2023-02-14 02:19:47 更新

概要

艦娘強化訓練島に登場する人物の、本編には描かれない物語を綴ったものになります。その人物の過去や為人を知り、本編をより楽しんでいただけると幸いです。


前書き

設定集に載せていたものを基に書き直しています。何故かと問われれば、思って以上に文字数が嵩張ってしまったから・・・。中には新作もありますので、どうぞごゆるりとお楽しみください。


護るべき者 ~黒霧茜~


小鳥の囀りと共に目を覚ます。

懐には心地好い温もり。

少し腕を曲げれば、掌に柔らかな髪が触れる。

身を捩り、両の手で懐に在る其れを抱き寄せれば、仄かに愛が薫る。

私の一日は、こうして幕を開けていた・・・。



おはよう、姉さん。


私が目を覚ますと、まず一番にその言葉が耳に届く。

そして、私が返事をする間もなく、温められた手拭が顔に押し当てられ、髪を梳かれる。

一寸の無駄もない動き。

何時からだったか、目を覚ます順番は逆転し、私は色々と世話を焼かれる立場になってしまっていた。

抗議の心算で、よく飽きないなと棘を刺してみるものの・・・。


姉さんの為だから。


この一言と、屈託のない微笑みで返されてしまう。


髪を梳かし終わり、寝間着を脱がせに掛かる弟を制しつつ囲炉裏の在る居間へと足を運ぶ。

途中で目に入る中庭には、丁寧に洗われ、美しく皺を伸ばされた衣が風に戦いでいる。

いったい何時に起きて朝支度をしているのやら。

本当に、飽きもせずよくやるものだ。


障子戸を開け、草織りの床敷に腰を下ろせば、質素な朝餉が運ばれてくる。

青菜のおひたしに川魚の塩焼き、わかめと豆腐の味噌汁に未だ湯気の立ち上る白飯、そして弟自慢の玉子焼き。

少し物足りないような気もするが、致し方ない。

午前には体術の訓練があるのだ。

満腹にしてしまっては身体を上手く動かせんからな。


姉さん、頬に米粒が付いてる。


そう言いつつ手を伸ばす弟。

親指が唇を掠め、白い粒を攫う。

・・・が、私がそれを許すはずもなく。

身を乗りだし、粒を攫った指ごと捕らえ、取り戻す。

一瞬、弟の動きが止まる。

唾液で湿った指先を見つめ・・・。

何事もなかったかのように食事を再開する。

私はそれを確認して再び朝餉に視線を落とす。

別に、拭われたところで何とも思わんのだがな・・・。


朝餉を食べ終え、そっと箸を置く。

今朝も美味かった。

口には出さないが、心の内でそう呟く。

弟は食器を下げ、土間に降り、私に背を向けて洗いものを始める。

瓶に溜めた水は清く澄んでいる。

きっと、今朝水汲みに行った許りなのだろう。

お前は本当に、何時に起きているだ・・・。


重い腰を持ち上げ、そっと土間に降りる。

気配を消すこともせず、弟の背後をとり、肩越しに腕を回す。

頬と頬が擦り合うまでに身体を押し寄せ、軽く唇を触れさせる。

少し、驚いた表情を見せたものの、弟は直ぐに口許を綻ばせた。


姉さん、苦しい。


・・・そう力を込めた心算はなかったのだがな。



ふたりだけの時間は過ぎ去り、兄弟姉妹が一堂に会する時が訪れる。

稽古の時間だ。


一撃の重みと手数の多さで圧倒する剛と、しなやかな体捌きで流れを支配する柔。

ふたつの型に分かれ、まずは基本の動きを確認する。

そして実戦訓練へと移る。

能力の使用を禁止した、純粋な体術勝負。

私は、ただの一度も敗北を喫することはなかった。


姉さんには敵わないな。


組み手が終わると、弟は何時もそう呟く。

一滴の汗も浮かべぬ、涼しい表情のまま。

確かに私は誰にも負けたことがない。

弟は私以外の誰にも負けたことがない。

その言葉に嘘偽りはない。

ないはずなのだが、どうしても考えてしまう。

私を護る為に、演技をしているのではないか・・・と。


前々から違和感はあった。

他の連中と組み手をしている時の動きと、私の相手をしている時の動きが明らかに違う。

弟は間合の内側の、更に内側に在る隙で仕合うことを得意としている。

遠ければ拳は届かないが、近すぎてもまた充分な威力を発揮することはできない。

そういう領域に在って猶、弟は全力を打ち込んでみせる。

一切の自由を許さず、無慈悲に、傲る者共の腰を砕いてみせるはずなのだ。

しかし、私の時は・・・。


一度、問い詰めたことがある。

だが弟は・・・。


流れを支配するのが柔なら、剛は堤防の外を流れる河。

水嵩を増した暴れ河は、時として流れを制すはずの堤防を破壊してみせるでしょ?

姉さんと僕の力関係は、丁度その暴れ河と堤防の関係と同じだよ。


本当に、そうだろうか・・・。



日も傾き始めた夕刻。

涼風の吹き抜ける竹林に静かな殺気が漂う。

笹の葉の擦れる音だけが響き、殺気が揺れる。

肌を刺す感覚。

それと同時に苦無が飛び、頭蓋に迫る。

刹那、苦無は弾け、宙を舞う。

とすっ。

苦無は大地に突き刺さり、再び静寂が訪れる。

また、殺気が揺れる。

苦無が飛び、弾ける。

その単純な動作が延々と繰り返される。


何をしているのかといえば、殺気を読む訓練だ。

暗殺を生業とする黒霧が暗殺されるなんて莫迦な話はない。

本当に殺す心算で投げられる苦無を素手で弾き飛ばす。

当然、多少の傷を負うことになる。

下手をすれば、指の何本かは失うことになるかも知れない。

・・・が、私達は心を乱さず、淡々と飛来する苦無を弾き続ける。

動きを鈍らせる恐怖に、一瞬の隙を生む痛みに打ち勝つ為に・・・。


また傷だらけ。

姉さん、態と傷付く弾き方をしてるでしょ。

駄目だよ?女性が自分の身体に傷を付けるような真似をしちゃ。


無数の紅い線が刻まれた私の手に包帯を巻きながら、溜息混じりに弟が諫める。

あの訓練は傷を負う痛みに打ち勝つ為のものだろうに・・・。


その苦無に毒が塗られてたらどうするのさ。


・・・その可能性があったか。

それから私の手に紅い線が刻まれることはなくなった。



陽光が烏羽玉の夜闇に沈み、月光が大地を照らす頃。

湯煙の奥に揺れるふたつの影が在った。

小さな腰掛けに座った姉と、その後ろに膝立ち背中を流す弟。


この傷、まだ消えないね。


そっと、弟の手が背中の古傷に触れ、一瞬身体が跳ねる。

別に痛みがあったわけではない。

ただ、其処に触れられると、どうしても心が反応してしまう。

私の背に刻まれたこの傷は、私が大切な者を護りきれなかった証だから。



遠い昔の話だ。

私達がまだ養育舎に居た時のこと。

弟と私はよく里の外れに在る森で遊んでいた。

花を摘むでもなく、探険をするでもなく、ただただふたりの時間を過ごす為だけに森へ。

そして、魔獣に出会してしまった。

まだ幼かった私達では魔獣を倒すことなどできるはずがなかった。

だが、弟をこの森まで引っ張ってきたのは私だ。

私の勝手で弟に大怪我をさせるわけにはいかなかった。


弟の手を引き、全力で森を駆ける。

木々の間を摺り抜け、魔獣の進行を阻む障害の多い進路を選び・・・。

而して、そんなもので魔獣の進行は止められなかった。

倒木は飛び越え、立木は薙ぎ倒し、執拗に私達の後を追ってきた。

次第に近くなる魔獣の息遣い。

大地を踏み鳴らす振動をその身体に感じつつ、私達は駆けた。

そして・・・。


ふと、黒い影が足許を覆った。

弟の手を引いていたはずの左手が軽くなる。

踏み出した脚に力を込め、身を捩り、振り返る。

視界に飛び込んできたのは、両の腕を広げ、私を押し倒すように突っ込んでくる弟と・・・。

その背後で、鋭い爪を剥き出した腕を振り上げる魔獣の姿だった。


魔獣の腕が振り下ろされる。

鈍い音と共に血飛沫が舞い、吹き飛ばされる。

背中に鈍痛が走り、直後、鋭い痛みに襲われる。

どうやら木の枝に引っ掻けたらしい。

骨も折れているだろう。

身体が上手く動かせない。

まるで、誰かが私に覆い被さって、起き上がる動作を邪魔しているかのよう・・・。

視線を落とせば、其処には・・・。

弟"だったもの"が居た。



私の記憶はそこで途切れている。

その後、私達がどうやって助かったのか、私は知らない。

ただひとつ確かなのは、私達がまだ生きているということだ。

この腕の中に感じる温もり。

弟は確かに生きている。

あの時に感じなかった心音も、はっきりと聞こえている。

もう二度と、離してなるものか。


姉さん、あんまり抱き締められると息ができないよ。


・・・すまん。



弟を胸に抱き、その温もりを感じながら瞳を閉じれば、また朝が来る。

昨日と同じように始まり、きっと同じように終わる今日がやってくる。

其処には私の護るべき家族が居て、愛すべき者が居て・・・。

私が生きている意味を思い出させてくれる。


そういえば、何時か見た弟の背中は綺麗だったな・・・。



・・・護るべき者


育む心 ~黒霧神命~


心。

それは生物の生物らしい感情。

喜び、怒り、哀しみ、楽しみ。

それだけに留まらず、生き物は様々な感情を有している。

感情が豊かであること。

それはきっと、生物の自然な姿であり、在るべき姿なのだろう。

而して私達は・・・。

暗殺を生きる糧とする私達は、その姿を否定する。



うげ、またあの人とだ・・・。


声に出さない代わりに、思いっきり顔に出して不快を示す。

私はこの時間が嫌いだ。

別に体術の稽古自体が嫌いなわけじゃない。

寧ろ好きなくらいだ。

それでも私は目を細め、眉間に皺を寄せる。

だって、稽古の相手が"あの"時雨兄様なんだもの。


一口に組み手と言っても、その戦法は人に因って全く異なる。

力でねじ伏せるような人も居れば、相手の力を利用して手玉に取るような人も居る。

で、兄様はと言えば・・・。

場の全てを支配する。

そんな闘い方をする。



さてと・・・。


ふぅ、と一息。

軽くを瞳を閉じ、ゆっくりと視界を広げていく。

顎を引き、腰を落とす。

重心は前に・・・。


左脚に力を込め、踏み締める。

一気に距離を詰め、上半身の捻りを加えた渾身の一撃を放つ。

刹那、右の拳が捉えるはずだった顔面が迫る。

勢いそのままに左膝を跳ね上げる。

内腿に掌が触れ、軌道を逸らされる。

更に迫ってくる、整った顔。

その瞳は紅く煌々と灯り、一刹那の間さえも、その灯が瞼の奥に還ることはなく・・・。

普段は決して開かれることのない唇からは白い歯が覗いている。


間合を取ろうと重心を後ろに移したが最後。

鼻先が触れる程に肉迫した兄様の圧に押され、股の間にねじ込まれた脚に体勢を崩され、無様に尻を着いて終わる。

攻撃らしい攻撃は一切ない。

私はただ、脚を引っ掛けられて転んだだけ。

ただそれだけのはずなのに・・・。

不敵な笑みを浮かべて私を見下ろすこの人に、勝利する未来が視えない。


嗚呼、きっと私はこの人を見上げる許りなんだ・・・。


もう何度、そう思ったことだろう。

私はそっと視線を落とす。


兄弟姉妹の中で、兄様に組み手で勝てる者は茜姉様しか居ない。

他の者達は皆、私と同じ様に無様な負け姿を曝している。

同じ始祖の血を引いているはずなのに、どうしてこう差がついちゃうのかな・・・。

最強と最凶の姉弟を眺めながら、ふとそう思う。


難しい顔して、どうしたの?


聞き慣れた声に視線を向ければ、其処には末っ娘同盟の相方が居た。


神命にそんな顔は似合わないって。

ほら、笑ってごらん?

こう、にーって。


人差し指で口角を持ち上げる彼女。

普段は不気味な笑い方しかしないくせに。

こういう時の彼女は本当に可愛い。

思わず、笑みが零れる。


あー!今、私のこと莫迦にしたでしょ!


そんなことはない。

ただ素直に可愛いと思っただけ。

でもまぁ、ほんの少し、阿呆っぽいとも思っちゃった・・・かな。


いいよ、もう!

次、私の番だから行ってくるね。

折角この私が励ましてあげようと・・・。


拗ねてしまったらしい彼女は頬を膨らませ、ぼそぼそと口籠もりながら行ってしまった。

最後のほうは上手く聞き取れなかったけれど、私を想ってしてくれたということは判った。

私は幸せ者だ。

こんなに好い姉・・・妹?

どっちだろう・・・。

まぁ、いいや。

こんなに好い家族を持てて、本当に好かった。

自然と緩む頬そのままに戦場へと赴く彼女の背を望む。

柔術の達人でもある彼女と相対するのは、"あの"時雨兄様だ。



何、その顔。

戻ってくるのが早いだろって言いたいの?

仕方ないじゃない。

最凶の黒霧が相手なんだから。


いや、知ってたよ?

戻りが早くなることくらい。

でもね。

まさか組み手を始める前に降参して戻ってくるとは思わなかった。


流石は自称"勝てない勝負はしない主義"の彼女だ。

きっと姉様との仕合も放棄しているのだろう。

黒霧最強の双子とは別の意味で敗北を知らない彼女である。


で、神命は何を悩んでるの?


悩み?私が?

そんな莫迦な。


ごめん。

言い方を変えるね。

今、何を考えてた?


お腹すいたなって。


その発言の後、組み手で彼女に虐められました。



夜、森の奥に在る温泉に浸かりながら思う。

私と兄様は何が違うのだろう。

性別なんて判りきったことは別として、同じ黒霧に生まれた私達の間に、いったいどれだけの差があるというのだろう。

それはもう、嫌というほど見せつけられてきた。

少し気持ち好くなるくらいに思い知らされてきた。

それでも、それでも私は、諦めたくなかった。

背中を追いかけるだけだなんて、つまらない。

私は、兄様の隣りを歩いていたい。

嗚呼、胸の奥がぽかぽかする。

悔しさとは違う、この気持ち。

この気持ちはいったい何なのだろう・・・。



あ、おかえり~。

随分と長湯だった・・・て、顔真っ赤じゃん。

さては寝落ちして逆上せたな~?


判ってるなら早く冷やすもの持ってきてくれないかな。

割と余裕ないから。


うわ。自分の不注意でそんなことになってるのに人を動かすんだ。

神命のくせに生意気なっ。

時雨兄にお持ち帰りされてくればよかったのに。


そんなことを言いつつも、頼まれる前に動き始めているあたり彼女は優しい。

最後に気になる科白があったけれど・・・。

スルーの方向でお願いします。


今日、茜姉が任務で外に出てるでしょ。

そういう日はさ。

時雨兄、あのお風呂に入りにくるんだよね~。

それで一睡もせずに茜姉の帰りを待ってるんだよ!

あはぁ。健気可愛いよぉ、時雨兄・・・。


恍惚とした表情を浮かべ、此処ではない何処かを見つめる彼女。

何故、彼女がそんなことを知っているのかは聞きたくないから無視するとして・・・。

どうやら私は兄様に裸を見られてしまったらしい。

それも、一番無防備な寝姿も併せて・・・。

はぁ。今の私なら額でお湯が沸かせそうだ。

明日、どんな顔をして兄様に会えばいいのかな。



私が何を思おうと、陽はまた昇る。

その歩みを止めようと、時は流れ続ける。

覚悟を決め、稽古場の戸を開ける。

姉様とふたり、誰よりも早く其処に居て、稽古をしているはずの姿が・・・無い。

やっぱり、嫌われちゃったかな・・・。

そう・・・だよね。

人の気配にも気付かないで、無様な寝姿を曝してた私のことなんてっ・・・。

肩を震わせ、込み上げる涙を必死に堪える。


どうして、かな。

悲しみが溢れて止まらない。

涙が、堪えきれない。

私は、兄様にっ!


