽菜さんも息はしているようだった。
「高井さんに言われて、半信半疑で来てみたけど……本当に居たよ」
もう一人の警官も言う。
「佐々木より警部補へ。ただいま、二名を屋上にて確保。これより連行します」
女性の警官がそんな風に報告していた。基本陽菜さんも"連行"される身分なんだとこのとき思った。
僕はしっかりと手錠をかけられ、パトカーにのせられる。外は土砂降りすぎるくらいの雨で、まるで、陽菜を返せ、と天が叫んでいるように思えた。"
総勢34ページ。
帆高の手記は幕を閉じた。気が付けば、夕暮れがあたりを支配していた。
二人は、目の前の少年にただただ畏敬の念しか抱けていない。
黒田は、陽菜を知っているだけに、その彼女を身を挺して守ろうとしたことだけでなく、天気を犠牲にしてでも僕たちの愛の方が優先されるのだ、という考え方に驚愕する。
滅私奉公が美徳とされる日本人の中にあって、人柱という公共に資するべきはずの陽菜。いままでなら、人柱になることは選ばれしものということで代々語り継がれていたかもしれない。しかし、帆高は陽菜を選んだのだ。天気なんて狂ったままでいい。帆高の叫びがまた黒田の胸に去来する。
一方の白石は、180度帆高の見方が変わった。
虫も殺さない、あんな大それたことをしたようには見えない帆高。しかし、人は見掛けによらない、とはよく言ったものだ、と白石は感心する。
愛に殉じようとする主人公をもとに小説をいくつも書いたことのある白石にとっても、ここまでの愛の力は想像をはるかに超えていた。昨日聞いていた帆高の真実は、しょせんダイジェストでしかなかったのだ。
二人は、その膨大な分量の手記を目の前にして、なにも言い出せないでいる。
「帆高君さ……」
黒田が重くなった口を開く。
「これでよかったって、思ってる?」
白石も帆高の答えを待っている。
「世間はどうあれ、僕はこれでよかったって思ってます。ぼくらの選択は確かに無謀だったかもですかけど、人の命と天気をはかりにかけることって、できますかね?」
こう帆高に言われてしまうと、二人は黙ってしまうしかなかった。
帆高は、手記を白石と黒田に託して自宅に戻っていった。
「いやあ、これ、凄いですね」
白石は、黒田に缶ビールを手渡しつつ、そう言う。
「これだけで本、作れますよ」
ブシュッと開けながら、黒田はこう言って、缶ビールに口をつける。
「彼の想いを知らないまま今まで過ごしてたなんて……すごく反省してます」
白石は、少しうなだれたようにそういう。
「いやいや。彼もどこかで吐き出したかったんでしょう。それがたまたまこのタイミングだっていうだけですよ」
慰めるように黒田はそう言う。これ以上の情報は取るのは邪魔になる、そう思った黒田は、これだけ引っ提げて東京に戻る決意を固める。両親に話を聞いたとしても、帆高の話のボリュームがありすぎて埋没するのではないか、と思えたからだ。
「まあ、何はともあれ、彼との付き合い方もこれで変えられますよ」
白石も遅れて缶ビールを開ける。一気に飲んでそういった。
「ぼくも、この手記をどうまとめるか、一から出直しです」
にんまりと笑う黒田は、手記をひとまとめにして、封筒に入れ直す。
「刷り上がったら、いの一番に白石さんにお見せしますよ」
黒田はそういって、白石家の玄関に立つ。
「ええ。お願いします。いずれ、僕にとってのバイブルになるはずですから」
白石もそう言って黒田を送り出す。
宿に帰る道すがら、黒田は、その責任の重さに押しつぶされそうになる。これを雑誌に載せることが彼ら二人を冒涜しているのではないか、と思えたからだ。
だが、黒田の素性を知っている帆高が、赤裸々に書いたこの手記が雑誌に載らないとは思うまい。彼は自分のしたことへの"答え"を望んでいるのではないか、と思ったのだ。
翌日の帰京を前に、黒田は、あの膨大な量の手記にもう一度対峙する。そしてこう結論付ける。
"載せるしか、ないか……"
それは帆高と陽菜に申し訳ないと思いながら取った選択だった。
「今日でこの夕食ともおさらばかと思うと残念だなぁ」
宿で食べる最後の晩餐を食べ終えて、黒田は言う。
「何の。また来てくれたらええじゃないか」
食器を下げつつ、登美子はそう言って再度の来訪を促す。
「まあ、確かに、もう一度くらい来るかも、ですけどね」
黒田は忘れていた。刷り上がった「ストレンジ」をもってこの島に来なくてはいけないことを。
「その時は、往復うまい具合に便がかち合えばいいですがの」
少しイヤミも交えて登美子は言う。
「その時は、その時ですよ。まあ、期待しないで待ってればいいですよ」
今の交通事情を考えれば、出たとこ勝負でしか飛行機は押さえられない。郵送や宅配便の方が確実でもあった。
黒田は、食堂を後にして、自室で荷造りを始めた。いろいろな出来事を思い出しながら、その手は遅々として進んでいかなかった。
黒田の出立は、神津島空港の朝一便だった。調布からの第一便の折り返しなのだが、この日も何のトラブルもなく神津島空港に着陸した。
ブロロロロッというプロペラ機特有のエンジン音が待合室にも響いてくる。乗客たちは搭乗口に案内される。
「黒田さん!」
声の主は帆高だった。
「上手く、まとめてくださいね。僕の文章って、須賀さん仕込みなんです。だから、須賀さんも、僕のルポが形になったら喜んでくれると思うんです」
帆高のその一言は、黒田に堪えた。少し涙ぐみながら、
「わかった」と答えるのが精いっぱいだった。
神津島を定刻より少し遅れて飛行機は飛び立った。黒田は、もう来ることはないと思っていたこの島に、もう一度来てしまうような、そんな感情にとらわれていた。成長した帆高を見るために。
ジャーナリスト・黒田の3タイトル目です。
いやあ、自分でもこのキャラクター、気に入っているんですよね。物事に対して決して妥協しない、とことん付き合う姿勢。糸守彗星衝突事件に、"晴れ女"の真実。彼の筆致なら、帆高を丸裸にするのも時間の問題だな、そう思った人も多かったことでしょう。
ところが、帆高の場合は様子が違います。・保護観察処分中 ・保護司が近くに居る ・離島の中なので、何をやっても目に付く 。黒田が直接帆高にアプローチできないという難題が降りかかるわけです。
最初のプロットは「すんなり逢えて話を聞く」という何の障害もないものでした。
"おい、それって、面白くもなんともないじゃん?"
それに保護司・保護観察官が「はいはいどうぞ」と差し出すように帆高にすべてをしゃべらせるとは考えにくいと思ったんです。とはいえ、限られたリソースの中で最終的に白石が折れる形で、本人がしゃべる→手記を書く方向に持っていくことにしました。
白石には一度話している(タイミングは終業式の日)帆高の真実。だけれども、それはダイジェストですべてを知りえていない。この手記で白石の帆高像が補完されるという風にして、自分の前作との整合性をとりました。終業式の翌日に発表するのもそのタイミングを優先したからです。
手記のダイジェスト部分は、基本時系列を追いつつ、小説にはない感情の発露をいろいろとちりばめました。これがすべてではないですが、帆高らしさを追求したつもりです。
さて、これでとりあえず書きたいと思った「天気の子」絡みのネタは終了。あとは細々と書いていきたいと思います。
ご覧いただきまして、ありがとうございました。
このSSへのコメント