秀麗の狩人
異世界を渡り、歴史を正しく導く使命を帯びた青年がいた。彼の名は、黒霧時雨。結婚の概念を持たず、恋慕の情すら知らない環境で育った、そんな彼が初めて妻に迎えた女性。彼女の名は、スフィア。これは、彼らが出会い、愛を育み、そして永遠を誓う物語。
概要のとおり、この物語の主人公は艦娘強化訓練島の日常にも登場しました黒霧時雨とその初めての伴侶、スフィアになります。外伝にも出会いの場面だけは書きましたが、なんだか書き足りなかったもので、この話だけで一本書いてみようかということになりました。途中で諦めてしまわないことを祈って、ごゆるりとお楽しみください。
沈みかかった夕陽が紅く染める空に、重い溜息を吐く。
下ろした視線の先にあるのは、蒼く、深い、湖・・・。
そして、その中を揺らめく黒い影・・・。
水面に波をつくりながら悠々と泳ぐ其れは、水底を見詰めるばかりの私を嘲笑うかのように口許を歪ませていた。
はぁ・・・。
また、溜息をひとつ。
重たい腰を持ち上げ、陸の淵に足を掛ける。
覚悟を決め、重心を前に・・・。
倒れる寸前で軽く曲げていた膝を跳ね伸ばし、宙へ舞う。
美しい弧を描き、水飛沫も上げぬ見事な飛び込みを・・・魅せたまでが華だった。
正直、私は水中戦が苦手だ。
だが決して泳ぎが苦手というわけではない。
ただ、潜水ができないだけなのだ。
両の手を揃え、前方に突き出し、弧を描くように掻き寄せる。
足首の力は抜き、一定のリズムで脚をバタつかせる。
泳ぎの形は間違っていないはずなのに・・・何故だろう。
藻掻けど藻掻けど、一向に潜れやしない。
ずっと同じ場所で無様を曝している。
そして、そんな私をじっと奴が見ている。
くそ。他人の無様を見て愉しいか。
あぁ、愉しいだろうさ。愉しいだろうよ。
陸では手も足も出なかった相手が、水中ではこんななのだからな。
陸では手も足も出なかった相手が!
魔獣相手に虚勢を張ったところで意味は無いというのに・・・。
私は心の中で喚き散らしていた。
いや、若しかすると声にも出していたのかも知れない。
どおりで息が苦しいわけだ。
白い泡に遮られた視界の先、黒く歪んだ世界に揺らめく紅い瞳が、恐らくは一直線に迫ってくる。
口に咥えた剣は右手に、腰に据えた盾は左手に備え、体勢を整える。
ずしん・・・と、重い一撃。
反り返る上半身を、盾の縁に右膝を押し当てて支え、勢いに耐える。
水圧に暴れる左脚は魔獣の下顎に引っ掛けて固定する。
握り締めた剣は狙いを定め、煌々と光る紅い瞳に一閃・・・。
ぎゃおおおお!
水中に轟く悲痛な叫び。
あまりの轟音に身を縮こまらせた刹那、死角から尾の打ち上げが襲う。
何とか盾で直撃は阻止するものの、腹に一撃を受けた所為で肺に蓄えた空気が抜ける。
尾の勢いそのままに空中へと打ち上げられ、くるりと一回転。
しかと両足で着地を決める。
我ながらこの身体能力の高さには感心する。
剣を腰の鞘に納め、遠ざかる魔獣の気配を見送る。
はぁ・・・。今回も失敗。
私はこれまで水中戦が絡む依頼を達成したことがなかった。
陸だけの依頼では失敗したことがないというのに・・・。
これだから両生類は・・・!
私は今日も両の膝を地に着ける。
仄暗い明りに照らされた粗雑な空間。
其処には零れた酒の痕が残るテーブルと、少しガタついた椅子が並んでいる。
その片隅、一仕事終えたのか諦めたのか知れない者共の喧騒に包まれながら、私はひとり、魔獣の胆スープを睨みつけていた。
「ねぇ、スフィアちゃん?そんなものじゃなくて、もっとちゃんとした料理を食べたほうが・・・。」
給仕の気遣いを手で制し、再びスープに視線を向ける。
右手に握られたスプーンは小刻みに震え、嫌な汗が背を伝う。
一掬いした液体は黄金色に輝き、しかして酷い悪臭を放つ。
固唾を呑み、心を決めて一口・・・。
鼻を抜ける悪臭、何とも言えない粘り気を持った口当たり、込み上げる吐き気。
全身から変な汗が噴き出し、顔から血の気が失せる。
っ~!毎度のことながら不味い・・・!
両の肘をテーブルに突き、項垂れたまま、そっとスプーンを置く。
がっ!
そんな擬音が付きそうな勢いで皿を掴み、一気にスープを流し込む。
胆ごと・・・。一息に・・・。
ことっ。
空になった皿を優しくテーブルに戻した私は、そのまま顔面から突っ伏し、意識を手放した。
・・・ちゃん!・・・ん!
嗚呼、給仕の娘の声が遠のいていく・・・。
毎度毎度、申し訳ない。
だが、仕方がないのだ。
これは私が、私自身に科した、戒めの儀式なのだから・・・。
・・・ん。・・・ちゃん。
優しい声が聞こえる。
聞き慣れた、愛らしい声・・・。
・・・!・・・!?
あれ?なんだか急に慌ただしく・・・。
ぱしゃっ。
突如として後頭部を襲う冷水。
そのあまりの量に頭だけでは受けきれず背中を伝い・・・。
「ひゃあああ!何!?」
朧気な意識は洗い流され、はっきりとした自我に還る。
立ち上がった拍子に椅子が倒れ、嫌な音を立てた。
やぁばい。壊したかも・・・。
「何はこっちの科白だよぉ。誰?あの黒いひと。スフィアちゃんの知合い?」
訝しげな表情をしながら給仕の娘が尋ねる。
黒いひと?誰だ、それは。
というか、水をひっかけるだなんて酷いじゃないか!
「私じゃないよ!仮にもお客さんにそんなことするわけないじゃない。全部あの黒いひとがやったの。」
娘の見詰める視線の先、其処に人影はない。
しかしこれまで給仕の娘が水をかけるなんて強硬手段に出ることはなかったし・・・。
そんな度胸があるとも思えない。
「口に出てるんですけど?」
まさか幽霊がっ!?
「ちゃんと実体のある人だったよ!スフィアちゃんを抱えて帰ってきたんだから!」
ん・・・?帰って、きた?
