提督「化け物の暴走」五
*本作は、"提督「化け物の暴走」四"の続編になっております。
[Romaたちとの戦闘から2日後]
〈北方海域 無人島〉
夢を見ている。
上下左右の感覚のない、不思議な空間だ。進んでいるようで止まっている、或いはあるようでない感覚。しかしそれはどう考えても夢であり、焦る必要はなく、ただ、意味のない空間だ。
「そうでもない」
私に異議を唱える者が、その空間に突如として現れる。真っ黒な人型のシルエットは、口からではなく、むしろ身体全体から声を発するかのようだった。
「ここはお前にとってかなり重要だ。その精神的変化と自我の乖離において、ある意味ではターニングポイントになる」
「お前は誰だ」
「誰か、だって?お前の夢の中で、お前以外の誰がいるというんだ」
「私、なのか?」
「理解する。いつかお前は理解する。全ての元凶、振りまかれる理不尽な猛攻。今こそその本性を暴き、そして走らせろ」
「何を言って」
言い終える前に、私は落下した。空間は突如として質量も実体もなくなり、自由落下に伴い私の肉体は虚構をどんどん下へ進む。
《起きて………起きて!》
《ヲヲ!》
目を覚ますと、泣き出しそうな軽巡棲姫とヲ級の顔が視界に飛び込んできた。目が合うと、一瞬大きく目を見開いて、そしていよいよ大粒の涙を赤い瞳からポロポロとこぼし始めた。
《よかった〜〜〜〜〜〜!生きてる〜〜〜!》
《ヲ〜〜〜〜〜!》
「…………お前ら…………」
《ひぐっ、よかったよぉ〜。死んじゃったかと思ったよぉ〜》グスングスン
「ああ…………すまなかったな…………」
その後、事の顛末を聞いた。
私があの時外に出た後、いくら待っても戻ってこないので海に出ると、それでもやはり見つからなかったらしい。丸二日探し続けて、自分たちを捨てて逃げたか、艦娘に沈められたかと諦めかけていた時、岩礁に打ち上げられている私を見つけたらしい。怪我はしていないようだが目を覚まさず、死んでしまったのかとも思ったようだ。
泣きじゃくる二人の頭を撫でて、かける言葉もわからずにただ黙って話を聞いた。正直、その二日間の記憶どころか、海に出た後の記憶が曖昧だ。艦娘と出会った気がするが、そこから急にぼんやりと記憶にヴェールがかかってしまう。訳もわからぬままに話を聞いて、どうにも他人事のような気もしてきた。
「二人とも、心配かけたな」
《ぐすっ、本当よ!全く!どれだけ私たち二人が探したか………》
《ヲー!》
「すまんすまん。しかし、どうにも自分が何をしていたか思い出せん。長く気を失っていた記憶が曖昧なのか……?」
《さあ……私たちには特に説明もせずに出て行ったから、そこは何とも……》
「そうか。まあいい。それより…」
言い終える前に、軽巡ははっとして涙を拭いて言った。
《大丈夫よ。上手くいったわ》
「!それはつまり」
《今はまだ眠ってるけど、一度目が覚めたわ。終わったばかりだから体もほとんど動かないけれど、数日もすれば元に戻るわ》
「そう………か……そうか……!」
《全部、貴方のおかげよ》
《ヲ!》
「私は……今度こそ救えたんだな……」
中枢は奥の部屋で眠っていた。死ぬ前と変わらぬ姿で、すやすやと、少女のようなあどけない顔だった。身体はまだ機能しないらしいが、外観上は傷一つない、綺麗なものだった。
頭を優しく撫でると、反応して少し鬱陶しそうに寝返りを打った。そしてまた寝息をたてて始める。見れば見るほど、嬉しさがこみ上げてきた。
《まだ他にも救わないといけない人が多くいるわ。そのためにも、中枢にはこれから頑張ってもらわないとね》
「ああ。これはまだ1人目だ。これからが大変だな」
《ええ。………今日はもう休んで頂戴。大事をとって、また明日から頑張りましょう》
「そうさせてもらおう」
達成感と喜びを噛み締めながら、私は部屋に戻って横になった。気持ちがおさまらないせいか、中々寝付けなかったが、今後のことをあれやこれやと思慮するうち、寝た。
[黒崎の一件から数日後]
〈○△鎮守府 執務室〉
強烈な平手打ちが、黒崎の右頬を襲った。
「いてー!」
「…………」
「ちょ……!?」
突然、なんの前触れもなく執務室にノックもなしに入り込んできた鳳翔が、見たこともない険しい顔で、何も言わずに突然黒崎を叩いた。
母親に打たれたような少年のような反応の黒崎。唇を噛み締め、キッと睨みつけるような目をした鳳翔。突然のことに戸惑いを隠せない鹿島。沈黙を破ったのは黒崎だった。
「痛いなぁ鳳翔くん!開幕ビンタとか昭和か!」
「私は今冷静さを欠いています。どうかご容赦ください」
「容赦して欲しいのはこっちだよ!結構フルスイングだったよね!?」
「提督、大丈夫ですか!?ほ、鳳翔さん」
「鹿島さん。どうか分かってください。私は今のうしないと気が済まないのです」
「は、はあ……」