あー、やっぱり居ないね。

時雨兄と茜姉。

ま、徹夜明けで稽古になんて来ないよね~。

今頃、茜姉の膝枕でぐっすりなんじゃな~い。


その日の私は、過去最高に荒ぶっていたらしい。



月明かりが森の闇を照らす頃。

心を痛めた私は性懲りもなく因縁の湯治場へと赴いていた。

此処は傷付いた肉体を癒やす為の場所。

決して心を休める為の場所ではないけれど、湯に身体を預け、星々の煌めく夜空を見上げていると妙に落ち着く。

森の奥地、誰も寄りつかないような所に創られた、小さな小さな温泉。

川の清水を引き、薪を燃やして湯を沸かし、絶妙の配合で清水を混ぜ、適温にしている。

誰が創ったものなのかは知らないけれど、私はこの場所が大好きだ。

夜の闇が導く微睡みの中、そんなことに思いを馳せていた。



あれからどれだけの時間が経ったのか。

薪の纏う焔の勢いは未だ衰えず、心地好い温度を保っていた。

首筋を圧迫され、若干酸欠気味の不確かな意識のまま、視界を広げていく。

無数の灯火が瞬いているはずの頭上には、美しく煌めく、ふたつの紅い宝玉が覗いていた。


・・・兄様?


宝玉は揺れ、くすりと艶やかな唇は微笑む。

嗚呼、またやってしまった。

温泉の其れとは違う熱が私の身体を蝕んでいた。


柔らかな手が髪に触れ、そっと私の頭を持ち上げる。

恥ずかしがる私を気にも留めずその距離を詰めてくる。

水面が揺らぎ、腰が触れる。

肩を抱かれ、優しく、でもほんのちょっぴり強引に抱き寄せられる。

兄様の右胸と私の背が重なり、兄様の首許を枕に、しなだれかかる形になる。

いったい何が起きているのか。

この時の私には理解できなかった。

だって、特に接点があるわけでもない兄様と一緒に湯船に浸かって、更には抱き寄せられているのだから。


温かい・・・。


どうしてこんなことになっているか、そんなこと私には判らない。

だけど、この時間は悪くない。

胸の奥がぽかぽかする。

嗚呼、この幸せな気持ちを何と呼べばいいのだろう・・・。


私はまだ、その答えを知らない。



・・・育む心


小さな一歩 ~黒霧日陰~


月明かりの差し込む寝室。

冷たい夜の空気が肌を刺し、人肌の温もりをそそる。

感覚の薄れゆく手指をきゅっと握りしめ、ちらと正面を見やれば優しく微笑む彼が居る。

目尻の力が抜け、何か微笑ましいものを見ているかのようなその表情。

それを見る度に私は、強く唇を噛みしめる・・・。



ひとりで寝るには些か大きな敷き布団の上。

正座して向き合うふたりの男女は、一向に近寄ろうとしない。

女は肌寒さと緊張でその身を震わせ、男はそんな女を眺めて愉しんでいるよう・・・。

意を決し開かれた口から漏れ出るのは言葉になり損ねた空気許り。

また口を閉じる度、女の瞳は涙で潤む。


嗚呼、どうして私は・・・。


口の中に血の味が広がる。

視界が歪み、頬を熱い雫が伝う。

止めどなく、溢れ続ける。

最早女は為す術を持たず、徒に雫を流す許り。

それでも男は動かず女の醜態をただじっと見詰めている。

自分にはどうすることもできない悔しさと、慰めてもくれない彼への怒り。

感情は更に昂ぶり、堪えきれない嗚咽が洩れていく。

夜の静寂に沁みていく・・・。


一頻り泣き終えた後、再び夜の静寂がふたりを包む。

而して、今度は少し違う。

女の長い溜息の後に言葉が紡がれる。


時雨兄のば~か。


ただ一言。

静寂にだって呑まれてしまいそうな、小さな一言。

それでもその一言がふたりの時を動かす。

これまで微動だにしなかった男が、やっと距離を詰めてくる。


女は男の胸に顔を埋め、男は女を優しく抱き寄せる。

そのままふたりは布団へと身を沈め、女はその時を待つ。

高鳴る鼓動、熱を帯びる頬。

己の中に眠る乙女らしさに気恥ずかしさを覚えつつ・・・。

女は、朝を迎えた。



小鳥の囀りも未だ聞こえない早朝。

朝露を帯びた空気が優しく肌に触れる。

背中に回された彼の手を解き、ゆっくりと身体を起こす。

傍らで寝息を立てる彼の安らかな寝顔とは裏腹に、私の心は少し・・・ざわついていた。



太陽は巡り、再び夜は訪れる。

今日こそは・・・!

そんな想いを胸に、私は彼と向かい合う。

ただ、気になることがひとつ・・・。

どうして、布団がひとり用の大きさになっているのだろう。

そして何故、背後の壁際にもうひとつ布団が敷かれているのだろう・・・!

私をじっと見詰める彼の瞳が、何だか恐い気がした。


時雨兄・・・?


静寂に消えゆく儚い声に、彼は応えない。

拳ひとつ分の距離を詰め、ただじっと私を見詰める。


か、かくぎゅ・・・。

覚悟は、できてる・・・から。

優しく・・・。


それは何の恥ずかしさか。

耳まで真紅に染め、上目遣いにぼそぼそと言葉を紡ぐ少女の勇気など気にも留めず・・・。

彼はじりじりと距離を詰めてくる。


な、何か、喋って・・・!


涙を押し止める堰は決壊寸前。

それでも彼は何も言わず、私から瞳を逸らさず、ゆっくりと距離を詰めてくる。

而して、私達の間に空いた距離が変わることはなく・・・。

とんっ、と背に壁が触れる。


嗚呼、時雨兄は始めから、こうなると判って・・・。


部屋の中央から端まで追いやられて猶、私は敷かれた布団の上に居た。

口では覚悟を決めたなんて言っておきながら、本当は全然・・・。

だけど、もう逃げ道は無い。

今度こそ・・・。


月明かりに晒され、体温を奪われた冷たい手が髪に触れる。

耳を掠め、頬に触れ、そのまま・・・唇が重なる。

・・・なんてことはなく、昨日と同じ様に、胸に抱かれて夜を明かした。

そう、昨日と"同じ"様に・・・。



仄に白む暁の空。

頭上で寝息を立てる彼の体温は、未だ少し低い。

頬で感じる心音はゆっくりと静かで、鼓膜に響く鼓動は激しく喧しい。

身を捩り、目線を上に向ければ、其処には美麗な顔が・・・。

鼻先が触れるくらい近くに・・・。


綺麗なものは少し遠くから眺めるに限る。


私は、そう強く思った。



三日目の夜。

寝不足で意識が朦朧とする中、大きな布団の上でまた彼と向き合う。

何故か、手を繋ぎながら・・・。

それも恋人繋ぎ・・・。

悪い微笑みを浮かべて、彼は私を見詰める。

そして気付く。


逃げ道が・・・無い!


緊張で全身が強張る。

繋がれた左手に力が入り、彼の眉がぴくりと動く。

手汗をかいていないことがせめてもの救いだ。

多汗症じゃなくて本当に良かった!


激しさを増す拍動が鼓膜を劈き、瞳は忙しなくぐるぐると回る。

聴覚も視覚も、最早失われてしまった。

そんな中で外界の情報を伝えてくれるのは、触覚許り。

膝に硬いものがぶつかり、髪は優しく梳かれ、頬に冷たい掌が触れる。

頬を撫でる其れは次第に位置を下にずらしていき、指先が首許に掛かる。

掌底で顎を持ち上げられたなら、其処には彼の顔が在る。

ゆっくりと近づいて、ふたりの距離は限りなく零になる。

触れ合ったのは・・・鼻先と額。

彼は瞳を閉じたまま、両の手を私の頬に添える。

優しく、包むように・・・。

夜が明けるまで、ずっと・・・。



朝になり、漸く私を解放してくれた彼の瞳は、何処か寂しそうに見えた。

こんなにも近くに居るのに、心は遠い・・・。

こんなにも歩み寄っているのに、最後の一歩を踏み出してはくれない。

彼の寄り添い方にも随分と問題があるように思うけれど。

私は何も返せていない。

一度だって、応えられていない・・・。


何と言うか。

終わってみれば、どうしてあんなことをしたんだろうと後悔すること許りだ。

もっとこうすれば良かった。

こう返せば良かった。

考え始めるときりがない。

だけど、あの時に一歩踏み出したことは・・・。

飛び込んでいったことだけは、後悔しない・・・絶対に。


彼の瞳に感情が宿る瞬間を見たあの日。

私は彼の胸に飛び込み、ふたりの距離を零にした。


時雨"くん"の、ば~か。


その言葉と、ぎこちない笑顔を添えて・・・。



・・・小さな一歩


憧れ仄か ~黒霧仄~


禁足地・・・。

それは、様々な理由で特別な者以外の立ち入りが禁じられた場所。

この黒霧の里にも、そういった場所が存在する。


ひとつ、黒霧の子供達が暮らす養育舎。

世話役を除く大人の立ち入りが禁じられている。


ひとつ、里の外れに在る森。

養育舎に属する子供の立ち入りが禁じられている。

但し、大人の同伴がある場合はその限りではない。


黒霧の里に存在する禁足地が禁足地たる所以は一部の者しか知らない。

だからこそ、根も葉もないような噂話が何処からともなく広まっていく。


親と子を引き離すのは、たとえ肉親を暗殺することになっても躊躇わず任務を果たせるようにだとか。

森に子供が入ってはいけないのは、嘗てその場所で魔獣に殺された子供が居たからだとか・・・。


今更、その真偽を確かめたいとは思わない。

禁足地となっているからには、それなりの理由があるということに間違いはないのだから。

その理由が何かは判らずとも、其処に立ち入れば良くない何かが起こることは判るのだから・・・。


而して私は、里の外れに在る森の中に居た。

大人の同伴もなく。

でも、独りではない。

茂みを挟んだ向こう側には、一際美しい瞳をした姉弟がじゃれ合っている。

私はそんなふたりをこっそりと眺めていた。


ふたりの間で、幸せそうに笑う自分を想像しながら・・・。



・・・憧れ仄か


孤高の代償 ~久遠真宵~


久遠の一族は何よりも崇高なる孤独を重んじる。

人は其れを孤高と言った。

目的を持ち、敢えて独りになることを選ぶ。

人が離れていくのではない。

自ら離れていく。

それが孤独と孤高の違いだ。

而して、独りであることに変わりはない。

ただ独りになるだけならばいい。

だが、久遠の掟は違う。

血の繋がりさえも絶ち、真なる孤高を求める。

俺はこの掟が大嫌いだ。



久遠の一族には巫山戯た掟が幾つかある。


一つ、孤高を重んじる事。

一つ、他の一族と無闇に関わらぬ事。

一つ、久遠は魂で繋がる一族である事。

一つ、久遠はひとつの時代にひとりである事。


訳するに・・・。

崇高な目的の為、敢えて孤独を選びなさい。

一族の問題に首を突っ込むものではありません。

子供をつくってはなりません。

親族を持ってはなりません。早々に排除しなさい。

・・・と、そんなものだ。


代々の久遠達はこの掟を遵守し、転生を繰り返すことで魂を受け継いできた。

だが、魂の転写は完全には行われない。

回数を重ねる毎に魂の情報は欠落していく。

魂の記憶、人格、情愛、信念・・・と、挙げだしたらキリがない。

久遠は崇高な目的の為に孤独を選ぶと言うが、崇高な目的とは何だ?

嘗ての久遠達は、其れを憶えていたのかも知れない。

而して俺は、その一片だって憶えていないのだ。

ならば俺が敢えて独りの道を選んだとて、果たしてそれは孤高と言えるだろうか。

言葉にするまでもない。

答えは、否だ。


それをもっと早くに気付くべきであった。

自身が久遠であると自覚した時、俺の頭に或る言葉が響いた。

"崇高なる孤独"。

その言葉に促されるがまま、俺は動いてしまった。



里に響く、怒号と悲鳴。

舞う血飛沫と滴る涙。

俺はその光景を忘れない。


命とは何と脆いことか。

少し手に力を込めるだけで、肉は捩れ、骨は砕け、その瞳は絶望と恐怖に染まっていく。

恐ろしいものだな。

重力を操る俺には、命が失われていく感覚が残らない。

どれだけの生命を潰しても、その感覚が俺の身体には残らないのだ。

きっと俺はこれからも多くの生命を潰すのだろう。

この身体に、その罪を刻むことも無いままに・・・。



里に静謐が訪れた。

残る生命はひとつだけ。

久遠が魂の依代となった、この肉体を産み落とした者だ。

そいつはじっと俺を見詰めていた。

命乞いをするでなく、喚き散らすでなく。

真っ直ぐ、俺を見詰めていた。


手に力を込める。

白く細い身体が浮き、骨が軋む。

一瞬、そいつの表情が歪んだ。

脂汗が滲み、必死にぎこちない微笑みをつくっている。

自分を殺そうとしている者に向かって。


私ね。

気付いていたの。

あなたの中に、私の知らない誰かが居ることに・・・。

だって私は、あなたのお母さんだから。


こうなってしまうことも、判ってた。

皮肉なものね。

占いで一族が滅んでしまうことが判っているのに、自分達の占いに絶対の自信があるものだから、それを受け入れるしかないなんて。

一族の矜持に縛られて、良いことなんて無いのよ・・・。


あなたにも、あるんでしょ?

あなたを縛っている何かが。

そうでなきゃ、あなたがこんなことをするはずがないもの。

絶対に・・・。


だってあなたは、そんな子じゃないから。

そう・・・信じてる。


過ぎたことは変えられない。

どれだけ後悔しても、失ったものは還らない。

私達、占樹の一族は滅びの運命を受け入れた。

あなたは、殺戮の未来を選んだ。

選んでしまった。


あなたは、私を殺す。

殺さなければならない。

あなたには、この運命を選んだ責任があるから。


最後に、私を母と思ってくれるなら、聴いてほしい。


これからはあなたの信じる道を往きなさい。

誰に決められたものでもない、あなた自身が選んだ道を・・・。



其れが、母の遺した最期の言葉だった。



・・・孤高の代償


海鳴の悪夢 ~近衛東~


薄暗く、小さな空間。

子供が脚を折りたたんでやっと入れるような瓶の中。

其処で俺は読書に勤しんでいた。


遠くに潮騒の音色が聞こえる。

こう単調な繰り返しの旋律を耳にしていると、心が落ち着く。読書が捗る。

潮騒に混じって、砂浜を駆ける足音が聞こえる。

その音を奏でるのは見た目麗しき少女達。

ただそれだけが、俺の心をざわつかせていた・・・。



此処は海鳴の里。

海生生物と心を通わせる、海鳴の一族が暮らす絶海の孤島だ。

島の殆どが砂地で、海抜高度などあってないようなもの。

島の中心部にまで海水が入り込んでしまっている。

刻一刻と島の形状は変化し、一瞬たりとて同じ表情を見せることはない。

その在り様はまるで海鳴の少女達を見ているかのようだ。


海鳴の一族は、魔族の中でも珍しい生態を持つ一族で老化の概念が無い。

而してそれは不老というわけではなく、非常に短命というだけのこと。

彼女達の平均寿命は二十歳。

記録として残っているものでいうと、最も永く生きた者で二十七歳だったか。

何でも、死するその瞬間まで美しく在りたいという始祖の願いを叶えた結果、そうなったらしい。

命短し恋せよ乙女。

彼女達は正しくその言葉を体現する存在だ。



これまで俺は海鳴の一族を"彼女達"と称してきたが、その通り海鳴の一族には男性という性別が存在しない。

それでいて彼女達は短命。

ならばどのようにして血脈を紡ぐのか。

此処は絶海の孤島。

見渡す限りの水平線に陸の面影は無い。

となれば、自ずと答えは導かれるだろう。

そう。彼女達は、海の男達を拐かし、強引に契るのだ。


海鳴の里に足を踏み入れたが最期。

此処から無事に逃げ延びた男は居ない。

次から次へと種を仕込まされ、終には尻の下で命を燃やし尽くすことになる。

だからこうして俺は終わることのない"おにごっこ"に精を出す羽目になっているのだが・・・。


東ちゃん、みーつけた。


俺の終わりも近いかも知れないな。



ところで、何故俺が海鳴の里に居るのかといえば。

別に拐かされたからではない。

勿論、自分の意志でこんな所にやってきたわけでもない。

"修行"の為に"流され"てきたのである。


海鳴の一族と近衛の一族は、実は友好関係に在る。

何故って・・・?