「そう。おかしな二人組に連れていかれたスフィアちゃんを抱えて。後でお礼言っておきなよ?時間的に多分セーフだから。」
いや、連れていかれる前に助けて・・・。
「やだよ。私、ただの給仕だし。巻き込まれたくないもの。」
薄情者ぉ・・・。
狩人の集う村落。
其処に法など無く、弱き者は奪われ、油断した者から破滅していく、実力社会とも違う特殊な世界が形作られていた。
しかして、そんな無法地帯にも暗黙の戒律が存在する。
ひとつ、自衛の手段を持たぬ者に力を振りかざしてはならない。
ひとつ、価値あるものには相応の価値で以て代価を支払わなければならない。
この戒律の御蔭で、件の給仕を始めとする一般人が安全に生活を送り、商売に励むことができている。
だが、ここで或る疑問が生まれる。
それは、戒律に反した者をいったい誰が罰するのかということだ。
法というものは、そこに罰が在って始めて効力が生まれる。
罪を罰するために法が在り、罰で以て弱者の安全は守られる。
秩序とは罰であり、より上位の存在が力を振るうことによって其れは保たれている。
ならば、この村落の秩序を保っているのは誰なのか。
こんな噂を聞いたことがある・・・。
秩序の凶刃・・・?
なんだ、それは。
「えぇ・・・。スフィアちゃん、狩人になってもうかなり経つよね?なんで知らないの?」
これ以上ない程の呆れ顔で給仕の娘は言う。
秩序の凶刃というものを知らないだけで、何故こうも莫迦にされなければならないのか・・・。
私は不満げに抗議する。
「莫迦にしてるんじゃなくて呆れてるの。どうせ一緒に狩りをする友達の一人もいないものだから情弱になってるんでしょ。」
両の手を支えに顎を乗せ、如何にも興味の無い話をぶった切るように痛烈な言葉を吐いて捨てる。
正直・・・ぐぅの音も出ない。
今の私には狩り仲間と呼べるような者はいない。
もっと正確に言えば、いたことがない。
一時的にパーティーを組んだことはあっても、それが二度と続いたことはない。
その最たる原因が何かと言えば・・・。
「いい加減、他人に自分の理想を押しつけるその性格どうにかしたら?妥協を覚えないと社会から炙れちゃうよ?もう手遅れだけど。」
給仕の娘の言葉が胸に刺さる。
自分でもわかっている。
そう。わかってはいるのだ。
私独りでできることには限界があるということくらい・・・。
だが、私にだって譲れないものがある。
人が仲間を求めるのは、独りではできないことも皆で協力すればできるようになるからだろう?
つまりは、より高みに登り詰めるために弱みを補い、強みを伸ばし合うために人は群れるのだ。
私が一方的に力を貸す関係では、とても・・・!
「そんな考え方をしてるから友達が出来ないんだよ。」
今日一番、胸に刺さった言葉だった。
いや、でも友達なら・・・目の前に・・・。
「え、私?いや、私は常連さんだから仲良くしてるだけで、別に友達ってつもりはないんだけど。」
早くも今日一番が更新された。
もう、この店に来るの、やめようかな・・・。
割と本気でそう思った。
これは給仕の娘が彼女の給仕仲間から聞いた話らしい。
まだ狩人の集落が形を成して間もない頃。
狩人協会に威光も何も無く、ただ依頼を管理するだけの組織と認識されていた時代。
まぁ、百年と昔のことでもないのだが・・・。
当時は、現在のように実力が全てというわけでもなく、勝者が全てという考えが蔓延していたらしい。
どんな汚い手を使おうが、勝った者が正義。
道徳に反することも勝者が是と言えば是となり、人道な適ったことも否と言われれば否となった。
そんなわけで、白昼堂々、それも大通りのど真ん中で、素材の強奪から人身売買、強姦ショーなんてものまで行われていたとか。
まったく。今の時代に私を産んでくれた両親には感謝しなければならないな・・・。
とまぁ、嘗ての此処は何もかもが相当に荒れた場所だったらしいのだが、そんな場所であっても矢張り商魂逞しい者はいたようで・・・。
常識も倫理も通じない猛獣同然の者共を相手に、とある女店主が美味い飯と酒を武器に酒場を切盛りしていたという。
長く艶のある黒髪をひとつに束ね、頭には赤い線の入った三角巾。
胸元の広く開いた緑のドレスに真白い前掛け。
肌は浅黒く健康的で、それはもう主張の強いむね・・・。
いや、百年と昔のことではないとはいえ具体的すぎないか?
まぁ、いいか。それくらい魅力溢れる女性だったということなのだろう、きっと。
本人を直接目にしたわけではなくとも、噂話を聞いただけで女店主がどれだけ魅力的だったのかはわかる。
勿論、性的な意味で。
何しろ、自分を縛るものの無い世界では男なんてものは下半身でしか思考を巡らせないからな。
どうすれば女店主を手篭めにできるのか。
そんなことばかり考えていたに違いない。
しかして当時の男達にしてみれば、そんな問題の答えなんて一瞬で出ていたことだろう。
何せ、勝者こそ全ての時代なのだから。
力でものにしてしまえばいい。
至極簡単な話だ。
だが、女店主も莫迦じゃない。
自分の身を護る術も何も考えずに、そんな無法地帯に飛び込むはずがない。
彼女は自分の料理の腕を武器にしたのだ。
私が食いたいなら食えばいい。
但し、もう二度とこの店の料理にはありつけないと思うことだね。
・・・それが女店主の決まり文句だったらしい。
店の味を知る者はそれで思い留まった。
店の味を知らぬ者は、店の味を知る者が束となって叩きのめした。
いつしか彼女は狩人を束ねる女ボスのような存在となり、彼女を慕う野郎共で店は連日繁盛したのだとか。
女が真っ先に狙われる世界で、彼女は敢えて煽情的な服を纏った。
私を襲えるものなら襲ってみろ。
私を最期の晩餐とする覚悟があるのなら、さぁ食ってみろ。
そう、言わんばかりに・・・。
料理の腕と度胸で以て、女店主は無法の狩人共を手懐けて魅せた。
誰もが彼女の言に従順で、それは正しく鶴の一声が如く・・・。
彼女に逆らう者など最早この集落にはいなかった。
事実上のボス。その気になれば狩人共を使って金と権力を手中に収めることもできただろうに。
彼女はそれでいて、飽くまでも酒場の女店主として、闘い疲れた者共に活力を分け与えていた。
傲らず、ただ気さくに、時には豪快に。
彼女の笑顔と屈託の無い言葉が、この暴力の支配した世界に一時の平穏をもたらした。
言葉を交わす機会があるということが、酒を酌み交わす場があるということが、荒くれ者共の心をどれだけ癒やしたことか。
力の下に抑圧された人の繋がりは、その楔から解き放たれ新たな絆を紡いだ。
同じ村にいるだけの他人ではなく、共に闘う仲間であると・・・。
村に集った個ではなく、村という集を成す個であると・・・。
ひとりの太陽の許に人々は共に生きるということを学んだのだ。
しかして平穏は永劫には続かない。
常に新しい阿呆の訪れるこの場所なら尚更だ。
狩人の村落にやってくるような者は皆、往々にして己が命を賭けてでも一発逆転を狙おうとする阿呆だ。
陸に知識も無いくせに、ただ暴力でしか生きる糧を得られないだけのくせに。
期待に胸を膨らませ、希望に瞳を輝かせ、此処なら何かを変えられるのではないかと。
身の程も知らぬ莫迦が次から次へとやってきては姿を消していく。
誰にも気付かれることなく。誰にも悲しまれることなく・・・。
時折、思うことがある。
この村にやってくる者が皆、始めから生き抜く術に長けた屈強な者共であったならと。
だが、魔獣のいない内地で、どう生き抜く術を身につけたら良いのだろうか。
おそらくそれは此処と同じ、法など通じない獣の巣くう場所。
いつ錆びた刃が自分の喉笛を掻き切るかわからない、そんな世界で生き抜く他にないのだろう。
その日は珍しく、屈強な男が新しく村を訪れた・・・。
或る月の綺麗な夜。
普段なら狩人達の汚い笑い声が響く酒場から声が消えた。
其処にはただ肉と肉がぶつかり合う音が響き、怒りと憎しみと快楽の入り混じった吐息が漏れ出していた。
紅く塗りたくられた壁、肉の横たわる床。
酒の染みで汚れたテーブルは悉く壊され、未だ息のある肉を乗せたカウンターだけが静かに悲鳴を上げていた。
狂った男が女に向ける感情は最早、劣情ですらない。
秩序無き世界で幸福を掴んだ彼女が妬ましくて、羨ましくて。
ただ堕ちていくことしかできなかった自分自身が悔しくて。
ぶっ壊してやる・・・。
快楽を貪る男の表情は狂喜に歪む。
しかしてそれは肉の喜びでなく、心を犯すことへの愉悦であったことは彼自身も知らない。
その後、女店主がどうなったのか。私は知らない。
常連客を失い温和しく地元へ戻ったのか。将又、立ち直り後継店を現在に残しているのか。
どちらにしろ彼女が自ら生涯を閉じるような真似をしていないことだけは確かだ。
だって、そうだろう?