「いてて………まだ痺れるな……」
頬を刺さりながら、黒崎は座り直した。鹿島も鳳翔にソファに座るよう勧めたが静かにそれを辞した。
「さて……何用かな、鳳翔くん。いや、用件なんて大体見当がつくがね」
「はい。お察しの通り、数日前の一件のことです。聞かされたのは昨日の夜でした」
「敵討ちにでも来たのかい?まあ、君は性格上やりかねない立場にあるが……」
「いいえ。今貴方をぶったのは、かなり八つ当たりに近いです」
「ひどくね?」
「彼女たちに全く非がないわけではなく……むしろ、彼女たちから先に仕掛けたようなものですから、提督の行動は防衛とも捉えられます。しかし、我が子を片付けられて平気でいる親はいません。こうでもしないと、私は冷静を取り戻せない」
「ほ、鳳翔さん……」
「なるほどね。珍しく感情的な行動だ。感傷的とも言っていいか。いずれにせよ、君の言い分は理解したよ」
「いえ、今日はただそのために来たのではなく、提督には説教をしに来たのです」
「…………………ほう?」
黒崎にとって、"説教"とは中々聞き慣れない単語であった。
父は陸軍の人間で、ほとんど家に帰ってこなかった。たまに帰ってきても、また次の任務のために出かけてしまう。母は優しい女だったが、病を患っており、軽井沢で療養しているのが大半であった。家には家政婦が何人かいたが、別に何か向こうから世話を焼いてくることはなかった。彼自身、その必要もないほどに、物心つく頃には器用に振る舞っていた。可愛げのないことだが、"手のかからない良い"子だったのだ。
怒られたことがない。過ちを正された経験がない。士官学校ですら、低脳な上官に恥をかかせてやったこともある。だから鳳翔が言っていることは、意外にも黒崎の初体験に当たることだった。
「いいね。中々に興味深い」
「あの、提督……」
「鹿島くん。君は少し席を外したまえ。居心地が悪かろう。終わったらこちらから迎えに行くから、食堂あたりで時間を潰しといてくれ」
「は、はあ……」
「鳳翔くん。飲み物はいるかね?」
「結構です」
鹿島は不安半分興味半分の気持ちで、おずおずと執務室を出た。先の一件、長門さんですら敗北したあの提督によって、鳳翔さんまで危険な目に遭ったら、と危惧していながらも、あの男の腹の底を見破ってくれとも思っているのだ。
「さて、説教ということだが……」
「貴方は最低です」
「え、もう始まるのかよ」
「かつてこの鎮守府には酷い提督がいたことがありますが、貴方はそれを越えるクズです」
「ひでぇ」
「あの男は自分の利益のために行動していました。結局宮本提督に首を刎ねられましたが、その瞬間まであれは私たちを自分が得をするための道具としか思っていませんでした。しかし貴方はそれよりも酷い。自分の幸福ではなく、他者の不幸を優先している」
「……抽象的だな」
「例の件以来、貴方は表面的には態度を変えたわけではありません。追って責めもしません。しかし、心の有り様はまるで変わりました。常に、艦娘たちに罰が下ることを願っている」
「何が言いたい?」
「責めたければそうすればいいものを、貴方自身は何もしない。代わりに貴方は傍観するようになった。不安定な皆を無視して、勝手に不幸になっていくのをただ見ることに徹している」
「そりゃそうさ。彼女たちを罰する義理はない。できるとしたら宮本くんか、彼女ら自身だ」
「それが最低なのです。今日もまた、艦娘同士でいざこざがありました。貴方は鹿島さんから聞いているはずです。その前も、さらに前も」
「今日の喧嘩は曙と吹雪くんだったかな?その前は天龍と摩耶、その前は…」
「何故止めないのですか。何故、放置という苦を与えるのですか」
「勝手に彼女たちがしてることを、何故僕が止めなくちゃならないんだ?」
「貴方が提督だからです」
「喧嘩の沙汰まで提督の仕事かよ」
「彼女たちだけでは無理です」
「君がやれば?向いてると思うよ」
「私は……………だめです」
「どうして?何か問題が?」
「だめなものはだめです」
「もしかして……」
「言わないでください、嫌」
「気づいちゃった?君たちはどいつもこいつも加害者だってこと」
鳳翔は一瞬、全身の筋肉が硬直し、ひたすらに抑えていた怒りが漏れそうになった。髪の毛は逆立ち目は大きく見開かれ、歯を食いしばって握り拳を作る。堪えた。しかし完全に心は乱れてしまった。
「君達を裁けるのは君達以外、つまり僕だ。だけど僕はしない。君たちは罪を償えないままに生きるしかない。心の中で詫びても他者から承認されない限り罪の意識は色濃く残る。つまらない諍いだって、物足りなさを感じているから起こるんだ。どうか自分を罰してくれと思うからだ」
「…………」
「後悔しかないだろうね………だって、原因は君達にあるのだから」
「…………」