そんなことを俺の口から言わせる心算か?

子種を求める海鳴の女。

精を持て余した近衛の男。

ここまで言えば充分だろう。

要するに、そういうことだ。


この場所で俺に課された使命はふたつ。

ひとつ、魔力操作を上達させること。

ひとつ、女性潔癖を直すこと。


その生態故に、性への飢えが悪目立ちしている彼女達だが、魔力操作の腕は本物だ。

師事する相手として申し分ない。

実力だけを見れば・・・。


そもそもの話。

近衛の一族がもう少し真面目な連中だったなら、俺はこんな所に来ずともよかったのだ。

魔術を教えられる者さえ居たならば、今頃・・・。

いや、それを考えるのは止しておこう。

近衛に残ったところで、追いかけられる相手が海鳴の少女達から、頭のおかしい姉に変わるだけな気がするからな。


少し、近衛の一族について話をすると。

近衛は、怠惰を司る悪魔を始祖に持つ、謂わば優良な血統魔族だ。

恵まれた体格と非凡な才覚、あらゆる物を武具として使いこなす器用さを備え、白兵戦に於いて無類の強さを誇る。

而して魔術は凡庸以下で、とても実用できる段階に達していない。

生まれ持った魔力量自体は比較的多いというのに・・・。


近衛で魔術が普及しない原因はひとつ。

始祖から受け継いだ怠け癖の所為か、努力をしないからだ。


肉体を資本とするものは、競技も含め、生まれ持った才覚が努力を上回ることが多々ある。

而して、頭脳を資本とするものは違う。

より努力をしたほうが勝つ。

如何な場合に於いても、これが覆ることはない。

何故なら、努力を積み重ねた先にのみ閃きは舞い降りてくるからだ。



魔術とは理論だ。想像は魔法だ。

昔、何処かの誰かが言った気がする。

この世界が定義するところの魔術は、魔力を糧にして世界の理に干渉する術全般を指している。

言の葉を鍵として、魔術式を構築。

世界の理を書き換え、不自然な現象を引き起こす。

そこには美しい式が在り、整然とした理論が在る。

想像しただけで事象を改変できるような便利な魔法は、残念ながら存在しない。

魔術を修める者は皆、試行錯誤し、永劫とも思える時の回廊を彷徨いながら、魔術式を編んでいく。


世界は式で溢れている。

風が吹く。波が寄せる。日が昇る。

自然な事象の中にも必ず理論が在る。

其れを紐解くものこそ式であり、自然現象を自然たらしめるのも式である。

大分堅い言い方になってしまったが。

要するに、式さえ把握してしまえば、どんな現象でも再現することができるということだ。

新たな式を編み出せば、新しい現象を生み出すことすらできてしまう。

どうだ。わくわくしてくるだろう?


俺は、このことを海鳴の一族から教わった。

その序でに、"能力"と"魔術"の概念についても教えられた。

何でも、特殊な式の編み方をするものを区別して"能力"と呼ぶのだそうだ。

また"能力"の中でも、家系的に得意とされるものを"家系能力"、個々人が得意とするものを"個人能力"というのだとか。

要は、呼び方が変わっただけで中身は変わりないということだ。


"能力"も"魔術"も、同じ魔術式に因って理に干渉するもの。

・・・ということは、他人の能力も魔術式さえ把握してしまえば、誰だって真似ることができるわけだ。

而して、そう甘いものでもないらしい。

能力とは、特殊な形で魔術式を編む魔術だ。

その殆どが言の葉を媒介せず、式を編んでしまう。

例えば、記憶の中に刻んでしまう。肉体に刻印する。遺伝子情報としてゲノムに刻む・・・等々。

そういったものは例外的に、他の誰にも真似できない"秘術"と位置付けられている。


海鳴の一族が家系能力"海鳴"は、海生生物との意思疎通を図る能力だ。

対象の持つ魔力と波長を合わせ、思念を伝達する。

謂わば、テレパシーのようなもの。

これの難しいところは、個体毎に保有している魔力の波長が異なるところだ。

思念を伝達するにはまず、その対象が持つ魔力を感知し、波長を読み取らなければならない。

そして自身の波長を調整し、初めて意志を伝えることができる。

こういった高度なことを海鳴の少女達は日常的に行っている。

生まれたその時から、さも当然のように・・・。


海鳴の一族が高度な魔力操作技術を持つ背景には、日常会話に能力を用いているということがある。

幼い時分から、それが日常となっている彼女達は日々の中で鍛えられ続けているのだ。

而して、日常会話に能力を用いている所為で言語能力が著しく低いという側面もある。

海鳴の少女達の殆どは、読み・書き・計算ができない。

極一部、言の葉を自在に使いこなす者が居る。

例えば、今将に俺を毒牙に掛けようとしている女とか・・・。

何故彼女が言葉を話すことができるのかと言えば。

外の世界を経験したことがあるからだ。

それはつまり、外の世界を生き抜くだけの実力を備えているということでもある。

要するに・・・捕まると終わる。


あ~。待って、東ちゃ~ん。

手取り足取り、ねっとりずっぽりと教えてあげるから~。


いったい何を教えてくれると言うのか。

理論を教わるまではよかった。

さぁ、実践となった途端にこれだ。

まったく。これの何処が修行なのやら。


今日も俺は終わりなき砂浜を往く。

その背後に無数の獣を引き連れて・・・。


嗚呼、もう誰でもいい。

この悪夢を終わらせてくれ。



・・・海鳴の悪夢


魅せられて ~近衛麗~


Wind is blowing from the Aegean~♪

女は海~♪


乱雑に檻が並ぶ部屋の中、優雅な歌は響く。

儚くも散って逝った仲間を悼み。

これから散らされる私自身を憂い。

嗚呼、どうして今日に限って真面目に仕事をしてしまったのだろう。

仲間だと思っていた男に裏切られ、むくつけき男共に囲まれて、寄って集って私を・・・てのは嘘。

実際は単に捕まっただけ。

まぁ、売られた先で似たような目に遭うことは明白なんだけどさ。


私は王都警備隊の隊長を務めていた。

どうして過去形なのかというと、これから私の身に起きることの所為で殉職扱いになってしまったから。

嗚呼、私の働き口が~。

なんて、仕事をしないことで有名な私が嘆くはずもなく。

寧ろ職場のほうも良い厄介払いができたと喜んでいるんじゃないかしら?

そういう意味では、あの男に感謝しないとね。

私を警備隊から除隊させてくれてありがとう。

私とパパを巡り会わせてくれてありがとうってね。


私達を裏切った男は、私と同じような能力を持っていた。

信頼を勝ち取るほどに他人の心に入り込めるのだとか。

正規の方法で警備隊に入隊し、真面目に働いて上司の信頼を得、後輩だけでなく同輩からの尊敬を集める完璧超人を演じる。

いや~、私の趣味じゃないわ。

正直気持ち悪い。

だって、それを私に語って聴かせるんだもん。

あんたの武勇伝なんざ興味無いっつーの。


男がこう面倒な真似をしてまで警備隊に入り込んだのには理由がある。

それはそうよね。

楽に成果を挙げられるなら、そっちのほうがいいに決まってるもの。

重要なポイントはふたつ。

まず、男の能力は信頼を得ることで効果が増すという点。

そして、警備隊での地位を確立することで仕事がしやすくなるという点。

だから男は多大な時間と労力を費やしてでも面倒な道を歩んだ。

まぁ、結果私を捕らえるって目的は達成してるわけだし?

ごくろーさん。

よく頑張ったわね~。


しっかし、これからどうしようかしら。

逃げるにしたって私の能力はあの男には効かないし。

他の連中だって私の能力が効かないように洗脳済みだろうし。

精神支配系の能力ってや~ね~。

孤立無援になった時点で、もう何もできないんだもの。

性格も歪んじゃうし。

それは私だけだって?

そんなことないわよ。

少なくとも、この男だって相当のクズ野郎よ。

そうでしょ?

異論は認めないわ。


さて、それじゃあこの男が如何にクズ野郎かってのを聞かせてやろうじゃない。

男は私を捕らえた後、特に何もしませんでした。

それは商品価値を下げない為。

男は私の記憶を消去するようです。

それは私に能力を使わせない為。

私の能力は精神支配系だもの。

封じない手は無いわよね。

そして男は私の身体を子供の状態に戻すようです。

これも私に能力を使わせない為。

私の能力は、女としての魅力に比例して効力を増す能力だから。

記憶を奪っても、無自覚に能力を発動してしまう恐れは充分にある。

男はそれを理解していて、対策を講じた。

その周到さが気持ち悪い。

真のクズってのは、こういう輩のことを言う・・・と、私は思う。


パパ、お膝。

パパ、抱っこ。

パパぁ、おやすみのちゅー。


突然どうした?

と、言われそうなくらいに急な場面転換。

いや、あの男について言いたいことは全部言っちゃったから。

もういいかなって。

まぁ、簡単に説明すると。

私は記憶を奪われ、ないすばでぇも奪われた。

後は出荷されるのを待つ許りって時に救われた。

誰にって?

パパに決まってるでしょ?


記憶を失い肉体的に子供に戻った私は、本当にただの子供だった。

パパのことが大好きで、パパさえ側に居てくれたら、それだけで満足・・・みたいな。

我ながら重いわ~。

しかもそれは今でも変わってない。

どうしてそこまで懐いてしまったのか・・・。

それは多分、私が父親というものを知らないから。


私には父親が居ない。

正確には、知らない。

何たって近衛の一族は決まった相手を持たないからね~。

母に私を産ませた男と、弟を産ませた男は違う奴だし。

まぁ、母が自分の子供を捨てて遊びに明け暮れるようなクズじゃなかっただけ幸せだったのかしら。

ともかく、私は父の温もりを知らなかった。

パパは積極的に構ってくれる人ではなかったけど、近くには居てくれた。

だから甘えてしまった。

そういう理由もあるのかな・・・なんて。


私が初めてパパを見た時、御人形が動いているのかと思った。

黒い装束を身に纏い、左手に握られた妖艶な刃には血を滴らせて。

私はそんなパパを檻の中から見上げていた。

はっきり言うけど、恐怖しかなかった。

そらそうでしょ?

さっきまで筋肉達磨が嗤ってたかと思えば、次の瞬間には血飛沫が舞って。

もの言わぬ骸になるかと思えば、黒い塵と消えた。

次に消されるのは誰?

私しか居ない。

でも大丈夫。

だって私は檻の中。

魔物の牙でだって壊せない檻の中なんだから・・・多分。

仮面を被ったパパは黒い格子に手を伸ばす。

指先が触れた瞬間、私の世界から黒の縦縞は消え去った。

そしてそのまま・・・。


私は抱き上げられていた。

それはもう父親が娘を抱きかかえるかのように。

温かな胸に受け止められ、仮面の奥に隠れた紅い瞳が真っ直ぐに見つめる。

初めて感じる温もり。

初めて見る色の瞳。

あまりに多くの情報が一気に押し寄せてきて、子供の心はもうパンク寸前。

逃れるなんて、できるわけがない。

色んな意味で・・・。


パパ、私に剣術を教えて。

パパ、私も行く。

パパぁ、行っちゃいやぁ。


パパは暗殺者。

世界で一番の暗殺者。

だから、パパに来る依頼はとっても危険なもの許り。

私を連れて御仕事をするなんて以ての外。

パパが私を愛してくれていたかは判らないけど、大切にしてくれていたことは確かだ。

どんなに難しい任務に就いたって、すぐに帰ってきてくれたから。

でもね、パパ。

パパが御仕事に行っちゃったら、私はお家でひとりぼっち。

要するに孤独だった。

それは、たとえ僅かな時間だって耐えられるものじゃない。

だって私は、まだまだ幼い子供なんだもの。


私はパパの御仕事についてはいけない。

今のところはね。

パパに稽古をつけてもらって、私が充分に強くなったなら或いは・・・。

そんなわけで剣術やら暗殺術やらを教えてもらうことになるんだけど。

私に暗殺者の才能は無かった。

パパからその宣告を受けた時はボロボロ泣いた。


私、剣の扱いは上手でしょ?

私、傭兵の人より強いよ?

私じゃ、パパの御役に立てないの?


人にはそれぞれに才能がある。

だから、自分にできることで人の役に立てばいい。

そんなことを言う者が居る。

なんて物判りの良い、出来た人なんだろう。

私はそんな良い娘ちゃんじゃない。

私に言わせてみれば、同じでなければ意味が無い。

同じ暗殺者としてパパの隣りに立ち、同じ苦しみを背負い、同じ喜びを分かつ。

それはあまりに幼稚で、あまりに我儘な願い。

だけど私にとってそれは、人生を捧げてでも叶える価値のある願いだった。


パパ、この服作れる?

パパ、料理教えて?

パパぁ、おっさんの視線がウザい。


年頃の女子に成長した私は、女子力を気にするようになっていた。

服装に始まり、掃除、洗濯、料理なんて内面的な魅力に至るまで。

何の為に?

それは勿論、パパを籠絡する為・・・。

ではなく、家事万能なパパの娘が家事下手ってどうなの?

なんて考えが頭を過ぎったから。

パパ自身の評価はパパが築いたもの。

それは私が何をしでかそうが覆るものじゃない。

だけど、パパの父としての評価は?

パパ自身よりも、娘の私を通して見られることのほうが多い。

だからこそ私は女子力を気にするようになった。

パパが誇らしく思ってくれるような娘になる為に。


まずは見た目から。

服装には特に気を遣った。

だって、どんなに美しいプロポーションを作り上げたところで、服装を間違えたら全てがぱぁだもの。

勿論、体型の維持・洗練にも努めた。

欲を言えば、化粧もばっちりしたかったのだけど・・・。

パパは化粧をした女性があまり得意じゃないみたい。

まぁ、女性にとって化粧はマナーと同義だから、ノーメイクは流石に・・・ねぇ?

だからしてるかしてないか判別できない程度に留めた。

それにしても、パパってちょっと変わってる。


そして家事スキル。

私が如何に家事ができるかなんて、どうせパパの前でしか披露する機会は無い。

だからといって疎かにするわけにはいかない。

だって私は女性だから。

女性は家事ができて当たり前。

それは偏見で、性差別だなんて言う人も居る。

確かにそうかも知れない。

だけど、できるに越したことはない。

それに差別や偏見をできないことへの言い訳にしたくない。

私が目指すのはパパが誇りに思ってくれるような娘だ。

正直、私にはパパの価値観がイマイチ理解できない。

だから一般的に言う出来た娘というものを参考にしている。

一般的に言う、なんて言葉は正しく偏見の塊だと思う。

要するに私は、偏見たっぷりの目で見られて猶、評価される娘になろうとしていたのだ。


最後に、これを女子力の要素に入れていいものか判らないけど、男の視線。

まぁ、どれだけモテるかってこと。

男の視線を集めるということは、それだけ女性としての魅力が高いということの証になるし。

何より、パパがもっと私を大事にしてくれるかも知れない。

若しかすると嫉妬してくれるかも・・・。

いや、それはないか。

でも、これはちょっと失敗だったかな~。

だっておっさんばっかりが見てくるんだもん。

それもキモい奴ほど、じっとりねっとりと・・・。

久し振りに鳥肌が立ったわ。

やっぱりこの身体が原因なのかしら。

歳の割には大きいと思うけど、言うほどよね。

晒でも巻いてみようかな。


とまぁ、こんな感じに私の青春は全てパパに捧げた。

ファザコンだって?