女は勿論、男にとってすら魔窟同然のこの場所で、よりにもよって酒場を経営しようというのだから。
そんな胆力を備えた女傑が一度犯されたくらいで自暴自棄になるだろうか。
恐怖というものを知らず、暴力のもたらす傷の深さを舐めきった愚か者であれば話は別だが・・・。
どう考えても彼女はそういった類いの者ではない。
悲しみを乗り越え人生の糧とできる、強い女性だ。
きっと何処かで、その太陽のような笑顔を振りまいたことだろう。
果たしてその場所が此処なのか、また別の場所なのかはわからないけれど・・・。
「でさ。その店主さんが立ち上げた酒場が此処だってオチなんだけど。」
・・・は?
「いやー、そんな目に遭っても店を続けるとか。ほんと凄いよね~。尊敬しちゃう。憧れはしないけど。」
にしし、と。屈託の無い笑顔を溢す。
彼女はいつだって、一言多い。
この集落に来てからというもの。私にはどうしても拭えないでいる疑問があった。
そのうちのひとつが、集落の中央に佇む立派な石塚だ。
見上げる程に背が高く、表面の殆どを緑の苔に覆われた、妙に雰囲気のある石の墓。
当然、誰のものかはわからない。
若しかすると誰かひとりのものではないのかも知れない。
魔獣の跋扈する森で力尽きた、誰にも弔われることのなかった魂を慰めるための名も無き墓標。
誰のためでもない。それは人生を賭けた一発勝負に臨む狩人達の覚悟を顕す道標。
そう思うと、何だか無性に拝まずには居られなくなってしまう。
勿論、本当に掌を合わせたりなどはしないのだが・・・。
それでも、狩りに向かう前には必ずこの石塚の前に立つ。
そして誓う。
私は今日も無事に帰ってくる・・・と。
件の石塚には、黒い太刀のようなものが突き立てられている。
刃渡りはおそらく人の身長と同じか、少し短い程度。
その半分が石に埋まっているから断定はできないが・・・。
妖しく煌めく刀身を見るに、黒曜石を打ち割って創ったのだろうか。
不揃いな鋸のような形をした刃に独特な紋様が浮かび上がっている。
しかし、黒曜石の太刀か・・・。
黒曜石の強度は鉄に劣る。鍛えられた鋼なら尚更だ。
とても実用に耐えるようなものではない。
御飾として創られたと言えばそれまでだが・・・。
この太刀は突き立てられている。
そう。鉄の刃すら弾いてみせる石塚に突き立てられているのだ。
ともすれば、黒曜石の太刀を創り、更にはこの石塚に突き立てた人物がいるということになる。
そもそもだ。黒曜石の刃は、ひとつの黒曜石塊を打ち、削り、磨き上げることで成形される。
そういう過程もあって、元々の塊より大きな刃を創ることはできないのだ。
しかしてこの太刀の刃渡りは人の身長程もある。
黒曜石の刃は人類が生み出した最高の刃物と称されることもあるが、それは切れ味に限った話だ。
先にも話したとおり、黒曜石は鉄よりも脆く、打ち合いに耐えるだけの強度は無い。
まぁ、元より刀は攻撃を受けることを想定していないわけだが・・・。
斬られるより先に斬る。
より速く、より鋭く。
そういう考えの許、刀は進化を遂げてきた。
黒曜石の密度は鉄の凡そ3分の1。
軽く鋭い黒曜石の太刀は、相手より先に一撃を叩き込むという点で見れば確かに、至高の刃といえるのかも知れない。
この黒曜石の太刀には数多の曰くがある。
それもそのはず。何しろ、その作成方法はおろか、どうやって石塚に突き立てられたのかということさえ明らかになっていないのだから。
憶測が憶測を呼び、謂れの無い噂が尾鰭を付けて蔓延することになるのも道理というものだろう。
草木も寝静まる深夜、黒曜の刀身に黒い影が映り込む。
その日は決まって罪深き狩人が姿を隠すという。
そして二度と見つけられることのない闇に堕ちていく。
「ねぇ、知ってる?あの石塚に突き立てられた剣。時々、無くなってることがあるの。」
「どんな力自慢が引き抜こうと踏ん張っても、びくともしないのに。」
「でね?引き抜かれたはずの剣が元の場所に戻ったとき。本当に微かだけど、漂ってくるんだって。」
「鼻を差すような鉄の臭いが・・・。」
彼女の話が何処まで本当なのかはわからない。
いや、違うな。何処まで信じて良いものか、わからない。
「おい、こら。」
ただ、刀が引き抜かれていることがあるというのは真実だろう。
件の石塚はかなり古いものだ。その表面の殆どが苔に覆われている。
聞けば、黒曜石の太刀は石塚が発見されたその時から突き立てられていたらしい。
だとすれば、太刀を隠すように苔が茂っているはず。
しかして実際は巻き込むようになっている。
つまりは、苔が石塚の表面を覆い尽くした後に太刀が突き立てられたということだ。
「だから言ったじゃん。時々抜かれてるときがあるって。」
しかし腑に落ちないのは怪力自慢の男共でも引き抜けない太刀を、どうやって引き抜いているのかということだ。
何か仕掛けがあるだろうが、いったいどうやって・・・。
「逆に押してみるとか。剣の先にスイッチ的なものがあって・・・みたいな?」
・・・さっきから気になっていたのだが、片刃の得物を“剣”とはいわない。あれは“刀”だ。
両刃が剣。片刃が刀。間違えるなよ?