「君達の過去の境遇については、伝聞ではあるが聞いているよ。宮本くんにしたことの是非についても、それを踏まえればまあ仕方がないといえばそうかもしれないね。でも…………………………結果として、"こう"なった」
「提督」
「ん?」
「少し、口を閉じて下さい。私がいいと言うまで、一言も発さないで下さい」
「どうして?」
「このままだと、貴方を殺してしまう」
黒崎はギョッとして鳳翔を見たが、それから得心したかのように目を細めると、一文字に口を結んで、次いで椅子ごと後ろを向いてやった。
鳳翔は、完全に急所を突かれたのだ。少なからず自分が思い、危惧していたことをそのまま言い当てられて、図星も図星。反論の余地もなかった。説教なんて大口叩いたのに、自分は全くそんな立場にない。ただ、恥をかいたような気持ちだった。その上、そこまでわかっていてやはり動かない目の前の男に、激しい嫌悪と殺意を覚えてしまった。今、自分はどんな顔をしているのだろう。きっとこいつは、楽しんでいるに違いない。
「……………」
「……………」
「……………」
「……………」
「………はい、もういいです。すみません」
「お、はいはい」
「……………とにかく、今の艦娘たちの心理状態はかなり悪く、放置するのは愚行に思います。したがって提督には、厳正な艦娘の処罰をしていただきたく思います」
「説教じゃなくて、そりゃお願いだろ」
「なんでも構いません。どうか、お願いします」
鳳翔は頭を下げた。それが彼女の自尊心にどれだけの傷をつけたのかは黒崎の知るところではなかったけれど、なんとなく、呆気ない相手の折れ様に少し落胆してしまった。
黒崎には、彼女が求めていることが、単なる逃避に過ぎないことが容易に分かっていた。
「わかった」
「!では、」
「ああ。全員、今日のうちに解体しよう」
「今、なんと?」
「解体だよ。哨戒も遠征も帰らせて、みんな解体だ」
「そ……れ、は………」
「なんだい?厳正な罰を求めたのは君だろう?すぐに鹿島くんと明石くんに頼んで、みんなを集めさせよう。反対する者もいるだろうが、君からの願いとあらばひょっとしたら了解してくれるかも」
「ちがっ………私は……!」
ガチャリ
「はっ……!?」
「そういうことだぜ、小娘」
「あ、ああっ……」
書類で覆われた机の上をお構いなしに踏みつけ、鳳翔の着物の胸ぐらを掴んで引き寄せると、半開きの口に銃口をねじ込んだ。鳳翔は一瞬、口に入ってきたそれが何かわからなかったが、舌に触れた冷たい金属の筒を感じ取ると、一気に冷や汗が吹き出した。
殺す、という明確な意思がその瞳にギラギラと現れていた。鳳翔はこの時初めて黒崎とはっきりと目を合わせたのだったが、それはあまりにも強烈な出会いだった。少なからず戦場に赴いた彼女ですら、これほどに感情をありありと示されることはなかった。
先ほどの威勢はどこへやら、鳳翔は完全に萎縮して、怯えて、そして恐怖してしまった。目の前にいるただの男が、死神かなにかに思えてどうにも体が震えてしまう。
「君たちはあーだのこーだの言ってるけどね、命も張れない薄っぺらい連中ばかりだよ。君もすっかりびびっちまってる」
「………」
「彼は命を賭して君たちを守った……だが、その逆はどうか。君達は彼のために命を投げ出せるか。答えはノー。当然といえば当然さ。君達は彼がそこまでするなんて思ってなかったんだろう。だから、今だってそこまでの覚悟はない」
「………」
「死ね、と言ってるわけじゃあないよ。だけどね、君達が言ってるのはただのエゴだ。自己満足に過ぎない、懺悔ごっこに過ぎないのさ。心の中で悔いている奴も、嘆いている奴も、気にしてない奴も、どいつもこいつもそんな自分に酔ってるだけさ」
拳銃を引き抜くと、ハンカチで拭きながら黒崎は続けた。
「安心しなよ。君達の心の蟠りは、その内時間が解決してくれるさ。僕から特別何かするつもりはないけど、殺し合いに発展する様な喧嘩が起きたら仲裁くらいはするよ」
「ようは、放置しろってことですか」
「鳳翔くん、こういうのは、他人から干渉されて解決することじゃないだろう?」
「…………提督、貴方はやはり最低です」
「そうかい」
鳳翔は最後にそう言って、一礼すると執務室を出て行った。
いつぞや、宮本が言ったことを黒崎は思い出していた。
『お前は狂っている。だがお前は、私が見た中で最も優れた人格者だ』
その時から、彼と親しくなったのだ。誰にも扱えなかった僕を、特になんの摩擦もなく受け止めることができたのは唯一彼であり、しかし最も理解できない男であった。人格者、という言い方もそうだ。心などという正体不明の器官を、どう測ったというのか。
「宮本くん。僕は君ほど甘くないだけさ。彼女らには、少し酷かもしれんがね」
[一週間後]
〈無人島〉