ええ、そうだけど何か?

別に悪いことではないでしょ?

みんな、胸を張って言えばいいのよ。

私はパパのことが大好きなファザコン娘だって。

私がその手本よ。


パパ、背縮んだ?

パパ、ぎゅってして?

パパぁ、背中流して~。

あ、序でに前もお願~い。


魔族の寿命は永い。

それは成長が遅いということではなく、青年期が異様に永いというだけのこと。

実は、子供の成長はかなり早い。

幼子にまで戻された私の身体だって、僅か数年で元の状態に成長したのだから。

元の身体に戻って判ったこと。

それはパパの身長が決して高くはないってこと。

私が高身長なのもあって、私は日常的にパパを見下ろす形になっている。

時に身長差をからかうこともある。

するとパパは必ず、私の頭を撫でる。

背伸びして手が届かないようにすると、足払いを掛けられる。

そして膝枕をされながら撫でられる。

パパにも父としての意地があるみたい。


私は未だ、パパにべったりの娘だ。

端から見れば弟愛に狂った姉か、それとも恋人にでも見られるのかしら。

私としてはそっちのほうがいいんだけど・・・。

私とパパは父娘の絆で結ばれている。

でも、私達の間に血の繋がりは無い。

だから恋人になったって、子供をつくったって、誰にも咎められはしない。

尤も、近衛は血の繋がりなんて気にせず契る一族だけどね。

そこはほら、パパの一族がどんな常識を持ってるか判らないから。

パパから手を出してくれたらOK。

出してこないならNGってことで。

パパには色々とちょっかいを掛けていた。


パパにはとある弱点がある。

それはひとりで眠れないということ。

やだ、パパったら可愛い・・・。

産まれた時から双子のお姉さんと一緒だったこともあって、ひとりで寝る機会が無かったらしい。

そしてそれが習慣化した結果、誰かに抱き付きながらでないと眠れなくなってしまったのだとか。

だから私は毎晩パパに抱かれながら寝ている。

そう、元の身体に戻ってパパよりも身長が高くなった今でも抱かれるのは私。

隠語じゃないわよ?

どっちが胸に顔を埋める側かってこと。

体格的にパパが埋めるほうだと思うんだけど、パパは頑なにそれを拒む。

一度、パパが眠った後に位置を交代してみたんだけど。

朝には元の状態に戻っていた。

やっぱりパパにも父としての意地があるみたい。


私とパパには決まり事が幾つかある。

一緒に寝るってこともそのひとつ。

そして私が一番大事にしていたのが、一緒に御風呂に入るということ。

何故って?

そりゃあ、パパの欲情を誘うにはそれがいちば・・・なんでもない。

あまり調子に乗るとパパに叱られる。

鉄拳制裁ではないけど、髪を滅茶苦茶に弄られる。

私はくせっ毛だから、一度乱れると直すのに苦労する。

いっそのこと、殴られたほうがマシなくらい。

パパはそれを知っている。

昔、髪を弄られた経験でもあるのかな?


さてと、身体は元に戻ったわけだけど。

記憶のほうはどうなのかしら。

実を言えば、戻っている。

多分、奪われたのではなく、封じられただけだったのかな。

身体が元に戻った頃に少しずつ思い出した。

パパと出会う前の私がどんな女だったのか。

何をしでかしてきたのか・・・。

それを知った時は、首を吊ろうかと思ったほどだった。

そして記憶が戻ったということは、パパが私を養う理由が無くなったということでもあった。

飽くまでもパパは私を保護したのであって、養子にしたわけではないのだから。

こんな自己嫌悪に陥った状態で、パパと御別れだなんて・・・。

私は本当に命を絶ってしまうかも知れない。

それならいっそ、どうせ死ぬならいっそ、最後の希望に縋っても・・・。

そして私は、言ってはいけない言葉を口にした。


パパ・・・私を貰って。

私をお嫁にして!


これで断られたなら、私はもう生きていけない。

たとえ生き延びてしまったとしても、二度とパパに甘えることはできない。

全てを失う覚悟で・・・いや、正直に言えばそんな覚悟は無い。

ただただ、淡い希望に縋った。

近衛麗ともあろう女が女々しいったら。

パパと過ごしたこの数年で、嘗ての近衛麗は死んだ。

自分はふらふら遊び歩くくせに一途に想ってくれる男がいいだなんて、ほんとに勝手な女。

挙句、実の弟にまで手を出して・・・。

そんな女がパパの横に居ていいはずがないじゃない。

ほんと・・・莫迦な女。


パパは、私の言葉に応えなかった。

何も言わず、いつも通りの日常を過ごした。

そう、いつも通り・・・。

そして朝を迎え、パパは本来の日常に戻った。

私と一片の紙切れを遺して・・・。


僕は麗を誇りに思う。

これまでも、これからも、ずっと。

麗は僕の愛する娘だ。


たった三行の言葉。

それは手紙とも呼べない、拙いものだったけど・・・。

私の胸に届いた。

私は、パパのお嫁さんにはなれない。

だって、私達は父娘なんだもの。

そう、父と娘。

互いを誇りに思い、想い合う父と娘。

私はパパに誇りに思ってもらえるような娘になれていた。

それが何よりも嬉しかった。

人には言えないような過去を持つ私だけど。

そんな私でもパパの誇りになれたんだ。

まぁ、それを今後も続けなさいって暗に釘を刺された気がしないでもないけど・・・。

パパが私を誇りに思ってくれるなら、頑張ってみようかな。


ねぇ、パパ。

若しまた会うことができたなら、甘えてもいい?

私、きっと良い娘のままで居るから。

その時は思いっきり私を甘やかしてね?

約束だよ?


私はパパの娘、麗。

パパが許してくれるなら、黒霧の姓を名のってもいいかな?

なんて・・・ね。



・・・魅せられて


大地と月 ~鳳紅蓮~


俺とそいつの出会いは最悪だった。

何たってそいつは俺の始祖である魔神・スルトを滅ぼす為に勇者を遣わした月の女神その人だったからな。


焔の魔神は勇者とその仲間達の手によって討たれた。

だが、滅びはしなかった。

勇者の放った渾身の一撃で散り散りになった肉片から俺達が生まれたからだ。

俺はその時のことをよく憶えている。

焔の魔神が抱いた勇者への怨みもな。


何処ぞへ吹き飛ばされていった同胞達も、それは同じだった。

鳳の一族として復活した俺達は勇者を捜す為に世界中を渡り歩いた。

道中、同胞に出会うことがあった。

その度に情報交換をしては、それぞれの道を歩んだ。

俺達はどうも群れることが苦手らしい。

お互いに何を言うでもなく、自然と別の道へと歩を進めた。


そんな旅が暫く続いて、漸く勇者を見つけ出した。

野郎、王都で優雅な暮らしを送っていると思ったら、田舎に引っ込んで幼馴染みと家庭を築いていやがった。

村ごと灼いてやったよ。

焔の魔神を倒した勇者様も寄る年波には勝てなかったらしい。

碌に剣も握れねぇ老体相手に仇討ちなんざ・・・。

釈然としなかった。


俺達の存在意義は失われた。

勇者への復讐は果たしたからな。

まぁ、知らねぇうちにくたばってるなんてことにならなかっただけマシってもんだ。

しかし、これからどうするか。

俺達が存在する理由は、俺の手で葬っちまったからなぁ。


そんな時だ。

あいつが俺の前に現れた。

それはもう、怒りなのか恐怖なのか。

感情が渦巻きすぎて、何がなんだかわからねぇ表情をしたあいつ。

月の女神・ルミナがな。


ルミナ自身の戦闘力は然程高くない。

弱体化の能力を持ち、双剣の腕前も中々のものだ。

だが、それだけだ。

一片の肉片からでも甦る俺達を相手にするには、圧倒的に火力が足りない。

ルミナには鳳を滅することなどできるはずがなかった。


生きる目的を失った俺は抵抗しなかった。

棒立ちでルミナの剣撃を受け入れた。

再生するとはいえ、当然痛みはある。

だが、それが唯一俺が生きていると実感できるものだった。

それほどに、あの時の俺は空虚だった。


暫くして、肩で息をするあいつが俺に言った。

何故、私を攻撃しない。

俺は言った。

攻撃する理由がねぇ。

その言葉を聞いて、あいつは激昂した。

では、私の母は殺される理由があったのか・・・と。


聞けば、ルミナの母はスルトの手に掛かって亡くなったらしい。

勇者への怨みで形作られた俺にそんなことを言われても、どうしようもないがな。

焔の魔神が手に掛けた者の顔を一々憶えていると思うか?

答えは、否だ。


俺は問う。

ならば、俺は何をすればいい。

何をすればお前は満足する。

あいつは答える。

私の手で滅び逝け。

俺は言う。

無理な話だ。

あいつは叫ぶ。

ならば闘え!闘って、私を終わらせてくれっ!


この時のルミナの顔は今でもはっきりと憶えている。

様々な感情が入り交じった表情。

無力な自分への怒り。

魔神への怒り。

母を失った哀しみ。

そして、終わりを与えられないことへの絶望。


俺はルミナと刃を交えた。

だが、俺の刃がルミナを捉えることはなかった。

別に、手加減をしている訳じゃない。

剣術なんて碌に習ったことのない俺が、母の仇を討つ為に幾年も修練を積んできたあいつに一太刀さえ浴びせられないのは寧ろ道理だ。

俺とルミナの決闘はルミナの体力が尽きるまで続いた。

膝をついたあいつは決まってこの言葉を口にした。

終わりにしてくれ。

そして俺は決まって言う。

お前はまだ、負けてねぇ。

そんな遣り取りが幾度となく続いた。


ルミナの瞳が絶望に支配されていくのがわかった。

だが、俺はルミナが終わることを許さなかった。

あいつに何を思っていたのか、俺にもわからない。

新しい生き甲斐を見つけてほしかったのかも知れない。

だがその為には、俺を倒す必要がある。

あいつには決して為し得ることのできない壁が、そこにはある。

だから俺はルミナに何もしてやれなかった。


俺に対して怒りと怨みをぶつけていたルミナも、いつしか終わらせてくれと懇願するようになった。

涙を流しながら・・・。

それはもう、仇を討ちに来た娘のする表情ではなかった。

ルミナはただ、死に場所を求めていた。

始めはきっと違ったのだと、俺は思う。

ルミナをそこまで追い詰めたのは、どう考えても俺だ。

哀れだったよ。

母の仇に殺してくれとせがむあいつも、何もしてやれない俺も・・・。


暫くして、ルミナが俺に決闘を挑みに来ることはなくなった。

終に自害でもしたのかと思っていたが、違った。

これは後から判ったことだが、時雨が終わらせてくれたらしい。

俺が魔王の懐刀に招集された時に、時雨から直接聞かされた。


死に際にありがとうと微笑む女神が居たことを・・・。


そしてそいつが、俺の暗殺を依頼したことをな。

幸い、その依頼は依頼主が死んだことで無効となった。

崩壊の能力を持つ時雨なら、本当に俺を殺せるからな。

助かったといえば、助かったのだろうが。

その時、時雨から耳飾りを渡された。

きっとそれは俺の十字架なのだろう。


俺はあいつを忘れない。

終われない苦しみは、これから俺が背負っていく。



・・・大地と月


自由の風と根差す草花 ~パルテ・ハオ・ライト~


世界樹の精霊は、世界樹によって縛られている。

世界樹とパスを繋ぎ、生命力を分けてもらっている。

だから、あたし達世界樹の精霊は世界樹が健在な限り何度でも蘇ることができる。

言ってしまえば、不老不死の存在だ。

だけど、あたしにはそれがどうしても受け入れられなかった。

何度でもやりなおせる命。

どれだけ彩りに溢れた人生を送ったとしても、決して塗り尽くすことのできない生涯。

始めのうちはいいのかも知れない。

だけど、永く生きるほどに思う。

これほど空しい生があるのか・・・と。


世界樹の精霊は、世界樹によって縛られている。

世界樹の聖域から出ることも叶わず、尽きることのない生涯を過ごす。

世界樹が健在な限り・・・。

時に死者甦生の権能を持つ世界樹の葉、治癒の権能を持つ世界樹の雫を狙う盗賊と戦い。

時に邪悪から世界を護る為に立ち上がった勇者一行を歓迎した。

祝勝の宴、歓迎の宴は華やかなものだったけれど、あたしの生涯を彩るにはあまりに淡いものだった。


もう何度、蛮勇の者達を送り出したか知れない。

世界を救うのは自分だ。

自分にはその力がある。

そう信じる者達。

確かに彼らは、魔神を討ち果たし一時の平和を世界にもたらした。

だけど、邪悪は滅びなかった。


ひとつの邪悪を討つ度に、またひとつ邪悪の灯火が世界の何処かに灯る。

その頃にはもう嘗ての勇者は居ない。

たとえ居たとしても、世界を救うだけの余力は残っていない。

世界に平和をもたらした勇者は何人も存在する。

いや、したのだろう。

だけど、本当の意味で世界を救った者は居ない。

居るはずがない。


善が悪を討ち、善が衰え悪が盛る。

この堂々巡りだ。

今宵もまた勇者を送り出す宴が開かれている。

神に導かれ、世界の調和を乱す一族を討つのだとか。

彼がその使命を全うするかしないかは問題じゃない。

どうせまた、勇者を送り出す宴は開かれるのだ。

世界を救う?