「スフィアちゃん・・・細かい。」
草木も寝静まる深夜。
酒場の喧騒も夜闇に沈み、月すらも呑み込んだ極黒の空には微かな星々が散らばる許り。
私はいつものように給仕の娘が宿舎に無事帰り着くまでの護衛として付き従っていた。
「・・・新月の空って、こんなに暗かったかしら。月が無いとはいえ、もっと煌めいてた気がするんだけど。」
片方の瞳を細め、唇に軽くを手を触れさせながら傾げて魅せる給仕の娘。
彼女は本当に、仕草のひとつひとつが可愛らしくて仕方がない。
同じ女性であるのに何故こうも違いが生まれるのか・・・。
別に羨ましくなどないのだが、不思議と天を仰いでしまう。
「・・・はぁ。世の中ってほんと不公平ね~。私もスフィアちゃんくらい美人さんだったら良かったのに。」
私の横顔を見詰める彼女が、ふくれっ面になって言う。
何を莫迦な。
酒場の給仕であれば美しさよりも愛嬌のほうが武器となるだろうに。
他人を寄せ付けない美しさなど、商売の邪魔になるだけだ。
「いやいや、美の威圧って結構大事だよ?酒場の給仕なんて、ただでさえ絡まれやすい仕事をしてるのに。私ってばほら、可愛いじゃん。」
・・・そうだな。
「なに、その間。自分で言うのはどうなんだって言いたいの?はっ。全っ然、わかってないわね。」
わざとらしく肩を竦め、意味も無く大袈裟に首を振る彼女。
鼻から抜けるその嗤い声は酷く耳障りな音を奏でていた。
「いいこと、スフィアちゃん。可愛さや美しさを武器に商売するなら、先ずそれが武器たり得ることを自覚する必要があるの。」
「そしてそれを傲らず、客観的な事実として受け止め、磨いていかなければならない。だから私は言うの。私は“可愛い”って。」
「今の私に自信を持つために。これからも誇れる自分で在るために。・・・おわかり?」
彼女が信念を持って仕事に励んでいることは知っている。
それを直接彼女の口から聞いたのは初めてだが・・・。
大方、予想通りだ。
だから彼女は人気があるのだと納得しさえする。
ただ、これだけは言わせてほしい。
今の彼女は、これっぽっちも可愛くなんてない。
娘の御高説に若干の苛立ちを覚えたそのとき。
見慣れたはずの景色に、ふと違和感を覚えた。
いつもより少し暗い?
いや、そんなことはわかっている。
今日は新月だ。月明かりの無い夜景が暗いのは当然のこと。
今更、違和感を覚えたりなどするはずがない。
・・・が、何かがおかしい。
何か、大切なものを見落としている気が・・・。
「スフィアちゃん・・・あれ。」
普段の元気は何処へやら。
今にも消え入りそうなか細い声を震わせて、娘が言葉を絞り出す。
彼女が指差す先に在るのは、件の石塚。
人の背丈など裕に超える、その表面の殆どを苔に覆われた厳かな石。
微かな光に夜露が煌めき、より一層神秘的な雰囲気を漂わせる。
その石塚だけが、悠然と聳え立っていた・・・。
「無い・・・無いよ。本当に・・・!」
娘の声に僅かな興奮が入り混じる。
噂で聞く許りだった出来事を目の当たりにして好奇心がかき立てられているのだろう。
その気持ちはわからないでもないのだが・・・。
彼女の抱くはそれは少々危なっかしく思えてしまう。
「ねぇ、スフィアちゃん!」
嗚呼、これは駄目だ。駄目なやつだ。
こうなってしまった彼女には、もう何を言っても無駄だ。
先の展開なぞ・・・思考を巡らせるまでもなく明らか。
「其処に茂みに隠れて、誰が剣を引き抜いていったのか確かめよう!」
そら見たことか。
給仕の娘には、身の安全よりも何よりも自身の好奇心を優先させる癖がある。
もう誰も彼女を止められない。
私の不安を掻き立てるその紺碧の瞳は夜空の何よりも激しく輝いていた。
あれから幾何の刻が経っただろうか。
件の石塚から太刀を引き抜いていった主は現れず、陰鬱とした感情を払うような夜風許りが肌を撫でていた。
「噂が本当なら、今夜、狩人の誰かが姿を消すはず・・・。酒場のブラックリストに載ってた狩人は誰だったかな。」
唸り声混じりに給仕の娘は思考を巡らせる。
未だ、彼女の瞳から好奇心という輝きは失われない。
それは寧ろ加速し、在らぬ方向へと飛躍し始めているような気さえする。
私は冷や汗が止まらなかった。
こんなにも好い風が吹いているというのに・・・。
この嫌な予感は、きっと彼女の行き過ぎた好奇心に対してではない。
これは・・・知ってしまうことへの恐怖なのだと、今になって思う。
「来た・・・!」
娘が声を上げるのと同時に、首筋をなぞるような風が吹き抜ける。
ほんの数秒。1秒にも満たないかも知れないその時間が永劫にも感じられる。
これ以上は危険だと・・・いや、最早手遅れであると本能が察していた。
件の石塚を前に揺れる黒い影。
その左手には黒曜の太刀が握られ、右手には既に事切れた骸が引き摺られていた。
どしゃ。
物言わぬ骸が音を立て、黒曜の太刀が納められていた石を覆うように打ち捨てられる。
力無く項垂れるその肉塊の首は在らぬ方向へと曲げられていた。
おそらくはそれが直接の死因だろう。
見たところ、切り傷は認められない。
左手に握られている其れはいったい何のためにあるというのか。
夜闇の如き漆黒は一点の曇り無く妖しいまでの美しさを保っていた。
諸手を広げ胸部を曝け出す骸を見下す黒い影。
徐に左手を天に掲げ、黒曜の太刀は夜空に溶ける。
星を穿つかのように高く掲げられたその鋒はくるりと標的を変え、大地に横たわる肉塊へと・・・。
しゅかっ。
肉を裂くような音も無く、何か堅い物を穿った音が響く。
刹那、骸と成り果てた肉塊は塵へと姿を変え霧散した。
諸手に持つ物も無く、天を仰ぐ黒い影。
その眼前には表面の殆どを苔に覆われた厳かな石塚と突き立てられた黒曜の太刀。
普段と変わらぬ景色が在った。
凍てついた空気に包まれ、次第に大きくなる心音が耳を劈き初めて呼吸を忘れていたことに気づく。
ゆっくり、静かに、古い空気を吐き出し、またゆっくりと、深く、新たな空気を肺に満たす。
こめかみを伝う汗は冷ややかで無意識に奥歯に力が入る。
今、私達が目にした光景は絶対に知ってはならない類いのものだ。
それは給仕の娘も承知のことだろう。
だがしかし、私と彼女とではその受け止め方に大きな隔たりがある。
この重すぎる秘密を前にして、私は冷や汗を流した。
一方で彼女は、殊更に瞳を輝かせるのだ。
どうして黒曜の太刀を石に突き立てたのか。どうやってそれを引き抜いているのか。影の正体は誰なのか。
もっと知りたい・・・。
秘密の重みを知らぬ者は、何の遠慮も無しに他人の深みに足を踏み入れようとする。
他人の秘密というものは知るものでなく、背負うものだ。
知ってしまった以上、もう知らぬ振りはできない。
それが何を意味するのか・・・。
彼女は未だ知らない。
ふぅ・・・。
思わず、安堵の溜息が溢れる。
黒い影は夜闇へと姿を溶かし、石塚の前から消え去った。
「はぁ・・・。行っちゃった。」
給仕の娘は私とは含む意味の異なる溜息を溢す。
幸いなのは彼女がこの茂みから飛び出していくことを我慢できたこと。
そして、影の興味が此方に向かなかったこと・・・。
「せめて顔の輪郭くらいは確認したかったのに。」
私達の存在があの影に気づかれていたことを彼女は知らない。
だからこう暢気なことを言っていられるのだろう。
あの影が何者かは知らないが、この弱肉必滅の世界を独りで生き抜く者は決まって気配に敏感だ。
人形を視認できる範囲内に居て、気づかれていないわけがない。
それで私達が未だ生きていることが奇跡そのもの・・・。
「あの人、絶対に昼間スフィアちゃんを連れて帰ってきたひとだと思うんだよね。」
・・・は?