私が中枢とようやく話せたのは、蘇生から一週間後のこと。はっきりと意識を取り戻した中枢は、資源回収から帰ってきた私を、よろめく身体をなんとか支えながら出迎えてくれた。
「ただいま………っと、誰もいないか」
《おかえりなさい》
「おお、軽巡か?今帰った………ぞ………」
《………》
壁に寄りかかる様に立つ姿は、酷く弱々しいものだったが、白い髪に赤い瞳、高校生くらいの体躯は以前と変わらず、すらりと伸びた足は震えていたけれども、表情は穏やかで、そしてそこには喜びと活気が現れていた。
不意打ちだった。成功したという結果を聞いてから一度も目を覚まさないんで、このまま眠ったままなのだろうかと内心びくついていた。こうしてまた会えたと思うと、喜びよりも驚きのが大きく、ただぽかんと口を開けることしかできない。
「中枢……」
《来て》
「え?」
《こっち、来て》
言われるがままに、荷物と艤装を下ろして中枢のもとへ行く。
《もっと近く》
「あ、ああ」
《もっと》
「おう…」
《もっと、もっと》
「こ、これより近くというのは」
《抱きしめて》
「え?」
《抱きしめて。早く。私を抱きしめて》
「えーっと………」
《早く》
少しだけ膝を曲げて、脇の下から腕を通す様に抱きしめた。すると、本当に弱い力だが、中枢も抱き返してきた。突然のことで頭が回らなかったが、すごく、穏やかな心待ちになった。
《会いたかった》
「そ、そうか」
《………》
「………」
《………》フルフルフル
「中枢?」
《………》フルフルフル
「お前、泣いてるのか?」
顔が見えないため分からなかったが、小さな嗚咽と鼻をすする音が聞こえた。その時、どうしようもないほどに、中枢が生き返ったということに対する喜びが、間欠泉の如く沸き起こってきた。
「中枢………!」ギュッ
《ただいま………ミヤモト……》ギュゥッ
しばらく抱き合う内、中枢は手の力を緩め、袖で涙を拭いて改めてこちらを見た。
《私、貴方になんていえばいいか分からなかった。だって、凄く嬉しくて、凄く会いたくて、でも、凄く申し訳なかった。辛い目に遭わせてしまった…》
「それは、ヲ級や軽巡に言ってやれ。私は辛いなんて思ってないさ」
《でも……貴方は今だって、みんなのために頑張ってくれてる。ありがとうって言いたくて、でも、それだけじゃ、足りないの》
「いいさ。居てくれるだけでいい」
《ミヤモト……》
「さ、とりあえず2人にも報告しよう。ほら、手を貸すぞ」
言いかける中枢をよそに、中枢の肩に手を回して、ゆっくりと支えながら歩いた。華奢な身体だ。今は見た目通り虚弱な状態だから、なおいっそう優しく扱った。中枢は何も言わなかったが、私の服をギュッと掴むと、決して離さなかった。
軽巡とヲ級は、私たちを見た瞬間、まるでテーマパークに来た子供の様に、驚きと感動に目を輝かせて、そして次に来る喜びで涙を流した。中枢も泣いていた。私たちは、失ったものを取り戻すことができた。私は本当に、誰かを救うことができた。
《今日は宴よ!ヲ級、料理の用意を!》
《ヲ!》
「中枢、食べられそうか?」
《ええ。食欲はあるわ。お腹ペコペコ》
《任せて中枢!今日は軽巡特製スペシャルお刺身コースよ!》
「刺身しか作れないけどな」
《そうね、ふふふ》
《い、いいでしょ別に!》
幸せだ。
あの鎮守府にいた頃より、士官学校にいた頃より、黒崎の家に預けてもらっていた頃より、孤児院にいた頃より、つまりは人間だった頃より、私は今の私とその周りに対して幸せを感じていた。人間を辞めて良かった、というわけではないけれども、中枢たちといると、充足感と多幸感を得られるのだ。
無論、まだまだ助けなければいけない仲間たちがいる。そのためには並々ならぬ努力と継続が必要なのだろう。しかしそれを考えても気が滅入ることはなかった。むしろ、誰かを救うことができるということが、喜びであった。時には戦うこともあるだろう。それでもいい。私は、私にできる最大の力を、守りたい者たちのために使えることが、この上なく嬉しいから。
中枢を座らせて、軽巡たちの料理の準備を手伝うべく廊下を歩く。まだ静かなこの薄暗い洞穴も、すぐに以前の様に活気付くだろう。鎮守府と同じくらいの時間を、ここで過ごしている気がする。愛着………ある種の懐古心も芽生え始めた。ここが私の戻るべき家なのだと思える様になった。
洞穴を流れる海水が、いつになく平面に近しい落ち着きを持っていた。落ち着いた心を映すかのような様に、ついつい水面を覗き込んでしまった。
そこには、いつも通りの私の顔があった。顔も顎辺りまで痣が広がり始めているが、まだ髪は黒いままだ。瞳は赤いが特に支障もない。
「ん………?」
水面に滴がぽちゃりと落ちた。円形の波紋が広がり、やがて縁が弱々しく消えて行って、そして次の滴がまた落ちた。