やれるものならやってみろ。

あんたの言う世界とは、あんたの瞳に映る世界でしかないだろうに。


世界樹の精霊は、世界樹によって縛られている。

だからあたしは、この聖域で起こった出来事しか知らない。

偶に訪れる来訪者に外の世界について話を訊くことはあった。

だけど、あまりに時代錯誤があるものだから要領を得なかった。

あたしにとっての世界は、この聖域に収まってしまう。

その程度のものでしかなかった。


勇者様御一行が聖域から旅立つその日。

招かれざる客人が聖域へと足を踏み入れた。

危機察知能力に長けた小鳥達が最大級の警報を鳴らす。

勇者一行は武器を構え、世界樹の精霊も警戒態勢をとった。

だけど、侵入者は現れなかった。

正確には、その姿を捉えることができなかった。

またひとつ、またひとつと精霊の気配が消えていく。

それなのに、誰の瞳にも異物の姿は映らない。

そしてあたしの喉元に冷たい何かが押し当てられた。


失血死をした時、肉体が機能不全に陥った状態でも脳は暫くの間、生きているらしい。

勇者一行を相手に、仮面の青年が舞っている姿をあたしの瞳は映していた。

勇者の剣技、戦士の痛烈な一撃、魔道士の多彩な魔法。

その全てを紙一重で躱しつつ演舞を魅せる黒い影。

致命傷にはならないような浅い傷を、僧侶の魔力が尽き果てるまで刻み続けていた。

人は自身の魔力が尽きた時、生命力を代償として魔法を行使できる。

僧侶の魔力が尽きたであろうその時から、黒い影は一転して深い傷を刻むようになっていた。

僧侶には傷を癒やすような魔力は残っていない。

だからといって、回復の手を止めたら全滅は必至。

僧侶には最早、選択の猶予など残されていなかった。


結局、僧侶はその命尽き果てるまで回復魔法を行使し続け絶命した。

生命力を使い果たした者は、世界樹の葉といえども甦らせることはできない。

恐らくはこれが黒い影の目的だったのだろう。

世界樹の精霊は、世界樹を斬り倒すだけで一網打尽にできる。

しかし人間は別だ。

ただ殺しただけでは甦生してしまう。

だから死者甦生の権能を持つ僧侶を真っ先に潰した。

それも世界樹の葉を以てしても甦生が叶わない遣り方で・・・。

だったら、世界樹を先に斬り倒せばいいのではないかと思うわけだけど。

どうにも黒い影は、あの状況を愉しんでいるように見えてならなかった。

当然、仮面で表情は判らなかったけれど・・・。

何故だか、あたしは確信めいた何かを感じていた。


あたしが憶えているのは、そこまでだ。

その後、勇者一行がどうなったかは結末しか知らない。

まぁ、それさえ知っていれば充分な気もする。

何せ、あたしには勇者に対して何の思い入れも無いのだから。


端的に言えば、全員亡くなった。

僧侶の少女は仲間を護る為、犠牲になった。

戦士の男は僧侶の想いも空しく口無き遺骸となった。

勇者の骸は魔界樹に磔にされていた。

魔道士の少女はと言えば、あたしを受肉させる為の受け皿となった。

勿論、彼女としての人生を終わらせた上で・・・。


妖精族は魔素で己の肉体を形成する。

だから本来であれば、他人の肉体を借りる必要なんてない。

それなのに、あたしが彼女の肉体を借りているのには理由がある。

というか、理由もなくこんなことをする意味が判らない。

それは一旦置いておくとして、あたしを受肉させたのはあの黒い影の仕業だ。

何を思ったのか、あたしを世界樹・・・いや、魔界樹の束縛から解き放ってくれたのだ。


生命の根源たる世界樹は彼の手によって、魔界樹へと創り変えられてしまった。

あたしが伝え聞いた話では、世界樹が倒れた時、海は荒れ、大地は裂け、天の裁きが下されるみたいなのだけど・・・。

どうやらそれは人々の信仰が創り出した妄想に過ぎなかったらしい。

世界樹が司る生命は聖域で暮らすものに限られる。

その証拠に、世界樹と命を共有する精霊達は魔族に堕ち、聖域の植物は魔界の植物へと姿を変えた。

而して聖域の外には、恐らく健全であろう世界が広がっていたのだ。


理由はどうあれ、あたしは彼の御蔭で翼を得ることができた。

果て無き世界へと羽ばたく為の翼を。


どうして妖精族を受肉させたのか。

どうしてあたしだったのか。

その問に彼は答えない。

秘密主義なのか、それとも理由は無いのか。

暫く彼と過ごしてみると後者のような気がしてくる。

彼は頭の回転は早いけれど、時折突拍子もないことをしでかしてくれる。

きっとあたしのことも単なる気紛れだったのだろう。

それでも感謝はしている。

だって彼は、そよ風に吹かれるばかりだったあたしを大空に解き放ってくれたのだから。



・・・自由の翼と根差す草花


紫苑の呪い ~紫苑茜~


その日、わたしの人生は変わった。

これまで灰色だった世界が、再び真白く輝き、彩りが描き加えられていった。

わたしの心を捕らえて放さないのは、陽光に煌めく白髪と純真無垢な紅い、宝石なんかよりも余程美しい瞳だった。


わたしは幼い頃から勉強漬けの日々を送っていた。

誰に強制されたわけでもないのに・・・。

ただ、わたしにとってそれが最善の行動だと信じていたから。


わたしの生まれた紫苑という一族は、始祖の時代から薬の調合を生業としているらしい。

だからなのだろうか。

戦闘能力は皆無なのだ。

多少の運動ができる連中は確かに居る。

でも、その程度だ。

体術を教える者が居ないこの紫苑の里で、戦いに身を投じる段階に到達できるはずがない。

不思議なことに戦闘向きの能力を持って生まれてくる者も居ない。

これは始祖からの御告げなのだろう。

戦いに関わるな、というね。


だからわたしは勉強に励んでいるのだ。

年の近いであろう子供達が遊んでいる時も、わたしはひとり図書館の研究書を読み漁った。

そこいらに生えている雑草を抜いてきては、錬成術の練習をした。

元素を組み換えるイメージを掴むのには苦労した。

だって、目に見えないものをそうイメージしろと言うのよ?

なんて悩んでいたのに、元素モデルをイメージしたら・・・できちゃった。

今まで費やした時間を返してほしいものだ。

それから、わたしが勉強に掛ける時間はどんどん増えていった。


努力は裏切らないというけれど、それは自分を自分で評価する場合に限られる。

だって他人はわたしの努力を知らないのだもの。

人は誰かを評価する時、どれだけ努力してきたかではなく、何ができるかを見ている。

つまりは目に見えて判る成果を求めている。

わたしが出した成果は、皆からの評価を得るに充分すぎる代物だった。


現在、紫苑の里で調合されている薬の改良。

そして数多の新薬の開発。

ここ暫く停滞していた調合技術の発展を数百年分は早めたとか言われていた。

正直、そんな評価はどうでもよかった。

わたしはただ、もっと良いものを作ることができるという事実に気付き、それを実行しただけだ。

何も特別なことはしていない。

・・・つまらない。

紫苑随一の薬師と持て囃されてはいるけれど、わたしの心が満たされることはなかった。

若しあの時、皆に交じって遊んでいたら・・・どうなっていただろう。

少なくとも、今のような名声は得られていなかっただろう。

だけど同時に、こんなにも空しい気持ちを抱かずに済んだのではないだろうか。

わたしの心には後悔にも似た感情が渦巻いていた。


そんな時だ。

わたしは運命の双子と出会った。

この世のものとは思えないほどの美しさに、わたしの心は一瞬にして奪われた。

嗚呼、なんて美しい姿なのだろう。

調べたい。

その肢体の隅々まで、調べ尽くしたい。

どうしようもなく湧き上がるこの感情は・・・何?

嗚呼、きっとこれが・・・愛、なのね。


愛しているからこそ、その人のことを知りたいと思うのは普通のことだろう。

何もおかしなことではない。

そう何もおかしくなどないのだ。

たとえ服を剥ぎ取り、軀中をまさぐったとしても・・・。

彼らの味を直接確かめたとしても・・・。

何もおかしくなどないはずだ。


最近、彼らの反応が冷たい。

あーちゃんはわたしを見るとすぐにしーちゃんの後ろに隠れる。

そして獣でも見るかのような瞳を向ける。

しーちゃんは基本的に反応が薄いことで有名だけど、わたしが側に行くと露骨に嫌そうな顔をする。

何故・・・。

わたしの愛が足りないから?

だったら、もっと愛してあげないと!


そうしてわたしが手を出したのが、毒薬の研究だった。

暗殺を生業とする彼らならきっと、薬よりも毒のほうが馴染み深いはず。

任務に使うことだってあるだろう。

それをわたしが改良して、より強力な毒を開発できたなら、彼らも喜んでくれるだろう。

わたしは毒薬の調合に没頭した。

寝食も忘れて、ただひたすらに調合を繰り返した。

そして完成させた。

血球と同化することで、体内で生成・保存することができる毒を・・・。


わたしが開発した毒は、生命を脅かすようなものではない。

体内に侵入した別の毒素を攻撃し、無効化する免疫機能を備えている。

謂わば、毒を殺す毒なのである。

この毒を体内に取り込めば、一切の毒が効かなくなる。

これはわたし自身の軀で実証済みだ。

開発の過程で偶然生まれた毒薬は全て試した。

しかし、わたしは生きている。

性能評価には充分すぎるデータだ。


早速、彼らにわたしの毒を届けに行くことにした。

しかし、できなかった。

黒霧が神々と対立してしまったからだ。

わたし達、紫苑は戦う術を持たない。

黒霧との繋がりが知れたら、神々の矛先が紫苑にも向けられることは想像に難くない。

若しそうなってしまったら、紫苑は簡単に滅ぼされてしまうだろう。

二、三日に一度は黒霧に薬を卸しに行くはずの行商も完全に止められていた。

孤立無援。

黒霧の置かれた状況が正にそれだった。


わたしは己が如何に無力かを思い知った。

愛する者達が窮地に立たされている今、わたしは何もできないでいる。

黒霧の里に出向くことは簡単だ。

今や"妖艶の毒師"と恐れられるわたしに近づく者は居ない。

触れるだけで毒気に冒されると噂されるわたしだ。

紫苑の里にわたしを止める勇気のある者は居ないだろう。

だけど、彼らの許へ行ったところで、わたしに何ができる?

何も・・・だ。

彼らに薬は必要ない。

どんなに優秀な薬でも治せないような傷をしーちゃんは治してしまうから。

彼らに毒は必要ない。

毒が回るよりも早く、彼らは息の根を止めてしまうから。

わたしは無力だ。

力が欲しい、とは思わない。

どうせ、そんな願いは叶うはずがないのだから。

まだまだ成長段階にある軀ならまだしも、育ちきった軀のわたしが今から戦闘訓練を始めたところで高が知れている。

だからわたしは資格が欲しい。

戦場で共に並び立つのではない。

彼らがわたしと共に居たいと・・・。

そう求められ、彼らの側に居ることを許される資格が・・・。


わたしは決して犯してはならないことをした。

彼らから求められたいが為、必要とされたいが為に・・・。

彼らに呪いを掛けたのだ。

お姉ちゃんが側に居ないと駄目になる呪い。

あーちゃんと肉体を共有しているしーちゃんにはあまり意味が無いかも知れないと思ったけれど・・・。

やはり肉体があるのと無いのとでは違うらしい。

温もりを感じることが側に居るという定義みたいだ。

しーちゃんとわたしはいつも一緒に居た。

流石に任務にまではついていけなかったから、パオラに代わりを御願いしていた。

あーちゃんの肉体を創造するのは疲れるだろうし、神命ちゃんは妹だもの。

彼女くらいしか、任せられる人は居なかった。

でも、わたしにはそれがどうしても受け入れられなかった。

彼らの隣りに居るのは、たとえそれが戦闘の時であっても、わたしでなければならない。

そんな想いに支配されて、わたしは呪印の複製を試みるのだった。


呪印の複製には成功した。

だけど、わたしの精神が呪印に耐えることができなかった。

自我を失い、暴走してしまった。

瞳に映る者全てに襲いかかるわたしを、しーちゃんが鎮めてくれた。

わたしは取り返しのつかない過ちを犯してしまった。

愛する彼らに消えることのない呪いを遺した挙句、自分が先に居なくなるだなんて・・・。

お姉ちゃん失格ね。

ごめんなさい。

後は、パオラに任せるわ。

しーちゃんとあーちゃんを宜しくね。

勝手なお姉ちゃんを赦してね・・・?



・・・紫苑の呪い


非情の温もり ~クラウ・リッパー~


小さな風車小屋と一面に広がる麦畑。

絵画にすれば多くの人の心を掴むであろう風景の中に私は暮らしていた。

閉ざされた世界の中、母とふたりで・・・。


私の暮らしは貧しかったのだろうか。

較べるものが無いのだから、結論は出ない。

だけど、少なくとも私は幸せだった。

母の作る焦げ付きのパンに、不揃いなサラダ。

偶に肉が出る時、決まって母の顔は青ざめていた。

料理も肉の解体も苦手な母が、私の為に頑張っている。

自分が愛されていると知って、幸せを感じない事があるだろうか。

私は無いと信じたい。


ところで、私の父はいったい誰なのだろうか。

銀の髪に蒼い瞳。

これは母から受け継いだものだ。

私の外見に父の面影は無い。

母が言うには、目許がそっくりらしいのだが・・・。

その証拠は何処にも無い。

だって、私は一度たりとて父に会った事がないのだから。


なんて考えていたら、父の正体を知る羽目になった。

知らぬが仏とは言うが、無知は免罪符になり得ない。

それが変えようのない事実であれば尚更だ。

私の父は、時の支配者・クロノス。

ガイアとウラノスの子にして、オリュンポスの神々が父。

嘗て神々と対立し滅んだタイタン族の長だ。

今では実の子にして天空の支配者・ゼウスに切り刻まれ、タルタロスの奥底に封印されているのだとか。

天上の遣いから、そう聞かされた。

私はこれから天上の牢獄に幽閉されるらしい。

母とはもう、二度と会う事は叶わないだろう・・・。


冷たい石に囲まれた部屋。

黒い格子の先に見えるのは、また別の牢獄。

小さな窓から入り込む明かりは月光のように弱く、心を蝕んでいく。

何故、私がこんな目に・・・?

それは言うまでもなく、父の所為だ。

私が、タイタン族の血を引いているから・・・。

しかし、それだけならばゼウスを始めとする力ある神々も同じ事だ。

私だけが疎まれ、幽閉された理由は他にある。


ひとつは、私が人と神の血を継ぐ"半神半人"である事。

神話に名を残すような英雄も皆、半神半人だ。

ゼウスが妻・ヘラに試練を与えられたヘラクレス。

誰だったかは忘れたが、とある女神の放った蠍によって星となったオリオン。

彼らは確か、ゼウスが人間の女性と不倫した結果生まれた英雄だ。

そう、半神半人が疎まれる理由は単純明快。

不倫の果てに産まれた子供達だからだ。


私が疎まれる理由は今し方話したとおりだが、幽閉された理由はまた別にある。

それが"神器"だ。

なんでも父・クロノスが神器・時の大鎌が私の身体に封印されているらしい。

まったく、傍迷惑な話だ。

いつか娘の役に立つだろう。

そんな安易な考えで私に神器を授けてくれたのだろうが、その所為で私は幽閉される羽目になった。

しかも取り出し方がわからない。

どう責任を取るつもりだ、莫迦親父。


天上の牢獄に入れられて幾星霜。

何度陽が昇り沈んだのか、最早数える気力も尽きた。

きっと母はもう、物言わぬ骸と化しているだろう。

此処に鏡が無くてよかった。

今、私自身の姿を見てしまったら・・・。

生きる気力さえも無くしてしまいそうだ。


そしてまた陽は巡った。

最近、食事の頻度が減っている。

外で騒ぎが起きているのか、ただの虐めなのかは知らないが・・・。

いい加減、力尽きるぞ?

こんにゃろう・・・。


そこで気付いた。

格子の向こう側に、私を見詰める存在が居る事に・・・。

声を掛けるでなく、ただ私を見詰める・・・。

黒く澱んだその瞳に映る私は、殊の外美人だった。


白髪に紅い瞳の青年に救われた私は、彼に連れられて茅葺きの屋敷で優雅に御茶を嗜んでいた。

もとい、嗜まされていた。

幽閉生活が永過ぎた弊害か、筋力の衰えた私は自力で湯飲みを持ち上げる事すらできなくなっていた。

だから、御茶を飲ませてもらっている。

御飯も食べさせてもらっている。

歩く時には支えになってもらっているし、風呂では身体を洗わせてやっている。

存分に尽くすがよいぞ。


此処は良いな。

暖かな陽光、薫る微風に、清らかな潺。

飯は美味いし、量も申し分ない。

母が如何に料理下手だったかがよく判った。

嘗ての暮らしが貧しいものであったという事も・・・。

だが、此処には絶対的に足りないものがある。

・・・"温もり"だ。


どんなに気候が穏やかでも、その暖かさは心まで届かない。

心を解すのは人の温かみだ。

愛、とまではいかずとも人の情が温もりになるのだろう。

その肝心な情がこの青年には欠落している。

惜しい・・・実に惜しい。

情とは則ち心。

心を開かぬ者に、情を届ける事などできはしないのだ。

これは矯正が必要だろうか。

母よ、見ていてくれ。

私はこれから、非情なる者に愛を教えてやるぞ。

母が私に愛をくれたように。


まずは淡々と世話だけをするこの悪習をどうにかせねばな。

ほれ、口を開けろ。

私からもお返しをしてやろう。

どうだ?美味いか?