難しい顔をしながらとんでもない発言をする彼女。
今、何と言った・・・?
「昼間も黒いフード被ってたし。何より引き摺ってた男。あいつ、スフィアちゃんを連れてった奴と格好同じだもん。」
正直、言葉が無かった。
影が私を救ってくれていたという事実もそうだが、何より・・・。
私が連れ去られていく状況の中で、彼女が輩共の格好を観察して記憶しておくだけの冷静さを保っていたことに驚愕した。
「あのねぇ、スフィアちゃん。私、この魔窟で酒場の給仕なんて危険な仕事をしてるんだから危機管理はしっかりしてるんだよ?」
「人の仕草とか観察して、仮面で顔が見えなくても誰だか判別できるようにしてるし。今回だって・・・。」
意味深に言葉を切った彼女は、寂しげに目線を下げる。
その姿を見て、私は少し胸が締め付けられるような感じがした。
一方的に彼女を友人だと思い込んでいながら私は彼女のことをまったくわかっていなかった。
莫迦にして、無意識に下に見て・・・何が友達だ。
己への怒りで身体が震えた。
謝らなければ・・・!
そう決意し、顔を上げた瞬間。
彼女の背後に揺らめく黒い衣が視界を掠めた。
「え・・・?な・・・んぶぅ!?」
私の表情が変わったことを彼女が察すると同時に、影の手が彼女の口を塞ぐ。
首で身体を持ち上げられた彼女は仰け反るようにして影にもたれかかる。
肘打ちを食らわせようと力を込めた右腕は絡め取られ、ならばと放った左肘は空を突く。
噛みついてやろうと藻掻いているようにも見えるが、その口を塞ぐ影の指は確かに顎に掛かっている。
極普通の美少女である彼女の力では、それを振り解くことなどできるはずがない・・・。
さっきから右足を執拗に跳ね上げているのは金的を狙っているのだろうか。
腰の高さが違いすぎて全く届く気配が無い。
こんなときに何だが、見ていてとても憐れな心持ちになる光景だった。
「・・・!・・・!!」
そんな私の胸の内を知ってか知らずか、彼女の視線に鋭さが混じる。
早く助けろというよりは、いつか仕返ししてやる・・・。
そんな思惑を感じる瞳だ。
ともあれ、先ずは彼女を解放しなければ。
そっと太股に括り付けた投げナイフに手を伸ばす。
正直、影に中てる自信は全く無い・・・が、給仕の娘に中てる自信だけは湧き溢れてくる。
何とか狙いを外して。それでいて牽制であることを悟られないように。
距離を詰めるだけの時間と隙がつくれたらいい。ただそれだけでいいのだ。
後は直接殴ってどうにかしよう。
だから・・・だから頼む!彼女にだけは中たりませんように!
「ん~!!」
どんなに強く願ったとしても、やはり願うだけでは何も叶わないようで。
私が人生最大の賭けに出ようとした瞬間、抵抗を諦めていた彼女が最後の抵抗を試み始めた。
私としては温和しくしてもらっていたほうが何かと都合が好いのだが・・・。
いや、微塵も動けてなどいないのだから結局は同じことなのだが・・・。
「ん~!!あっ・・・え?ちょっ。うわわっ。」
何を思ったのか。影は彼女の口を塞いでいた手を放し、自分の背に彼女を隠した。
そして諸手を広げて私と彼女の間に立ち塞がる。
まるで彼女の命を脅かす暗殺者から、身を挺して護ろうとするかのように・・・。
「・・・なんで?」
私ははっきりと自覚して、そう言葉を溢した。
影の背に姿を隠した彼女は、そっと暗い外套の向こうから顔を覗かせる。
友人を救おうと必死に思考を巡らせる私を見るその瞳には不信の色が浮かんでいた。
私はこんなにも苦心しているというのに・・・。
敢えて言おう。不愉快だ。
「中たるかどうかわからないナイフを投げつけようとしたくせに。」
ぼそぼそと反論する彼女。
細めた眼に宿る不信の色はより一層濃さを増していく。
これでは誰が護衛か、わかったものじゃない。
いや、賭けに出ようとしたことは確かに私が悪かった。
だが、ああする他に救う手立てが無かったのだ。
私はこの集落の裏事情については見識が無い。
一旦は攫わせておいて後から救い出そうにも、何処を探せば良いのやら皆目見当がつかん。
「狩人なら穴場くらい知っておきなよ。ばったり鉢合わせちゃったらどうするの。」
深い溜息と共に、また呆れた表情を見せつけてくる。
穴場が何だ。そんな奴等に気など遣ってやるものか。
「はぁ?こんな隙間だらけの、何処にでも他人の目があるような村の中でするよりよっぽど良心的じゃない。ほんと、隣でおっぱじめられたときは何度殴り込みに行ってやろうかと・・・。」
不敵な笑みを浮かべて拳を震わせる彼女。
その暗く澱んだ瞳を見るに、彼女が如何に根に持っていたかがわかる。
宿舎住まいというのも、苦労が多いのだな・・・。
それはそれとして、この黒い影はいつまで給仕の娘を庇っているつもりなのだろうか。
まぁ、未だナイフから手を放していない私も私なのだが・・・。
当の彼女といえば興味津々に影の身体を・・・弄っていた。
「おほほぉ~。いいですなぁ。この引き締まった筋肉っ。最近の狩人は見た目だけの使えない筋肉をしてる奴が多いからさ~。久し振りに本物を見た気がするよ。ま、見たというか触ってるんだけど。」
流石、この村落一番の酒場で働く人気ナンバーワンの嬢だ。
ひとを見る目が肥えている。
「こら、そこぉ。いかがわしい言い方をしなぁい。うちの店は健全な酒場ですからね。というか、なんでスフィアちゃんがそういう表現を知ってるの・・・?」
軽蔑の視線が私を貫く。
やめろ。私をそんな瞳で見るな。
未だ村落に来て間もない頃に騙されて働かされていたことがあるだけだ。
「ぁあ・・・。」
軽蔑の次は憐れみか。
言っておくが、手遅れになる前に逃げたからな?