一瞬、色が判断できなかった。明るさのせいだろうが、てっきり天井から落ちたものだと思った。しかしそれは、水面に映った私の顔を叩いていた。
水滴の中心から真っ直ぐ真上に手をあげると、私の口元に指先がぶつかった。指先には、はっきりと湿った感触が伝わる。恐る恐る、指先を見た。
「これは…………」
血だ。真っ赤な血。たまに来るあの吐血の症状が知らずうちに出てしまったのだ。
「まずいな……ごぶっ……!こんなところで……………」
痛みは耐えられる。しかし身体が思うように動かないのだ。まるで全身をテープで留められて動きを制限されたような感覚だ。血は喉の王からどんどん吐き出てくるが、意識ははっきりしている。つまり、身体だけがついてこれていないわけだ。
「(誰かに見られたら……どこか、部屋に……)」
《あっ、ミヤモトー。ちょうど良かった、料理を運んで欲しいのだけれど》
「(け、軽巡………)」
タイミングが悪いことこの上ない。無邪気に歩いてくる軽巡の手には皿(といってもただの平たい石とか金属片とかだが)に乗った料理があった。やはりただ魚を切っただけのものだった。
反応しようにも声が出なかった。止めどなく溢れる血は、呼吸も声帯の震えも止め、噴水の如く口からドバドバと流れ出た。
《ミヤモト?》
「…………」
《どうしたの?そんなところで蹲って……》
なんでもない、と無理矢理声を出そうとしたら、余計に血が塊のようになって出てきた。依然として苦しくはないが、ますます体の自由が利かなくなっていた。そして不思議と、眠たくたってきてしまった。
《………ミヤモト?》
「…………」
《あれ、ミヤモトの下のその染みみたいなやつは………》
「…………」
《……………ミヤモトッッ!!》
軽巡は血相を変えて、皿を落としたいるのも気にも留めずに急いで駆け寄ってくる。しかしその頃にはもう、私の意識は暗闇の中へと沈んでいった。
[同時刻]
〈大本営 元帥室〉
老人がここに1人。名を、坂下現十郎と言う。彼は現在、日本国海軍元帥であり、事実上の最高責任者ということになる。
歳は既に70を超えているが、豊かな白髪を後ろで一つにまとめて、同じく真っ白な髭を蓄えている。顔全体のシワは隠しようもなく、まるで彫刻刀で掘ったかのようだが、目つきだけは怪々として鋭かった。肌は薄黒く、シミだらけだ。日本人にしたは堀が深い顔立ちで、老いの中に未だ息を潜めている闘争心が感じられるオーラがある。それは表情だけでなく、体格からもわかる。一本の鉄の棒が入っているかのような背筋の良さと、腰は曲がることなく、やや反らすようにして常に胸を張っているかのような姿勢。老いた皮膚とは裏腹に筋肉だけは残っている腕や足。そして、おそらく軍部では唯一であろうが、常に帯刀している。
"何者も、斬れば死ぬ。己もお前も"
というのが、本人の格言であった。
元帥室に入った秘書兼護衛艦の香取は、刀の手入れを丁寧に行なっている元帥にやや緊張しながら、報告を始めた。
「元帥閣下」
「おお、香取か」
「はい。お忙しい中、失礼します」
「構わん。ただの日課だ。ああ、それより、この辺に、ペンのキャップ、落ちとらんか?」
「キャップ……ですか?」キョロキョロ
「ああ。さっき落としちまって、探そうと思ったら面倒くさくなってなあ。後ででいいや、と思ったんだんじゃが、ちょうど良い。見つけたら拾っといてくれ」
「……分かりました。元帥閣下、本日は大規模作戦について、報告がございます」
「なんだ、何かあったのか?」
「北方長官から、作戦の延期を要請されました」
「…………いつまでだ?」
「二週間です。どうやら、中継拠点にするための無人島に艦娘の残党がいたらしく、少々設営に手間取っているようでして」
「分かった。二週間後に延期の旨、各鎮守府に伝えよ」
「了解っ」
最近はほとんど若い連中に任せてるから、儂に言わずとも良いのに……。むしろ、そろそろ後継を見つけないといけないくらいの歳だから、いっそ邪魔者扱いされてもいいのだが。
坂下はぼんやりそう思った。年寄りは偉そうとか思う若い人もいるが、実際、歳を取りすぎるとプライドというものが希薄になっていく。こだわるものがなくなり、そしてただ老いて死を待つだけになる。野心も活力もない。後ろで飾られている日本刀も、もう何十年も振っていない。儂はもう老い果ててしまった。
「年取ったなぁ………儂」
〈北方海域 無人島〉
この世の損得は、全て、世界全体として一定であると、私は思う。
誰かが幸福になれば誰かが不幸になる。災難があったら救済もある。栄えれば滅びる。失えば手に入る。全てはどこかで辻褄が合う。
だから、きっと今の私も、そうなのだろう。
《ミヤモト》
「…………」
《一体いつから》
「…………」
《そんな身体になったの》
暗い顔を、皆している。俯いて、目元が見えない。誰も私の方を見ない。