美味いだろう。

何せ、絶世の美少女である私が食べさせてやったのだから。


次はそうだな。

偶には私が背中を流してやろう。

おお・・・これは中々・・・。

と、いかん。

煩悩退散!

しかし肌理の細かい肌をしおってからに。

女子か?こやつは。


ふぅ。

御茶は良いな。

心が落ち着く。

こやつの膝も中々座り心地が好い。

もう少し体温が高ければ申し分無しだな。

私の体温は心地好かろ?

何たって、絶世の美少女だか・・・。

おい?何処へ行く?

私はまだ満足していないぞ?

こりゃ!待たんかっ!


と、まぁ。

愛を教えよう大作戦を推し進めて来たわけなのだが・・・。

こやつは本に手強いのぉ。

未だに濁った瞳をしておるわ。

折角、美しい紅色をしているというのに・・・。

勿体ない。

心にも無い微笑みを貼り付けおってからに。

愈々、本腰を上げて取り組まねばならんかの。

ほれ、そこに直れ。

私が直々に"なでなで"というものを実演してやろう。

嬉しかろ?

何たって私は絶世の・・・。

これ。

何故にお前が私を撫でるのだ?

・・・中々気持ちが良いな。

て、そうではない!

私が貴様を撫でるのであろうが!

そこに直れぇ!

・・・そこに跪けぇ!!


こやつと過ごした日々は本に穏やかなものであった。

一言も喋らぬからな。

風に木の葉が揺れる音がよう聞こえた。

それがどうじゃ?

今や、何の音も聞こえはせん。

戦火の燻る臭いだけが漂っておるわ。

のう・・・。

お前は終ぞ、私に声を聞かせる事無く逝ってしまうのだな。

まったく。

本に勝手な男だのう。

勝手に私を救っておいて、勝手に生きる目的を与えて、それで勝手に逝くのか?

私はまだ、お前に何も返していないぞ?

私はまだ、お前に愛を教えきれていないぞ?

私は!クゥはまだ、お前と一緒に居たいのだぞ!


生命の拍動を失った里に美少女の嘆きが木霊した。

この瞬間だけは、その愛らしい顔をぐしゃぐしゃにして・・・。


結局、青年と一緒に居たいという私の願いは叶った。

感情の豊かな者と肉体を共有している影響か。

以前に比べれば、かなり表情が豊かになった。

非情なる者に人並みの情が宿った。

だが、私は知っている。

非情なる者が、非情だからこその方法で温もりをくれた事を。


非情の温もりを・・・。

私は、クゥは知っている。



・・・非情の温もり


並び立つ者 ~スフィア~


人にはそれぞれ、相応の位というものがある。

生まれ持った才能とこれまでの努力。

そのふたつが合わさって、実力。

ただ、他人が評価するのは実力ではない。

何ができるかよりも何ができたかを重視するから。

だから人は自身の価値を示す為に依頼を受け、実績と経験を積む。

そうして初めて、相応の位を授けられる。


私達狩人には"ランク"と呼ばれる階級制度がある。

最下位の"プレイン"から最上位の"オーバー"まで、全十二等級。

どれだけ実力があろうと誰もが最下位から狩人としての一歩を踏み出す。

そして、こなした依頼の達成率や達成数を鑑み、許可を得た者だけが受注できる昇格試験を経て、昇り詰めていく。

私の階級は"ゴールド"。

"オーバー"を第一等級とすると、"ゴールド"は第二等級。

現状の狩人協会では実質最高位の狩人になる。


狩人協会の昇格試験はかなり厳しい。

それは狩人の生命を守る為。

充分な実力も無いのに無謀な依頼を受けて儚く散る者を減らす為。

第五等級よりも下、色の名を冠する階級の昇格試験は比較的易しい。

でもそれは比較的易しいというだけのこと。

難しいか易しいかと問えば、誰しもが迷いなく難しいと言う。

鉱石の名を冠する第四等級以上ともなれば、試験に合格する者はほんの一握り。

現状、狩人協会に所属する第四等級以上の狩人は両の手で数える程度。

最上位の"オーバー"に至っては、過去を遡ってもただのひとりしかいない。


狩人協会の発行する依頼には、等級が定められている。

それは分相応の依頼を狩人に振分ける為。

討伐する魔獣の危険度、狩猟場の環境。

それら様々な要素を鑑みて依頼の等級は決定される。

では、その魔獣の危険度は、その狩猟場の環境は。

いったい誰が判定しているのだろう・・・。



此処から先は立入制限区域だよ?



その言葉は唐突に頭上から降ってきた。

はたとして見上げてみれば、足場としては些か心許ない木枝に立つ青年がひとり。

気配を自然に溶け込ませたまま、表情の無い瞳で私を見下ろしていた。



金等級・・・。

そっか。君が噂の・・・。



首許に煌めく其れに気付いたらしい青年の瞳に驚きの色が混じる。

徐に重心を後ろに倒し、空中でひらりと一回転。

ただ外套が靡く音だけが響き、青年は私と顔を合わせた。



金等級の君なら未踏区域の調査と採集、脅威度判定C以下の魔獣討伐までは許可が下りるかな。

探索許可証、見せてもらえる?



"ゴールド"以上でなければ知り得ぬ情報をスラスラと言ってのける青年。

狩人以外でこれを知っている者がいるとすれば、狩人協会の上層部だけ。

でも、彼はとても文官には見えない。

気配の紛らせ方、一切の足音を立てない足運び。

どう考えても、私以上の・・・。



ふ~ん。未踏区域の調査・・・か。

最近、報告サボってたから痺れを切らしたのかな。



苦笑。

それでも青年からは人らしい気配を感じない。

表情をつくって尚、自然の中に溶け込んだまま。



あっは。なんか、ごめんね?

僕の所為で危ない仕事を押しつけられたみたいで。

取り敢えず、今日のところはこの報告書を僕の代わりに届けるってことで勘弁してくれないかな。



巻物の束を手渡す青年。

受け取って広げてみれば、未だ誰も到達したことのない場所の地形が、魔獣分布が、事細かに描かれていた。



君の仕事はこれの簡易版でしょ?

より詳細な情報を持ち帰ってドヤされることはないさ。

その手段がどうであれ・・・ね。



不敵な笑みを浮かべ、片方の瞼を閉じてみせる。

ただ、それで私の心が揺らぐことはない。

だって、私の心はもう始めから・・・。



あれ。やっぱり、何もせずに帰るのは不満かな?

ん~、そうだなぁ。じゃあ、こうしよう。

次、また君が此処に来る機会があったなら、そのときは一緒に探索をしようか。

どのみち今の君の装備じゃ、此処を通すわけにはいかないし。



一番の笑顔を魅せる青年の首許にアダマンタイトのタグが光る。

超越せし者の証。

狩人協会が設立されたそのときから、ただひとりにのみ授けられた最上位の位。

"オーバー"であることを示す、その証が・・・。



はい、これ。

此処の探索をするのに最低限必要な装備と消耗品一式ね。

あ、そのお金は僕が使う消耗品分だから。

序でに補充、よろしく~。



確か、狩人協会が設立されたのは数十年と昔のこと。

その当初から"オーバー"として未知領域を探索し、狩猟場として開放した英雄。

最前線の街が魔神獣の襲撃に遭った際に、その命を賭して人々を護ったと伝えられる其の人が。

今、私の目の前で動いている。言葉を紡いでいる。

私の心はもう、驚きを通り越した何かで激しく揺り動かされていた。



昨日の今日とは、随分と気が早いね。

報告はどうだった?何も言われなかったかな。

あっはは。やっぱり。

こういうことだけは手回しが早いから、あの翁達は。



半分、呆れたような口調で青年は言う。



ようこそ。"オーバー"の世界へ。



私は史上二人目の、超越者となっていた。

それに値する実力も無いくせに・・・。



・・・並び立つ者


五月雨より愛をこめて


皆様、おはこんばんちわ。

五月雨ですよ。

今日は何を思ったか、手紙を書いてみました。

早速本題に・・・と思ったのですが、挨拶を縮めるなと南ちゃんが五月蠅そうですねぇ。

大丈夫ですよ。

みんなの前で読む時には省略せずに読みますから。

でも、そうなるとこの文章の意味が無くなりますね。

ま、いっか。

どうせ読み終えたら棄てる予定でしたし。

ではでは、気を取り直して本題ですよ。


愛する家族へ


まずは、ヲーちゃんからいきましょうか。


ヲーちゃん。

貴女は私にとって、天使のような存在です。

それはきっと私だけでなく、みんなにとっても同じはずです。

貴女のその笑顔。

お姉ちゃんはそれだけで三日は生きていける気がします。

事実、水無しでも三日は保つらしいので。

おっと、これは余計な事でしたね。


ヲーちゃんは私達姉妹の末っ娘です。

末っ娘と言えば、甘え上手なイメージがありますが、ヲーちゃんは人に甘える天才だと思います。

貴女の笑顔を見てしまったが最後。

誰もがその笑顔の為に行動するでしょう。

貴女の瞳が涙に濡れる事があれば、人はその涙を止める為に邁進するでしょう。

貴女はそれを理解している。

理解した上で利用しているのだから、質が悪い。

まったく、誰に似たのやら。

最近のヲーちゃんは天使と言うより小悪魔です。

その小さなお尻には尻尾が生えてるんじゃないですか?

やっべ、小悪魔ヲーちゃんマジ天使。

まぁ、結局ヲーちゃんは可愛いのです。

カワイイは正義。

ならば良し。


はい次、レーちゃん。


レーちゃん。

貴女は私にとって、可愛い妹です。

何が可愛いって?

決まってるじゃないですか。

からかい甲斐のあるところですよ。

お父さん絡みの事になるとすーぐ顔を真っ赤にするんですから。

嗚呼、もう!

どうして貴女達はこんなに可愛いんですか!


失礼。

取り乱しました。

最近のレーちゃんは少しだけ素直になってきました。

甘えたいという感情を恥ずかしがる事なく伝えられるようになりましたね。

御蔭でお姉ちゃんの娯楽がひとつ減ってしまいました。

知ったこっちゃないって?

大丈夫。

お姉ちゃんは娯楽を見つけるのが上手いんです。

またすぐに遊んであげますから、心配しないでください。


次~。


蓮華ちゃん。

貴女は私にとって、先輩なのに妹みたいなよく判らない存在です。

何しろ私は記憶を失っていますからね。

誰かさんの所為で・・・。

まぁ、それは一旦置いておくとして。

蓮華ちゃんと再会した時、私と貴女の立場はあべこべになってしまいました。

貴女は上司であるクロさんの娘でしたし、何より態度が大きかったですから。

記憶喪失なのをいいことに偉ぶっているのかと思いきやですよ。

まさかそれが素だったなんて、お姉ちゃんは吃驚仰天です。


不遜なんて言葉がぴったりの貴女にも、実は可愛いところがいっぱいあります。

例えば、私のことをお姉ちゃんと呼ぶところとか。

実は南ちゃんのことが大好きで、とっても寂しがりなところとか。

顔・・・真っ赤ですよ?

さて、これ以上やると訓練装置にどんな細工されるかわかりませんからね。

このくらいにしておきましょう。


南ちゃん。

もう少し大人の余裕を身に付けましょう。


終わり。


姫ちゃん、もといお母さん。

大好きです。

私を造ってくれてありがとう。

私をお姉ちゃんにしてくれてありがとう。

お父さんのことが大好きなお母さんが好きです。

南ちゃんをからかって遊んでいるお母さんが好きです。

案外直球に弱いお母さんが好きです。

実は運動が苦手なお母さんが好きです。

あの時、私が本当に殴りかかっていたら、きっと私が勝っていたと思います。

割とマジで。

お父さんは南ちゃんにぞっこんですから、あんまり構ってもらえないかも知れないですけど・・・。

それは娘特権でなんとかします。

この後すぐに。

だから、娘には見せられない事もガンガンやっちゃってください。


ヲーちゃん、耳塞いでた?

頷いたってことは聞いてたなチキショー。


はい、ラスト。


お父さん。

クロさん、なんて呼んでいた頃が懐かしいです。

貴方は本当に趣味が悪いです。

女性を虐めて愉しいですか?

え?レーちゃんを弄ると面白いでしょって?

なるほど。

これは一本取られましたね。

お父さんのそういうところは私にも受け継がれているみたいです。

血は繋がっていないのに不思議ですね。

まぁ、どうせ訊かれてないからと言ってない事があるんでしょうけど。

別に訊く気もありませんが。


お父さんに伝えたい事。

改めて考えてみると、難しいものです。

だって私は思い立った時にちゃんと言葉にして伝えていますから。

今更手紙に書くような事も無いんですよね。

だから、お母さんの秘めきれていない想いを代弁することにします。


今夜"も"お楽しみですよ?

男なら両手に華を抱えて魅せなさいな。


ヲーちゃん、耳塞いでた?

聞こえなかった?

頷いたってことは聞こえてたなチキショーめ。


私の手紙はこれで終わりです。

ですが、最後にひとつだけ・・・。


私の家族がお父さんで、お母さんで、南ちゃんで、蓮華ちゃんで、レーちゃんで、ヲーちゃんで、本当に良かった。



・・・五月雨より愛を込めて



間宮の手紙


愛する貴方へ。


私は今、真白い世界を漂っています。

これが天国というものなのでしょうか。

極楽とはよく言いますけれど、つらい事の無い世界では娯楽も無いのですね。

だって、心も体も疲れることがないのですから。


ところで、私が書いているこの手紙は貴方の許に届くのでしょうか。

まぁ、それはひとまず置いておきましょう。

私は今、天国に居ます。

もう知ってる?

ええ、そうでしょうね。

だって、私をこの場所に送ったのは貴方なのですから。

私は地獄に落とされたっておかしくない事をしました。

それなのに、私が送られた先は天の国でした。

きっと貴方が私の罪を消し去ってくれたのですね。

ありがとう、なんて言いませんよ?

こんな退屈な世界に送られて、私は少し怒っているくらいです。

うふふ、冗談です。

手紙に「うふふ」だなんて、変な感じですね。

でも、いいじゃないですか。

間宮として私が遺せる物は、もうこれくらいしか無いのですから。


思い返せば、色々な事がありました。

海軍元帥の孫娘として産まれた私は、幼い頃から権力を欲する者達の視線に晒されながら生きてきました。

私と結婚すれば、海軍を手中に収めることだって夢ではないですからね。

ですが、孫が可愛いお爺さまは私を嫁に出す気なんてありませんでした。

貴方とのお見合いをした時だって、もの凄い剣幕だったんですよ?

悪い虫が付かないように護身術を習わされもしましたね。

空手に、柔道、合気道、剣道、薙刀に弓道も、後は・・・何でしたっけ?

貴方に訊いても詮無いことですね。

懐かしいものです。

御蔭で筋肉が付いてしまって、危うく女性らしさを失ってしまうところでした。

貴方はよく御存知ですよね?

だって、あんなに激しい夜を過ごした仲なのですもの。

なんて、貴方と肌を重ねたことはありませんでしたね。

もう、貴方が奥手な所為で私は経験をしないままに生涯を終えてしまったじゃないですか。

若し来世があるのなら、きっと奪いに来てくださいね。

これは冗談ではありませんよ?


そういえば、貴方はとっても力持ちでしたね。

私が運んでいる荷物を代わりに持って、平気な顔をしていたのは貴方と日向ちゃんくらいなものです。

他の方々は持てないか、顔を真っ赤にして踏ん張るのが精々でした。

私が他の方に比べて少し、本当にちょっぴり力持ちだってこと。

実は気付いていました。

みんなは必死に取り繕っていましたけれど、気付かないはずがないじゃないですか。

私はそこまで莫迦ではないですからね。


ねぇ、あなた。

憶えていますか?