「ま、貴女ならそうでしょうね。」
次第に返事が雑になっていく。
彼女の興味は完全に影の“身体”に向いてしまったようだ。
外套の上からではあるが、腰周り、腹筋、背中と全身を使って楽しんでおられる。
黒い影は相も変わらず諸手を広げたまま。
受け入れているのか、将又動けないでいるのか。
「んふふ~。」
影の背中に隠れて姿こそ見えないが、その上機嫌な声を聞けば、彼女の顔が緩みきっていることくらい容易に想像がつく。
給仕の娘には、若干特殊な趣味がある。
一口に言えば“筋肉嗜好”なのだが、所謂“筋骨隆々”の筋肉は好みでないらしく。
何でも“女性らしい”しなやかさのある筋肉が至高なのだとか。
酒場に来る客を品定めしては、気に入った筋肉に媚びを売りに行く。
そして仲を深め、時期を見計らって温泉に誘う。存分に筋肉を愛でるために・・・。
何を隠そう、その被害者第一号がこの私であり、もう何度閨に連れ込まれそうになったか知れない。
まぁ、受け入れたことはないのだが・・・。
「この腹直筋の弾力・・・。あ、上腕三頭筋もすごい。うふふ。男のひとなのに女性的~。」
影も被害者のひとりとなるのだろうか。
スイッチが入った娘は本当に自重しないからな。
というか、影の正体は男なのか。線が細いから女かと思っていたのだが・・・。
「ねぇ、この後時間ある?私、もっとあなたのこと知りたいな~。」
何だか、影が可哀想に思えてきた・・・。
結局それから給仕の娘は、黒い影を引き摺って宿舎の借り部屋へと帰っていった。
私も普段どおりに部屋の前まで付いていったのだが、彼女に手を引かれて歩く影の足取りは終始重たかった。
おそらくはこれから己の身に降り掛かる災厄を感じ取ってのことだろうが・・・。
温和しく連れ込まれていったのは何故なのだろう。
私が自分の部屋に男を連れ込んだのは初めてではなかった。
鍵なんて無い、少し力を込めれば女の拳でだって穴を空けられそうな壁で仕切られた部屋だから、自衛のために一時の過ちを赦すことも屡々だった。
私にはもう決まった相手がいるぞ。手を出そうだなんて思うなよ・・・なんて。
しつこい男を撃退するのに名の知れた狩人を誘ってみたり。
他の給仕への当てつけに御得意さんを寝取ってみたり。
我ながら陸なことをしていない。
でも、仕方がないのよ。
こんなむさ苦しい世界で、いつまでも綺麗なままで居られるほど、私は強くもなければ恵まれてもいない。
親が誰かなんて知らないし。護ってくれる誰かをつくらなければ、まともな生き方だってできやしない。
私が多少ましな生き方をできるようになったのは全部、スフィアちゃんに出会えた御蔭。
彼女を傍に置くことができたから私は自分を売り物にしないで済むようになった。
私にとって彼女は・・・スフィアちゃんは、“友達”なんかじゃない。
彼女は“天使”。どんなに手を伸ばしても決して届かない。けれど、いつも傍にいて私を護ってくれる。
たとえ隣にはいないときだって、加護を与えてくれる。
一番近くて、遠い存在・・・。
若し彼女が離れていってしまうなら、私はそれを止められない。
だから必要なの。
彼女に代わって、私を護ってくれる存在が。
私が持っているもので繋ぎ止めることのできる・・・そんな存在が。
翌朝、部屋から出てきた彼女の頬には涙が伝った跡があった。
だが不思議とその顔は、晴れ晴れとして見えた。
「スフィアちゃん、若しかして一晩中部屋の前に居たの?やめてよ。昨夜は全力で喘いで嫌がらせしてやってたんだから。全部聞かれてただなんて、もう・・・恥ずかしいじゃない。」
色白な頬を仄紅く染め、少し俯きがちに言葉を紡ぐ。
その口許は美しく整えられた髪で隠されている。
彼女はいつだって、あざとさの演出を忘れない。
発言と表情が一致していないのはこの際良しとしよう。
ともかく今は、彼女が無事でよかった。
大して高くも険しくもない一枚岩の山を越える途次。
申し訳程度のテントで小休止をとり、反って重たくなった瞼を全力で持ち上げながら近くを流れる川へと足を運ぶ。
はぁ、冷たい水が心地好い。
昨晩、溜まりに溜まった陰鬱としたこの気持ちが洗い流され・・・ることはなかったが。
まったく。私が部屋の外に居るとわかっていて給仕の娘はあんな・・・あんなっ・・・!
ざばんっ!