「少し前からだ。たまにこういうことが起きる」
《やっぱりね……》
「…………やっぱり?」
軽巡は深くため息をついて言った。
《中枢が以前言ってたのよ。もし仮にこの人間の深海化が成功したとして、その後の健康状態が良好とは限らない。思わぬ後遺症が残るかも、ってね。何もないと思って考えないようにしてたけど………》
《…………》
「………そうなのか、中枢」
怒りを込めたつもりはない。ただ、蘇生という神の理に反することをした代償はあるのだろうと、それを分かっていたのだろうと思って、何気なく聞いた。
しかし、黙ったままの中枢にそう尋ねると、ポタポタと涙を流し始めた。
「え!?え!?」
《ちゅ、中枢……!?》
《ごめんなさい……グスッ……ごめんなさい……》
さらに謝り始めた。手で顔を隠して、肩を震わせて泣いた。
「おいおい、泣くことないぞ中枢。私は、よくわからんが、これも仕方のないことだと思ってるし、別になんとも……」
《違う違う違う!私が、私が下手なことするから、貴方はそんな体になってしまった……!貴方は人を辞めたばかりか、不完全な身体で復活してしまった………全て、私の不手際よ……》
「で、でも、それでも一応は生きてるわけだし…………」
《み、ミヤモト、それなんだけど……》
「え?」
《その……貴方は……もう長くないかもしれない………》
《グスッ……ヒック……グスッ》
「そ、それは……」
《肉体が深海化しても結局は人間。その代謝や衝撃、エネルギー消費には耐えられても限度がある。内臓といった比較的脆い器官からその負荷に限界がきて、やがて機能不全に陥り死に至る…………》
《嫌ぁ……嫌ぁ…………!》
「」
死ぬ、のか。
そのことはそれほどショックなものではなかった。一度死んだ身だからか軍人としての性質か、予め告げられた近い死に対して、これといった動揺や狼狽を起こすことはない。
むしろ心は異様に落ち着いていた。目の前で泣き続けている中枢より、当事者である私の方がひどく冷静な心持ちだった。当たり前のことが当たり前に起きる。頭の中でそれがよく理解でき、むしろ色々納得のいく回答を得られた満足感すらあった。
死ぬ。死ねるのだ。迷いに迷った私の生は、今度こそ確実に断たれる。どういう因果か延命された私の命は、とうとう黄泉に行くのだ。
「そうか」
《ごめんなさい。これだけは流石にどうしようもない。貴方を生かしてあげたいけど…》
「いいさ。どれくらいだ?3ヶ月くらいか?」
《その症状なら……うーん、前例がないから分からないけど、まだ吐血以外に異常がないから、大体半年くらいかしら。あまり言いたくないのだけれど》
「半年か。なるほど、上出来だ」
3人とも悲しみに打ち拉がれている。しかし当の本人である私は、奇妙なことだが、どこか愉快な気持ちであった。どこか不安に感じていたのかもしれない。この身体になったことを。そんな都合の良い話があるわけないと怯えていたのだろう。いや、最もふさわしいのは、彼女ら深海棲艦に対する後ろめたさだ。
私は軍人で、艦娘を指揮する提督だった。自ら戦地に赴かず、ただ執務室の椅子に座って命令を下すだけ。しかしそれは、間接的にであっても、深海棲艦を殺すことなのだ。実際に撃ち殺したり、斬り殺したりするわけじゃないから自覚がないだけで、ふと考えれば、私はれっきとした深海棲艦たちの仇なのだ。
なのにどうだ、彼女らはそんな私を知ってか知らずか、生き返られてくれた。敵である私を、人間であり私を、死の縁のそのまた向こうから呼び戻してくれた。いまだに、このことを素直に喜んでいいものかわからないが、しかし許されるなら純粋に彼女たちに礼を言いたかった。
一方で、感謝の気持ちとは裏腹に少しばかりの罪悪感もあった。のこのこと生き延びていることは、たとえ彼女らが仕組んだことだとしても、過去、深海棲艦を殺していたことがどうにも引っかかっていた。笑顔で対応し、飯を提供し、労働を提供し、居場所を与えてくれる彼女らに接するたび、息苦しさをなんとなく感じていたのだ。どうか、そんなに優しくしないでくれと、心の隅で願っていたのだ。
《ミヤモト、どこに行くの?》
「散歩だ」
《ミヤモト……》
《ヲヲ……》
《ちょ、ミヤモト!?》
死が迫る中、私はこの愉快な気持ちを大切にしようと思った。この月夜に私は、どうにも楽しくなってしまって、海原に踊りにでも行ってやろうかと思ったのだ。
[同時刻]
〈北方海域統括鎮守府〉
「作戦部隊の編成を確認する。旗艦、Roma」
「はい」
「littorio」
「はい」
「aquira」
「はい」
「加古(改二)」
「おう」
「古鷹(改二)」
「はい」
「初霜(改二)」
「はい!」
「以上6名、確認。それぞれ、何か問題がある者は?…………いないな。次、作戦内容の確認。本作戦は、例の無人島、"蟻塚"の奪還及び周辺海域の艦娘の撃破だ。蟻塚は我々にとっても、今後の大規模作戦にとっても重要な島だ。なんとしても、この戦いで奪い返すぞ」