私達が初めて会った時のことを。

勿論、憶えていますよね。

知っています。

だって、貴方から言い出したことですもの。

貴方が私の最期を看取ってくれたあの時に。

あの言葉に私は負けてしまいました。

貴方のことを本当に愛してしまったのだと、自覚させられたのです。


貴方と初めて会ったあの日。

それは私の身を守る為に仕組まれたお見合いの場でした。

海軍の高官であるお父様が仲人を務めたあのお見合いは、陸軍の憲兵だった貴方にとっても息苦しいものだったでしょう。

そういえば、貴方は私の瞳に感情が宿っていなかったと言いましたね。

まったく、貴方に隠し事はできませんね。

本当は気付いていたのではないですか?

私が以前から企てていた、あの計画のことを。


幸か不幸か、海軍元帥の孫娘として産まれた私は、大人の世界に触れる機会が他人よりも早く、多かったのです。

自分の欲望を満たす為に他人の幸せを踏みにじり、のうのうと生きているあの連中が幼いながらに赦せませんでした。

その中には私のお爺さまも、お父様も含まれています。

血の繋がった家族でさえも信じられなかった私は、仮面を被って生きることを覚えました。

皆の瞳に映る私は、誰にでも優しい和やかな少女だったことでしょう。

私はそんな間宮を演じていましたから。

貴方だけでした。

本当の私を見てくれていたのは。

だからなのでしょうね。

私自身も気付かないうちに、私は貴方に惹かれてしまったみたいです。


お見合いを終えてからの私は本当に頑張りました。

貴方をメロメロにする為にです。

これが冗談でないことは、貴方が一番知っているでしょう?

舞鶴に勤める貴方と大本営に勤める私の間には、どうしようもない距離の隔たりがありました。

それなのに、それなのにです。

私は甲斐甲斐しく舞鶴に通ってはお弁当を届け、夕飯を一緒に食べましたよね。

今思えば、それをつらいと感じたことはありませんでした。

不思議ですね。

私には恋愛感情なんて無かったはずなのに。

うふふ。

これは思い出し笑いです。

あの頃の私は初心でしたね。

男性を口車に乗せることは得意でしたけれど、直接触れられることは苦手でした。

箱入り娘の弊害でしょうね。

貴方との距離が一向に縮まらないことに痺れを切らした私は、お風呂に乱入したことがありました。

水着があればよかったのですが、急に思い付いたものですから、バスタオル一枚の無防備な姿にならざるを得ませんでした。

本当に恥ずかしかったです。

できることならば、時を戻して自分を諫めてあげたいくらい。

結局、背中を流してあげることさえできなかったのですよね。

緊張しすぎて倒れてしまった私を、貴方はずっと看ていてくれました。

普通なら、こんな絶好の機会、逃す手はありませんよ?

夜中に目が覚めて、座ったまま眠っている貴方を見た時は何だか少し悔しかったのを憶えています。

嗚呼、私に女としての魅力は無いのかな、なんて。

貴方は本当に罪な人です。

そんな調子では、地獄に落ちてしまいますよ?


おっと、話が逸れてしまいました。

私が躍起になって貴方を堕とそうとしていたのは、身の安全を確保する為でした。

あの頃の私は命を狙われる立場でしたから。

誰からって、海軍の将校達に決まってますよね。


彼らの悪行は法で裁けるものではありませんでした。

当然です。

裁きを下す立場にある者までもが、腐りきっていたのですから。

孫娘からの進言であれば、或いは・・・なんて、甘い考えでした。

反省します。

だから私は、自ら裁きを下すことにしたのです。

金銭的に破滅させたり、口車に乗せて同士討ちさせたり、深海に情報を流したりして。

幸いにも、口は達者な私です。

暴力に頼らずとも、人を貶めるのは簡単でした。

あまりに事が上手く運んだものですから、私は調子に乗ってしまったのでしょう。

暗殺計画が持ち上がるまでに、男達を弄んでしまいました。


実を言えば、私の身を守ることこそが貴方とのお見合いに於ける最大の目的でした。

若し貴方と結婚することができたなら、私は舞鶴の真宵烏と謳われる貴方の妻になるわけです。

憲兵隊隊長の妻ともなれば、海軍の将校だってそう易々と手は出せません。

それに私は海軍元帥の孫娘でもありますからね。

貴方とのお見合いを断る理由はありません。

まぁ、持ちかけたのはこちらですけれど。

しかし、貴方を堕とすのには本当に苦労しました。

よく頑張ったね、と私を褒めてください。

婚約まではお父様が強引に持っていきましたが、貴方から「結婚」の二文字を引き出すのに何年掛かったことか。

貴方が海軍に転属してきてからですから、えっと、何年でしょう?

忘れてしまいました。

でも、貴方が子供をつくって帰ってきたこと。

これだけは忘れませんからね!


私というものがありながら、他の女と夜を共にして。

しかもそれが深海棲艦だなんて!

まぁ、そういう計画だったということは理解していますから、大目に見ますけど。

聞いた話によると、婚約を破棄させる為にお爺さまが貴方を指名して計画に巻き込んだらしいですね。

お爺さまの思惑どおりになんてさせてなるものですか!

そんな事もあって、貴方が連れてきた日向ちゃんとも仲良くなろうと必死だったのです。


日向ちゃんは難しい娘でしたね。

貴方のことが大好きだから、私をライバルのように見ていました。

ある程度、婚約者として振る舞うことは許してくれていましたけれど、内心穏やかではなかったでしょうね。

貴方が結婚を決意してくれた時も、最後まで反対していたのは日向ちゃんでした。

涙を流しながら貴方に抱き付いていた日向ちゃんの姿は、今でもはっきり憶えています。

それからは早いものでした。

幸せが壊れる時はいつだって、あっという間の出来事なのですね。


時々、違和感は感じていました。

まるで自分が自分でないような、そんな感覚です。

ですが、まさか私が操られていただなんて思いもしませんでした。

集積さんを利用するはずが、私が彼女に利用されてしまったのですね。

彼女が思い描く、楽園を創り上げる為に。

そうして私は貴方の手によって、生涯を終えることになりました。

恨んでなどいません。

これは絶対です。

寧ろ、これで良かったのだと思っています。

だって、私の計画では貴方も始末することになっていましたから。

貴方が居なくなってしまったら、日向ちゃんが哀しんでしまいます。

貴方のことが大好きな日向ちゃんですから、きっと貴方の後を追って自ら命を絶ってしまっていたでしょう。

ええ、絶対にそうなっていました。


居なくなるのは私ひとりで充分です。

これは悪いことではありません。

特に、私にとっては。

だって、貴方のことを本当に愛してしまったのだと気付くことができたのですから。

だから貴方が気に病むことは何もありません。

貴方は幸せを掴んでください。

そして来世では、きっと私を幸せにしてくださいね。

約束ですよ?


私はこれから「転生」というものをするみたいです。

魂に刻まれた記憶も全てリセットされるのだとか。

でも私はきっと忘れません。

いえ、絶対に忘れません。

私が本当に愛するひとは、貴方だけだということを。


この願いが叶うなら、どうか私を見つけてくださいね。

若しかすると、私のほうから会いに行くかも知れませんが。


では最後に。

愛しています。

これまでも、これからも、ずっと。


愛するあなたへ。



・・・間宮の手紙


南の奮闘記


しくじったわ。

仲間を逃がす為とはいえ、人間に捕まってしまうだなんて。

このワタシが、人間の捕虜。

笑えないわ。

こんなこと、集積に知られでもしたら・・・。

これ以上は止めておきましょう。

ワタシの精神に毒だわ。


数日後。

集積が捕まった。

格子を挟んで顔を合わせたワタシ達は盛大に笑い合ったわ。

文字どおり、"莫迦笑い"というやつね。


実験のモルモットにされることは覚悟していた。

それこそ、死んだほうがマシと思うような実験の。

でも、実際は違った。

研究者達がワタシにしたのは身体検査くらいのものだった。

まぁ、多少血を抜かれたりもしたけれど。

あまりに拍子抜けだった。

集積なんて部屋の出入りを制限されていなかったのよ?

それどころか、彼らの研究に参加しちゃってるし。

何なら、集積の立案した実験が一番酷かったくらいだわ。

というか、何でワタシは外に出ちゃ駄目なのよ!?


彼ら人間のワタシ達に対する扱いが丁寧だったのは、和解交渉を前提にした実験だったからみたい。

人類と深海の不毛な争いに終止符を打ち、お互いに手を取り合っていける未来を模索する。

その為の研究をしているのだとか。

ワタシ達、深海棲艦が陸上で不自由なく生活が送れるかどうか。

そして、人間との間に愛を育むことができるのかどうか。


ワタシにとって、一番辛かった実験がこれよ。

研究施設の中に作られた1LDKの家。

そこで彼と暮らすことになった。

プライバシーの保護だとか言って監視もつけないで。

ワタシを舐めているのかしら。

たとえ丸腰の状態でだって、人間如き、簡単に捻り潰せるんだから。


驚いたわ。

素手でワタシを組み伏せる人間が居るだなんて。

というか、彼、人間じゃないんですってね。

料理は上手だし、必要以上に干渉してこないし、ベッドは譲ってくれるし、最高じゃない。

深海で暮らしていた時より、よっぽど快適だわ。

でも、何か腑に落ちないのよね。

研究者達からの事前説明によれば、これは愛を育む実験。

確かに彼は、生活を共にする相手としては文句無しの好青年よ。

それはワタシが保障するわ。

だけど、今の彼は恋人というより家政夫なのよね。

ワタシが言うのもアレだけど、このままで良いのかしら?


集積がのんびり外で昼寝をしている姿を、ワタシは部屋の中から見ていた。

その時、ワタシがどんな感情を抱いていたか。

言葉にするまでもないでしょう。

この状況に苛立ちを覚えない者なんて居るのかしら?

ああ、居るかも知れないわね。

鼻歌混じりに昼食の用意をしている、この人なら・・・。


現状を整理すると、ワタシは今、愛を育む実験の為に軟禁されている。

ワタシと愛を育む相手は、絶賛家政夫の彼。

彼からのアプローチは一切無いし、手を出す気配も無い。

それ以前に、女として見られているのかさえ怪しい。

何それ、腹立つ。


ワタシ達の格好は、人間からすれば、かなり際どい格好のはず。

研究者達の視線を見ればわかる。

胸元を凝視しながら話すんだもの、あれでバレてないとでも思ってるのかしら。

でも、彼にはそういった行動が見られない。

話す時はちゃんと瞳を見て話すし、事故を装って身体に触れようともしてこない。

かといって、身体的な接触を拒むような様子もない。

女として見られていないのか、単にそういう欲求が薄いのか。

どうして彼が選ばれたのかしら?

どう考えても、この実験に向いてないわ・・・彼。


まぁ、それはいいとして、ワタシに無関心を貫くその態度はいただけないわね。

ふふ、今に見てなさい。

ワタシが本気になれば、どんな朴念仁だってイチコロなんだから!


さて、何はともあれ、心の距離を縮めるにはまず身体の距離からよね。

さり気ないボディータッチで視線を誘導。

そして、上目遣いのコンボ!

どうよ、流石の彼もこれでって。

え?

微笑み返して、終わり?

嘘でしょ。

この男、予想以上だわ!


だったら、これはどうかしら?

料理中、無防備な後ろから突然のハグ。

ワタシはそれなりに大きいほうだから、この密着感はかなり効くはず。

さぁ、どうよ!

え?

もうすぐできるから、待っててね?

いや、別に催促してるわけじゃ・・・ないんだけど。

何だろう、この敗北感。

ワタシって、そんなに魅力が無いのかしら?

確かに、ガサツだし、家事とか全然できないし、集積には身体だけの女とか言われたことあるし・・・。

身体だけって何よ!失礼ね!

って、待ちなさい。

そうよ。

ワタシにはまだあるじゃない。

あの集積が認めた、女の武器が!


その夜、ワタシはソファで眠る彼に迫った。

透過率マシマシのネグリジェを着て。

さぁ、本性を見せなさい。

ワタシにこんなことまでさせておいて、ただ済むと思ったら大間違いよ!

今夜は寝かせてあげないわ。

そして、ワタシ無しでは生きていけないようにしてあげる。

初めてだけど・・・。

ワタシならできる!きっと!


目を覚ました彼は、ワタシを抱えて言った。

そんな格好してると、風邪引くよ?


ベッドにワタシを寝かせて布団を掛け、言った。

おやすみ。


そしてそのままソファに戻り、寝息を立て始めた。


何よ。

そんなにワタシは魅力が無いっていうの?

こんな恥ずかしい格好までして、莫迦みたいじゃない。

初めてだったのよ?

それでも勇気を振り絞って!覚悟を決めて!

何よ、何なのよ、この気持ち。

何でワタシが・・・アンタに振り向いてほしいって思ってるのよ!


ワタシは泣いた。

それはもう無様に泣いた。

その泣き声は当然、彼の耳にも届いたようで、彼はワタシを抱き締めて優しく頭を撫でてくれた。

何も言わず、ワタシが眠りに落ちるまで、ずっと。

ワタシは彼にしがみつき、放さなかった。

眠っているのだから、意識は無かったわ。

だけど、やっと彼のほうから近づいてきてくれたことが嬉しかったのでしょうね。

放してなるものか、と身体が勝手にワタシの心を汲み取り、動いてしまった。

結局のところ、これがワタシ達の始まりだったのかも知れない。


翌朝、泣き腫らした瞳をこすりながらワタシは彼に宣言した。

ワタシはアンタが好き。

だけど、きっとアンタはそうじゃない。

だからワタシは、アンタを惚れさせる。

アンタの心を奪ってみせる。

だから、覚悟して待ってなさい!


ワタシと彼が結ばれたのは、それから暫く経ってからのことだった。

本当に、彼の心を奪うのには苦労したわ。

今では可愛い娘と、愛する彼と三人、幸せに暮らしている。

この幸せはきっと、ワタシが死ぬまで続くわ。

彼も娘も、ワタシの瞳が黒いうちは絶対に死なせたりしないんだから!



・・・南の奮闘記



・お前さえ居なければ良い


ある日、家が消えた。

跡形も無く、この世界から消失した。

学校から帰ってきた時の事だった。

愕然とした。

周りの家は無事なのに、どうして私の家だけ?

襲撃ではなかった。

公の発表では有耶無耶にされていたけれど、私は知っている。

私の家は消えたんじゃない。

悪意を以て消されたんだ。


母子家庭だった私は、身寄りも無く、孤児院に預けられる事になった。

そして彼女達と出会った。

私の物語は此処から始まる。


ビバ!我が愛しの孤児院よ!

蔦の這った壁、くすんだステンドグラス、やたら分厚い扉。

はっはー!子供ひとりの力じゃ開けられねぇぜ!

逃走防止ですか~?

安心しな。

此処に居る奴にはもう帰る場所なんて無いんだ。

誰も逃げやしねぇよ。


つーかよぉ。みんな暗過ぎね?

そりゃ、わかるぜ?

家族を失った哀しみくらいさ。

俺だってよ・・・。

ああ、やめだやめだ。

湿っぽいのはどうにも性に合わねぇ。

ほら、笑おうぜ?

俺達はよぉ、まだまだ無邪気な子供なんだからさ。


と、まぁ。

そんな訳であたしは道化を演じるようになった。

始めはひとりでボケ倒していただけだったけれど、気が付けば仲間が出来ていた。

彼女の名は撫子。

産まれて間もない時に両親を亡くしたから、家族を失う哀しみを知らない。

ある意味、幸せな娘っ子さ。


行くぜ!撫子!

おーともさー。


孤児院には、毎日その掛け声が響き。

子供達の笑い声を誘っていた。

かー。ったく。

道化を演じるのも楽じゃねぇぜ。

天才的な頭脳を持つ、この澪様だからこその御業ってな。

撫子の奴もああ見えて結構賢い。

皆の目は誤魔化せても、俺様の目は誤魔化せねぇぜ?