それは怒りか恥じらいか。何のものかわからない熱に蝕まれた顔を冷水に浸す。
ぼやけた視界に映るのは流れる水の揺らぎと水底の岩。
変わらぬ景色の中で、彼女の顔が揺れ浮かぶ。
・・・彼女は何に涙したのだろう。
彼女は何に幸福を見たのだろう。
顔を上げることすらも忘れて、そんなこと許りを考えていた・・・。
肌を撫でる心地好い風が、肌を刺す冷たい風へと様子を変えた。
ただ平たいだけの大岩に打ち投げられた重たい身体をゆっくりと起こす。
嗚呼、全身が痛い・・・。
陽は傾きかけ、夜闇の黒に冒された茜色の空が眼前に広がっていた。
どうやら、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
何に喰われたとしても文句は言えないこの場所で・・・。
まったく。夜更かしなど、するものではないな。
浅い溜息を漏らし、立ち上がろうと支えにした右手の掌にふと違和感を覚える。
温かい・・・。
自然の岩肌が、まるで人肌のような・・・。
いや、私の体温が移っただけか。
私はよろよろと立ち上がり、凝った背中を思い切り伸ばす。
両の拳を天に向けて。
邪な狩人に襲われなかったのは本当に運が良かったな。
こんな時間になってしまったが・・・。まぁ、偶には夜の狩りも乙なものだ。
私は普段、昼間にしか狩りをしない。
何か特別な理由があるわけではないのだが・・・。強いて挙げるとすれば、給仕の娘を宿舎まで送るためだろうか。
夕刻までには狩りを切り上げ、彼女の働く酒場で食事を摂る。
そして彼女と他愛の無い話をしては、閉店の手伝いをして彼女を宿舎へと送る。
悪戯っぽい微笑みとおやすみの言葉を胸に私は独り帰路につく・・・。
狩人の集落には狩人協会の管理する狩人用の貸部屋が点在している。
狩人の階級に応じて部屋は快適になっていき、“ゴールド”ともなれば風呂付きの部屋が貸し出される。
一方で色の名を冠する下位階級の狩人は共同生活が基本であり、初期階級の“プレイン”に至っては雑魚寝の大部屋での生活が強いられる。
勿論、この集落には個人が経営する宿屋も存在する。
資金に余裕がある者はそれを利用したりもするが、駆け出しの狩人で宿屋暮らしができるような者は殆どいない。
大した魔獣も狩れず、その日に稼いだ金は装備の修繕と消耗品の補充で消える。
だから、致し方なくあの大部屋を利用するのだ。女狩人にとっては魔窟ともいえるあの大部屋を。
給仕の娘の話では、高位の狩人に取り入り、大勢に犯される最悪の状況を避け、最少の相手に身体を捧げる選択をする女狩人もいるらしい。
・・・が、狩人協会の貸部屋で強姦があったという話はあまり耳にしない。
当然、全くないわけではない。実際、その未遂現場を目撃したこともある。というか、私がその被害者のひとりだった。
あのときはどうして事無きを得たのだったか・・・。
正直、よく憶えていない。
麻酔の香を焚かれて、意識が朦朧として・・・。
気づいたときには喉笛を掻き切られた男の亡骸が足許に転がっていた。
・・・いかんな。どうにも今日は物思いに耽ってしまう。
それもこれも、給仕の娘があんなことをしでかしてくれた所為だ。
文句のひとつでも言ってやらなければ。
今から行けば仕事上がりの時間には間に合うだろう。
私は急く心そのままに彼女の待つ酒場へと駆け出した。
残り物くらいなら、出してもらえるだろうか。
そんな期待も胸に。野を駆け、市を抜け、静まりかえった酒場の扉を開けば其処に・・・。
「あら、スフィアちゃん。今日はもう終わりなのよ。ごめんねぇ。」
彼女の姿は無かった。
「若しかしてスフィアちゃん、あの娘から何も聞いてないのかい?」
聞く?いったい何を?
今朝、彼女には会ったが、寝るから帰れと追い返されただけで何も・・・。
「あの娘、結婚するから給仕を辞めるんだってぇ。お腹に赤ちゃんもいるんだって、旦那を連れて挨拶に来たのよ。」
・・・は?結婚?
いや。いやいやいや。冗談だろ?
だって今朝まであの影と寝てたんだぞ!?
子を宿したとわかるなら、腹の子は影との子ではないのだろう。
影と寝たその日に違う男と結婚?いや、違う男の子とわかっていて影に結婚を迫ったのか?
どちらにせよ普通じゃないぞ、あの娘!
「この旦那がまた好い男でねぇ。おばちゃん、年甲斐もなく時めいちゃったわぁ。」
おばちゃんは若い男なら誰にでも時めいているだろう・・・。
「い~や。あれは其処いらの若いのとは訳が違うわね。髪、肌、服、足許。全てが完璧に整えられていたもの。」
「若いのにあれだけ身なりに気を遣えるだなんて・・・相当できる男よ。おばちゃんの勘がそういってる。」
・・・そうか。
「でも変なのよねぇ。高ランクの狩人なら誰かしらが顔を知っているはずなんだけど、うちの娘達に訊いても誰も知らないって言うのよ。」
「給仕と知り合うくらいだから、まさか文官ってことはないと思うんだけどねぇ・・・。」
誰も?狩人ならば一度は訪れるこの酒場の給仕が・・・誰も?
そんなの・・・。そんなの・・・ひとりしかっ!
「綺麗な黒髪でねぇ。珍しい紅い瞳で、あの娘にも引けをとらない整った顔立ちで。あ~。でも、頬に墨を入れていたのは残念だったわ。」
おそらく、私の予想は中たっているだろう。
あの破天荒娘。まったくとんでもないことをしでかしてくれたものだ。
御伽話の登場人物と結婚して雲隠れとは・・・。
自分まで物語の一部になったつもりか?くそっ!
給仕の娘が姿を隠して、幾何かの月日が流れた。
毎夜の食事で私の世界に彩りを与えた笑顔はもう見当たらない。
私のために咲いたその花はもう私のためには咲いてくれない。
その事実が、どうしようもなく降り掛かる。
日に日に世界は色褪せていった。
今になって思う。
私は彼女に依存していた。
彼女は私を利用していただけなのだろうが・・・。
私自身、それに気づいていながら・・・気づかない振りをしてしまっていた。
必要とされることが嬉しくて。
たとえそれが損得勘定によるものだったとしても。
此処に居る理由が出来たことが嬉しくて、甘えてしまっていた。
私が生きる理由の中に、彼女の存在が入り込んでしまうくらいに・・・。
彼女は勝手だ。
こんなにも私の中に入り込んでおいて、他に都合の好いものが出来たら簡単に乗り替える。
本当に、勝手な女だ・・・。
こんなにも私を傷つけておいて、恨ませてもくれないなんて・・・。
勝手だよ。本当に。
「スフィアちゃん、本当に行くのかい?」
そう声をかけるのは酒場を切り盛りするおばちゃん。
今となっては、唯一私を気に掛けてくれるひと。
なに。心配は要らない。
未踏領域とはいえ、魔獣の討伐に向かうわけではないのだから。
危険だと判断すれば直ぐに戻ってくるさ。
「でも、調査は金等級がパーティーを組んでいくものなんだろう?」
そう。未踏領域の調査は本来、金等級以上の狩人がパーティーを組んで行うものだ。
しかして、狩人協会に登録された狩人に金等級以上の狩人は私独りだけ。
銀等級以下の狩人には未踏領域への立入さえ認められていない。