「提督」
「なんだ、古鷹」
「今回の編成の理由をお聞かせ願いますか」
「いいだろう。前回の戦いから察するに、おそらく奴は近接戦に持ち込まなければ少なくとも攻撃を喰らうことはないと判断した。戦艦2隻と空母1隻、これは遠距離からの攻撃のためだ。重巡2隻に関しては、動けない戦艦たちの分、移動して戦う艦娘として配置した。軽巡を用いなかったのは、装甲の薄さと、対空が今回必要でないと判断したからだ。駆逐艦の初霜は、陽動役になってしまうが、艤装を軽く、速力の上がるものにした。被弾さえしなければ、問題なく戦えるはずだ」
「なるほど……、しかし提督、それなら空母の方々の方が、遠距離から安全に攻撃できるのでは?それに、動けると言っても私たち重巡の速力ではかえって被弾するかも……」
「空母に関しては、艦載機を飛ばすまでに時間がかかり過ぎるし、奴が対空射撃をしてこないとも限らない。軽巡や駆逐艦ではなく重巡を選んだのは、速力の問題ではなくあくまで装甲の問題だ。前部隊の話によれば、速さでどうこうできる相手ではないようだからな」
「分かりました。ありがとうございます」
「提督」
「どうした、初霜」
「陽動が私1人ですか?」
「………正直に言うと、そこが肝だと思う。初霜は基本的には何もしない。攻撃をするのではく、相手の気を逸らすために、素早く移動することに徹してもらう。武装もそのための囮のようなものだ。他の5人の攻撃のためにな。しかし、やはり不安か?」
「いえ、でももし私が被弾したらそれこそ一発で大破ですから、足手まといになってしまうのではないかと……」
「初霜、お前の過去の戦績はよく知ってる。性能云々もあるが、何よりお前は経験もあるし練度も高い。むしろ、駆逐艦ならお前以外に頼れる者はいないさ。今回の作戦は特にな」
「提督………わかりました。やってみます!」
「提督」
「なんだ、Roma」
「まだ夜ですが……夜戦ということですか?」
「いや、方角と時間から察するに、あの島に着く頃には朝日が昇るはずだ。まだ外は暗いが、風も波も穏やかだし、お前なら、もう目を瞑ってでもあそこまで行けるだろ?」
「いえ、作戦は日中でも良いのではないかと思いまして」
「夜の方が出くわす敵も少ない。暗いうちに移動し、明るくなった頃に奴を撃ち倒す」
「なるほど。了解しました」
敬礼をして、執務室を出たRomaたち6人は、いつになく無言のまま、兵装を身につけ、母港へと向かった。
彼女たちは皆この鎮守府では比較的高い練度の艦娘である。単純なステータスは勿論、経験からくる戦略の立て方や適応力も優れている。艤装も最高級のものを手配された。おそらく、幾度となく戦ってきた彼女たちの戦歴の中で、今回がもっとも良い状態にあることは間違いない。
しかし、彼女らの内面には拭い去ることのできないドス黒いシミが付いていた。それは、怯えきってしまったzaraたちを見た時についた恐怖であった。
『ざ、zara……?』
『はい、どうしました?』
『あー、いや、ちょっと様子を見に来たの。大破したって聞いたから心配でね』
『ああ……そうですか。全然、問題ないですよ!』
『そう?良かったわ。たしかに、顔色もそんなに……………』
『ええ。もうへっちゃらです!』カタカタカタカタ
『…………』
『…………』カタカタカタカタ
『…………』
『あ、あれ………』カタカタカタカタ
『…………』
『おかしいな……膝が……震えて……』カタカタカタカタ
『zara………』
気丈に振る舞うzaraの意思とは裏腹に、身体に覚え込まされた確かな痛みと恐れ。一同は、細胞レベルで染み付いてしまった敵に対する恐怖を、zaraの様子からありありと感じ取ってしまったのだ。火を見た時にその熱さを頭で再現できるように。誰が怪我したのを見て、自分にも同じ傷が出来た時のことを容易に想像できるように。
zaraとて未熟なわけではない。数々の任務をこなしてきたベテランだ。艤装こそ完璧ではなかったかもしれないが、ここまで追い詰められた彼女を見たのは、Romaたちにとって初めてのことだった。一緒に出撃していたRomaは、彼女の気持ちがよく分かったし、自分もこうなっていたのかも、いや、こうなっているのかもしれないと危惧していた。
沈黙を破ったのは古鷹だった。
「ね、ねえ…」
「どうしたの、古鷹さん」
「もし……もしさ、敵に遭遇しなかったら、そのまま帰っていいんだよね……?」
「……そうね。あの島さえ取り戻せばいいのだし、敵がいないならそれでいいはずよ」
「だよね!あ〜、どうか会いませんように…」
「古鷹、それフラグじゃねぇのか?」
