夜明け十秒前
天気予報ではずっと晴れらしい。
自転車通学をする人間としてはありがたい。
ここ最近、ずっと晴れが続いていて乾燥している。
乾燥している時期は火の元に気をつけたい。
僕は独り暮らしだし。
集合住宅に住んでいるから、延焼もしやすい。
「おはようございます」
「あ、おはようございます」
隣の部屋に住んでいる皆川さんだ。
大学生らしい。
とても愛想がよく、正直に言って綺麗な人だ。
難関大学に現役で合格し、成績も良いらしい。
僕は受験を来年に控えた高校生だ。
それもあって、たまに勉強を教えてもらう。
その代わりに、僕が第二外国語を教える。
僕の数少ない特技の一つが言語で、彼女が選択したフランス語は僕の話せる言葉の一つだ。
そんな不思議な関係を、僕は楽しんでいる。
向こうが楽しんでいるかどうかはわからないが、少なくとも僕はそうだ。
僕は自転車で40分程の距離にある学校に通っている。
進学校ではなく、普通と言える程に普通の学校だ。
しかしながら、僕は学校に友人はおろか、話し相手すらいない状態だ。
仲間に入れてもらえない、とかいじめられている、とかではないが、上手に馴染むこともできなかったようだ。
けれど、僕には皆川さんがいたし、それで良いと思えた。
普通に授業を受けて、普通にお昼ご飯を食べて、普通に帰る。
家に帰ると、そこには皆川さんがいた。
僕がなぜここにいるのか尋ねたら、意外な答えが返ってきた。
鍵を失くして家に入れないそうだ。
存外そういう一面もあるらしい。
鍵は管理人さんに解決してもらうことにした。
ここの管理人さんはとても人が良く、何かあればすぐに改善してくれる。
「どうしよう...」
「まあ、何もないけどゆっくりしてて」
出会った当初は敬語で話していたが、今となってはすっかりそれもなくなっていた。
まるで本当の姉のように思えた。
僕は一人っ子だったし、両親も随分昔に逝去している。
そんな僕の、心の支えになっていたのかもしれない。
あまりに自分勝手すぎる思考回路だったし、それは自分でも重々承知の上だ。
それでも、今はまだこの関係に甘えていたいと考えてしまう。
暫時は他愛もない雑談をしていた。
管理人が合鍵を持ってきてくれたのは、夜の8時くらいのことだった。
普段ならここで別れるのがいつもの風景だったが、今日は何かが違った。
皆川さんは、突然こんな意味のことを言った。
「今日は、君の部屋に居てもいいかな」
僕は拒否する理由が見つからなかったが、それより重要なのは、なぜそんなことを突然言ったのかだ。
しかし、僕には理解できなかった。
無論、快く引き受けたが、僕は料理が上手なわけでも、家事ができるわけでもない。
本当に普通の、一般的な高校生だ。
結局、料理や家事は全て皆川さんにやってもらった。
なんだか申し訳ない気分になったが、どうしてもやりたいと言ったので言葉に甘えさせてもらった。
時刻は既に10時を回っていた。
そろそろ寝ようかと提案したら、拒否されてしまった。
「実はーーー」
あまりに突然の予想だにしなかった報告が僕の鼓膜を叩いた。
「どういう...こと?」
「今まで黙っててごめんね」
混乱しているのが自分でもわかる。
時刻は既に2時過ぎ。
「でも、もう決まったことなの」
今まで味わったことのないくらいのショックだった。
時刻は6時34分。
僕は口走った。
ここで言わなかったら一生後悔すると思って。
35分。
夜明けだ。
そこには、ただ一凛の花が咲いていた。
ナズナの花だった。
僕には、皆川さんが静かに微笑んだように見えた。
こんにちは。今回からテーマを決めてから書くようにしました。今回のテーマは「幸せの価値」です。では、また次回作でお会いしましょう。
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