それは金等級以上の狩人が同行している場合も例外ではない。
寧ろ、足を引っ張りかねない同行のほうが固く禁じられている。
「それがスフィアちゃん独りだなんて・・・!」
仕方がないさ。
どんな危険が潜んでいるかわからないからと調査を怠り、気づいたときには都市がひとつ消滅するような危機が眼前に迫っていたなんて話は珍しくない。
派遣した調査員が戻らないというのも、危険を示す指標になり得るからな。
不意を突かれた強者よりも、備えを万全にした弱者のほうが幾分マシだと狩人協会は判断したのだろう。
未だ村落の様相をしたこの場所でどれだけ備えを万全にしてところで足りないとは思うが・・・。
此処に残した未練も無い今、恐れることはない。
「いってきます。」
私はそう告げ、出立した。
何に思いを馳せることもなく、立ち止まることもなく。
決して振り返らずに・・・。
通い慣れた道。嗅ぎ慣れた草原の匂い。聞き慣れた潺。
もう意識の中にさえ入らない景色を抜けて、森の奥地へと足を踏み入れる。
蔦の這う岩肌を登り、開けた視界の先に広がるのは深緑の樹海。
数多の魔獣が跋扈し、縄張り争いを繰り広げる無法地帯。
その勢力図は常に変化し、弱き者から淘汰されていく。
果たして其処に人が入り込む余地があるものか・・・。
私は甚だ疑問に思う。
眼下に広がるのは生命を呑み込む魔の樹海。
私が立つのは、その唯一にして不可逆の侵入口。
断崖絶壁。ただ登頂することだけを目的にするならいざ知らず。此処を退却口と呼ぶにはかなり無理がある。
私は改めて己に課された使命の意味を痛感した。
要らないものと思っていたのは、どうやら私だけではなかったようだ。
正直、心当たりはある。
おそらくは私が金等級になってしまったことが事の発端だろう。
狩人の昇格試験には、課題となる討伐依頼の他に対人戦闘の技術審査が含まれる。
それは実力ある狩人を抑止力として利用するためだ。
故に、人格に問題のある狩人は如何に実力があったとしても一定以上の等級には昇格することができない。
表向きには・・・。
魔獣討伐と対人戦闘に求められる技術の間には大きな隔たりがある。
軀の大きな魔獣相手には多少の隙が生じるとしても大きな動きをしなければ攻撃を避けきれないし、傷を負わせることもできない。
一方で、人が相手ならば如何に隙の無い動きをできるかが鍵となる。
当然、そうではない方向を極め、強者たり得た者達も存在する。
・・・が、魔獣を相手に切った張ったを演じる狩人である時点で力較べをすることにあまり意味は無い。
狩人は皆、例外なく怪力の持主だからだ。
強いていうなら軽弩弓を主に扱う狩人は非力だろうが、それは飽くまで狩人の中に限った話。
序でにいえば、彼等は武器を振り回すだけの膂力があれば充分なのだ。
少し話が逸れたが、狩猟技術と戦闘技術は全くの別物だ。
魔獣に通用した戦法が人に通用するとは限らない。その逆もまた然りだ。
何しろ、魔獣と人とではスケールが違いすぎる。
対人戦闘に於ける紙一重は魔獣が相手なら動いていないのと同じだし、逆に魔獣相手の紙一重は対人戦闘では無駄が過ぎる。
つまり何が言いたいかといえば、狩りが巧いだけで昇格はできないということだ。
その事実に不満を抱く狩人は少なくない。私が金等級に昇格してからは、特に・・・。
私が金等級に昇格したとき、同時に金等級だった狩人達が銀等級に降格した。
あまりにも私の対人戦闘技術と彼等のそれに隔たりがあった所為で・・・。
ならば私を“オーバー”に、なんて声も上がったらしいが、到底無理な話だ。
何しろ私は水中戦が壊滅的に駄目なのだから。
超越者の等級である“オーバー”は、あらゆる分野で人類を超越した者だけがその位に就くことを許される階級だ。
私はこの前提を満たせない。
故に私が“オーバー”に昇格することは認められず、また嘗て金等級を誇った狩人達がその立場を保つことも許されなかった。
この不条理な掟が災いとなり、狩人協会の最高等級は“ゴールド”ということになってしまった。
以降、対人戦闘の技術で私に迫る者が現れることはなく、私は狩人からも狩人協会からも疎まれる存在となった。
まったく。イレギュラーな存在が出てしまったのなら、掟を変えるなり解釈を変えるなり対応すればいいものを。
似たような過去ばかりを積み重ねた老人は頭が堅くていけない。
金等級が唯一無二のものとなってしまったことで生じた弊害は大きい。
何しろ金等級の依頼を受諾できる者が私独りしかいないのだから。
依頼が滞る滞る。
果てには金等級依頼の担い手不足の対応を現場に丸投げする始末だ。
本来であれば禁則事項とされている上位階級依頼の斡旋。
それを過去の受注履歴と達成率から金等級相当の狩猟技術を持つと認められた狩人に対して大っぴらに行っている。
隠すだけ無駄という判断なのだろうが。それならば規則から変えてしまえばいいだろうに・・・。
上層部の無能振りは想像を絶するものらしい。
はぁ・・・。
眼前に広がる雄大な景色とは裏腹に、重々しい溜息が溢れる。
せめてもうひとり、対人戦闘にも長けた狩人がいてくれたなら・・・。
「此処から先は立入制限区域だよ?」
唐突に頭上から降り注いだ言葉に一瞬身体が強張る。
はたとして見上げてみれば、足場としては些か心許ない木枝に立つ青年がひとり。
気配を自然に溶け込ませたまま、表情の無い瞳で私を見下ろしていた。
「あ、驚いた?ま、そうだよね。君ってば、考え事に夢中で全然周りに気を配れてなかったし。」
嘲るように口許を歪ませても、その瞳に表情は宿らない。
「自殺志願者なら、もっと好い場所を教えてあげるよ。君、磔ってどう思う?」
徐に大地へと降り立ち、視線を私に合わせる。
不気味なまでに底の見えない瞳をした彼の首許には薄紫の色を放つ鉱石が煌めいていた。
普通、人は怪しい人物に迫られたとき、身を縮ませ心臓を護ろうとする。
私の場合でいえば、片手剣に手をかけ、いつでも斬り伏せられるように身構える。
だがこのときは・・・。このときだけは、無意識さえもがそれを忘れてしまっていた。
「・・・聞いてる?」
妖しく煌めく紅い瞳が私の顔を覗く。
びくりと身体が跳ね、一歩後退る。
その醜態を見た青年はまた口許を歪ませる。
一歩、また一歩。
じわじわと距離を詰め、私は詰められただけ距離をとる。
とんっ。
間もなく私は岩壁に追い詰められ、逃げ場を封じられる。
限りなく零に近づくふたりの距離に、湧き上がる感情は多分・・・畏怖。
こんなにも巫山戯ているのに、こんなにも莫迦にしているのに、一切の隙を見せない。
油断ではない、強者の余裕。
たとえそうではなかったとしても、そうであるかのように感じさせる圧迫感。
彼の手中から逃れる術が思いつかない。
いや、逃れようだなんて考えることさえ許さない。
そんな圧迫感が其処にあった。
「なんだ、君は覚悟してきた口か。」
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