なんたって、この間のテストの点数。

平均90点だったもんなぁ!

あぶねぇ!もうちょっとで抜かれるところだったぜ!


ボケの相方はやっぱりツッコミだわね。

あたすはボケ担当。

撫子もボケ担当。

じゃあ、ツッコミは?

皆様お待ちかね。

紫苑ちゃんの登場でぃ!


と、いきたいところなんだけど・・・。

何を隠そう、この孤児院で一番暗い女の娘が紫苑ちゃんなのよね。

撫子に訊けば、昔っからなんだと。

部屋の隅っこで膝を抱えて縮こまってさ。

ほう・・・にゃんこか・・・。

なんて、軽口を叩いてみるものの。

彼女の傷はにゃかにゃかに根が深い。

毎夜毎夜、幼子の啜り泣きが響いて・・・。

はっは。最早ホラーだわ。


こういうタイプの娘は、一度感情を爆発させるのが良いと思うのよね。

だから澪ちゃんはウザ絡みをする訳で・・・。

澪ちゃん自身がウザい娘な訳じゃないんだぞっ。

はい、細やかな保身でした~。

でもさ。

自ら嫌われ役を買って出てさ。

紫苑ちゃんの鬱憤晴らしの為だけに殴られて。

まっ、痛かないんだけど・・・。

澪ちゃんってば偉いと思わない?

褒めて褒めて~!


つってよぉ。

頬に紅葉つくって紫苑の枷を解き放ってやった訳さ。

撫子のサポートもあって、なんとか紫苑に嫌われないままにさっ。

へっ!どんなもんだい!

あ~マジで疲れた。

もうやんねぇぞ。

ちくそーめ。


さぁさ、ボケとツッコミが揃ったならば。

あとに残るは緩衝材さぁ。

うちらは仕事でボケるんじゃあねぇ。

あくまで、このくそったれな日常に彩りをもたらす為にボケるのさ。

そんでもってツッコまれる。

仕事と割り切ることができねぇんじゃ、衝突も起こり易い。

素が泣き虫の紫苑なら猶のこと・・・。

ちょっと加減を間違えるとす~ぐ泣くんだもんなぁ。

てな訳で、緩衝材が必要になるってこった。

泣き虫紫苑ちゃんを優しく受け止めてくれる。

あわよくば、うちらが束になっても敵わないような強さも兼ね備えた。

そんな存在が・・・。

なんて、居るわきゃね~か!

あっはっはっはっは~!


居たよ。

めっちゃ近くに居たよ、こんきちしょー。

彼女の名は姫百合。

草臥れた孤児院に咲く一輪の・・・。

とか御大層なものではなく。

まぁ、御大層なもんはぶら下げているけどさっ。

羨ましんだよ!ちくしょーめぇ!


私が姫百合の存在に気付かなかったのには理由がある。

それは、彼女が引っ込み思案だからだ。

孤児院の中では圧倒的にお姉さん。

だっちゅ~のに人の後ろに隠れてよぉ。

隠れきれてねぇんだよ!色々と!

この際だから言うけどなぁ!

てめぇのおっぱ・・・!


大変失礼致しました。

いや~、胸のことになると我を失っちまうからいけねぇ。

この癖直さねぇとな~。

そもそもなんで胸の話題に敏感なのかね。

あたしゃ僻む程小さくねぇぜ?

まぁ、いっか。

成長すれば良いだけの話だしなっ!


で、なんだっけ?

ああ、姫百合の話か。

あの娘は引っ込み思案で臆病で、だけど正義感の強いお姉ちゃんなのさ。

頭は弱いけど力が強いからなぁ。

体力お化けだし。

飯もよく食うし。

嫌なことがあってもすぐに立ち直るし。

莫迦だから。

我ながらボロクソ言ってんな。

まぁ、いざという時は頼りになるしな。

院長が大事にしてる壺を割った時とか。

頼りにしてんぜ!姫姉!


そんなこんなで、私の仲間は揃ったのさ。

万能型の撫子に、火力担当の姫百合、そして司令塔の紫苑。

澪ちゃんはモロチン万能型さっ。

私ってばさ。

人生楽しければそれで良いみたいな?

周りからはそう思われてんだぜ?

だけどよぉ。

考えてみろよ。

俺は母親を奪われたんだぜ?

そう。

亡くしたんじゃあなくて、奪われたんだ。

仇の当たりも付いてる。

この孤児院が艦娘養成学校と通じていることも知ってる。

こんな世の中だ。

なんの見返りも無く子供を養う余裕が我らが日の本にあるたぁ思えねぇ。

ちーと周りに気を配っていれば誰だって気が付くさ。

だから俺は将来的な戦力として使えるかどうかを考えながら孤児院の連中を観察して近づいた。

あのくそったれをぶっ飛ばす為に・・・。


待ってやがれ。

たとえ戦艦だろうが関係ねぇ。

俺の持てる全てで以て生まれてきたことを後悔させてやる。



・・・お前さえ居なければ良い ~完~


・あなたと居る庵


庵。

それは第一線を退いた者が余生を過ごす小屋のこと。

両親は何を思ったのか、私にその名を与えたのです。

私はこの名前が嫌いでした。

古くさいというのも、その理由のひとつなのですが・・・。

退いた後の人生こそが私の本領なのだと、そう言われているような気がしてならなかったことが何よりの理由です。

それで本当に退くことになるのですから、嫌悪感を通り越して憎みすらしました。

こんな名前でさえなければ、こんなことにはならなかったでしょうに・・・。


ひとりで暮らすには大きすぎやしませんか?


初めてその家を見たとき、無意識にその言葉が口を突いて出ていました。

二階建て、ダイニングキッチン付き、リビングを含め部屋は四つ。

そしてトイレは一階と二階にひとつずつ・・・。


私を連れ込むこと前提で建ててないですよね、これ。


彼への不信感は募る許りでした。

というのも、私が利き手を負傷したあのとき。

通信手段を失って何処かも判らない岩陰に身を隠していた私を、彼は難なく発見したからです。

そして丁度ひとり暮らしを始めることになったからと自身の庇護下に入ることを提案してきました。

あまりに手際が良く、またあまりにタイミングが良い。

警戒するには充分なほど怪しく、あの貼り付けたような彼の笑顔が何か裏があることを物語っていました。

しかし、他に行く場所があるわけでもなし。

鎮守府に残っても、彼に騙されても結果が同じなのであれば同じこと。

違うのは誰に抱かれるのかということだけ。

だったら憲兵として私達艦娘を護ってくれていた彼のほうがましというもの。

そんなわけで、ほいほいとついてきたのですけど・・・。

やっぱり不安です。


と、初めてを捧げる覚悟はしていた私でしたが、未だ私は純血を守っていました。

まぁ、殆ど毎日許嫁である狭霧ちゃんが通ってきますし。

週末は泊まることも屡々ですし。

考えてみれば、手を出そうにも出せない状況ですよね、これ。

狭霧ちゃんの御父様は海軍の高官ですし、御爺様に至っては元帥ですから。

いくら所属の違う彼とはいえ、狭霧ちゃんの機嫌を損ねるような真似をすれば即刻首が飛ぶでしょう。

はぁ、何だかどっと疲れてきました。

不信感が全て拭えたわけではありませんが、襲われることはないと判って少し安心しました。

今夜はゆっくり眠れそうです。


と、思ったその日の夜のこと。


ええと。

私の部屋でいったい何を・・・?


視線を感じ目を開けたら、其処には彼が居ました。

椅子に腰掛け、すやすやと寝息を立てる私を見下ろす彼が。


嗚呼、やっぱり・・・。


再び覚悟を決めた私に放たれた言葉は・・・。


疲れているようだったから、鍼でもしてあげようかと思って。


というものでした。

彼が鍼灸師の資格を持っていることにも驚きましたが、それは一旦置いておいて。

鍼をするということはつまり、"脱げ"ということですよね。

私は何を言い返すでもなく、纏った衣服を全て剥ぎ捨てるのでした。


えっと、背中を開けるくらいでよかったんだけど・・・。


私は光よりも早く掛け布団を纏い、真っ赤に燃える顔を枕に埋めるのでした。


今思い返せば、この出来事を契機に私と彼の距離は縮まり始めたような気がします。

一度見てしまったからと私に対する遠慮が一切なくなり。

隙あらば全部は脱がなくていいから付け加え。

介助という名目の下、裸を曝さなければならない方々の気持ちがよく判りました。


私は利き手の指が殆ど動かせません。

腱が切れているからです。

その経緯は省きますが、要するに満足に動かせる指が五本しかないということです。

その所為でひとりでは不自由することが多々あるのです。

例えば、着替えとか。

利き手ではないほうの指だけで釦を留められるほど私は器用ではありませんし。

紐を結ぶだなんて夢のまた夢です。

それで被るだけで着られるTシャツやらマジックテープで留めるタイプの簡易着物やらを重宝していたわけですが。

将来のことを考えるとちゃんとした下着を着けたほうが良いと彼に押し切られ。

あれもこれもと世話を焼かれることになる始末。

その御礼が慎ましやかな胸を曝すことだと考えれば、安いものなのでしょうか?

まぁ、そうだとしても。

紐の下着を穿かせようとしてきたことには怒ってもいいですよねぇ。

でも、折角買ってきてくれたのに一度も脚を通さないというのも・・・。

可愛いデザインですし。

今度、狭霧ちゃんに頼んで穿かせてもらおうかしら。


と、そんな感じで彼の厚意・・・と言うか気紛れ?

に甘えていたわけですが。

流石に与えられる許りでは申し訳ないですし。

私は私にできることを探すことにしたのです。

とは言っても、家事くらいしかできないのですけどね。

一応私は公的には"戦死"したことになっていますから、勝手気ままに外を出歩くわけにもいきませんし。

で、掃除やら洗濯やらをしてみるのですが・・・。

如何せん、時間が余ってしまうのです。

何しろ私と彼のふたり暮らしですから。

そもそもの洗濯量が少ないですし。

というか、彼の洗い物を見た憶えが・・・。

深く考えるのはやめておきましょう。


それで余暇をどうするかという話になるのですが。

彼の趣味を真似しようにも、流石に片腕で裁縫は難しいですし。

ヨガやら体操は、恩を返すという目的にそぐわないですし。

はぁ。

難しい問題です。


そんなとき、鶴の一声が聞こえてきました。


味付けの研究なら片手でもできるんじゃない?


衝撃でした。

料理ができないなら、その知識を蓄えればいい。

自分にはできないことでも知識だけは教えられる。

料理は彼の得意分野ですから、それを支えることができるというのは私にとって、とても大きなことでした。


私を弄ぶ機会は幾らでもあった。

でも、彼はそれをしなかった。

単に私の魅力不足なのが原因かと思えば、許嫁である狭霧ちゃんにも手を出していない様子。

若しかするとそれは私が居るから、かも知れないけれど。


だから私はふたりの為になることがしたかった。

私ひとりの力で、ふたりを喜ばせるだけの料理を作ることはできない。

でも、その一助となることはできる。

裏を返せば、その程度のことしかできない。

それでも、だからといって、何もしないなんて絶対に駄目。

私は私にできることでふたりの安らぎになりたい。

浮世に揉まれ、疲弊したふたりを癒やす小さな庵に、なってあげたい。



・・・あなたと居る庵 ~完~



好きだから嫌いなあいつ ~海波 琴~


あいつと初めて顔を合わせたのは、入隊式が終わった後、個別に行われる隊長面談でのことだった。


養成学校を卒業して、いつも一緒に居た姉さんから離れ、独りで踏み込んだ、新しい世界。


まだ十代だった私には期待よりも恐怖のほうが重くのし掛かっていた。


圧倒的に男が多い世界で上手くやっていけるだろうか。


変な男に絡まれたりしないだろうか。


目標とする背中が見えない中で、真っ直ぐ歩き続けることができるだろうか・・・。


そんな恐れで頭をいっぱいにしたまま、あいつの待つ部屋の扉を叩いた。



少し間のずれた返事を聞き、部屋の扉を開く。


足の先が入る程度の隙間が出来たところで扉を押す手を止め、息を吐く間をつくる。


俯いた顔を上に、閉じかけた目はしかと開き、鼻から息を吸い肺に空気を満たす。


踏み込む足と共に扉を押し開き、今できる限りの敬礼をしてみせる。



「失礼しま・・・!」



そこまで吐き出したところで目に飛び込んできたのは・・・。


“わたしが隊長!”と書かれた紙を貼られた憲兵さん人形だった。


御丁寧に椅子に座らせてポーズまでとらせている。


これは、若しかして新兵の緊張を解すための計らいなのだろうか。


確かに緊張は薄れたけれど、それ以上に困惑は増した。


うん。これは、あれだ。


お茶目を間違えているやつだ。


私は面倒な上司に中たってしまったことを予感し、このノリに慣れなければならないのかと、少しだけ・・・絶望した。



「あはは。凄い顔をしているね、海波 琴 新兵。」



声の主は、堪えきれない笑いに肩を震わせながら、隣の部屋から姿を現わした。


ノックの返事に間があったのは、隣の部屋で何かしていたからだろうか。


それにしても、未だ顔を合わせてもいない新兵の顔と名前が一致しているとは・・・。


若しかして、狙われてる?



「君、全部表情に出てるよ。大丈夫。お子さまには興味が無いから安心してよ。」



と、ある一点を見詰めながら呟く。


てめぇ、こら。


仮面を着けててもそういう視線はわかるんだぞ。



「それは失礼。晒を巻いていても、こういう科白は気にくわないようだね。すまない。」



・・・は?


憲兵さん人形を窓際に置き直し、座り心地の好さそうな椅子に腰掛けながら漏らした言葉に、思わず呼吸を忘れる。


このとき私は、本当に晒を巻いていたのだ。



「女性用の憲兵服は身体の線がはっきりと出るからね。その対策は正しい。」


「海兵の不埒を取り締まる憲兵といえど、所詮は男だ。更には男性過多の職場とくれば愈々出逢いが無い。」


「少々、張り切りすぎてしまう者も少なくなくてね。女性の新兵が入隊するときは、事前に情報を集めるようにしているんだ。」



淡々と語る彼の手には、書類の束が握られていた。



「あの。若しかしてそれ、私の・・・。」



恐る恐る尋ねる私とは対照に、その答えはやはり淡々と返ってくる。



「そう。生年月日から家族構成、経歴に身長、体重、BWH。合法的に得られる情報は全て調べ上げてある。」



流石は憲兵と言うべきか。将又ただの職権乱用だとキレるべきか。


明らかに無駄な情報が含まれていることを私は聞き逃さなかった。


なるほど。それで晒がバレたわけだ。



「そんな雑な巻き方をしていれば、元のサイズを知らなくとも気づく者は気づくさ。」


「その道のプロを紹介してあげるから、まずは彼女の所に行ってきなさい。」



と、終始隊長のペースで面談は進み、気づいたときには部屋を追い出されていた。


私はその足で紹介された先輩女憲兵の部屋へと向かった。


道中、ふと思う。


面談とは互いのことを知るために話し合う場を設けることをいうはず。


しかし隊長は私のあれやこれやを知っていて、反対に私は隊長の年齢すら・・・あれ?そういえば隊長の名前・・・。


あの面談で得られた情報は、隊長に隠し事はできないらしいということ。


そして、とんでもない自己中心的思考の持ち主らしいということ。


隊長のあれこれは追々暴いていくとして、取り敢えず今は数少ない同性の先輩との繋がりをつくることに専念しよう。


隊長の愚痴なら盛り上がるかな。


うん。きっと盛り上がる。


だって私がこんなにも、遠慮なく気にくわないと思えるひとなのだから。



・・・好きだから嫌いなあいつ





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2022-02-22 23:08:03

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2021-10-30 16:46:49

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