「や、やめてよ!縁起でもない!加古だって見たでしょ?zaraさんのこと。どんな目に遭わされたか考えたら、怖くならないの?」
「そりゃまあそうだけど……けど、そう言ってなんだかんだ切り抜けてきたじゃねぇか、あたしたち。別に敵を侮るわけじゃないけど、なんとかなると思うぜ」
「そんな無鉄砲な……」
「初霜ちゃんはどう?やっぱり怖い」
「だだだ、だいじょじょうぶですすっ」
「どこがだ」
「littorio姉さん」
「何かしら?」
「主な火力は私たち戦艦だけど……何か不具合とかないですか?」
「問題ないわ。加古さんのいうとおり、くよくよしても仕方がないもの。緊張はあるけど、いつも通りの力を出すわ」
「分かりました。aquiraは?」
「問題ありません。良いコンディションです」
「分かった。初霜ちゃん、古鷹さん」
「は、はいっ」
「はははいっ!」
「みんながいれば大丈夫よ。いざとなったら帰還第一で、いつも通りやればいいの。何も初めての出撃じゃないんだから」
「………そうですよね!はい、大丈夫です!」
「は、初霜も、行けます!」
「加古さん、2人のこと、お願いね」
「りょーかい」
艤装と肉体の状態は特に問題なかった。稀有な編成であるが、自身の力を発揮できると誰もが思っていた。
しかしやはり気がかりなのは、たった一人で一艦隊を壊滅させた相手の戦力。Romaはともかく、他の5人は相手がどんな姿で、どんな攻撃で、どんな顔をして戦うのか、まるで分からないから、戦いの緊張は勿論、好奇心も無視できぬほどには抱いていた。
[数時間後]
〈北方海域 無人島近海〉
空が白んできた。朝日が水平線の向こうから頭を出して、水面の輝きがだんだんと強くなっていく。海鳥も飛ばず、風も穏やかだから、すごく静かな夜明けだった。この海域では四季がないから、それが季節によるものとは考えられないが、もし自分が平安時代の歌人であったなら、ここで一句読まないわけにはいかない、と思えるほど、趣のある夜明けだった。
日の反対方向では、薄れた夜空がかろうじて残っていた。この朝と夜の狭間が最も美しい。胸の内に新しい風が吹き込んでくるような、清々しい気持ちになる。充足感が景色の移り変わりとともに増していき、幸せが確かに感じられた。
「そうは思わないかな、艦娘諸君」
「………」
私は腹の底から景色にうっとりとしていた。しかし数刻ほど前に現れた艦娘たちは、歯牙にもかけずに私と対峙した。美しく穏やかな情景とは裏腹に、とても、緊張感の漂うムードになってしまった。
旗艦はこの間のRomaという戦艦だ。彼女は落ち着いた表情で、しかし無機質な視線で私をじっと見据えていた。それは、遠目からシマウマを追うライオンのような、確かな鋭さを持っていた。
「Romaさん、これが……」
「ええ。私たちが以前戦い、そして敗れた、深海棲艦よ」
「でも……お、男?」
「珍しい、というか、男の深海棲艦なんて聞いたことないわよ?姫級とも違うし…」
「新種、ですか?」
「分からないわ。でも、まるで人間のように振る舞う。言葉もかなり流暢よ」
ぶつぶつと小声で話している。こんなに美しい景色を前に、彼女らは殺す相手のことしか見えていない。
「今日も一人なのね」
「ああ。他の連中は皆、島にいる。私は少し夜空を眺めて、この明け方にこの感動を味わいに来たんだ。今、とても心が満たされているんだ」
「そう。是非とも私たちも幸せでありたいものだわ。今の貴方みたいにね」
「幸せになる方法なら沢山ある」
「そうね……。でも今回は、"貴方を倒して幸せになる"方法にするわ」ガチャ
「そうか……」
彼女たちはゆっくりと陣形を展開し始め、朝日に照らされた砲身を私の方に向けた。空母の子も、航空甲板に艦載機を構えて、臨戦態勢に入った。
私はこの時、深海化の影響が、思考にまで及び始めたのが分かった。眼前の敵を前にして緊張を覚えるどころか、どことなく楽しささえ感じ始めていたのだ。しかもそれは、戦うことに対してではなく、彼女らをこれからどうしてくれようか、という勝つことを前提とした想像に対してだった。
かつて、彼女ら艦娘と共に戦うことを誓い、確固たる意志と決意を持って軍服に袖を通した私は、今、深海化してしまったが故に、こうして争い合う関係になってしまった。私は深海棲艦になってしまった。なんという悲劇だ。なんという現実だ。私は、命がけで私の艦娘を守ったのに、まるで酷い有様だ。
しかしそんな真実とは別に、私の中で囁く者が、いよいよ私を支配しようとしていたのだ。今、ついに心までもが深海化しようとしているのだ。早く、早くこの艦娘たちを"ぶちのめして"やりたい!!そう、内なる私が言った。
「さァ………用意はいいか、艦娘ども……」
視界の隅で、軍服がドス黒く変色していくのが見えた。
ご愛読ありがとうございます!
病気には気をつけてね!
以上!
このSSへのコメント